太田述正コラム#12980(2022.9.6)     
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その23)>(2022.11.30公開)

 「2月14日、・・・<いわゆる>近衛上奏文<が上奏されたが、その中で>・・・近衛は、満州事変から大東亜戦争まで軍部は「意識的に計画」していたと述べている。
 それら軍人たちは共産革命を狙ったわけではないが、その背後にいる左翼、近衛の言うところの「国体の衣を着けたる共産主義」らに操られていたという。
 しかし、これは結論ありきで書かれたこじつけとも言えるものだ。
 その点は、近衛とほぼ同時代人であるドイツ文学者、一般には『ビルマの竪琴』の著者として知られる竹山道雄<(注49)>(東京大学教授)も指摘している。

(注49)1903~1984年。一高、東大文(独文科)。「ドイツ語講師として第一高等学校に勤務。1928年から文部省に派遣されてベルリンとパリに留学。1931年に帰国し、第一高等学校の教授となる。
 戦後、第一高等学校が学制改革によって新制東京大学教養学部に改組されて間もない1951年に教授を退官、上智大学など諸大学での講師を歴任<。>・・・
 戦前のナチズム・軍国主義と戦後の左翼的風潮には同質性(専制と狂信)があるとして嫌悪し、自由主義者としての立場を堅持した。・・・
 1940年、『独逸・新しき中世?』を発表し、ナチス・ドイツを批判した。戦後直後から1950年代にかけては、当時の日本の社会主義賛美の風潮に抗してスターリニズムへの疑念を表明。中道保守の立場から昭和史論争をはじめ、左右双方の全体主義に警鐘を鳴らし続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B1%B1%E9%81%93%E9%9B%84

⇒竹山は、「自由主義の牙城」一高での学生と教師として身につけた自由主義、と、戦前のドイツ留学時に台頭し始めていたナチスへの嫌悪感、
http://www.ifsa.jp/index.php?Gtakeyamamichio
から、そんなナチスのドイツと同盟関係を結ぶと共に、日本に敗戦をもたしたと彼が思いこんだところの、日本の軍部、に対する反感を抱くに至った、ということでしょうが、東大法系の政治学者達が米国の初期の日本占領政策を是としたのに対し、東大文系の文学者たる竹山は米国の中期以降の日本占領政策を是とした、という微妙な違いこそあれ、基本的に占領政策を是とするスタンスをとったことには変わりがないのであって、竹山もまた、「本来の」欧米を理念型として仰ぎ見、日本を欧米化させるために欧米の学問成果を日本に紹介することを建学目的とする大学出身の「学者」の限界を超えることができなかった、と思います。(太田)

 歴史はあまたの複雑な動因によってうごくから、結果として生れたものをもってこれがはじめから所期されたものであったとすることは、多くの場合にあやまった判断となる。・・・

⇒ナチズムもスターリニズムも、「所期されたもの」があって、それが「あまたの複雑な動因」とのインターアクションを通じて「結果」が「生まれ」ることを熟知しているはずの竹山が、どうして日本の軍国主義に関してだけは「所期されたもの」がなかったと言い切れたのか、私には不思議でなりません。(太田)

 話は、梅津がまだ関東軍の司令官だった時期、昭和18(1942)年3月18日に遡る。
 この日、近衛文麿は私邸の荻外荘において、予備役海軍大将小林躋造<(コラム#10658)>の訪問を受けていた。
 小林の残したメモによると、・・・近衛は、・・・一部では梅津を起用せんとする説もあるが、彼は統制派の巨頭で、彼の幕僚の一人池田某[現関東軍参謀〔池田純久<(注50)>のこと〕]は尤も危険な人物だと思う。池田は梅津に随伴し、梅津の赴く処必ず池田ありと云って善い位だが、彼は決して表面に立たず終始蔭に在って画策してる。梅津の起用は危険だ。・・・<と述べている。>・・・

 (注50)「統制派には、皇道派のような明確なリーダーや指導者はおらず、初期の中心人物と目される陸軍省軍事課長(後、軍務局長)の永田鉄山も軍内での派閥行動には否定的な考えをもっており、「非皇道派=統制派」が実態だとする考え方も存在する。・・・
 総力戦に対応した高度国防国家を構想した・・・永田鉄山・・・の愛弟子で統制派の理論的指導者である池田純久<は、>『陸軍当面の非常時政策』で「近代国家に於ける最大最強のオルガナイザーにして且つアジテーターはレーニンが力説し全世界の共産党員が実践して効果を煽動したるジャーナリズムなり、軍部はこのジャーナリズムの宣伝煽動の機能を計画的に効果的に利用すべし」と主張<すると共に、>・・・『国防の本義と其強化の提唱』にて「われわれ統制派の最初に作成した国家革新案は、やはり一種の暴力革命的色彩があった」と述べている<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%88%B6%E6%B4%BE

 ここで梅津は、どういうわけか・・・二・二六事件後に陸軍中央で活躍し、皇道派の排除に動いたために統制派、しかも巨頭とされてしまっている。
 また、梅津の下にいた池田純久の存在も誤解の原因だろう。
 池田は確かに、自分で統制派を名乗る数少ない人物の一人で、統制派の中で唯一のイデオローグを自称するほどだった・・・。」(167~168、170~171、173~174)

(続く)