太田述正コラム#12974(2022.9.3)     
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その20)>(2022.11.27公開)

 「・・・ミッドウェー海戦にお<ける>大敗<後の>・・・ガダルカナル島・・・をめぐる攻防戦<(注42)>では島をあきらめて撤退するか、それともさらに人員・物量を投入して奪回を目指すかで陸軍でも意見が分かれ、奪回にこだわった参謀本部第一部(作戦)の田中新一部長が更迭される騒ぎにまでなった・・・。・・・

 (注42)ガダルカナル島の戦い(Battle of Guadalcanal。1942年8月7日~1943年2月7日)。
 損害:日本–死者19,200人 内戦闘による死者8,500人 捕虜1,000人 軍艦38隻損失 航空機683機 撤退10,652人 連合国–死者7,100人 負傷者7,789人以上 捕虜4人 軍艦29隻損失 航空機615機・・・
 [12月5日、佐藤賢了軍務局長に・・・民間船舶の増徴を・・・を断られたことに怒り、殴り合いの乱闘事件を引き起こした。翌]12月6日には閣議において、参謀本部作戦部長の田中新一中将が支援に必要な16万5000トンの艦船をガダルカナルに送り込むよう訴えたが、その半分の増援も認めなかったため、東條首相ら政務側に対し「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ事実上更迭された。その理由は、元々東條はこの方面の作戦には反対であったこと、過去に投入した船団もことごとく全滅状態となったことであった。また参謀本部や海軍の要求を通すと南方からの資源輸送・南方への物資輸送が滞り、戦時経済そのものに悪影響を与えるためでもあった。
 12月31日の御前会議において「継続しての戦闘が不可能」としてガダルカナル島からの撤退が決定された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%96%B0%E4%B8%80 ([]内)

⇒田中新一は、その後、「結局15日間の重謹慎の後、南方軍総司令部付とされ、陸軍中央から遠ざけられた。1943年(昭和18年)3月、北ビルマの第18師団長に親補され・・・、田中が属する第15軍において、3月に着任した牟田口廉也軍司令官(前第18師団長)がインパール作戦を立案した際、参謀長の小畑信良少将はこの作戦を無謀と断じ、田中に説得の協力を頼んだ。 田中は4月20日に開かれた兵団長会同の席上で牟田口に再考を促したが、同時に「小畑が牟田口に直接意見具申すべきで、統率上問題である」と付言し、これが小畑の罷免にまで進<む>・・・。1944年(昭和19年)9月にはビルマ方面軍参謀長に転じ、木村兵太郎方面軍司令官と共にビルマ南部の防衛に当たる。インパール勝利の余勢を駆って進撃するイギリス軍に対し、南北に流れるイラワジ河を防衛線として邀撃を図るが、インパール作戦による戦力の低下は著しく各戦線で敗退を重ねる 。1945年(昭和20年)3月には日本軍の拠点であるメイクテーラが陥落、東南部への全面的な撤退を余儀なくされた(イラワジ会戦)。イラワジ戦線の崩壊により、ビルマ方面軍司令部の所在する首都ラングーンへの圧力も高まる。 木村兵太郎は田中の反対を押し切って、南方軍にも諮らずラングーン放棄を決定、4月23日に幕僚とともに170キロ東のモールメンに脱出した。 結果としてビルマ政府や居留民を見捨てる形となり、混乱の中<英>軍は5月2日にラングーンを奪回する。」(上掲)
 田中は、その左遷を好機として、当時の杉山参謀総長によって、将来のインパール作戦のためにビルマに送り込まれたと見たいところですし、対英米戦争時の第一部長(作戦部長)の田中に杉山構想が明かされていなかったはずがないので、兵団長会同の席上での田中の発言は、インパール作戦に反対する小畑を第15軍から排除するための演技だったのではないでしょうか。(太田)

 昭和19(1944)年7月22日、・・・総理大臣東條英機が・・・サイパン島の失陥と、挽回を図った内閣改造に失敗したことから、・・・辞任した。・・・
 東條は総理大臣を辞職する数日前、評判の悪くなっていた参謀総長の兼任をやめている。
 後任の参謀総長に選ばれたのが梅津である。・・・
 始め東條は後宮〔淳〕を推薦した<が、>・・・昭和天皇が・・・東條に再考を促すようにして、そこから東條は昭和天皇の意中を察して梅津を推薦している。・・・
 昭和天皇の梅津への信頼・・・のもとは、やはり二・二六事件当時の断乎たる態度にあると見てよいだろう。
 梅津の参謀総長就任は参謀本部の一致した意見でもあった・・・。・・・
 <当時、>第二方面軍司令官としてセレベス島にいた阿南惟幾・・・は、梅津が新しく参謀総長となり、梅津の後任(関東軍司令官)に山田乙三、教育総監に杉山元が就任した人事について、・・・梅津大将の栄典は誠に皇国勝利、時局拾収のため慶賀に不堪(たえず)も、山田、杉山両大将の新職務は共に妥当を欠くこと大なり。共にその任にあらず。・・・<と>記している。・・・」(135、140)

⇒前記したように、阿南の日記は額面通り受け取ってはいけないわけですが、杉山は、参謀総長を2月21日に辞めての「悠々自適」生活
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
を5カ月弱で切り上げ、教育総監の席に7月18日から22日までの4日間座っただけで、二度目の陸相に就任するのですから、阿南が杉山は教育総監「の任にあらず」と言ったとおりになったわけですし、山田に関しては、杉山構想に従えば、満州国は滅亡寸前で関東軍は侵攻ソ連軍に一方的に撃破される予定であったところ、阿南もそういったことを知っていたはずなので、政治に関わるポストに就いたこともなく、実戦経験もなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%B9%99%E4%B8%89 前掲
ことから、満州国の内面指導にもソ連軍への抗戦にも不向きであった山田を関東軍司令官に就けたのは捨て駒としてであることが阿南には分かっていて、それにしても「任にあらず」であることよ、という感慨を記したのでしょう。(太田)

(続く)