太田述正コラム#1704(2007.3.25)
<慰安婦問題の「理論的」考察(その6)>(2007.4.28公開)
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<日本の廓の発生史>
このあたりで、日本の廓(公認売春宿)の発生史を押さえておきましょう。
日本で国家による売春の管理が初めて行われたのが、鎌倉時代初期の1212年に朝廷の検非違使が発した京都における結婚・売春仲介業への規制であるところの、中媒(仲人)たる下女の禁制です。
これは、良家の子女を巧みに誘って賤しい男にめあわせ、密会の場所を提供すること、すなわち身分違いの結合を、身分秩序の紊乱をもたらすとして禁止したものです。
このことから逆に、身分秩序の紊乱をもたらさない仲介は正当な業務として認められていたことが分かります。
そして、中媒や好色(売春婦)や遊女や白拍子らの風俗営業は、当時、女性が直接にその身体を使用して行う芸能、道の一つとして認められており、内蔵寮(くらりょう)が調度品や繊維産業を、造酒司(みきのつかさ)が酒造業界を、朝廷の料理を預かる御厨子所(みずしどころ)が京都の生鮮魚介市場を、それぞれ利権的に公事(税金(賦役を含む))徴収の対象としていたことから、京都の警察を担当していた検非違使庁が、風俗営業従事者から税金を徴収していたであろうことが、容易に想像できます(注11)。
(注11)朝廷では9世紀頃から女性官人が急激に締め出され、朝廷では女性はもっぱら私的な雑用に従事することとなる。その結果貴族層では、女性の労働を賎視する風潮が生まれ、また、官職を持つ夫への経済的従属が強まった。こうした風潮は上から下へと広がっていき、女性が公的な場から私的な場へと活動の場を狭められて行ったと考えられている。しかし、女性性そのものが「家産」であるという遊女の特殊性から、遊女社会においては、中世後期まで家父長制が根付かず、女性の「長者」に率いられた自治的な社会でありつづけた。(
http://www.ikedakai.com/ryukeikanren1.html
。3月25日アクセス(以下同じ))
風俗営業は税金徴収の対象となっていただけではありません。
また、平安時代から、天皇の代替わりに際しての大嘗祭の場には、大嘗会(え)の検校(けんぎょう)の納言、悠紀(ゆき)・主基(すき)の国司、諸所の預(あずかり)などの座席とともに、大工等の技能に優れた人々=「才技長上(さいぎちょうじょう)」の座席も設けられていたことから、風俗営業従事者中の代表者達も大嘗祭に招かれていたと考えられるのです。
(恐らく鎌倉時代末期からのことだと考えられていますが、)室町時代から江戸時代初期にかけて、公家中の名門である久我(こが)家(注12)が、盲目座(当道座)から公事を徴収していたほか、検非違使の勢多(せた)氏を直接の担当者として「洛中傾城(けいせい)局」として京都の傾城達から公事を徴収していたことが明らかになっています。
(注12)久我家は村上天皇の皇子に発する村上源氏の嫡流。堀川、土御門、中院、六条、愛宕、西園寺、岩倉、久世、東久世は分家。女優の久我美子(くがよしこ。1931年~)はこの久我家の嫡流。ただし、本名は「こがはるこ」と読む。(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E5%AE%B6)
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鎌倉時代末期に生きた女房、後深草院二条は、この久我氏の出身であるところ、彼女は後深草院の愛妾であったが、同時に同母弟亀山院や、鷹司兼平・西園寺実兼などとの「密通」に身を焦がし、その記録、『とわずがたり』を執筆していることは、久我家の家業との関連で様々な想像をかきたてます。
(以上、特に断っていない限り
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E5%AE%B6、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E7%BE%8E%E5%AD%90
による。)
以上をまとめれば、日本では、売春等の風俗営業の世界において例外的に男女同権が長く維持され、また売春等の風俗営業は正当な業務として認められており、しかも、由緒ある公家が売春等の風俗営業の規制・税金徴収を所管していた、ということです。
では、いわゆる遊郭はいつどのように生まれたのでしょうか。
それは1589年に京の万里小路に、豊臣秀吉の厩付奉行をしていた男らが傾城街をつくるのを秀吉が許可したことに始まりました。これが日本最初の遊郭「島原」となるのです