太田述正コラム#12952(2022.8.23)
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その9)>(2022.11.16公開)
「前述したように、石原莞爾が不拡大論を展開した際、梅津は異議を唱えている。
では、梅津が<対支一撃論>・・・を企図したかと言えば、そうではない。
梅津は現状を「不拡大を望むが増派やむなし」と考えていた。
そして、おそらく<満州事変の首謀者の一人であった>石原への積もり積もった不信感があのようなセリフとなったのではないだろうか。
その傍証となる、一つのエピソードがある。
話は<前年の>昭和11(1936)年末頃のこと、関東軍では、満州国に隣接する蒙古地域を通じて赤化工作を仕かけてくるソ連に対抗するため、蒙古族の中で有力者だった徳王を援助するなどしていた(内蒙工作)。
しかし、徳王は中国側の傅作義と戦い、敗北してしまう。
工作資金も尽きた関東軍は、次官の梅津に助けを求めた。
担当は、かつて梅津と共に満州事変の対処に苦慮した今村均<(注18)関東軍>参謀副長である。
(注18)「満州事変勃発後、・・・<当時>参謀本部作戦課長<だった>・・・今村は朝日新聞新聞編集局長緒方竹虎から求められて4時間にわたって面談し、その席で参謀本部の関東軍への統制不足を認めつつ、現地在留邦人の悲惨な状況をみて石原、板垣の行動をやむを得ないとし、満州事変への世論による支持の必要性を訴えたという。また、それまで満州事変不支持の立場にあり不買運動もみられた朝日新聞はそれ以降コロっと変わったという。
中央の統帥に従わない関東軍との折衝のために渡満するものの、板垣征四郎高級参謀や石原莞爾参謀に酒席の場に呼び出された挙句に馬鹿にした態度をとられ激怒して、その場を退席する一幕があった。今村はこうした関東軍の中央の統制に反した行動を厳罰に処すべきだったと後に振り返り、それに反して軍統帥に従わなかったものが後に栄転していくことが後の陸軍の下克上の風習を作り出したと指摘している
1932年4月、歩兵第57連隊長を拝命。1936年3月、関東軍参謀副長・兼駐満州国大使館附武官を拝命。関東軍が独断で進める内蒙古工作を中央からストップをかけるべく、当時の参謀本部作戦部長で、かつて満州事変を主導した石原莞爾がやってきた。このとき関東軍参謀の武藤章が、石原を嘲笑して「あなたのされた行動を見習い、その通りに内蒙古で実行しているものです」と言った場に今村も同席していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%9D%91%E5%9D%87
今村は上京して梅津に会うと、内蒙工作の内情について話、300万円の援助を乞うた。
しかし、梅津は陸軍中央が中止させようとしているにもかかわらず、関東軍が内蒙工作を続けていることを批判し、また関東軍の報告が遅れたことを詰った。・・・
<その時、梅津曰く、>・・・「・・・赤化工作と蒋〔介石〕の策謀に対する心配も尤もであり、ソ連との間に衝突を起こさない考慮のもとに特務機関の配置も肯定される。しかし何よりも大きな緊要事は、・・・軍律の統制に服する軍機の刷新なのだ。・・・」・・・
こういう考え方をする人物が、日中の衝突を積極的に拡大させるとは考えづらい。」(91~95)
⇒今村均は、陸大27期首席で、杉山元と同様インド駐在武官を務め、やがて参謀本部作戦課長を務めるも、それからは、中央では、中途半端な要職である陸軍省兵務局長や教育総監部本部長を務めただけで、爾後、ドサ回りで終始し、陸大同期で11番でしかなかった東條英機(以上、上掲)の遥か後塵を拝する結果に終わった人物であるところ、彼に対しては、最後まで杉山構想が明かされることはなかった、と私は見ています。
今村が、戦後、全く物議を醸さなかったところの『今村均回顧録』を出版している(上掲)ことから、そう断定してもいいと思います。
彼が杉山構想を明かされておれば、それを暗示するようなことさえ書けない以上、回顧録など出さない、いや、出せないはずだからです。
一体、今村の欠点は何だったのでしょうか?
それは、満州事変の時も内蒙工作の時も優柔不断だった、つまりは、彼の勘ないし洞察力の不足、だったのではないでしょうか。
御存じのように、私見では、満州事変は杉山構想に基づき当時の杉山陸軍次官が板垣や石原に秘密裡に指示して決行させたものだったわけですが、今村がそのことに気付いた気配がありませんし、その後、杉山構想中、当初はブランクになっていた、支那における提携相手、が、毛沢東の中国共産党に決したところ、ここから先は初めて言いますが、関東軍が推進していた内蒙工作が完遂されれば、国民党のソ連との交流ルートの一つは確かに閉ざされるけれど、長征の後、1936年秋に延安に根拠地を設けたばかりであったところの、中共、にとっては唯一の(ソ連からの)支援ルートが閉ざされてしまうことを絶対に回避する必要があったからだと思われるのです。
もとより、杉山らは既に中国共産党への物的支援を開始していたはずですが、極秘で行っている以上、できることには限度がありますからね。
上出の梅津・今村会談の記録は今村によるものです(94)が、おかしいのは、(私見では中共がらみで内蒙工作を中止すべき旨を当時教育総監だった杉山から「指示」されていたはずの)梅津が、内蒙工作に陸軍次官として反対するとだけ言ってその理由を全く語っていないことです。
これは、今村があえてその部分を書かなかったのではなく、本当に語っていないのだけれど、梅津が余りにも真剣に今村に迫ったので、今村はその理由の見当がつかないまま引き下がらざるをえなかったのでしょう。
それにしても、この理由の追究を、どうして今までの日本の戦前史研究者達はしようとしてこなかったのでしょうね。(太田)
(続く)