太田述正コラム#12996(2022.9.14)
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その31)>(2022.12.8公開)

 「・・・梅津の終戦へ向けた行動に、疑問の余地が残ることは確かだ。
 これは梅津だけではないが、「なぜもっと積極的に和平に持っていかなかったのか」という非難は、当時の戦争指導者すべてに向けられ得るだろう。・・・

⇒そんなこと言ってるヒマあったら、一撃講和論のような説を自分で立てるべきでしょう。
 いや、その前に、なぜ対英米開戦したのかというより根本的な「疑問」を抱かないのでしょうか。(太田)

 一つ梅津の確かな「功績」と呼べるものがある。
 それは、昭和20(1945)年3月のことであった。
 この時、帝国陸海軍ではある極秘作戦が結構に移されるところだった。
 その作戦とは、細菌に感染させたネズミや蚊を潜水艦で運び、アメリカ本土もしくは米軍に占領された島に放つというものだった・・・。
 「PX作戦」と呼ばれた同作戦の発案者は軍令部次長小沢治三郎<(注56)>(じさぶろう)中将(のち最後の連合艦隊司令長官)で、計画は前年12月からスタートしていた。

 (注56)1886~1966年。海兵(37期・179人中45番)、海大。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E6%B2%BB%E4%B8%89%E9%83%8E

 海軍側から榎尾義男<(注57)>(えのおよしお)大佐、陸軍側から服部卓四郎大佐が担当者となり、「七三一部隊」で有名な石井四郎軍医中将がアドバイザーとなって行なわれることになっていた。

 (注57)1902~1989年。海兵(51期)、海大(33期)「成績は本来恩賜の軍刀に値するものであったが席次を引き下げられている。教官であった高木惣吉は当時の海大首脳の理不尽な指示があったことを指摘している。・・・
 1943年11月22日軍令部作戦班長。
 1944年6月27日軍令部一部作戦研究において榎尾は、海陸軍航空兵力の合一運用を強く主張した。榎尾によれば「マリアナ沖海戦までは海軍独自の戦力で東正面の海上作戦は一応遂行できるとの考えで各作戦を計画した。しかし、その後はどのようにして陸軍兵力特に航空兵力を東正面の海上作戦に引き出せるかが海軍部の最大の関心事になった」という。7月4日海軍は陸軍に航空兵力統合運用、部長を海軍から課長を陸軍から出す指導部の設置を提案した。後宮淳参謀次長は航空兵力を太平洋方面に集中する方針に同意するが、海軍のやり方に不満があり、海軍側に委ねることには不同意の意向を示した。こ・・・
 1944年12月小沢治三郎中将がPX作戦を発案し、榎尾が主務者となる。・・・航空機2機を搭載する伊四〇〇型潜水艦を使用する計画で海軍に細菌研究がなかったため、陸軍の石井四郎軍医中将の協力を要請し陸海の共同計画となり、人体実験を含む研究が進められた。・・・この件に関して戦後しばらく関係者の沈黙が続いたが、榎尾が新聞で経緯を語った。
 1945年1月20日出仕兼部員。1945年5月29日701空司令。
 終戦時、1945年8月18日軍令部一部長富岡定俊少将は、皇統護持作戦の一環として701空司令榎尾大佐に地下組織の結成を命じる。23日701空解散後、榎尾は約3800人で橘殉皇隊を結成。天皇、国体に危険が迫ったとき決起してゲリラ戦に移ることを目的とし、全国12地区に分け支部長を置いて暗号通信の準備も行う。情勢の好転で自然消滅した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E5%B0%BE%E7%BE%A9%E7%94%B7

⇒「注57」に登場する富岡定俊は、大佐で軍令部一部一課長(作戦課長)の時に一撃講和論を唱えていたらしいけれど、それは、首脳によるものとは言えないだけでなく、「講和に対する裏付けはなくドイツの優勢によるバランスできっかけがあるだろうという希望を持っていたという」(上掲)という恥ずかしい限りの希望的観測の域を出ない代物でした。(太田)

 米内光政海軍大臣もこれを承認し、あとは決行されるのを待つだけ、という段階になっていた作戦を中止させたのが、他ならぬ梅津だったのである。

⇒石井四郎が長を務めていた通称「満州第731部隊」は、事実上、参謀本部直轄であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E5%9B%9B%E9%83%8E
この計画は、参謀次長以下も関与して進められたことから、陸軍の責任もゼロではないけれど、一義的には海軍の責任であり、本件でも、海軍の非常識さが露呈していると思います。
 その関連で、言い出しっぺの小沢もプロジェクト・リーダーを務めた榎尾も、対英米戦が始まるまで、海軍中央(海軍省/軍令部)勤務がないという、いわば、潮風に当たりっぱなしの人事管理をされていたことが大変気になるところです。(太田)

 「細菌を戦争に使えば、それは日米戦という次元のものから、人類対細菌といった果てしない戦いになる。人道的にも世界の冷笑を受けるだけだ」・・・というのが<梅津の>反対の理由であった。」(232~233)

⇒日本が原爆投下をされた時点で、海軍を含め、誰も化学兵器や細菌兵器による対米報復を主張しなかったのは、すぐには原爆の放射線による被害の深刻さが認識されなかったこともあるでしょうが、もはや降伏の時期や条件を考えることで、彼らは頭が一杯だったためでしょうね。(太田)

(続く)