太田述正コラム#12992(2022.9.12)
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その29)>(2022.12.6公開)

「・・・14日朝7時、阿南は陸軍省に登庁後、・・・荒尾興功(あらおおきかつ)<(注52)>・・・軍事課長を伴って梅津の部屋を訪ねる。

 (注52)1902~1974年。幼年学校、陸士(25期)、陸大(42期・優等)。「1938年(昭和13年)4月、参謀本部員(作戦班)に就任する。1939年(昭和14年)8月、陸軍中佐に進級。1940年(昭和15年)9月、陸軍歩兵学校教官となり、大本営付(関東軍参謀第5課)を経て、1941年(昭和16年)11月、南方軍参謀に発令され太平洋戦争を迎えた。1942年(昭和17年)5月、参謀本部船舶課長に転じ、同年8月、陸軍大佐に昇進。参謀本部運輸課長を経て、1945年(昭和20年)4月、軍務局軍事課長に就任。」除隊後、第一復員省総務課長、復員庁第一復員局総務部長等。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B0%BE%E8%88%88%E5%8A%9F

 クーデター計画<(注53)>への賛同を求めるためだ。<(注54)>

 (注53)「1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、宮城(皇居)で一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。終戦反対事件、あるいは八・一五事件とも呼ばれる。
 日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した。しかし陸軍首脳部・東部軍管区の説得に失敗した彼らは日本降伏阻止を断念し、一部は自殺もしくは逮捕された。これにより日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。」なる、いわゆるクーデタ未遂事件(宮城事件)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
を引き起こした。
 (注54)「8月12日午前0時過ぎ、サンフランシスコ放送は連合国の回答文を放送した。この中では日本政府による国体護持の要請に対して、「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従う (subject to) ものとする」と回答されていた。
 外務省はこの文章を「制限の下に置かれる」と訳し、あくまで終戦を進めようとしたのに対して、陸軍では「隷属するものとする」であると解釈し、天皇の地位が保証されていないとして戦争続行を唱える声が大半を占めた。不満を持つ将校たちの指導者格であり阿南陸相の義弟でもあった竹下正彦中佐は阿南陸相に終戦阻止を求め、さらにそれが無理であれば切腹するよう迫っている。・・・
 13日午前9時からの最高戦争指導会議では議論が紛糾した。閣議において最後までポツダム宣言受諾に反対していたのは、陸軍代表の阿南陸相・松阪広政司法大臣・安倍源基内務大臣の3名であった。しかし、15時の閣議においてついに回答受諾が決定された。陸相官邸に戻った阿南陸相は6名の将校(軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐)に面会を求められ、クーデター計画への賛同を迫られた。「兵力使用計画」と題されたこの案では、東部軍及び近衛第一師団を用いて宮城を隔離、鈴木首相、木戸幸一内大臣府、東郷外相、米内海相らの政府要人を捕らえて戒厳令を発布し、国体護持を連合国側が承認するまで戦争を継続すると記されていた。面会を求めた6人はいずれも・・・最前線の現状をよく知らなかった。阿南陸相は彼らに「梅津参謀総長と会った上で決心を伝える」と返答し、一同を解散させた。」(上掲)

 然(しか)るに総長は、先づ宮城内に兵を動かすことを難じ[計画は本日10時よりの御前会議の際、隣室迄押しかけ、お上〔昭和天皇〕を侍従武官をして御居間に案内せしめ、他を監禁せんとするの案なり]、次(つい)で全面的に同意を表せず。茲(ここ)に於て計画崩れ万事去る。・・・

⇒これは簡単な話で、阿南が、それまで杉山構想を開示していなかったと思われる荒尾に対し、同構想の一部を披露した上で、それが達成できたからポツダム宣言を受諾すべきだ、という説明を上手にできず、仕方なく、阿南が梅津に下駄を預けたところ、梅津はいとも簡単に荒尾を説得してしまったということでしょう。
 しかし、これで陸軍が組織をあげてのクーデターこそ行わないことが確定したものの、梅津と阿南は、荒尾に対し、彼が梅津から受けた程度の説明も他のクーデター計画関係者にはするな、と口止めをしたはずであり、そのため、荒尾は、関係者すべてを説得することはできず、暴発者が出てしまった、と。(太田)

 梅津は・・・最後の御聖断<が>下された・・・御前会議が終わると、参謀本部の将校全員を集め、「昭和20年8月14日、それは我等に取って何たる悲しい日となったことでありましょう」と「声涙共に下」り、自ら筆を執って書いた訓示を読み上げた・・・。
 聖断遂に下れること、国体の絶対性と一億赤子の上とを思召さるる、叡慮に順わざるべからず。聖断必ずしも吾人の信念に於て御結論を賜わらざりしこと責任を感ず。此の国難、正に吾人死に勝る苦痛を共にせざるべからず。斯(かか)る時の為とも云うべく陶冶せられたる軍紀、愈々強化すべき団結。真に統帥中央部の真価を表現すべし。
 「死に勝る苦痛」、つまり悲痛のあまり自決などするのではなく、生きて最後まで責務を全うせよ、と述べているのだ。・・・

⇒梅津は、杉山構想の主である杉山が自決するであろうことを知っており、杉山以外の者が追い腹をする必要などないと考えていたのでしょうね。
 なお、「聖断必ずしも吾人の信念に於て御結論を賜わらざりしこと責任を感ず。」は、昭和天皇の終戦の決定が、「吾人の信念」、すなわち、「杉山構想完遂なる信念」、に基づく聖断ではなかったこと、換言すれば、昭和天皇を杉山構想信奉者にすることができなかったこと、に責任を感じる、ということだと思えばいいでしょうね。(太田)

 ところで、阿南は自決する前に竹下に遺言をいくつか託して。そのなかには、梅津にたいしての言葉もあった。
 総長に長い間御世話になりました、書き遺しませんが、閣下には御世話になりました、国家は閣下が指導してください。・・・
 梅津は阿南の訃報を聞き、官舎に移された遺骸と対面するために自動車を走らせた。
 その車中、秘書官の井上忠男に対し「阿南は立派な武将であった。しかし政治家ではなかった」と述べている・・・。・・・

⇒これは、クーデター計画を巡る阿南の失態を咎めただけのことでしょう。(太田)

 この面では、梅津は相当な手腕家だった。
 次官時代の部内統制はもちろん、総長になってからも表面強硬論を唱えながら、すこしずつ「和平」に向けて陸軍の軌道を動かしていった。
 正面を向いたまま、一見するとわからないぐらいうしろに下がっていたのである。・・・」(222、224~225、227~230)

⇒この場合の「陸軍」とは、陸軍中央であるところ、教育総監部はともかくとして、参謀本部だけではなく、陸軍省の「軌道」も「動かしてい」かなければならない以上、阿南も陸軍省に対して同じことをやったはずですが、陸軍省には参謀本部とは違って「最前線の現状をよく知らなかった」(「注54」)将校が多いこともあり、クーデター計画が持ち上がったり、暴発者を出したり、してしまった、というわけです。(太田)

(続く)