太田述正コラム#13010(2022.9.21)
<『海軍大将米内光政覚書–太平洋戦争終結の真相』を読む(その6)>(2022.12.15公開)

 「・・・陸相の考えは、日華事変が解決しないのは「北にソ連、南に英ありて妨害」しているからで、これを排除するために独伊と結ぶというのである。
 だが、正面きって敵となっていないソ連と英国の妨害があるだけでも、事変解決の見とおしがつかないのに、これを敵性国と銘うってやれば、事態はますます面倒になるにちがいない。
 ましてや英米は一体となると判断すべき<だ。>・・・
米内の見解は、世界情勢を客観的にながめた者からみれば”常識論”といえよう。
 だが、その常識論が耳に入らない陸相であり、当時の陸軍であった。

⇒実松は、米内が「英米は一体となると判断すべき」と考えていたと受け止めているところ、さすがに本当の話を書いているのでしょうが、これまで、何度も指摘してきたように、この判断は完全な誤りです。
 そうである以上、米内が板垣に対して主張したこと全体が誤りだったということになります。
 米内は英米に長期滞在した経験がないところ、この点に関しては「常識論」のつもりが、先入観に過ぎなかった、というわけです。
 実松は、1940年1月から(現地で抑留される)1941年12月までの2年弱、米国に駐在しています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E6%9D%BE%E8%AD%B2
が、米英関係の深奥まで勉強する意欲ないし能力がなかったのでしょうが、戦後になっても、英米一体論という「常識論」ならぬ神話を疑うことがなかった、というわけです。
 板垣自身が米内の主張を当時どう受け止めたのかはともかく、この懇談の内容を聞かされたはずの当時在支の杉山元は、さぞかし、米内、ひいては海軍が、外務省並みに(?!)不勉強であることよ、とがっかりしたことでしょうね。(太田)

 米内の中国についての見解は、主として3年ちかい中国勤務<(注6)>の体験によるものである・・・。

 (注6)1914~1915年の旅順要港部参謀(旅順)、1928~1930年の第一遣外艦隊司令官(上海)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF ※
 「要港部は、・・・<帝国>海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄した機関。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%81%E6%B8%AF%E9%83%A8
 「第一遣外艦隊<の>・・・前身は1917年12月に新設された第7戦隊。1918年2月に独立し遣支艦隊となり、さらに1919年8月第一遣外艦隊に改編された。上海に駐留し、主に揚子江流域の警備を担当した。
 1932年の第一次上海事変を契機に、<支那>方面への警備強化が急務となり、日本海軍は第一・第二遣外艦隊(1927年編成、主に青島周辺の警備を担当)に増援部隊を派遣し、これらの部隊を統括する第三艦隊が新たに編成された。2個遣外艦隊は翌年まで戦隊への組み換えを行わなかったため、第三艦隊の中に2個艦隊が存在する状態が約1年3ヶ月続いた。1933年5月に第一・第二遣外艦隊をそれぞれ第11・第10戦隊に組み替えて、通常の艦隊編制となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E9%81%A3%E5%A4%96%E8%89%A6%E9%9A%8A

 そしてドイツについては、かれが佐官時代の2年半、ベルリンに駐在した<(注7)>経験と研究の結果からえられたものだという。

 (注7)1920~1922年。(※)

 米内がドイツと結ぶことをひじょうに危険だと考えたのは、ヒトラーの『マインカンプ(わが闘争)』<(注8)>を熟読した結果、しみじみ感得したからである、と。・・・」(50~51)

 (注8)「アドルフ・ヒトラーの著作。全2巻で、第1巻は1925年、第2巻は1926年に出版された。・・・アーリア人種を文化創造者、日本民族などを文化伝達者 (Kulturträger)、ユダヤ人を文化破壊者としている。日本の文化というものは表面的なものであって、文化的な基礎はアーリア人種によって創造されたものにすぎないとしており、強国としての日本の地位もアーリア人種あってのこととしている。もし<欧州>や<米国>が衰亡すれば、いずれ日本は衰退して行くであろうとしている。他にも日本人侮蔑と受け取れる場所が複数あ<る。>・・・
 井上成美<も>、ベルリン駐在中にドイツ語の原典を読み、有色人種蔑視などの人種差別主義を嫌悪し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E3%81%8C%E9%97%98%E4%BA%89

⇒米内も、井上同様、『我が闘争』中の(反ユダヤ主義を含む)人種主義に嫌悪したのでしょうが、政権を担うに至っていたナチスドイツがホロコーストを決行することが予想されていたわけはない以上、米国の人種主義と大同小異だったわけですし、「アルベルト・シュペーアは回顧録で、ヒトラー自身が以下のように語っていたと記した。「我が闘争は古い本だ。私はあんな昔から多くのことを決め付けすぎていた」。また、ヘルマン・ゲーリングは次のように述べた。「総統は彼の理論、戦術等において変幻自在だった。その為、あの本から総統の目的を推測する事は不可能だ。総統は臨機応変に己の意見や見解を変えていた。あの本は総統の哲学思想の基本的な骨組みが著されているのだろう」。」(上掲)というわけで、第二次世界大戦が既に始まっていたところの、1940年時点のナチスドイツ、をこの本だけで判断することの危険性に米内や井上が無頓着そうなことにも首を傾げざるをえません。(太田)

(続く)