太田述正コラム#12970(2022.9.1)
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その18)>(2022.11.25公開)
「・・・こうして、早期の武力行使は見送られることになった。
しかし、・・・好機があればこれに乗ずるべく、大規模な動員も行なわれることになった。
それこそが「関東軍特種演習」、通商「関特演」<(注36)>と呼ばれるものだった。
(注36)「1941年(昭和16)6月<22日>、独ソ戦が開始されると、日本陸軍内には対ソ侵攻論が急速に台頭し、7月2日の御前会議では、秘密裏に対ソ戦準備を整え、独ソ戦の戦況が日本にとって有利に進展した場合には、対ソ戦を開始することが決定された(情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱)。このため、7月7日には最初の動員令が下令され、7月下旬から9月にかけて動員部隊の満州、朝鮮への大輸送が行われた。この動員、集中は陸軍建軍以来最大の規模のものであり、関東軍の兵力は人員約70万、馬匹約14万、飛行機約600機にまで増強され、満州、朝鮮には多数の軍需資材が集積された。しかし、日本の期待に反してソ連軍はドイツ軍の猛攻に耐え、極東ソ連軍の西方への移送も比較的小規模のものにとどまったため、8月9日、大本営陸軍部は年内における対ソ侵攻作戦を断念する方針を決定したのである。関特演は、企図秘匿上の考慮から「演習」という呼称を用いてはいるものの、実際には対ソ武力発動を前提とした作戦準備行動であり、日ソ中立条約を侵犯するものであった。」
https://kotobank.jp/word/%E9%96%A2%E7%89%B9%E6%BC%94-471012
参謀本部ではドイツとの戦争でソ連が苦境に陥り、極東から約半分の兵力を転用した時こそが、北方問題解決の時、と見ていた・・・。・・・
しかし、・・・極東ソ連軍は思ったほど減らず、参謀本部が望んだ「好機」は・・・訪れなかったのである。・・・
⇒そもそも、杉山らは対ソ開戦をするつもりがなかったというのが私の見方であり、私なりに考えたその理由を少し前に(コラム#12949で)申し上げたところです。
にもかかわらず、関特演を彼らがやらせたのは、将来、日本が対米開戦をした時に、ドイツに追随対米開戦を行わせたかったところ、そのためには、在シベリアのソ連軍部隊が対独軍用に転用されないように牽制することでドイツに恩を売るためだった、と、私は見ている次第です。
もちろん、杉山構想が明かされていない、陸軍の杉山ら以外の人々や海軍、からの対ソ開戦の声を宥める、という副次的効果もあったわけですが・・。
実のところ、対ソ牽制目的で関特演をやる必要すらなかったのであって、日本側と違ってソ連側はノモンハン事件で日本側を上回る損害を被ったことを知っていた(コラム#省略)ことから、在シベリア部隊を西に転用する度胸などなかったはずです。(太田)
<その間にも>アメリカとの関係は悪化していった。
昭和16(1941)年7月、日本が南部仏印・・・に進駐<(注37)>すると、在米の日本資産は凍結され、イギリスやオランダもこれに続いた。
(注37)「1940年(昭和15年)11月25日からはタイ王国と<仏>領インドシナ間の国境紛争が勃発した(タイ・<仏>領インドシナ紛争)。陸上での戦いではタイが優勢だったものの、海上での戦いでフランス側が勝利した。タイとフランスは第三国に仲介を求めていたが、<米国>やドイツはこれに乗り気ではなく、結果として日本が仲介役を行うことになった。1941年5月9日に締結された東京条約では、<仏>領インドシナからカンボジアとラオスの一部地域をタイに割譲するという合意が成された。・・・
1940年(昭和15年)9月23日、<米>国のハル国務長官は日本軍の<北部>仏印進駐について、現状維持を威圧で破壊したものであり、<米国>政府は承認しないとの声明を発表。その直後の9月27日、日本は<英国>と戦争状態にあったドイツおよびイタリア王国との間で日独伊三国条約を締結したことによって同盟関係を築き(日独伊三国同盟)、<米国>の更なる警戒心を招くことになった。<米国>は10月12日に三国条約に対する対抗措置を執ると表明、10月16日に屑鉄の対日禁輸を決定した。また援蔣ルートとしては<英>領ビルマのビルマ公路などを利用することで、蔣介石への援助を続けた。この経済制裁政策は<仏>領インドシナにも及び、<仏>領インドシナ政府が求めていた武器支援をも<米国>側は拒絶した。翌1941年(昭和16年)に入ると、銅などさらに制限品目を増やした。・・・
陸海軍首脳からは資源獲得のために南部仏印への進駐が主張されるようになった。経済的側面以外では、南部仏印はタイ、イギリス領植民地、そして<蘭>領東インドに軍事的圧力をかけられる要地であり、またさらなる援蔣ルートの遮断も行えると考えられた。当時陸海軍は北部仏印進駐への反発が少なかったことからみて、南部仏印への進駐は、米英の反発を招かないという見通しを立てていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%8D%B0%E9%80%B2%E9%A7%90
「40年の北部仏印進駐に続いて,41年,大本営政府連絡会議で進駐の方針が決定され,御前会議でこれを確認し,この目的達成のためには「対英米戦を辞せず」とした。7月に日本政府はフランスのビシー政府に対して進駐を受諾させ,同 28日,日本軍は上陸を開始した。 29日には,仏印の共同防衛に関する日仏間議定書がビシーにおいて署名された。これは<米国>を強く刺激し,7月25日,F.ルーズベルト大統領は在米日本の資産凍結令を公布し,<英、蘭>もそれに追随した。8月<米国>は対日石油全面的禁輸に踏切った。この進駐は日米戦争の直接契機となった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E9%83%A8%E4%BB%8F%E5%8D%B0%E9%80%B2%E9%A7%90-108961
さらに石油の全面禁輸が行われると、いよいよ日本の行先は南方資源地帯とならざるを得なかった。」(125~127)
⇒「南部仏印への進駐は、米英の反発を招かないという見通しを立てていた」との小谷賢(注38)の説が「注37」で紹介されていますが、少なくとも、杉山らは、(北部仏印進駐が米国の反発をそれなりに招いたことも踏まえ、)米国の強い反発を招き、日米戦争が不可避になる、ということを予想しつつ、まさに、そのために進駐を推進した、と、私は見ています。(太田)
(注38)1973年~。立命館大卒、京大修士、ロンドン大学キングス・カレッジ修士、京大博士(人間・環境学)、防衛庁防衛研究所戦史部教官等、日大危機管理学部教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E8%B3%A2
(続く)