太田述正コラム#13000(2022.9.16)
<『海軍大将米内光政覚書–太平洋戦争終結の真相』を読む(その1)>(2022.12.10公開)

1 始めに

 昨日、5冊本をアマゾンで注文し、本日午前中、うち4冊が届き、後1冊は明日午前中に届く予定です。
 ヨドバシは、付くポイントも少なく届くまでの時間もよりかかるので、アマゾンにせざるをえなかった次第。
 届いたのを見たら、全部新書版ではなく、普通の大きさの本が1冊ありました。
 新書版と勘違いをして注文したのですが、普通の本を買ったのは久しぶりです。
 さて、このうち、帝国海軍関係が3冊で、それぞれ、(生まれた順に並べたところの)米内光政、山本五十六、井上成美、についての本ですが、次の次のオフ会「講演」原稿では帝国海軍を取り上げることになりそうであるところ、まずは帝国海軍関係の本から、そして、米内光政に係る表記の本から、シリーズを始めたいと思います。
 表記に著者名を入れなかったのは、高木惣吉写、実松譲編、だからです。
 (但し、この本には、実松譲による「付記 米内光政小伝」が収録されいます。)
 高木惣吉は紹介済み(コラム#12988)なので、実松譲(1902~1996年)についてですが、彼は、海兵(51期・中位の成績)、海大(34期)、「1937年(昭和12年)11月に海軍省副官兼海相秘書官に就任して以降は陸上勤務のみ<となり、>・・・米国駐在を命じられ、1940年(昭和15年)1月26日に出発する。この日は日米通商航海条約が失効した日であり、すでに日米関係は緊迫していた。実松はプリンストン大学大学院で米国の歴史、政治を学ぶが、8月にはワシントンに設けられていた武官室<に駐在武官補佐官として>勤務<すること>となり、11月に中佐に進級する。・・・

⇒将官直前くらいまではハンモックナンバー・・海兵での成績・・至上主義のはずの海軍が、若輩の時から実松を重用したのですから不思議なことです。少なくとも、デスクワークが抜群にできたのでしょうね。(太田)

 実松自身は著書『真珠湾までの365日』で「1941年(昭和16年)12月に「東の風、雨」という短波放送を受信して開戦を知り、暗号書、機密書類を処分したと証言しているが、このいわゆる「ウィンドメッセージ」の真偽については議論が分かれており、須藤眞志は外務省の暗号書・機械処分指示の公電との比較から辻褄が合わないと指摘しているほか、井口武夫は実松が野村大使にメッセージについて伝えた形跡がないことから「聞いていなかったとも思われる」と記している。現地時間の12月7日午前9時頃、出勤した実松は郵便受けに放置されている大量の電報を目撃した。この電報が「対米覚書」、すなわち日本政府の対米交渉打ち切り通告であったと実松は記しているが、複数の大使館関係者は事実と異なると指摘(公電は電信会社が直接配達し、大使館員が不在なら通知を残して持ち帰る慣習で、実際には実松の出勤前に当直担当者が受領していた)しており、実松は別の電報を誤認(直前に死去してこの日葬儀が営まれた新庄健吉に対する弔電とされる)したという反論を受けている。打ち切り通告の<米>国務省への手交は指定時刻に間に合わずに宣戦布告(最後通牒)は真珠湾攻撃後となった。これに関し、戦後の極東国際軍事裁判で対米通告の発信自体を意図的に遅らせたのではないかという追及に対して弁護側は現地大使館の処理に責任を負わせる弁明をおこなったが、実松の証言はそれを補強するものとして広く流布することとなったと井口武夫は指摘している。・・・

⇒その実松、さすがに悪意はなかったのでしょうから、大変な粗忽者ですね。
 こんな調子では、海上勤務なんて、事故を起こしそうで危なくてさせられなかったわけです。(太田)

 実松らは抑留され、交換船で帰還したのは翌年の8月20日である。
 実松は軍令部第三部第五課の米国班長に補され海大教官を兼務した。着任当時の第五課は課長を含めた人員が4名、内1名は他の職務との兼任者であり、人員の不足は明らかであった。人事局は士官が不足している状況から正規士官の配員に難色を示しており、短期現役士官や予備士官によって充員が行われる。人員拡充は引き続き行われ、1944年(昭和19年)7月には士官以外の者を含め54名となっている。こうして対米情報作業が本格化したのはすでにサイパンの戦いが終結する時期で、実松は「海軍は腰だめで戦争した」とその情報軽視を批判している。第五課で実松らが行った対米情報作業は捕虜から情報を得ることも方法としていたが、主として統計的手法を用いて米側の企図を判断するものであった。基礎となる情報は、米国のラジオ放送や中立国経由で入手したものであり、これを解析して第五課が提供する対米情報は連合艦隊司令部の作戦に直接役立っていた。 実松は米軍の主攻勢方面も的確に言い当てている。主攻勢方面については3つの可能性が考えられていたが、実松は以下のように主張していたのである。日米の決戦であったマリアナ沖海戦は中部太平洋で生起し<た>・・・。・・・
 米軍は暗号解読や諜報組織の存在を疑い戦後に実松を問い詰めている。実松はその手法を説明したが、米軍士官の理解を超えていたという。・・・
 一方、実松はアメリカ情報を得る一環として、尋問を目的とした捕虜収容施設である横須賀海軍警備隊植木分遣隊(通称・大船収容所)の運営にも深く関与した。実松・・・の1974年、『別冊週刊読売』9月号<の>「大船収容所始末記」という手記・・・によると、「現実の捕虜<達>・・・を利用したい」という理由でこの施設は設置された。実松は手記の中で「捕虜からバカにされるような尋問者は、とても有用な情報を入手できない」「情報を提供させるためには、まず第一に捕虜の立場を理解することである。(中略)矢折れ力尽きて敵の軍門に降ることを、彼らはあえて異としない。だから、われわれとは本質的に違う”捕虜心理”をよく念頭におき、彼らに接し、彼らを遇することが必要であろう」と記している。大船収容所で実松の尋問を受けたグレゴリー・ボイントンが「(実松の)物腰は非常に穏やかであった」と戦後の回想に記している一方で、収容所長の海軍少尉は「黙秘する捕虜への殴打や食事抜きなどを実松から命じられた」と戦後に証言している。施設への収容中は国際法上の正式な捕虜の扱いをせず、尋問終了後に陸軍の管轄する正式な収容所に移されたが、移送の判断は実松に委ねられていた。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E6%9D%BE%E8%AD%B2

⇒話半分だとしても、スゴイ活躍ぶりです。(太田)

(続く)