太田述正コラム#12960(2022.8.27)     
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その13)>(2022.11.20公開)

 「・・・昭和天皇の他にも、梅津の陸軍大臣就任を望んだ人物がいた。
 当時オランダ公使で元外務省東亜局長として日中戦争の早期和平に尽力した石射猪太郎<(注25)>である。

 (注25)1887~1954年。「1908年、東亜同文書院を卒業し満鉄に入社。その後父・・・の仕事を手伝うべく退社したが、父が事業に失敗し失業。岳父・・・から生活援助を受けながら外交官及領事官試験の勉強に励み、2回目の挑戦で合格した。・・・
 1920年にはワシントンの駐米大使館三等書記官となった。当時の特命全権大使は幣原喜重郎、館員には佐分利貞男、広田弘毅、山本五十六、亀井貫一郎等がいた。・・・
 在吉林総領事<当時、>・・・石射は満州国建国を批判し「東三省中国民衆の一人だって、独立を希望したものがあったろうか」と考えていた<。>・・・
 1936年の駐シャム(タイ)大使を経て、1937年3月、外務省東亜局長に抜擢される。
 盧溝橋事件では不拡大方針を強く主張し、広田弘毅外相を通じて軍部の主張する三個師団動員を阻止しようとしたが、7月11日に三個師団動員案は閣議決定された。石射は上村伸一東亜一課長とともに辞表を提出しようとしたが、広田に慰留された。
 石射はなおも拡大阻止に動き、陸軍省軍務課長柴山兼四郎大佐とも協力して和平への道を探ったが、<結局、>・・・日中は全面衝突することとなった。
 石射によると、7月29日、昭和天皇から近衛文麿首相に「もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか」との言葉があったという。これに力を得た和平派は、船津辰一郎を上海に派遣して高宗武亜洲司長と会見させ、停戦交渉への道を開こうとしたが、第二次上海事変の勃発により工作は頓挫した。
 11月には、ドイツが日中和平に向けた斡旋を行った(トラウトマン工作)。12月13日には、その斡旋案を審議すべく五相連絡会議が開かれ、石射も会議の場に出席した。各大臣からは日本の戦況有利を背景に、和平条件を加重する発言が相次いだ結果、中国側が到底飲めないような厳しい案文になった。
 石射は発言権のない立場にもかかわらず、思わず「かくのごとく条件が加重されるのでは、中国側は到底和平に応じないであろう」と発言したが無視された。絶望した石射は、当日の日記に「こうなれば案文などどうでもよし。日本は行く処まで行って、行き詰らねば駄目と見切りをつける」と記している。
 1938年5月には、広田にかわり、宇垣一成陸軍大将が外相に就任した。石射は就任まもない宇垣に「何とぞ大臣のお力で「国民政府を相手とせず」を乗り切っていただきたい」と和平への努力を要望し、宇垣も賛意を示したという。外相に就任した宇垣は、早々に近衛声明の再検討を表明し、駐日英国大使のロバート・クレイギーや駐華英国大使アーチボルド・クラーク・カーなどを介し、中村豊一香港総領事を通じて孔祥熙国民政府行政院長、孔の秘書喬輔三らと極秘に接触し、蔣介石政権側からの現実的な和平条件引き出しに成功した(宇垣工作)。しかし、これら宇垣による工作は、陸軍の出先や石原系をのぞく陸軍革新派の強い反対を受けた。宇垣は結局、興亜院問題をきっかけに辞任した。宇垣は石射に「事変の解決を、自分に任せるといっておきながら、今に至って私の権限を削ぐような近衛内閣に留まり得ないのだ」と語ったという。石射は大臣の輔弼が不充分であった責を感じ、東亜局長を辞任した。・・・
 戦争の帰趨が見えてきた1944年8月、突然駐ビルマ大使を命じられる。当時<英米豪>などの連合国に対して日本が劣勢に転じていたことから、「無事で帰れまい」ことを覚悟に赴任、1945年8月の終戦はビルマで迎えることとなった。石射は当時の国家代表で日本に協力的であったバー・モウを伴っての逃避行のあと、ビルマの隣国で当時は日本と敵対関係にあったタイに脱出し、そこでタイと同盟関係にあったイギリス軍に拘留されたが、1946年7月にようやく帰国を果たした。
 帰国後の8月7日、・・・<石射の>外交官生活は終焉した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B0%84%E7%8C%AA%E5%A4%AA%E9%83%8E

 石射の日記、昭和14年<(1939年)>9月8日には次のように記されている。
 梅津美治郎氏関東軍司令官となる。
 此人は陸軍大臣にし度かった。・・・
 梅津の関東軍司令官就任はいささか異例なものだった。
 関東軍司令官は満州事変以降、大中将の最古参を選ぶことになっていたが、梅津は実に20数名の先輩を飛び越し、この重職に就いたのである・・・。
 その「理由」こそ、満州の曠野で日満軍とソ蒙軍が衝突し、激戦が展開されたノモンハン事件に他ならない。
 梅津は再び、「後始末」を任されたのである。」(102~103)

⇒石射は東亜同文書院卒ですから、アジア主義者であったはずですが、1937年までの外務官僚経歴等から見てさほど優秀であったとは思えないにもかかわらず、首相を辞任して外相専任になっていた廣田は、自分が首相兼外相であった1936年にシャム大使に赴任させたばかりの、ワシントン勤務時代に良く知っていた石射を、シャムを軽く扱ったようで失礼であるにもかかわらず、翌1937年に東亜局長へと大抜擢して呼び戻しています。
 私見では、これは、杉山らが同年中に日支戦争を引き起こすことを知っていた廣田が、石射には、間違っても、蒋介石政権や陸海軍を含む各方面と和平をまとめあげるような力量がないことに目を付けた人事だったはずです。
 (ちなみに、当時、外務次官だった堀内謙介は、廣田の「期待」通り、何もしなかったように見えます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%86%85%E8%AC%99%E4%BB%8B )
 その石射が舞上がって職務に精励し過ぎてしまい、杉山も廣田も、戦争を継続させ、拡大させるのにいらざる汗をかかせられるという皮肉な結果になってしまった、といったところではなかったでしょうか。
 そんな石射が梅津を高く評価していたのは、昭和天皇と基本的に同じく、梅津が強い和平志向の陸軍有力将官だと梅津によって思い込まされていた、ということでしょうね。
 杉山は、第12師団長の時は片倉を使って福岡日日新聞を脅迫し(前出)、また、陸相の時は憲兵を使って近衛の和平特使の南京行きを強引に阻止する、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
といった具合に、衣の下の鎧を見せる時が何度かあったけれど、梅津は着こんでいた鎧を決して見せなかったらしく、その点一つとっても、梅津は杉山以上の役者であり、ワルだった、と言うべきかも。(太田)

(続く)