太田述正コラム#12978(2022.9.5)
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その22)>(2022.11.29公開)
「・・・いっぽう、陸相の杉山元の評判はあまり芳しくなかった。
昭和天皇の弟で海軍軍人でもある高松宮宣仁親王は、軍令部総長の及川古志郎<(注45)>に「杉山ロボット陸相」であるから「両総長の話合(はなしあい)が統帥より以上の広範囲に必要なること」を提案したことを、昭和19(1944)年8月3日の日記に記している・・・。・・・
(注45)1883~1958年。海兵(31期)、海大(13期)。「井上成美大将は「漢籍は元々、結論のみ記載されており、そこに至る過程が省かれている。つまり論理的でない。漢籍を得意とする及川の思想もこれに似たものである。論理的に考える頭脳がないから、結果として自分のおかれた状況にふらふらと従うばかりである」と述懐している。また、井上は「及川大将は温厚篤実の君子だけれども、明晰な判断力が無い。どうも、支那学というのはそういうものらしい。ロジックが無いんです」とも評しているほか、高木惣吉に対し、「及川さんはりっぱな人だが、イニシャティブをとらぬ人であった」と語っている。戦後の井上は、阿川弘之、新名丈夫、海軍の後輩、教え子たちに、日米開戦に対する責任者として、及川、嶋田繁太郎、永野修身の3人を挙げ、「三等大将・国賊」と言い切って酷評している。・・・
1944年(昭和19年)に海軍大臣に就任した米内光政が、及川を軍令部総長に起用したことについて・・・渡辺滋<は、>・・・同郷(岩手県出身)・同窓(盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)出身)である及川と米内の間に強い信頼関係・補完関係があったことを指摘している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8A%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E5%BF%97%E9%83%8E
⇒高松宮は、貞明皇后の4人の男子達の中で最も出来が悪かった人物であり(コラム#省略)、そもそも、彼の言など引用するに値しないところ、それ以前に、「注45」からも、ダメ人間であったと知れる及川に、誰であれ、そんなことを提案しても無意味だったわけです。
なお、井上の及川評は、井上の近衛評の的確性(コラム#12833)、や、及川の事績(上掲)、を踏まえれば、正鵠を射ているのではないかと思われるけれど、井上自身にも私は食い足りない思いを禁じえない旨を申し上げてきている(コラム#12790)次第であり、何度も恐縮ながら、当時の帝国海軍の人材の払底ぶりは目も当てられません。(太田)
陸軍内部でもさまざまな印象を持たれた。
梅津、杉山に加えて陸軍次官の柴山兼四郎<(注46)>の3人は、二・二六事件のほぼ同時期に陸軍中央(杉山は陸相、梅津は次官、柴山は軍務課長にいて連携が取れていたが、問題もあった。
(注46)1889~1956年。陸士(24期)、陸大(34期)。「1937年(昭和12年)3月、当時陸軍次官であった梅津美治郎の強い希望で陸軍省軍務局軍務課長となり、日中戦争の不拡大方針に尽力する。天津特務機関長を経て、1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に進級。同年8月、中支那派遣軍司令部付となり、第11軍司令部付(漢口特務機関長)、輜重兵監部付、陸軍輜重兵学校長などを歴任し、1941年(昭和16年)10月、陸軍中将に進み輜重兵監に就任。1942年(昭和17年)4月、第26師団長に親補された。南京政府最高軍事顧問を経て、1944年(昭和19年)8月から翌年7月まで陸軍次官を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E5%B1%B1%E5%85%BC%E5%9B%9B%E9%83%8E
⇒輜重職種の者が軍務局の筆頭課長になったり、次官になったりしたのは、1937年時点で、既に杉山元が、日本の戦後の日本の復興・成長(経済回復・成長と人口増等)を第一優先順位で考え始めていて、その考えを、1944年時点でも保持し続けたことを物語っているように私は思います。
梅津は、人選に与かった程度の関与だった、とも。(太田)
松谷誠<(注47)>は・・・<この3人は>省部中堅層間に不人気・・・となり、〔昭和〕20年2、3月頃になって、大臣、総長、次官の更迭希望の雰囲気が湧いてき<て、>3月28日、真田〔穣一郎<(注48)>〕軍務局長は、陸海軍統合問題の不成功に関し辞職を願い出るとともに、大臣の辞職を勧告した・・・<と>記している。・・・」(160~162)
(注47)まつたにせい(1903~1998年)。陸士(35期・3番卒)、陸大(43期)。「駐英大使館付武官補佐官<等を経て、>・・・1943年3月・・・参謀本部戦争指導課長(大本営第15課長)、大本営第20班長、支那派遣軍参謀、杉山元陸軍大臣秘書官、阿南惟幾陸相秘書官、技術院参議官兼綜合計画局参事官・鈴木貫太郎総理大臣秘書官兼陸軍省軍務局御用掛などを務め、終戦を迎えた。戦後は公職追放となり、その後は警察予備隊、保安隊を経て陸上自衛隊に入隊。1953年2月1日、保安監補に任命され保安大学校幹事・・・、保安研修所副所長・・・を歴任。1954年7月1日、陸上自衛隊発足と同時に陸将に任命され第4管区総監・・・、西部方面総監・・・、北部方面総監・・・、陸上幕僚監部付を歴任し、1960年12月31日に退官した。・・・
鈴木貫太郎首相秘書官であった1945年4月、「終戦処理案」をまとめ、ソ連の和平仲介による早期講和を主張した。「スターリンは(…)人情の機微に即せる左翼運動の正道に立っており、したがって恐らくソ連はわれに対し国体を破壊し赤化せんとする如きは考えざらん。ソ連の民族政策は寛容のものなり。右は白黄色人種の中間的存在としてスラブ民族特有のものにして、スラブ民族は人種的偏見少なし。されば、その民族政策は民族の自決と固有文化とを尊重し、内容的にはこれを共産主義化せんとするにあり。よってソ連は、わが国体と赤とは絶対に相容れざるものとは考えざらん。(…)戦後、わが経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿るべく、この点より見るも対ソ接近可能ならん。米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織の方が、将来日本的政治への復帰の萌芽を残し得るならん」などと、日本が共産化しても天皇制は維持できるとの見方を示し、戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだとしていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E8%B0%B7%E8%AA%A0
(注48)1897~1957年。幼年学校、陸士(31期)、陸大(39期)。「1938年(昭和13年)8月17日から陸軍大臣秘書官兼陸軍省副官となり板垣征四郎陸軍大臣に仕える。・・・1941年(昭和16年)2月5日陸軍省軍務局軍事課長に就任、1942年(昭和17年)4月20日に軍務課長に移る。1942年(昭和17年)12月14日から参謀本部作戦課長に就任、1943年(昭和18年)8月2日少将に進級し、同年10月作戦課(第2課)・防衛課(第4課)の二課を統括する参謀本部第一部長に就任する。1944年(昭和19年)12月14日陸軍省軍務局長を拝命し、・・・1945年(昭和20年)4月6日第2総軍参謀副長を補され、この職で終戦を迎える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E7%A9%A3%E4%B8%80%E9%83%8E
⇒松谷は、駐英大使館付武官補佐官だった当時にでも、ソ連にリクルートされてスターリン主義シンパになったのではないでしょうか。
いずれにせよ、松谷の容共性を承知の上で、杉山ら・・彼ら自身、中国共産党と「提携」していた!・・は、松谷を戦争指導課長という要職に起用し、ソ連を仲介とする和平オプションも検討させる一方で、松谷自身についての情報も含め、その情報を中立国大使館あたりに意図的に流すことによって、それが、英米に更に漏れ、両国政府のソ連に対する猜疑心を掻き立てると共に、その猜疑心を維持させるべく、この松谷を、陸相や首相秘書官に起用し続ける、という謀略を行ったのではないか、という気が私にはしてきました。
(実際、松谷の終戦処理案は、米国に漏れています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E8%B0%B7%E8%AA%A0 前掲)
そんな松谷が、戦後、自衛隊で、陸自において幕僚長に次ぐナンバーツーの北部方面総監にまでなるのですから、戦後日本政府の脇甘ぶりには言葉もありません。(太田)
(続く)