太田述正コラム#12988(2022.9.10)
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その27)>(2022.12.4公開)

 「・・・昭和20(1945)年4月のある日、航空兵器総局長官の遠藤三郎<(注58)>が梅津のもとを訪ねてきた。

 (注58)1893~1984年。幼年学校、陸士(26期・優等)、陸大(34期・優等)。「ノモンハン事件直後の関東軍参謀副長として派遣された。・・・
 第3飛行団長在任時には絨毯爆撃が非人道的で国際法に触れる恐れありとして、木下敏陸軍中将に『重慶爆撃無用論』を提出して採用され、1941年(昭和16年)に海軍との共同作戦であった重慶爆撃百二号作戦は打ち切られた。
 1942年(昭和17年)12月、陸軍中将となり航空士官学校長に就任した。さらに、陸軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局長官などを歴任し、兵器産業の国営化と航空機の規格統一に尽力した。・・・
 埼玉県入間郡入間川町(現在の狭山市)の陸軍航空士官学校跡地に入植、農業に従事した。・・・
 <また、>護憲運動と反戦運動に参加し、1953年(昭和28年)には片山哲元首相とともに憲法擁護国民連合結成に参加した。・・・
 1955年(昭和30年)11月に片山を団長とする憲法擁護国民連合訪中団に参加し、中華人民共和国を訪問した際の「左派より右派人士やあなたのような元軍人と会いたい」という毛沢東の要請を受け、1961年(昭和36年)8月に日中友好元軍人の会を結成。代表を務める。元軍人ながら親中派だったため、「国賊」「赤の将軍」などと誹りを受け<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E4%B8%89%E9%83%8E_(%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA)

 遠藤はかつて参謀副長として関東軍司令官の梅津に仕え、おたがいに知る間柄である。
 遠藤の用件は、今まさに行なわれている沖縄戦についてであった・・・。
 彼は本土決戦について「日本国の構造ならびに国民性から見て断じて避くべき」と考えており、沖縄を最後の決戦場にして終戦に導くべき、と考えていた。
 遠藤は自身の考えを阿南にも具申し、さらに航空機の発信基地である九州へと現地視察に赴く。・・・
 帰りの飛行機が大阪で給油のために着陸したところ、ここで大勢の新聞記者に囲まれた。
 遠藤は、婉曲ながらも本土決戦ではなく沖縄の敵を叩くべきだ、と発言する。
 すると、彼が東京に帰った時はすでに夕刊に記事として載っていた。
 遠藤はそのまま梅津を再訪して意見具申をしようとしたところ、記事を読んだ参謀次長の河辺虎四郎に「作戦計画を批判するとはひどいじゃないか」と抗議されてしまう。
 いっぽう梅津は、遠藤に対して・・・「幕僚共がひどく激昂しているから、今度参謀本部に来るときは厳重に憲兵の護衛を付けて来い」・・・<と>述べた。

⇒帝国陸軍では珍しい利巧馬鹿将官の一人である遠藤のような人物が杉山構想を明かされていない場合、いかに、本土決戦の意義や毛沢東発言の真意を理解できず、おかしな言動を行ってしまうか、ということです。(太田)

 梅津の真意はどこにあるのだろうか。
 おそらく、梅津自身も本土決戦を行なって成功するかどうか疑問に感じていたのではないか。・・・

⇒岩井自身、杉山構想的なものがあったのではないか、めいた発想が皆無なのでしょうから、仕方ないとはいえ、当時の陸軍の将官クラスにとっては、もともと、対英米戦は日本必敗であること、むろん、本土決戦の結果も惨憺たる敗北に終わるであろうこと、など常識の部類に属したはずであることから、むしろ、梅津や阿南(や杉山ら)がどうして本土決戦に固執したのかを岩井は追究しようとしなければならないはずなのですが・・。(太田)

 <その後の>6月のことではあるが、梅津は関東軍の山田乙三総司令官や支那派遣軍の岡村寧次総司令官と大連にて会議後、大陸の戦力などについて昭和天皇に上奏しているが、その内容を内大臣秘書官長松平康昌<(コラム#12833)>が海軍少将高木惣吉<(注59)>(たかぎそうきち)に・・・<御上に>従来になき内容を申上げた。即ち<日本の>在満支兵力は皆合わせても米の8個師団位の戦力しか有せず、しかも弾薬保有量は、近代式大会戦をやれば1回分よりないということを奏上したので、御上〔昭和天皇〕は、それでは内地の部隊は在満支部隊より遥かに装備が劣るから、戦にならぬではないかとの御考えを抱かれた様子である。また先だって、総長、関東防備の実情はどうかとの御下問があったに拘らず、未だそのことに関する奏上が済んでいないことも御軫念のようである。御前会議の国力判断も、あれでは戦はできぬではないかとの思召しのようである。・・・<と>語った記録がある。」(189~192)

 (注59)1893~1979年。海兵(43期)、海大(首席)。「太平洋戦争半ばに海軍省教育局長に補職された高木は、・・・戦局悪化を憂い、海軍部内から自己主張が無いと信頼を失っていた嶋田海軍大臣を更迭することで、和平への動きを具体化できないかと模索した。しかし、嶋田の更迭は不可能であると判断し、首相・東條英機の暗殺計画を立案するに至る。
 計画にはまず神重徳大佐、小園安名大佐、渡名喜守定大佐、矢牧章大佐、伏下哲夫主計中佐など海軍中堅クラスとも言うべき面々が参加したが、後に高松宮宣仁親王や細川護貞なども加わった。これは高木の背後に海軍の長老たちの無言の同意があった事をうかがわせる。
 計画は、東條が愛用していたオープンカーで外出した際に数台の車で進路を塞ぎ、海軍部内から持ち出した機関銃で射殺するという荒っぽい手口のものだった。実行直前にサイパン失陥の責任を問われた東條内閣が総辞職したため、計画は実行に移されなかった。・・・
 憲兵を用いる東條派に逐次動向を察知されており、東條や嶋田繁太郎は高木に対し海軍次官・沢本頼雄から警告させ<ている>。・・・
 その後、小磯内閣の海軍大臣に就任した米内光政と、海軍次官に転補された井上成美から終戦工作の密命を受け、熱海の藤山愛一郎邸を拠点として鈴木貫太郎内閣総辞職に至るまでの期間、各方面と連携をとりつつ戦争終結に向け奔走した。本土決戦に固執する帝国陸軍中堅将校クラスの妨害を排除しつつ、終戦への基盤づくりを行った。終戦直後、東久邇宮内閣の内閣書記官長・緒方竹虎に請われ、各省の次官たちを統べる初代の内閣副書記官長(現在の「内閣官房副長官」)に就任する。海軍省でも次官は通常、中将が就くポストであり、これは少将の高木にとって異例の抜擢人事で、次官会議を司会する関係から各省次官と同官等(高等官一等。少将は高等官二等)となり、予備役となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E6%83%A3%E5%90%89

⇒昭和期の帝国海軍は教育も人事も歪なものになっており、その結果、組織の体をなさなくなっていたことが、高木の「活躍」を眺めるだけでも明らかですね。
 なお、梅津の昭和天皇への奏上は、5月の初旬にドイツが降伏した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E3%82%BD%E6%88%A6
ので、ソ連の対日参戦が間近となったことから、早晩杉山構想中の対ソ抑止部分も完遂され、日本もまた降伏する運びとなる以上、そろそろ昭和天皇に降伏に向けて心の準備をさせる必要があったためであり、その奏上内容が立ち合った侍従を通じて海軍にも伝わることも計算の上で行われたものでしょう。(太田)

(続く)