太田述正コラム#1702(2007.3.24)
<慰安婦問題の「理論的」考察(その4)>(2007.4.27公開)
では、サルと人間との違いはどこにあるのでしょうか。
最新の研究によれば、倫理感覚を司っているのは、サルも持っているところの、大脳皮質中の原始的な部位のventromedial(下部中央)領域であるところ、人間の場合、新しく発達した大脳皮質の中で費用便益分析を行う領域があり、両領域間で調整が行われた上で倫理的決断を下すことが分かりました。
このventromedeial領域は、人間(サル)に対し、例えば、他の人間(サル)を殺すことは悪いことだという倫理感覚を付与しています。
悩ましいのは、他の人間を殺すこと(費用)が、それ以上の便益をもたらす場合です。
例えば、家族と友人達が隠れている所へこれらの人々を殺しに悪漢が接近してきた時、一緒に隠れている赤ん坊が泣き出したらどうするか(注10)、あるいは、貨車が独りでに動き出し、その先に5人の作業員がいる時、自分の隣に立っている人を貨車の前に突き倒せば、その人は死ぬけれど貨車を止めることができる場合にどうするか、決断を求められたとします。
(注10)先の大戦末期の沖縄戦の時に、沖縄の人々は、避難住民や日本軍が隠れている洞窟に米軍部隊が接近してきた時に赤ん坊が泣き出す、という状況に何度も直面させられた。
この場合、ventromedial領域が病気で破壊された人間は、破壊されていない人間に比べて、赤ん坊を窒息死させる、あるいは人を突き倒す、という決断を下す確率が2~3倍に達するというのです。
だから人間を、サルより偉大だと見るのか、それとも損得計算を倫理感覚より優先させる危険極まりない存在と見るのかは、むつかしいところです。
私が注目したのはこの研究そのものではありません。この研究を紹介する記事の中で、ニューヨークタイムスの記者が、恐らく上記実験で実際に用いられることのなかったであろう三番目の状況を勝手に想定していることです。
具体的には、彼は、他の人間を殺してはならない、という倫理感覚と並ぶ倫理感覚として、赤貧の家計の足しにするためと言えども娘をポルノ産業で働かせてはならない、を挙げているのです。
(以上、
http://www.nytimes.com/2007/03/22/science/22brain.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print、
http://www.slate.com/id/2162104/
(どちらも3月23日アクセス)による。)
これは、江戸末期の「絵画、彫刻で示される猥褻な品物が、玩具としてどこの店にも堂々とかざられている。・・十歳の子どもでもすでに、・・性愛のすべての秘密となじみになっている・・遊女<が>社会の軽蔑の対象にはならない」日本(コラム#1508)、そして、今なお廓なき廓文明を生きているわれわれ日本人(コラム#1685)からすれば、信じがたい謬見です。
いずれにせよ、娘をポルノ産業でポルノ女優として、あるいは廓(後任売春宿)で花魁(売春婦)として働かせることを是とするか非とするかは、サルと人間が共有する倫理感覚とは全く無関係であることは、日本人にとっては自明の理ではあっても、米国人、ひいてはアングロサクソンにとっては非常識の最たるものであるらしいことが、このことからも分かりますね。
(4) 特殊な倫理感たるビクトリア朝的倫理感
一体、アングロサクソンにかくもポルノや売春に対して否定的な見方をさせるに至ったゆえんは何なのでしょうか。
それが、人類共通の倫理感ならぬ、特殊な倫理感たるビクトリア朝的倫理感なのです。
(続く)