太田述正コラム#13002(2022.9.17)
<『海軍大将米内光政覚書–太平洋戦争終結の真相』を読む(その2)>(2022.12.11公開)

2 『海軍大将米内光政覚書–太平洋戦争終結の真相』を読む

 「・・・支那のヴァイタル・ポイント〔注、急所〕は、いったいどこにあるのか。・・・
 優者をもって自認する日本が劣弱な支那にたいして握手の手をさしのべたところで、それはなにも日本のディグニティ(威厳)を損しプライド(自尊心)をきずつけるものだろうか。・・・
 日本は・・・大国としての襟度をもって積極的に支那をリードしてやることに努めるべきである。・・・

⇒「米内光政は・・・すべての授業が英語だった海軍兵学校を出ている・・・ので英語もできたが、得意ではなく学校での成績もわるく<(注1)>卒業後の出世も知れていた。が、ぺテルブルグ(ペトログラード)で大使館付武官補佐官となった時にそこでロシア語を猛勉強し、ロシア語で電話応対ができるのは米内しかいないといわれるほどだったそうだ。ロシア文学にも造詣が深く『ラスプーチン秘録』の翻訳もしている。その後語学力をかわれて欧州やシベリア出張につながり、米内はロシア語を学ぶことによって出世に弾みがついたともいえるそうだ。」
http://iwate-isn.sakura.ne.jp/bunkasalon/33kai.htm
というのですが、米内は不必要に「得意で<も>な<い>」英語を多用している印象を免れず、その理由を解明したいところです。(太田)

 (注1)「米内の兵学校における成績は、入学のときには137人中の57番であり、卒業のさいは125人中の68番」(239)

 〔<実松譲>注〕<盧溝橋事件の後で、平素>あまりぶつぶつ言ったことのない米内が、・・・五相会議から帰ってくると、「五相会議なんか駄目だ。五相会議で、せっかくきめても、外務省<欧亜局>と陸軍省<軍務局長の後宮淳(注2)>の間でやっと話し合いがついても、あとから電話がかかってきて、『省に帰ってみたら、参謀本部の連中がみんな憤慨しており、陸軍の方針は、すでに決定しているということなので、さきほどの話し合いは全部水に流していただきたい』というようじゃ、どうにもならない」と山本(五十六)次官や近藤(泰一郎)先任副官をつかまえて、めずらしく愚痴をこぼしていた。

 (注2)1884~1973年。幼年学校、陸士(17期)、陸大(29期)。「1934年3月、陸軍少将に進級。参謀本部第三部長を経て1935年8月に陸軍省人事局長に就任。翌1936年の二・二六事件勃発を受けて、寺内寿一陸相のもと、その後の粛軍人事に当たる[要出典]。1937年3月には同軍務局長に転ずる。同年7月の支那事変に当たってはいわゆる不拡大派に属したが、省内を纏めることは出来ず紛糾を招いた[要出典]。同年8月、陸軍中将に進む。その後は第26師団長、第4軍司令官、南支那方面軍司令官、支那派遣軍総参謀長を歴任。
 1942年8月、陸軍大将に進む。中部軍司令官を経て、1944年2月、軍事参議官兼参謀次長に就任。・・・東條英機首相兼陸相が国務と統帥の一元化を図り、参謀総長を兼任した際に、陸士同期で幼年学校以来の友である後宮を第一次長(作戦担当)に起用したものである。東條の信頼を受け参謀本部の日常業務を切り回した[要出典]。参謀次長就任時にはすでに陸軍大将であったが、この事例は陸海軍を通じてきわめて異例である[要出典]。東條首相兼陸相が新たに参謀総長を兼任した、これまた異例の時期に実現した次長二人制の中での大将次長であった(兵站担当の第二次長秦彦三郎は中将)[要出典]。
 1944年7月、サイパン失陥によって倒閣運動が勢いを増すと、東條は重臣らの求めに応じ参謀総長兼任を中止して内閣の延命を図る[要出典]。自身の身替わりとして後宮に参謀総長を譲るため、内奏まで進むが昭和天皇に危惧され、富永恭次、服部卓四郎ら省部側近からも異論が出て、結局は梅津美治郎が参謀総長となった[要出典]。また東條が退陣して小磯内閣が発足する際に新陸相の候補に名前が挙がったが、小磯国昭と共に大命を受けた海相候補の米内光政が「そんな東條の身代わりみたいなのが新陸相なら僕は辞める」と言ったため幻に終わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%AE%AE%E6%B7%B3

 この電話の意味するものは、後宮の無力よりも、より多く陸軍の下剋上を物語っているといえよう。」(13~15)

⇒この場面に関しては、実松(と恐らくは米内)の受け止め方は間違いであって、杉山構想が明かされておらず、走り使いに使われていただけの後宮が、陸軍省や参謀本部の後輩達の突き上げをくらった、ないしは、部下達によってはしごを外された、ということではなく、当時の上司であった、杉山元陸軍大臣、梅津美治郎陸軍次官のコンビから厳しい「指導」を受けた、と見てよいでしょう。
 その後、地方に飛ばされていた後宮を、同期の友人ということで哀れに思った東條が、対英米戦の末期に、後宮を参謀本部「大」次長として処遇してやったわけですが、恐らく、後宮には杉山構想は最後まで明かされなかったのではないでしょうか。(太田)

(続く)