太田述正コラム#13012(2022.9.22)
<『海軍大将米内光政覚書–太平洋戦争終結の真相』を読む(その7)>(2022.12.16公開)
「・・・〔<実松>注〕・・・緒方竹虎が米内光政<(注9)>にたいして、「米内、山本の海軍が続いてゐたなら、徹頭徹尾(三国同盟<(注10)>に)反対したかと質問したのに対し、『むろん反対しました』と答へ、暫く考へてから『でも、殺されたでせうね』と如何にも感慨に堪へぬ風であった。
(注9)「米内<は、>・・・1940年(昭和15年)1月16日、第37代内閣総理大臣に就任する。・・・<しかし、>陸軍は米内と対立、陸軍大臣畑俊六を辞任させ、同年7月22日に米内内閣を総辞職に追い込んだ。後継政権には、首相経験のあった公爵近衛文麿が再就任し、第2次近衛内閣が成立した。」(※)
(注10)「<1939年>8月27日に独ソ不可侵条約が締結されると平沼内閣は総辞職し、三国同盟論も一時頓挫した。平沼の後の阿部内閣と米内内閣では三国同盟案が重要な課題となることはなかった。
1940年になってフランスが敗北し、ドイツが俄然有利になると三国同盟の締結論が再び盛り上がってきた。陸軍ではこの「バスに乗り遅れるな」という声が高まり、本国が敗北し亡命政府の統治下となった<蘭>領インドネシアや、<英>領マレー半島を確保しようとする「南進論」の動きが高まった。陸軍首脳は親英米派の米内内閣倒閣に動き、近衛文麿を首班とする第2次近衛内閣が成立した。陸軍は独伊との政治的結束などを要求する「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」案を提出し、近衛もこれを承認した。近衛内閣には外相として松岡洋右が入閣したが、松岡は日・独・伊・ソ4か国同盟を主張していた。一方、農相の石黒忠篤らは反対派だった。9月5日には吉田善吾が病気を理由に海相を辞任し、後任に及川古志郎が就任した。
9月7日にはドイツから特使ハインリヒ・スターマーが来日し、松岡との交渉を始めた。スターマーはヨーロッパ戦線への<米国>参戦を阻止するためとして同盟締結を提案し、松岡も対米牽制のために同意した。松岡は南進論を選んだ際に<米国>が対日戦を考える可能性は高く、同盟を結んでも阻止できる確率は「五分五分」と見ていたが、現在のままでは米英のいいなりになると主張、同盟締結を強硬に主張した。近衛もほぼ同意見で、9月13日の四相会議、14日の大本営政府連絡会議、16日の閣議を経て同盟締結の方針が定まった。しかし一方で松岡は、条約が想定している<独米>戦争について、日本が自動的に参戦することを避けようとしていた。松岡と自動参戦の明記を求めるスターマーの交渉の結果、条約本文ではなく交換公文において「第三条の対象となる攻撃かどうかは、三国で協議して決定する」こととなり、自動参戦条項は事実上空文化した。及川海軍大臣も近衛・松岡・木戸らの説得により条約締結賛成にまわった。及川が述べた賛成理由は「これ以上海軍が条約締結反対を唱え続けることは、もはや国内の情勢が許さない、ゆえに賛成する」という消極的なものだった。また及川とともに松岡らの説得を受けた海軍次官の豊田貞次郎<(コラム#12966)>は、英独戦への参加義務や、米独戦への自動参戦義務もないことで、「平沼内閣時に海軍が反対した理由はことごとく解消したのであって、(三国同盟が)できたときの気持ちは、他に方法がないということだった」と回想している。
9月15日に海軍首脳会議が開かれたが、阿部勝雄軍務局長が経過を報告し終わると、伏見宮軍令部総長が「ここまできたら仕方ないね」と発言、大角岑生軍事参議官が賛成を表明、それまで同盟に反対していた山本五十六連合艦隊司令長官は「条約が成立すれば米国と衝突するかも知れない。現状では航空兵力が不足し、陸上攻撃機を二倍にしなければならない」と発言して会議は終わった。
同盟締結の奏上を受けた昭和天皇は「今しばらく独ソの関係を見極めた上で締結しても遅くないのではないか」と危惧を表明したが、近衛首相は「(ドイツを)信頼致してしかるべし」と奉答した。天皇は続いて「<米国>と事を構える場合に海軍はどうだろうか。海軍大学の図上演習ではいつも対米戦争は負けると聞いた」と、戦争による敗北の懸念を伝えた<。>・・・
<枢密院で可決された後、>9月27日、東京の外相官邸とベルリンの総統官邸において調印が行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E4%BC%8A%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F 前掲
石黒忠篤(1884~1960年)は、七高、東大法、農商務省入省、欧州留学後、農林次官等を経て、第2次近衛内閣農林大臣、鈴木貫太郎内閣農商大臣。「農業振興、農村救済に取り組み、戦前における農政の第一人者として「農政の神様」と称せられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%BB%92%E5%BF%A0%E7%AF%A4
ハインリヒ・ゲオルク・スターマー(Heinrich Georg Stahmer。1892~1978年)は、「9月7日にリッベントロップの指揮の元で特派公使として来日し、オイゲン・オット駐日大使とともに親<独>派として知られた松岡洋右外相との交渉にあたった。
日独伊三国同盟の締結交渉などにおける貢献が外務省の内外で認められ、1941年10月にリッベントロップより親日国の駐南京国民政府特命全権大使に栄転し、日本を離れた。
しかしその後1943年2月に、前月にゾルゲ事件の首謀者のリヒャルト・ゾルゲとの親しい関係を問われて解任されたオットに代わる駐日特命全権大使に就任する。以後、ドイツの敗戦まで駐日大使を務めたものの、大使館付警察武官兼<親衛隊>代表のヨーゼフ・マイジンガーによる在日ドイツ人に対する思想取り締まりなどに理解を示したことなどから、在日ドイツ人のみならず旧大使館員からも反感を買った。・・・
1945年5月には、アドルフ・ヒトラーの自殺を受けてスターマーは駐日ドイツ大使館において、恐らく世界中にあるドイツの公的機関として唯一の追悼式を行ってヒトラーの死を悼んだ。しかし日本の首相や外相の参列はなく、外務省の儀典課長のみが式典に参列した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC
そして当日渙発された日独伊三国条約に関する詔勅・・(松岡起案)・・の『・・・帝国ト其ノ意図ヲ同ジクスル独伊両国・・・』・・・といふのが何としても腑に落ちぬやうであった」(緒方竹虎・・・)・・・」(65~66)
⇒恐らくは、外務省の事務方の情勢判断を鵜呑みにして、米国通だったにも関わらず、米国が対日戦を考える可能性が高いなどと思い込んでいた松岡、らを自分達が操って漕ぎつけた三国同盟締結直後の1940年10月3日に、杉山元が満を持して参謀総長に就任するわけです。
石黒の三国同盟反対論の詳細は調べがつきませんでした。
それにしても、ヒトラーの追悼式に鈴木貫太郎首相も東郷重徳外相も赴かなかったとは、見識なのでしょうかそれどころではなかったのでしょうか。(太田)
(続く)