太田述正コラム#12954(2022.8.24)     
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その10)>(2022.11.17公開)

 「・・・支那事変<は、>・・・南京が陥落<して>も・・・終わらなかった。・・・
 そのようななか、和平交渉継続を訴える参謀次長多田駿や戦争指導班の願いも虚しく、昭和13(1938)年1月16日には、近衛文麿首相による「蒋介石を対手(あいて)とせず」で有名な近衛声明が出される。
 そして梅津もまた、中央を去る日が来る。
 同年5月、山西省に第一軍司令官として赴くことになったのだ。」(95)

⇒第二次上海事変が起こった1937年8月に、多田は、(梅津の後任として就いていた支那駐屯軍司令官から)今井の後任として参謀次長に異動させられているところ、これは、多田のそれまでの支那駐屯軍司令官時代の華北分離工作が評価されたのでしょう(注19)が、当時の杉山陸相と梅津次官は、多田が支那事変の和平に一貫して固執したのを見て、多田を山西省へと「左遷」したところ、その山西省は、中共の本拠の陝西省に隣接しており、恐らくは、杉山か梅津から、中共とは話がついているので、中共とは適当に戦闘は行いつつも、極秘で中共を支援するように、とだけ直々に言い含められて、(杉山構想全体については教えられない状態で)彼は「左遷」されたのでしょう。
 
 (注19)1935年9月24日の多田声明(前出)がどうやら多田の本意ではなかったらしいこととか、同年11月25日に成立した傀儡政権の冀東防共自治委員会(同年12月25日に冀東防共自治政府と改称)にも冷淡な態度だったとか、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E9%A7%BF
を、当時、参謀次長だった杉山
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
が把握できていなかったのではなかろうか。

 この際、振り返ってみると、当時の杉山陸相によって石原が関東軍参謀副長として「左遷」されたのは、内蒙工作は、延安と外モンゴル(ソ連)とを結ぶ補給路を阻害しないギリギリの包頭–フフホト(綏遠)・ライン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%85%E9%A0%AD%E5%B8%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%95%E3%83%9B%E3%83%88%E5%B8%82
を西方への作戦限界線にしなければならないとの至上命題を当時関東軍司令官だった植田謙吉(注20)や参謀長だった東條英機
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F
が伝達されていたはずですが、彼らが下からの突き上げに抗し切れなくなることを恐れ、(戦争不拡大論者に転じていた)石原も投入することで、関東軍にこの至上命題を確実に守らせようとしたのでしょう。

 (注20)1875~1962年。陸士(10期)、陸大(21期)。「、1928年(昭和3年)8月、陸軍中将に進級した。支那駐屯軍司令官を務めた後、第9師団長在任中、第一次上海事変により出動。停戦交渉中の1932年(昭和7年)4月29日、上海天長節爆弾事件により左脚を失った。
 参謀本部付、参謀次長、朝鮮軍司令官などを歴任。1934年(昭和9年)11月、陸軍大将に進み、軍事参議官を務めた後、関東軍司令官兼駐満大使となり、在任中にノモンハン事件が発生。停戦後にその責めを負うかたちで1939年(昭和14年)12月に予備役編入となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E7%94%B0%E8%AC%99%E5%90%89

 ちなみに、「東條は察哈爾<(チャハル)>派遣兵団の兵団長として」包頭–フフホト・ライン(綏遠)まで進撃した、「察哈爾作戦<(注21)>に参加し<、>・・・成功<を収め>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F
ところです。

 (注21)チャハル作戦。「1937年(昭和12年)8月9日から10月17日にかけて行われた察哈爾省・綏遠省(現在の内モンゴル自治区)における日本軍の作戦である。
 7月7日の盧溝橋事件から始まった日中戦争で、日本軍は7月末には北平・天津地方を制圧し、華北分離工作を完成させるため、8月には北支那方面軍を編成して河北省保定(パオティン)以北の制圧を実行に移そうとしたが、河北省南部に集結しつつある中国軍と衝突する恐れがあったため準備期間が必要となり一時延期され、代わりに行われた作戦である。「察哈爾作戦」とも表記される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%8F%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6 

 とまれ、杉山は、用済みとなった、ないし役立たずと見なすに至った、軍人達、をうまく活用しながら「左遷」する手腕にも長けていた、と言えそうですね。(太田)

(続く)