太田述正コラム#1714(2007.3.31)
<慰安婦問題の「理論的」考察(その11)>(2007.5.2公開)
 その後、朝鮮日報が、「カナダ議会では従軍慰安婦への謝罪はもちろん、賠償を要求する決議案が推進されている。新民主党所属のウェイン・マストン議員が提出したこの決議案は、 27日にカナダ下院の外交・国際開発委員会傘下にある人権小委員会の票決で賛成4票、反対3票で可決され、常任委員会に付された。決議案を提出したマストン議員は「第2次世界大戦当時、性の奴隷として虐待された数万人の女性たちに対し安倍首相は謝罪し、賠償プログラムを整えるよう圧力を加えるべき」と主張した。」と報じています(
http://www.chosunonline.com/app/ArticleView.do?id=20070330000015 
。3月30日アクセス)。
 また、ニューヨークタイムスは、吉見義明・中央大学教授の主張を大々的に取り上げつつ、安部首相の慰安婦問題に関する新米議員当時から現在に至る姿勢を厳しく批判した東京特派員記事をを掲げました。
 ただし、その中で吉見教授は、慰安所(brothel)の設置への軍の関与を記した公式文書は存在しているが、軍による女性の強制連行(abduction)を記した公式文書は、そんなことが公式文書に書かれることはありえないことから、今後とも出てくる可能性はほとんどなかろうと言っています(
http://www.nytimes.com/2007/03/31/world/asia/31yoshimi.html?_r=1&oref=slogin&ref=world&pagewanted=print
。3月31日アクセス)。
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 ちょっと先を急ぎすぎたので、ここでマッキノン(現在ミシガン大学ロースクール教授)の主張の全体像をお示ししておきたいと思います。その概要は次のとおりです。
 
 本来平等とはアリストテレス的平等を意味するのであって、同じような個人は同じように、違うような個人は違うように扱うというものだ。しかし、このような平等の考え方は、あるグループが社会のヒエラルキーの中で法または力によって従属的な地位に置かれている場合には、ねじまげられてしまう。
 例えば、女性と男性は、妊娠できるかどうかという点では違うというのに、米国の法は両者が同じだとみなして、女性に生理休暇はもとより(太田)産休(maternity leave)すら与えておらず、裁判所もこの取り扱いを是認している。
 また、女性と男性は、愛のない性交を苦痛と感じるかどうかという点でも違う(太田)というのに、先進国ではおおむねどこでも(太田)、強姦者が相手の女性が性交に同意したと信じたことに落ち度がないとみなされた時はおとがめなしだ。そもそも強姦が罪とされるのは、女性の精神的肉体的権利を侵害するからではなく、強姦者以外の男性が持っているところの女性に対する潜在的な財産的権利を侵害するからだ。
 更に、売春に対する禁忌は、一見女性を守るためのものに見えるが、その実、男性の性的利益に奉仕するためのものなのだ。
 そしてポルノは、強姦、殴打、セクハラ、売春、子供の性的虐待を男性的観点からとらえる(sexualize)ことによって、これらの行為を祝福し、促進し、容認し、正当化している。
 このポルノ等を通じて女性は、男性の視点で世の中を眺めさせられており、女性は自分を自由だと思っているものの、自由意思を行使できないのが現実だ。
 このように女性が構造的に従属的な地位に置かれている状況下では、女性の相手が愛人であれ夫であれ強姦者であれ、あらゆる性交が強制されたもの(forced sex)であると言ってよい。それどころか、あらゆる性交は強姦(rape)であるとさえ言えるかもしれない。
 マッキノンは最先端のフェミニストを自認しつつ、このような主張を行っているわけですが、要するにそれは、ビクトリア朝的倫理・・男性を性的野獣とみなし、女性を男性の情熱の犠牲者ととらえた・・への先祖返りではないか、と評されているのももっともです。
 マッキノンの名前が最初に世に出たのは、1976年の米連邦最高裁判決(Williams v. Saxbe)・・セクハラは性的差別禁止法令違反たりうると判示した・・が彼女のセクハラに関する学説を採用したことによってでした(注15)。
 (注15)セクハラ(sexual harassment)という言葉が生まれたのは1974年だが、マッキノンの造語ではない(
http://en.wikipedia.org/wiki/Sexual_harassment
。3月31日アクセス)。しかし、彼女は実質的にセクハラなる新しい概念の母であると言ってよかろう。
 マッキノンが一躍全米に名前が知られるようになったのは、1982年にミネソタ州のインディアナポリスの市議会の依頼を受けて、女性を蔑視するポルノ(コラム#1709)を禁止する市条例案の策定に携わった時のことです。
 この条例案は、市長が拒否権を発動したため、制定には至りませんでしたが、次いでインディアナ州のインディアナポリスでは、市長が先頭に立って同様の条例の制定にこぎつけます。
 インディアナポリスは、カーレースの祭典であるインディ500の開催地として有名な都市ですが、同市が米国で最も保守的な市のうちの一つであることは象徴的です。
 つまり、性革命を苦々しく思っていた米国の保守層と「最先端の」フェミニストや左翼が同床異夢の野合をするに至ったのです。
 その背景には、米国社会のキリスト教原理主義化がある、と私は思うのです。
 しかし、上記インディアナポリス市条例は、1986年2月、米連邦最高裁において、米憲法修正第1条の言論の自由規定に抵触するとして違憲判決が下されてしまいます。
 この判決が既に出ていたというのに、レーガン大統領が設置したポルノに関する審議会(コラム#1667)が1986年7月にとりまとめた報告書が、全米の州議会に対し、マッキノンのポルノに関する学説をあえて推薦したところに、米国の保守層のマッキノンへの思い入れの深さがよく現れています。
 そして、1990年代に入るとマッキノンの名声はこの上もなく高まります。
 1992年に、隣国のカナダの最高裁が彼女のポルノに関する学説を採用し、暴力的で女性蔑視的なポルノを禁止する条例を合憲だと判示したからです。
 米国はまだかろうじて踏みとどまっているけれど、この判決によって、カナダは言論の自由を大きく制約する社会、すなわち非アングロサクソン社会への第一歩を踏み出してしまったのではないでしょうか。
 ポルノに対してかくも厳しいのですから、当然、愛のない性交を女性が経済的事情等で「強いられる」ところの、売春に対しても厳しい姿勢がとられることになるはずです(注16)。
 (注16) 先般、米連邦控訴審は、中共で、(ざらにあることだが、)2,200米ドル相当で親によって結婚相手に売られた女性(現在19歳)が、将来この意に沿わぬ結婚相手に虐待を受ける恐れがあるとして、米国に申請した亡命を認めた。米国政府はただちに連邦最高裁に上告したが、愛のない結婚などとんでもないという現在の米国世論がうかがえて興味深い。
     (以上、
http://www.csmonitor.com/2007/0323/p01s02-usju.htm
(3月24日アクセス)による。こうなると、米国人の結婚観と日本人の結婚観は180度違う、ということになろう(コラム#1508参照)。
 以上が、米国とカナダで今湧き上がっている「従軍」慰安婦非難の合唱の背景である、と私は考えているのです。(完)