太田述正コラム#12956(2022.8.25)
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その11)>(2022.11.18公開)
「陸軍次官在職中の梅津は逆説的ではあるが、「軍が政治とかかわらないため」「軍人の本分に戻るため」その政治的手腕をいかんなく振るった。
ま、前述の今村均の例が示すように野放図な軍事的行動を嫌い、二・二六事件のような秩序破壊行動には断固たる決意をもって臨んだ。
・・・陸軍には、外部からも怪しげな政治ゴロが近づき、時には軍から資金を出すこともあったらしい。
彼らは歴代次官のもとへ行き、金をせびっていたという。・・・
<しかし、>梅津の下で軍事課予算班長を務めた西浦進<(注22)>は、・・・軍に近づく政治ゴロをはねつけ、腐れ縁を断ち切ろうと<した、という。>・・・
(注22)1901~1970年。幼年学校、陸士(34期、銀時計組)、陸大(42期、首席)。「1934年(昭和9年)3月から約3年間に渡って、<支那>およびフランスへ外国事情研究のため赴任。フランス滞在中にスペイン内戦が勃発すると、観戦武官としてフランシスコ・フランコ側陣営へ派遣された。
1937年3月に日本へ帰国すると軍務局へ復帰。1941年(昭和16年)には大佐に昇進し、同年10月17日から1942年(昭和17年)4月まで東條英機陸相(首相が兼務)の大臣秘書官を務めた。1942年4月10日には軍務局軍事課長に就任。太平洋戦争の戦況が悪化していく中で、佐藤賢了軍務局長らと動員や資源配分などの企画調整に従事した。
1944年(昭和17年)に・・・東條内閣が倒れると、東條派と目された佐藤軍務局長と並んで更迭が決まる。同年12月8日に支那派遣軍参謀として前線へ異動、そのまま<支那>戦線で日本の敗戦を迎えた。・・・
1954年には防衛庁の防衛研修所へ嘱託として採用され、翌年に陸上自衛隊幹部学校へ戦史室が開設されると初代室長に就任、さらに翌年には幹部学校戦史室から改組した防衛研修所戦史室の初代室長となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B5%A6%E9%80%B2
⇒ここで登場した西浦進が、防衛庁(当時)の防衛研修所(当時)戦史室長時代に上梓した『兵学入門』
http://readiary0134.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-100f.html
を、防衛庁に入った年(1971年)だったと思いますが、キャリアの先輩から、庁内の私的勉強会で薦められ、買って読んだ記憶があります。(太田)
しかし、<梅津には>欠点もある。
宇垣一成内閣流産に際して石原莞爾と協力した片倉哀<(注23)>は、梅津のことを・・・石橋を叩いても渡らない慎重の上にも慎重を期す人であった・・・<と>評している。・・・
(注23)かたくらただし(1898~1991年)。幼年学校、陸士(31期)、陸大(40期)。「関東軍参謀<であった>1931年(昭和6年)9月に関東軍高級参謀板垣征四郎大佐、作戦主任石原莞爾中佐らの計画による柳条湖事件により満州事変が発生した。片倉ら若手の参謀はこの陰謀を事前に知らされていなかったが、石原の主張する満蒙問題解決案に強い影響を受け、満州国を策源地として日本の革新を迫る「満州派」と呼ばれる一派を形成するようになった。・・・
1932年(昭和7年)8月、久留米の第12師団参謀へ配転される。この時期、第12師団は五・一五事件による軍のファッショを批判する福岡日日新聞に対して嫌がらせを繰り返し、片倉も脅迫状を新聞社へ送っている。新聞社を爆撃するとした噂もでたが、主筆の菊竹六鼓は「田舎新聞をつぶす?いいでしょう。用意はできとる。いつでも来なさい」と内心の恐怖と戦いながら対決の姿勢を崩さなかった。
1933年(昭和8年)8月から参謀本部第二部第4課第4班に務める。陸軍省および参謀本部の幕僚の座長となって「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」という文書を作成した。これは、軍人による政治的非常事態が起きた際の対処をまとめたもので、二・二六事件における対応策にも利用された。この文書の目的は、皇道派などによるクーデターの鎮圧を利用して、軍主導の強力な政治体制を確立することにあったと、後に片倉は証言している。
1934年(昭和9年)8月、歩兵少佐に進級し同年12月から陸軍兵器本廠附兼軍務局付で対満事務局に配属(事務官)される。1934年(昭和9年)11月20日の陸軍士官学校事件では陸軍士官学校中隊長の辻政信らと共に、皇道派に属する陸大の村中孝次大尉、磯部浅一一等主計、片岡太郎中尉らの逮捕に関与した。この事件は辻の陰謀であるとの説が有力視されているが、片倉の関与については辻に加担したとも、また永田鉄山軍務局長の指示によるともされている。片倉本人は後に共同謀議・永田指示説を否定している。村中と磯部はでっち上げであるとして、辻と片倉を誣告罪で告訴している。
1935年(昭和10年)8月12日の相沢事件が発生した際には、片倉は軍務局長室の隣で執務しており、「大変だ」「局長がやられた」という声を聞いてすぐに局長室に向かい、刀が肺を貫いていた永田を目撃している。片倉は永田に馬乗りになり、40分間ほど人工呼吸を行ったが、永田はついに生き返らなかった。当時、国内情勢担当であった片倉は事件発生の責任を痛感し、一時進退伺いを立てている。
1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件が発生した際には、何となく胸騒ぎを覚えていた片倉は早起きをして中野駅に向かっていたが、その途中に警察官から「今朝早く事件があって、首相官邸も陸相官邸もやられましたよ」と教えられて事件の発生を知った。自宅に拳銃を取りに戻ろうかと考えたが、「どうせムダだ。万一の際は将校マントの下にさした軍刀でなんとかなるだろう」と判断し、タクシーを拾って赤坂見附で降り、歩哨線を押し通って陸相官邸に入っている。片倉は名刺を出して川島義之陸相への面会を要求し、玄関で待っていたところ、勲一等の勲章を胸にぶら下げた真崎甚三郎大将と遭遇し、「やっぱりこの男が中心になってやっているんだな」と直感したという。そこへ石原莞爾大佐もやってきたため、片倉は「石原も反乱軍になったか。けしからん」と思っている最中、「今から陸軍大臣が宮中に参内する」と誰かが話しているのを耳にし、「反乱軍に脅かされて宮中へ行くのか、困ったぞ」と考えていた時に、磯部浅一に左頭部をピストルで銃撃された。ピストルを捨て、さらに軍刀を抜いて構えている磯部に対して片倉は、血のしたたるコメカミを押さえながら、「刀を収めろ。陛下の命令なくして軍隊を動かすとは何事か」と怒鳴ると、真崎が「お互いに血を流すことはやめよう」と割って入っている。もし、磯部が止めを刺しに切りかかってきた際には、片倉は軍刀を抜いて真崎に突進する覚悟であったが、真崎の一言で殺意を失った磯部は動かなかったという。同僚や山崎正男大尉に支えられた片倉は、「やるなら天皇陛下の命令でやれ」と叫びつつ、近くに停車していた陸相の乗用車に乗せられて前田病院に運ばれて、弾丸の抜き取り手術を受けて一命を取りとめた。なお、片倉が陸相の乗用車を使ったのは、それによって川島陸相の参内を少しでも遅らせるつもりだったとされ、作家の秦郁彦は「撃たれても片倉の精神力は反乱軍を圧倒したと言える」と評している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E8%A1%B7
⇒片倉は、二・二六事件での武勇伝を最後に、ドサ回り軍人生活を送らされることになる(上掲)のですが、さしずめ、石原莞爾は頭脳派の鉄砲玉、片倉哀は肉体派の鉄砲玉、として、共に杉山に使い捨てられた、といったところでしょうか。
というのも、1932年8月に片倉が第12師団勤務になった時の師団長は、その年の2月に(陸軍次官から転じて)着任していた杉山元であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 前掲
福岡日日新聞に対する嫌がらせは明らかに杉山が指示したものであったところ、その時、使ってみた片倉の鉄砲玉的適性を見抜いた杉山が、後任の次官の小磯国昭(1932年2月~8月8日)ないしその更に次の次官の柳川平助、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 前掲
に指示して、片倉を参謀本部に送り込ませ、(杉山構想全体は教えないまま)「注23」に出てくる陰謀計画を立案させる、という具合に、彼を大いにこき使った、と見るべきだからです。(太田)
裏を返せば、即決が要される場面では後れを取ることがなきにしもあらず、<ということ>になるかもしれない。・・・」(95~97)
(続く)