太田述正コラム#13004(2022.9.18)
<『海軍大将米内光政覚書–太平洋戦争終結の真相』を読む(その3)>(2022.12.12公開)
「〔<実松>注〕・・・昭和13<(1938)>年・・・7月13日、朝鮮軍は指揮下の部隊から、11日に約40名のソ連兵が張鼓峰の山頂に侵入して陣地の構築をはじめた、という報告を受けた。・・・
参謀本部作戦課では、これを対ソ戦略の瀬踏みとして利用すべきだ、という説があらわれた。
つまり、一度たたいてソ連の意図をさぐることは、日華事変の遂行上きわめて重要である。
ソ連が、この機をとらえて本気で日本にあたるような気配があったら、この小さい峰を譲って、引き揚げてもよろしい。
が、単に国境に拠点を得るだけの手出しであるなら、解決はいっそう容易である。・・・
そこで作戦課長稲田正純大佐は、戦闘の拡大を懸念する参謀次長多田駿中将を説得して反撃作戦の計画をすすめた。・・・
昭和13年7月19日<、閑院宮>参謀総長は、兵力の行使を決意し、<板垣征四郎>陸軍大臣の同意を得たのち、首相と外相に同意をもとめた。
<近衛>首相・・・は意見を述べなかった。
<宇垣一成>外相・・・はただちに同意しなかった。
・・・ただちに兵力を行使するようなことは不可である。しいてということならば、これを閣議にはからねばならない<、と>。・・・
20日<、>・・・事件について、・・・午後4時、参謀総長と陸軍大臣が参内する。
〔<実松>注〕この参内前「あらかじめ宇佐美<(注2)>侍従武官長を通じて、天皇から『もし武力行使を許せよとのことについてであるならば、自分は許さない考えであるからこなくてもよろしい…」という内意を伝えられたが、ともかく陸相だけの拝謁が許された。
(注2)宇佐美興屋(おきいえ。1883~1970年)。陸士(14期)、陸大(25期・3位)。騎兵監、第7師団長を経て、「1936年(昭和11年)3月に侍従武官長に親補された。・・・
1944年(昭和19年)から1946年(昭和21年)まで侍従長を務めた藤田尚徳は、次のように述べている。宇佐美は気骨のある人物で、侍従武官長として職務を遂行するにあたり、陸軍中央の言いなりには動かなかった。陸軍中央は意に沿わない宇佐美を更迭し、その後任には、温厚な性格で知られた蓮沼蕃を起用した<、と>。・・・
<他方、>戦後の皇室ジャーナリストである河原敏明は、次のように述べている。1939年(昭和13年)、ノモンハン事件の3か月前、海軍の軍令部員が満州を視察し、関東軍が満ソ国境に25個師団を配置して戦闘態勢を整えていることを知り、軍令部総長の伏見宮博恭王・元帥海軍大将に報告した。驚いた伏見宮は直ちにそのことを昭和天皇に奏上した。この件を陸軍から聞いていなかった天皇は、侍従武官長の宇佐美を呼び、・・・陸軍省・・・に、事実関係と意図を確かめるよう命じた。しかし宇佐美は陸軍中央と連絡することもなく、天皇が望むような適切な対処をしなかった。そのことを天皇から聞いた木戸幸一内大臣と百武三郎侍従長は、宇佐美に面と向かって苦言を述べたが、宇佐美は「どうも、こう陸軍と陛下の御意志との間に距離があっては、困ったものだ」と放言した。<その結果、>宇佐美は侍従武官長を更迭された。侍従武官長を退任する際には天皇から慰労の意味で記念品が下賜される例であったが、宇佐美への下賜品は異例なほど粗末なもので、また、宇佐美にかけられた慰労の言葉はごく短いものであった<、と>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%BE%8E%E8%88%88%E5%B1%8B
しかも天皇が板垣に関係大臣との連絡状況についてただされたのにたいして、陸相は、外相も海相も実力行使に同意していると答えたが、天皇の方はすでに両相および湯浅倉平・内大臣から反対意見を聞いていたため、柳条溝事件・盧溝橋事件以来の陸軍の『やり方』に言及し、『今後は朕の命令なくして一兵だも動かすことはならん』と語気強く陸相を叱責された…」・・・
⇒まだ西園寺公望は存命(~1940年11月)であったところ、湯浅の反対意見は、西園寺/牧野伸顕/杉山元、の意を体したものであったというのが私の見方です。
なお、米内の手記の内容が正しいとすれば、首相も海相(米内)も陸軍に対して賛否を明らかにしていなかった以上、陸相と天皇とはどちらも必ずしも間違ったことを言っているわけではありませんが、はっきりしていることは、昭和天皇が統帥権行使の輔弼者・・この場合、陸相は参謀総長の代理として参内したと言えるでしょう・・の輔弼内容に従わなかったということであり、同天皇は、憲法上の権能をきちんと果たしていた、換言すれば、統制権(や外交大権)に関しては、立憲君主ではなかったということです。(太田)
8月・・・3日午前11時、官邸に首相を訪問する。
(これよりさき10時ごろ、風見書記官長より電話をもって、事件解決について首相に進言するよう懇請してきた)
⇒陸軍において、本件についてはこの時点では海軍の協力を得なければならない事案とは考えていなかった様子であることから、厳密に言えば、風見は越権行為を米内に依頼したことになりそうです。(太田)
海軍大臣<(私)>は、総理にたいして進言した。
「現在、わが国は対中国問題に没頭しているところ、さらにソ連と事をかまえるようなことは、とうてい忍びがたいところである。
そこで、このさい国境問題についての論議は後日にゆずり、さしあたり双方がまず停戦して両軍を引離すこととし外交交渉をすすめることを得策とすべし」
総理はこれを諒とした。
そこで総理より陸軍大臣に語るようすすめたが、かれは何を考えたのか、この席に陸軍大臣を呼びよせ海相より陸相を説得する要希望した。
ただちに陸相を総理官邸にまねき、海相より前述した要旨をのべて、その善処を要望した。」(33~38)
⇒近衛文麿の、無責任さ・・陸軍が怖かった可能性が大・・、and/or、無能さ・・米内の見解を的確に陸相に伝える能力がなかった可能性が大・・、には開いた口が塞がらないといったところですね。(太田)
(続く)