太田述正コラム#12982(2022.9.7)
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その24)>(2022.12.1公開)

 「・・・小磯国昭首相には・・・「繆斌<(注51)>工作」・・・<という>考えがあった。・・・

 (注51)1899~1946年。「上海南洋大学電気科を卒業後、1922年・・・に中国国民党に加入<し、やがて、>・・・中央執行委員<。>・・・しかし1931年・・・、汚職事件により弾劾され、各職を辞任して日本に赴いている。・・・
 日中戦争勃発後の1937年・・・12月、繆斌は、北平(北京)に成立した親日政権の中華民国臨時政府に参加した。・・・この頃、石原莞爾と親交を結び、「東亜連盟運動」を推進している。
 1940年・・・3月、汪兆銘(汪精衛)が南京国民政府を樹立すると、<やがて、>・・・(汪派)中国国民党中央執行委員<等。>・・・
 一方で繆斌は、1943年・・・8月から、蔣介石の重慶国民政府の[軍事委員会調査統計局の幹部や軍政部長の]や何応欽と連絡を取り始めている。・・・
 日本敗北直後の1945年・・・9月27日から始まった・・・漢奸粛清で最後に捕まったにもかかわらず最初に処刑された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%86%E6%96%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%86%E6%96%8C%E5%B7%A5%E4%BD%9C ([]内)

 始まりは、小磯が重慶側との和平の糸口を掴むために士官学校同期生の山県初男<(注52)>(やまがたはつお)大佐を中国へ派遣したことにある。

 (注52)1873~1971年。陸軍教導団、日清戦争参戦、陸士(12期)、日露戦争参戦後は「<支那>関係の勤務に従事し、約40年にわたって<支那>各地に在住、陸軍の・・・支那通・・・の1人として知られることになる。中華民国成立後は、雲南の唐継尭や貴州の劉顕世の軍事顧問を務めた。・・・1923年(大正12年)、陸軍大佐に昇進、1926年(大正15年)3月、予備役に編入。退官後も引き続き<支那>で活動を続け<る。>
 娘婿<は>三原朝雄<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E5%88%9D%E7%94%B7

 山県はたまたま上海で繆斌と遭遇し、日中和平への意見が一致したことから、帰国してこのことを小磯に伝え、繆斌を日本に呼ぶことになった–と国務大臣兼情報局総裁の尾形竹虎<(注53)>は自著のなかで記している・・・。

 (注53)1888~1956年。福岡県立中学修悠館、東京高等商業学校中退、早大専門部卒業、朝日新聞社入社。朝日新聞社主筆。「緒方が可愛がっていた尾崎秀実が1941年(昭和16年)10月にゾルゲ事件で逮捕されたことは、緒方派に大きな打撃を与え<、>・・・緒方は小磯内閣に入閣するため、1944年(昭和19年)7月に退社した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E7%AB%B9%E8%99%8E

 いっぽう、小磯の著書では、最初に話を持ってきたのは緒方ということになっている。
 同書によれば、昭和19(1944)年9月頃、緒方から繆斌についての話があり、小磯がその始まりを尋ねたところ、「在上海朝日新聞社の記者で緒方国務大臣の信頼する者からの報告」という話だったという・・・。
 緒方は入閣前は朝日新聞社の主筆だった。
 いずれにしろ、繆斌を日本に呼び、彼と2日間にわたり話をした緒方は少なくとも重慶政府側との和平交渉の基礎にはなるだろうと思い、最高戦争指導会議への繆斌招致を小磯に進言した・・・。
 <この工作は、最終的に、昭和天皇からも含め、総スカン状態となって潰れるが、>小磯内閣には他にも問題があった。
 小磯は政治と軍事の一元化のために現役に復帰し、陸軍大臣を兼ねようとしたのである。
 陸相の杉山は新設された第一総軍(本土決戦のために設けられた、東日本を管轄する総軍)の司令官に転出することが決まっており、自らがその後任になろうとしたのである・・・。
 しかし、これも拒絶されて失敗。
 もはや、これ以上内閣を続けることは困難であった。
 4月5日午前10時半、小磯は参内すると辞表を奉呈した。」 (175~176、182)

⇒繆斌工作の立ち上がりの経緯は、小磯が書いていることの方が正しく、前にも(コラム#10165で)記したように、小磯は、杉山元と相談の上、「日本<の>・・・戦局悪化著しい」(178)こともあり、(ハナからつれない姿勢をとった場合に、緒方がこの話を朝日新聞に書かせたりすることを封ずるため、)緒方の仲人口に乗せられたふりをしただけではないでしょうか。
 「緒方は、現場の新聞記者としては、学生時代から出入りしていた枢密顧問官・三浦梧楼から「大正」の年号をスクープしたことがあるものの、他には「記者として別にどういう特ダネを書いたということもなく、とくに目立つという程のこともなかつた」。 しかし緒方は、郷里の関係から頭山満をはじめとする玄洋社の人々と交友が深く、右翼の内部事情まで考慮に入れたデリケートな右翼対策を行うことが出来た」だけが取り柄であった、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E7%AB%B9%E8%99%8E
ということから、恐らくは、重慶政府が、進行中の日本による大陸打通作戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E6%89%93%E9%80%9A%E4%BD%9C%E6%88%A6
に音を上げて、少しでも日本政府部内を攪乱させようと、勝手に和平の仲介を務めようとした繆斌をあえて放置したといったところだったにもかかわらず、緒方は、それを見破れず、まんまと載せられてしまった、というのが私の見方です。
 そもそも、重慶政府を救うことは、改訂杉山構想に逆らうものであって、当然のことながら、「陸相の杉山元・・・は反対だった」わけで、杉山が外相の重光葵に手を回して反対の急先鋒に仕立て上げた旨の私見を(コラム#10165で)申し上げたこともあります。(太田)

(続く)