太田述正コラム#12944(2022.8.19)     
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その5)>(2022.11.11公開)

 「・・・広田弘毅内閣崩壊後、宇垣一成内閣は流産し、林銑十郎が組閣した・・・。
 林は陸軍大将であり、永田鉄山を擁して荒木貞夫や真崎甚三郎と対立した人物である。
 この林内閣の組閣時、梅津は国策研究会を主宰する矢次一夫に自分の考えを語っている。
  軍人たるものの本分は、政治にかかわらぬことであり、そして軍人は、大将をもって最高の栄位とすべきであり、大将となることで、充分なる満足と感激とをもつべきものである。
 しかるに近来の如く、なおその大将の上に首相の地位があり、大将にしてこの首相の地位が得られるということになると、大将たることは首相への一階梯に過ぎぬということになって、軍人の政治化、ひいては陸軍の政治団体化を来たし、野心的な軍人を輩出せしむる危険が増大するであろう。・・・
 梅津は石原莞爾とは異なり、自分の考えや思想を表明するような著作物はない。
 その梅津に「イデオロギー」があったとすれば、まさしく右の発言がそれにあたるのではないだろうか。
 これは「軍人勅諭」の一節「世論に惑わず政治に拘らず」という部分に合致する。・・・

⇒軍人勅諭の話は繰り返しませんが、岩井がこの発言を梅津の真意であると受け止めてしまっているのはいかがなものでしょうか。
 そもそも、梅津は、32代の廣田弘毅、33代の林銑十郎、34代の近衛文麿という3代の首相に仕えたところ、32代目が辞職した1937年時点で振り返った場合、それまでの、実に、2、3、9、11、13、15、16、18、21、22、26、30、31、各代の首相が軍人であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
大将の上に首相の地位があったのは、「近来」なんぞでは全くありません。
 (百歩譲って2、9代の山県有朋と3代の黒田清隆は維新の元勲なので軍人とは言い切れないとしても、11代の桂太郎の第1次内閣の成立ですら1901年の昔であり、1937年当時において、既に「近来」とは言い難いでしょう。)
 そんなことは、梅津には分かり切ったことであるはずなのに、どうして彼があえて「近来」という言葉を(うっかり?)使ったのかを考えなければならないのです。
 ここで、杉山構想を思い出して欲しいのですが、同構想が1931年から実行に着手されたと私は見ているところ、杉山が陸軍次官を辞めた1932年以降の小磯国昭以下の歴代次官
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
には、申し送りで杉山構想が明かされたと私は見ており、1936年に次官に就任した梅津も同様であったとして、西園寺や杉山が、対英米開戦まで傀儡として踊らせようと考えていたけれどしり込みしていた近衛文麿を首相に据えることが梅津にとっても至上命題だったはずであり、だからこそ、軍人が首相になってはいけない、と、梅津が宇垣(下出)や林に対する批判を念頭に置いて、「現在進行形」ならぬ「近来」という言葉を使った(使ってしまった?)、と見るべきなのです。
 (近衛が首相就任を拒んだことから、次善の策として、廣田弘毅が首相に据えられた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85
のでしたよね。)(太田)

 梅津は、・・・次官として、3人の大臣(寺内寿一・中村孝太郎・杉山元)に仕え、その間、内閣は廣田弘毅・林銑十郎・近衛文麿(第一次)と、目まぐるしい変転を見せた。
 ・・・この間に陸軍大将宇垣一成拝辞という事件が起きている。」(59~60)

⇒この事件については、以前に触れたことがあります(コラム#10042)。
 その折に、誰が宇垣を首相に推したのか、に触れなかったのですが、一般には、「次期首相に宇垣を推薦したのは、元老の西園寺公望だ。・・・元老私設秘書の原田熊雄によれば、宇垣への大命降下に「各政党財閥、ほとんど国民挙(こぞ)つて非常な賛同であり、非常な好人気であつた」という。」
http://sagay.eluppa.com/2019/06/08/%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%92%EF%BC%99%E5%9B%9E%E3%80%80%E7%B5%84%E9%96%A3%E5%A6%A8%E5%AE%B3%E3%80%80%E5%B9%BB%E3%81%AE%E5%AE%87%E5%9E%A3%E4%B8%80%E6%88%90%E5%86%85%E9%96%A3/
と、西園寺だったされています。
 当時西園寺が唯一の元老として首相奏薦「権」を持っていたのですから、一見当然のように思えます。
 しかし、「広田弘毅内閣が総辞職を表明した翌日、昭和12年1月24日の夜、静岡県伊豆長岡町(現伊豆の国市)の別荘に滞在していた宇垣のもとに、宮中から電話があった。「陛下のお召しです。ただちに参内して下さい」時計の針はすでに午後8時半を回っている。宇垣は、「もう東京まで行く汽車がありません。横浜までならありますが、0時過ぎの到着なので明朝早く参内します」といって受話器を置いた。だが、30分もたたずに再び電話が鳴った。「陛下は、いくら遅くなっても構わない、待っていると仰せです」 そう言われて、慌てない日本人はいない。宇垣は急いで身支度を整え、汽車に飛び乗った。横浜から車に乗り継ぎ、参内したのは25日午前1時40分である。まだ呼吸も整わない宇垣に、昭和天皇は言った。「卿に内閣の組閣を命ず。しかし、不穏なる情勢も一部にあると聞く。その点につき成算はあるか」 宇垣は深く頭を下げた。「政情複雑でございますゆえ、数日のご猶予をお願い申し上げます」」(上掲)という背景事情からすると、言い出しっぺは、宇垣軍縮等の宇垣の事績を評価していた昭和天皇であって、それに対して西園寺は、宇垣の首相就任には「不穏なる情勢」惹起の恐れありと反対したにもかかわらず昭和天皇が押し切った、と見るべきでしょう。
 西園寺は杉山元に、直ちに宇垣の首相就任妨害工作を命じたはずです。
 (なお、原田の日記の記述は西園寺に命じられてそう書いたものでしょうし、原田は西園寺に言われてこの話を積極的にリークさせた、ということでしょう。
 昭和天皇と西園寺自身の「リベラル」イメージを維持増進させるために・・。
 天皇はホントの「リベラル」、西園寺はフェイクの「リベラル」でしたが・・。)(太田)

(続く)