太田述正コラム#12998(2022.9.15)
<岩井秀一郎『最後の参謀総長 梅津美治郎』を読む(その32)>(2022.12.9公開)

 「・・・<ちなみに、>不完全とはいえ、ジュネーブ議定書によって細菌兵器を含めた化学兵器の使用は禁止されており(開発や保持はできた)、日本も調印だけはしていた<(注58)>。・・・

 (注58)「1925年にジュネーヴで作成され、1928年に発効した<。>・・・ただし、この議定書において制限されたのは使用のみで、それも締約していない国家に対しては、使用禁止とされなかった。また、開発、生産、保有が制限されない点でも化学兵器・生物兵器の包括的禁止の観点からは不充分なものであった。・・・
 日本や<米>国、ブラジルは、1925年に署名はしたものの第二次世界大戦前には批准して<いない。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%B4%E8%AD%B0%E5%AE%9A%E6%9B%B8_(1925%E5%B9%B4)

⇒批准していないのですから、日米ともにこの議定書によって拘束はされなかったわけです。
 それに、「開発、生産、保有が制限されない」ということは、事実上、(批准まで行った諸国同士であっても)報復使用は認められていた、ということでしょうね。(太田)

 <PX>作戦にかかわった榎尾義男は、・・・「・・・あの時代、やぶれかぶれで勝つためには手段を選ばないといった風潮の中、人類のために許されない–とした梅津参謀総長らの英断を理解してほしい。米軍は原爆を投下し、日本軍も原爆があれば使ったと述べた旧軍関係者がいたが、PX作戦が中止されたことから見てもありえないと思う。」・・・

⇒(生物兵器や核兵器の)報復使用は別として、といった留保をつけていないところに、榎尾の思慮の乏しさ、もしくは軽率さが現れています。(太田)

 <1945年9月2日の>降伏文書<(注59)>への調印については当初、梅津一人がこれを行なう予定になっていた。

 (注59)「日本と連合国との間で交わされた休戦協定(停戦協定)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%99%8D%E4%BC%8F%E6%96%87%E6%9B%B8

 しかし、梅津は「自決を強要するに均し」い・・・として拒否した。
 東久邇宮首相も拒否し、結局、政府の代表者として重光葵外相が調印に臨むことになった。
 最初は調印役を拒否した梅津だったが、ついに彼を決断させたのは、他ならぬ昭和天皇だった。
 昭和天皇は、・・・何人も嫌がる仕事を命じ気の毒なるも朕に代わりて使命を全うすべし、如何なることありとも短気を起し早まること勿れ、調印後の後始末は卿に負う所多きに付自愛せよ。・・・<と>述べたという。・・・

⇒「日本側からは、天皇および大日本帝国政府を代表して重光葵外務大臣が、また大本営を代表して梅津美治郎参謀総長が署名した。連合国側からは、まず連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが4連合国(米、英、ソ、中)を代表するとともに、日本と戦争状態にあった他の連合国を代表して署名を行った。その後、以下の各国代表が署名した
<米国>代表:チェスター・ニミッツ海軍元帥
中華民国代表:徐永昌上将
<英国>代表:ブルース・フレーザー海軍元帥
ソ連代表:クズマ・デレヴャーンコ中将
オーストラリア代表:トーマス・ブレイミー陸軍元帥
カナダ代表:ローレンス・ムーア・コスグレーヴ陸軍大佐
フランス代表:フィリップ・ルクレール陸軍大将
オランダ代表:コンラート・ヘルフリッヒ海軍中将
ニュージーランド代表:レナード・モンク・イシット空軍中将」(上掲)、と、軍人ばかりであり、第二次世界大戦中の1940年6月22日の独仏休戦協定においても、ヴィルヘルム・カイテルドイツ国防軍最高司令部総長とフランスのシャルル・アンツィジェール将軍等、が署名し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E4%BB%8F%E4%BC%91%E6%88%A6%E5%8D%94%E5%AE%9A
https://en.wikipedia.org/wiki/Armistice_of_22_June_1940
後の朝鮮戦争においても、1953年7月27日に、国連軍総司令官マーク・W・クラーク大将、金日成朝鮮人民軍最高司令官・・軍司令官たる人格であることに注意・・、彭徳懐中国人民志願軍司令員、が署名した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%BC%91%E6%88%A6%E5%8D%94%E5%AE%9A
ことの並びから言えば、梅津等の軍人達が署名するのが筋なのであって、梅津の調印への抵抗は理屈ではなく感情によるものであり、梅津らしくないと思います。(太田)

 「短気を起し早まること勿れ」とは「自決などするな」という意味に他ならない。・・・
 重光は、<梅津>の態度を「武人として最も立派であった」と記す。・・・

⇒従って、重光が梅津を褒めたこともいかがなものかと思います。(太田)

 東條が昭和天皇の意を受けて日米交渉、つまり避戦に舵を切った際、参謀総長が杉山元ではなく梅津であったなら、強硬派を抑えられた可能性は少なくはない。
 その時は梅津の慎重さと合理性、部下を畏怖させる沈黙と知性がもっともよく発揮されたように思う。」(234~237、245)

⇒そんなことが、全くもってありえなかったことは、改めて説明を要しないでしょう。(太田)

(完)