太田述正コラム#12976(2022.9.4)
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その21)>(2022.11.28公開)
「・・・当時、関東軍参謀副長だった池田純久によれば、昭和19(1944)年7月17日に東京からの電話で参謀総長就任を要請された梅津は、・・・「予は対米戦争に当初から反対であったから、その参謀総長に就任することは本意ではない。その上既に戦は我に不利である。今更参謀総長として施すべき術もないであろうから、参謀総長になることは望まぬ。何とか辞退することは出来ぬだろうか」(中略)「戦局は我に不利である。この戦争を成るべく早く終結する必要がある。それには外交その他の手を打たねばなるまい」・・・<と>語ったという。・・・
⇒梅津の見事な演技、といったところです。(太田)
首相経験者・枢密院議長・内大臣が出席する重臣会議にて・・・米内光政<は>・・・梅津・・・を推した<らしいが、>・・・次期総理を小磯国昭朝鮮総督(予備役陸軍大将)にすることが決まった。・・・
梅津が東京についてまもない7月18日、・・・<宿舎に>富永恭次陸軍次官が訪ねてきた。
「この際、陸軍に動揺を与えぬため、陸軍大臣は依然東條大将を留任させた方が適当と思うが、閣下のご意見は如何でしょうか」・・・
⇒私は、かつて富永は精神を病んでいた説を主張したことがあります(コラム#10042)。(太田)
梅津は即答せず、ひとまずその場を過ごした。
そしてまもなく「前陸相」となる東條を含め、杉山元新教育総監、梅津新参謀総長による三長官会議が開かれた。
参謀本部戦争指導班の種村佐孝<(注43)>(すけたか)大佐によれば、「誰を陸軍大臣にするかは一に梅津参謀総長の発言如何にあった」というが、その梅津は・・・この際、東條大将が留任することは適当ではない、・・・この日に教育総監になったばかりの・・・杉山元帥になってもらうより外はない。そして東條大将は現役を去るべきであると<の>・・・暫定的な結論を下した。・・・
結局、新陸相および東條の退役は梅津の発言通りとなった。・・・
(注43)1904~1966年。陸士、陸大。「陸軍参謀本部戦争指導班長<として、>・・・戦争末期、対米降伏・和平交渉は<米国>の偽装であり、対米戦争の継続のためソ連同盟論を主張、対ソ終戦工作に従事する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%AE%E6%9D%91%E4%BD%90%E5%AD%9D
「20年第17方面軍参謀として朝鮮に渡り、終戦後25年までシベリアに抑留された。28年日記「大本営機密日誌」を刊行した。・・・陸軍大佐・・・」
https://kotobank.jp/word/%E7%A8%AE%E6%9D%91%20%E4%BD%90%E5%AD%9D-1649359
⇒私は、杉山が陸軍次官になってから以降の歴代首相や陸軍の枢要ポストの人事は、ことごとく杉山が実質的に決めてきたと見ているので、、既に、大陸打通作戦とインパール作戦が発動されていた当時(典拠省略)、後は、杉山構想完遂の仕上げを見守るだけである一方で、終戦工作にはちょっと早過ぎたことから、でくの坊に近く無害であることを熟知していたところの、(陸士、陸大同期の)小磯
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%9C%8B%E6%98%AD
でもって、評判が悪化した東條を置き換え、自身が二度目の陸相を務めることにした、というだけのことだったと考えています。
なお、「注43」の種村の事績から、参謀本部の班長クラスには、その職掌にかかわらず、杉山構想が明かされていなかったことが分かります。(太田)
大谷敬二郎<(注44)>・・・は・・・梅津総長は・・・重要事項は幕僚の意見を用いなかった。
(注44)1897~1976年。陸士、東大法派遣。「憲兵。最終階級は憲兵大佐。東京憲兵隊隊長や東部憲兵隊司令官を務めた。・・・1944年7月末に横浜憲兵隊長に就任、11月から東京憲兵隊長となる。1945年4月、東部憲兵隊司令官に就任する。4月中旬 吉田茂を逮捕する。5月、東京上野憲兵隊事件に関与した。戦後はBC級戦犯指名を受けながら、3年近くにわたって逃亡生活を続けた後に逮捕された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%95%AC%E4%BA%8C%E9%83%8E
むしろ、幕僚には相談することなく自ら処理したといわれる。この梅津と杉山〔元〕は仲がよく意思疎通して一体をなしていた。梅津大将が、杉山元帥をリードし、杉山は梅津にさからわなかった。梅津は天皇にも信任篤く、彼が陸軍を代表している感があった。だから、この頃の陸軍は、稀に見る静穏で幕僚の越軌行動も殆んど目だつものはなかった。・・・<と>記<している>。・・・
種村<もまた、>・・・梅津総長<は、>・・・実質的に兼陸軍大臣という形で、先輩の杉山〔元〕元帥は、大きな政治問題については勿論人事に関しても後輩の梅津さんの言うことを聞いていたようである。梅津・杉山のコンビは、ぴったりしたもので、大臣総長の気軽な相互の行き来は、従来に見られなかった光景である。・・・<と>証言<している。>」(143~144、146~148、155~157)
⇒梅津は、杉山の杉山構想完遂に当たっての肝胆相照らす最高の同志だった、と見てよいでしょう。(太田)
(続く)