太田述正コラム#13183(2022.12.17)
<皆さんとディスカッション(続x5385)/陸軍以外の杉山構想協力諸組織・・海軍等・・について>

<D.yKX2aQ>(「たった一人の反乱(避難所)」より)

 「不適切経費使用でTOKAIの社長を解職された鴇田勝彦さんの調査報告書、コンパニオンと混浴が好き過ぎて「コンパニオン」が100回「混浴」が108回も登場・・・」
https://kabumatome.doorblog.jp/archives/65961264.html
 面白がって読んでたら、この人昭和20年生まれの天下り官僚だったんだね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%87%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%BD%A6
 ひどいのはこれだけ天下り先を私物化して解職された挙句まだ取締役だということ。
https://www.tokaiholdings.co.jp/corporate/officer.html
 都市ガス、電気、CATV、絶対役所に頭上がらない商売なのだろうけど、そこに恥も外聞もなく居座っちゃう鴇田という人も欲ボケ色ボケの戦後日本を代表する腐敗した老害なんだね。

<太田>

 安倍問題。↓

 なし。

 防衛費増。↓

 <バッカじゃないの。ウクライナはNATOに加盟してないが、日本は安全保障条約に入ってる。
 どっちみち、米軍は反撃するで。↓>
 「・・・日本はウクライナ以上に単独で戦争を遂行する力がない国だ。反撃という名の予防攻撃や越境攻撃をしてしまえば、ウクライナのような世界世論の支持さえ得られなくなる・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/26b1f9d041725fa556083ebf92385b9dc6ebffd6
 <だからー、米軍は「敵基地攻撃」するんだってばー。↓>
 「敵基地攻撃能力の保有は逆効果か? 日本に攻撃される前に相手が攻撃、もしも原発を狙われたら・・・」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/220410
 <「左」はそんなこと言う前に、世界の国政を担ってる社民勢力等の左に対し、対GDP比国防費が多過ぎる、敵基地攻撃能力を保有してるのはけしからん、「戦争をあおっている」って非難しなよ。↓>
 「「戦争をあおっているのは日本」 防衛増税と敵基地攻撃能力保有に批判や懸念の声相次ぐ・・・」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/220380
 <その「対案」(怠案? 大安?)とやらをぜひ見せてくだされ。↓>
 「「対案」の検討の形跡すら見えない<柳沢協二さんのウオッチ安全保障>・・・」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/220414
 <いや、そもそも、哨戒機、多過ぎるんだけど・・。↓>
 「ほこりかぶったままの哨戒機、防衛予算増で自衛隊員「訓練出来る」…安保3文書決定・・・」
https://www.yomiuri.co.jp/national/20221217-OYT1T50052/
 <バッカじゃないの。金正恩坊やがそれ聞いたら激怒するで。↓>
 「・・・北朝鮮はミサイルを強くすることで自分たちを危険な国だと思わせて、アメリカを交渉の場に引き出したいと考えている。その交渉でアメリカから経済支援を受けることができれば、国内の食糧不足も貧困も解決できるからね。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/f3535a234fb19661909cd256ed1ad65e4ffdee40
 <こういうことも結構だが、スパイ防止法や諜報機関を作れってのー。↓>
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20221216-OYT1T50228/
 <懐かしや小室直樹。こんなバッカだったとは。
 そうでもないで。↓>
 「・・・ごく常識的に考えて、軍国主義とは、国家の機能をあげて軍事目的に奉仕せしめようとする主義のことである、と考えれば、戦前の日本は、アメリカやドイツやソ連などに比べて、はるかに軍国主義的ではなかったのである。  
 第二次世界大戦は総力戦である、といわれた。いかにもそのとおりであって、ひとたび大戦が生起するや、アメリカにおいては、物理学者や数学者はいうまでもなく、天文学者、心理学者から人類学者まで動員されて戦争目的に奉仕した。その結果、原爆やレーダーが開発されたのであったが、副産物として、後に学際的研究として社会科学に一種の革命を起こすことになる行動科学まで生まれた。このように、国家の機能をあげて軍国目的に奉仕せしめることこそ、真の意味における軍国主義ではないであろうか。  
 このようなことは、戦前の日本においては思いも及ばなかった。
 <当時の日本が、単に、翻訳科学技術からまだ完全に脱皮してない、科学技術が相対的に遅れた状況だったというだけさ。↓>
 自然科学の組織化が思うにまかせぬために、レーダーをはじめとする各種新兵器の開発に遅れをとり、このことが日本の大きな敗因の一つとなったことは、いまや周知であるが、所与の目的のための社会科学の組織化となると、日本の戦争指導者の夢想もなしえないことであった。その結果、彼らは、現実の社会現象を科学的に分析してこれを合目的的に制御する能力を全く喪失し、新しい流動的な局面に接すると、右往左往するのみであって、策の出るところを知らなかった。  
 <そりゃ、翻訳科学技術から東大のみが脱皮しなかった、できなかったというだけのハナシよ。↓>
 社会科学の貧困をもたらした文化的背景として、日本人の思考における非科学性がある。ここに、非科学性とは、社会現象を科学的に思考する論理的能力の欠如をいう。すなわち日本人は、最も有能で一見論理的能力を身につけたようにみえる人びとであっても、その思考様式は、たかだか技術的レヴェルにとどまり、全体的コンテクストにおける波及を考慮しつつ、社会現象を制御の対象として分析する能力を欠如している。 小室直樹」
https://news.yahoo.co.jp/articles/d52b98dff6be52b39970929cd5b3e928b8a6baed
 <いや、「再軍備」なき軍事費増なんですが・・。↓>
 Japan plans to remilitarize at lightning speed–Tokyo publishes formal plan to double defense spending by 2028 including outlays for new counterstrike capabilities aimed at China・・・
https://asiatimes.com/2022/12/japan-plans-to-remilitarize-at-lightning-speed/
 <前段と後段、実は何の関係もないんですが・・。↓>
 Japan defence: China threat prompts plan to double military spending・・・
https://www.bbc.com/news/world-asia-64001554
 <だからー、中共、関係ないんだっての。対宗主国「見せ金としての防衛力」政策を続けるだけなんよ。↓>
 Japan Moves to Double Military Spending, With a Wary Eye on China–The Japanese cabinet approved the first update to the country’s official security strategy in nine years, elevating Beijing over North Korea as the top threat.・・・
https://www.nytimes.com/2022/12/16/world/asia/japan-national-security-strategy.html
 <同じく。↓>
 Wary of China, Japan unveils sweeping new national security strategy・・・
https://www.washingtonpost.com/world/2022/12/16/japan-defense-strategy-missiles/
 <なーんにもよきゃないわさ。↓>
  Japan is building up its military. Good.・・・
https://www.washingtonpost.com/opinions/2022/12/16/japan-military-build-up-china/
 <冷戦が終わった後、日本は惰性で防衛費の対GDP比を維持した結果、当時、世界3位くらいの軍事費大国になっちゃったんじゃなかったっけ。↓>
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/12/17/2022121780007.html

 ウクライナ問題。↓

 <嵐の前の「静けさ」。↓>
 「ウクライナのレズニコフ国防相・・・はロシア軍が10月以降に招集した予備役のうち15万人前後が訓練を開始し、「準備に最低3カ月かかる」と指摘。「攻撃の次の波を1年前と同じように、(来年)2月に始めようとしているかもしれない」と強調した。・・・
 ウクライナ軍のザルジニー総司令官のインタビューを掲載。ザルジニー氏はキーウなどの方面に動員される部隊の規模について「20万人」と言及し、タイミングについては「(来年)3月の可能性が最も高く、1月の終わりにもあり得る」と語った。  
 キーウを含むウクライナ各地では16日も爆発音が鳴り響き、停電や断水が相次いだ。ザルジニー氏は、ロシア軍が巡航ミサイル70発以上を発射し、大半を迎撃したと発表した。ウクライナ当局によれば、中部クリビーリフで2人が死亡。キーウ州などでも死傷者が出ているもようだ。  
 一方、タス通信によると、ロシアの占領下にあるウクライナ東部ルガンスク州の村で16日、砲撃があり、少なくとも11人が死亡、20人が負傷した。現地のロシア側当局は「ウクライナ軍の攻撃」と主張している。」
https://news.yahoo.co.jp/articles/0ff4c185fe60898c6df0e8e04ed6f7d11274fe15
 「バフムートの露軍拠点を砲撃 ウクライナ軍の自走カノン砲・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/539f03392239ea4784a6d25ec74806bd7b3ccec9
 <露軍、また言われちゃってるぞー。↓>
 ・・・In recent weeks, Russian forces have continued to construct extensive defensive positions along the front line・・・
 The <UK> defense ministry said such constructions haven’t been used by the majority of Western armies in decades, and are likely to be vulnerable to modern, precision indirect strikes from Ukraine.・・・
https://www.newsweek.com/russia-second-world-war-military-tactics-uk-1767601
 <いずれにせよ、どんどんじり貧の露軍。↓>
 U.S. Weapons Causing ‘Heavy’ Russian Losses Amid Artillery Duels・・・
https://www.newsweek.com/us-weapons-causing-heavy-russian-losses-amid-artillery-duels-commander-himars-excalibur-1767679
 Russia Loses 43 Tanks in 1 Week as Troops Struggle to Advance・・・
 Wagner Mercenaries Killed In Ambush During Battle For Bakhmut・・・
https://www.newsweek.com/russia-loses-43-tanks-1-week-troops-struggle-advance-ukraine-1767822
 ‘Wiped out’: War in Ukraine has decimated a once feared Russian brigade–The bloody fate of the 200th Separate Motor Rifle Brigade is emblematic of Vladimir Putin’s derailed invasion plans・・・
https://www.washingtonpost.com/world/2022/12/16/russia-200th-brigade-decimated-ukraine/

 日・文カルト問題。↓

 <日本を引き合いに出すな記事。↓>
 「相変わらず韓国冷遇? 米アップル社ティム・クックCEO、韓国を素通りして訪日・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/12/16/2022121680016.html
 <報道価値なし。↓>
 「韓日中首脳会談の早期再開必要 「緊密に協議していく」=韓国次官・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/12/16/2022121680161.html
 <白書でもないのに、なんでそんな記述を入れたのかねえ。↓>
 「韓国政府が日本の安保文書に抗議 独島領有権主張の即時削除を要求・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/12/16/2022121680169.html
 <ね、日韓防衛協力は容易じゃないでしょ。↓>
 「北朝鮮は憲法上「韓国領土」 日本が反撃するには承認必要=韓国軍・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/12/16/2022121680168.html
 「日本の反撃能力 「朝鮮半島に行使するには韓国の同意必要」=韓国政府・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/12/17/2022121780015.html
 「日本政府「北朝鮮への反撃能力行使は自衛権…韓国の承認は不必要」…韓国「必要」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/298898
 <偶然に決まってんだろー。↓>
 「北朝鮮が・・・ICBM・・・エンジンテストした日…日本「敵攻撃能力」保有宣言・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/298899
 <集団的自衛権行使解禁なき限り、「専守防衛」だわよ。↓>
 「「専守防衛」破棄の日本と北朝鮮の核を頭上に、軍事大国に囲まれる韓国・・・」
https://www.donga.com/jp/home/article/all/20221217/3831787/1

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <人民網より。
 日中交流人士モノ。↓>
 「「美しい中国・日本のキャンパスへ行こう」中国観光プロモーションが東京で開催・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2022/1216/c94475-10185002.html
 <ここからは、レコードチャイナより。
 同じく。↓>
 「日本にリアルな中国を伝える日本人俳優・・・小松拓也さん・・・人民網・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b906189-s6-c30-d0189.html
 <中共人民は、韓国民よりはるかに健全かつ常識的。↓>
 「「日本は韓国に近寄る」=韓国コラムに中国ネット民「基本的には事実」「でも実は…」・・・中国版ツイッター・微博(ウェイボー)・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b906195-s39-c30-d0052.html
 <取材力に敬意記事。↓>
 「香港ニュースポータルの香港01に・・・、「地上最悪」の大学生寄宿舎が日本にあったとする記事が掲載された。・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b905997-s25-c30-d0192.html
 <その通り。↓>
 「米国の半導体規制は中国の軍事力を弱体化させることはできない・・・豪ニュースサイト「イースト・アジア・フォーラム」・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b906078-s25-c100-d0202.html
 <案外、中共のサッカー問題は、中共の他の諸問題の徴表かもしれんな。↓>
 「日本サッカー協会のある動きに中国人ため息=「われわれは目先の利益をむさぼるだけ」・・・中国メディアの新浪網・・・」

https://www.recordchina.co.jp/b906177-s25-c50-d0052.html

 一人題名のない音楽会です。
 チェリッシュ特集の7回目です。 
 今回は、カバー曲ばかりにしました。

なごり雪(注a)(かぐや姫のカバー)(1974年) 4.01分 作詞・作曲:伊勢正三
https://www.youtube.com/watch?v=TQGm4jRwxD0

(注a)「イルカによるカバー・バージョンがヒットを記録し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%94%E3%82%8A%E9%9B%AA

飛んでイスタンブール(注b)(庄野真代のカバー)(1978年) 3.14分 作詞:ちあき哲也 作曲:筒美京平
https://www.youtube.com/watch?v=sdT08ZkBmGs

(注b)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E3%82%93%E3%81%A7%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%AB

心もよう(注c)(井上陽水のカバー)(1973年) 3.56分 作詞・作曲:井上陽水
https://www.youtube.com/watch?v=xpfhEpfmCrE

(注c)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%82%82%E3%82%88%E3%81%86

冷たい雨(注d)(松任谷由美のカバー)(1991年) 3.27分 作詞・作曲:荒井由美
https://www.youtube.com/watch?v=DXd6Xj3QViQ

(注d)「TBS系ドラマ「ルージュの伝言」(1991)vol.14 主題歌」
https://www.youtube.com/watch?v=-IVWFu_7W3c

恋人もいないのに(注e)(シモンズのカバー)(1996年) 3.08分 作詞:落合武士 作曲:西岡たかし
https://www.youtube.com/watch?v=__wGIoZeYPM

(注e)https://www.uta-net.com/song/6358/

結婚しようよ(注f)(よしだたくろうのカバー)(1972年) 2.59分 作詞・作曲:吉田拓郎
https://www.youtube.com/watch?v=2Z2ZPKiVZS4

(注f)「阿久悠は、フォークの精神性にはプロテストがあって、当初は、ゲバ棒をギターに持ちかえたかと感じるほど、過激に反社会性を訴えるものが多かったが、誰も彼もがギターを持って自分の歌を歌い、底辺がひろがるにつれて、抵抗の要素は失せて行った。見事に社会に安心され、認知されることにもなったが、「結婚しようよ」は、そうなることのシンボル的な歌ではなかったか、と論じている。この頃には日本は既に政治の季節を終えていて、拓郎はその時代の好みを鋭敏に嗅ぎとったのである。「僕の髪が肩までのびたら結婚しよう」という求愛の言葉は、その裏に、挫折したものだけが知る鋭い痛みがある。当時髪を伸ばすというのは、ひとつの姿勢の象徴だった。若者は髪を長く伸ばすことによって、体制に組み込まれることを拒否した。この歌は体制とは別のところで、新しい社会を作ろうというアピールであり、その戦術論に多くの若者が共鳴したからこそヒットした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%81%97%E3%82%88%E3%81%86%E3%82%88

京都慕情(注g)(渚ゆう子のカバー)(1970年) 2.26分 作詞・作曲:ザ・ベンチャーズ 日本語歌詞:林春生
https://www.youtube.com/watch?v=JLjmRMwMyt0

(注g)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%85%95%E6%83%85

フィーリング(注h)(ハイ・ファイ・セットのカバー)(1976年(原曲:1975年)) 4.00分 作詞・作曲:Morris Albert 日本語歌詞:なかにし礼
https://www.youtube.com/watch?v=ActVUnytBtQ

(注h)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E3%81%AE%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0
 「モーリス・アルバート (Morris Albert) という芸名でもっぱら知られる、マウリシオ・アルベルト・カイザーマン(Maurício Alberto Kaisermann、1951年9月7日 – )は、・・・ブラジルのシンガーソングライター。・・・イタリアで暮らしている。・・・
 「愛のフィーリング」は、フランスのソングライターであるルルー・ガステが作曲した旋律に基づいている。アルバートは当初、旋律も自作であると主張していたが、後にガステは1988年に私的財産権の侵害で勝訴した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88

冬物語(注i)(フォークローバースのカバー)(1972年) 3.29分 作詞:阿久悠 作曲:坂田晃一
https://www.youtube.com/watch?v=_2aw2kP3U-M

(注i)「月曜スター劇場(NTV系)『冬物語』主題歌。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%AC%E7%89%A9%E8%AA%9E_(%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%9B%B2)

ママがサンタにキッスした(注j)(後藤久美子らのカバー) 2.19分 作詞・作曲:トミー・コーナー 日本語訳詞:漣健児
https://www.youtube.com/watch?v=PX4dayVU2mQ

(注j)原曲は、I Saw Mommy Kissing Santa Clausというタイトルで1952年に、トミー・コーナーが13歳のときに録音。「クリスマスにキスをするという内容に対して、ボストンのカトリック教会はボイドのレコードを非難した。そのため、ボイドは大司教区へ歌を説明しに行き、話し合いの後で解禁された。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%9E%E3%81%8C%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%81%AB%E3%82%AD%E3%83%83%E3%82%B9%E3%81%97%E3%81%9F

<太田>

一、ビール

 値上がりを控えて、3カ月前にビールをもう一ケース買っていたことを昨日「発見」。
 よって、本日のオフ会では1缶180円で提供できることに・・。

二、スピーカーフォン

 午前中に予定通り届き、ブルートゥース設定も行った。

 音声チェックは、オフ会幹事にやってもらうつもり。

         陸軍以外の杉山構想協力諸組織・・海軍等・・について

1 海軍

 (1)海軍三馬鹿トリオ
 (2)海軍における杉山構想的なものへの主要な協力者達 
 ア 西郷従道(じゅうどう。1843~1902年) 濫觴期
  イ 東郷平八郎(1848~1934年) 濫觴期
  ウ 山本権兵衛(1852~1933年) 海兵2期(16位(17名中)) 濫觴期
  エ 齋藤實(1858~1936年) 海兵6期、米留
  オ 加藤友三郎(1861~1923年) 海兵7期、海大1期
  カ 財部彪(たからべたけし。1867~1949年) 海兵15期(首席)、海大は出ていない
  キ 鈴木貫太郎(1868~1948年) 海兵14期、海大1期
  ク 岡田啓介(1868~1952年) 海兵15期(首席)、海大2期
  ケ 谷口尚真(なおみ。1870~1941年) 海兵19期、海大3期
  コ 伏見宮博恭王(ひろやす。1875~1946年) 海兵18期相当
  サ 加藤寛治(1870~1939年) 海兵18期(首席)
 [杉山構想における二・二六事件の目的]
  シ 大角岑生(おおすみみねお。1876~1941年) 海兵24期(3位)
  ス 末次信正(1880~1944年) 海兵27期、海大7期(首席)
  セ 永野修身(おさみ。1880~1947年) 海兵28期(次席)、海大8期、ハーバード大(1913~1914年)。(永野についてはコラム#12991も参照。)
  ソ 米内光政(1880~1948年) 海兵29期、海大12期
 [「米内を斬れ」について]
  タ 高橋三吉(1882~1966年) 海兵29期(5位)、海大10期
  チ 寺島健(1882~1972年)。海兵31期(4位)、海大12期
  ツ 及川古志郎(1883~1958年) 海兵31期(76番位(185名中))、海大13期
  テ 嶋田繁太郎(1883~1976年) 海兵32期、海大13期
  ト 吉田善吾(1885~1966年) 海兵32期(12番)、海大13期
  ナ 豊田副武(そえむ。1885~1957年) 海兵33期(26位(171名中))、海大15期(首席)
  ニ 豊田貞次郎(1885~1961年) 海兵33期(首席)、海大17期(首席)
  ヌ 岡敬純(たかずみ。1890~1973年) 海兵39期、海大21期(首席)
  ネ 高田利種(1895~1987年) 海兵46期(実質首席)、海大28期(次席)

2 外務省

 (1)始めに
 (2)杉山構想的なものに協力した外務省キャリア達
  ア 内田康哉(こうさい。1865~1936年)
  イ 廣田弘毅(1878~1948年)
  ウ 松岡洋右(1880~1946年)
  エ 白鳥敏夫(1887~1949年)
  オ 天羽英二(あもう。1887~1968年)
 [戦前の外務省のキャリア人事教育の問題点]

3 世論

 (1)新聞/政党
  ア 軍縮世論をめぐって
  イ 憲政会/立憲民政党
  ウ 立憲政友会
 [統帥権干犯問題再考]
  エ 結論
 (2)新聞
  ア 讀賣新聞
  イ 東京日日新聞/大阪毎日新聞
  ウ 朝日新聞
  エ その他
 (3)アジア主義団体
  ア 東亜同文会
  イ 玄洋社

(続く)

1 海軍

 (1)海軍三馬鹿トリオ

 前回のオフ会が終わった直後においては、今回のオフ会では、私の名づけた海軍三馬鹿トリオをざっと振り返り、その上で、そのような馬鹿を輩出させた海軍の人事教育制度をあげつらうつもりでいた。
 そこで、作業としては、オフ会「講演」原稿にそのエッセンスを収録するために、三馬鹿たる、米内光政、山本五十六、井上成美、それぞれのシリーズを書き始めると共に、海軍の人事教育制度に係る資料収集を並行して行い始めた。
 しかし、三馬鹿のシリーズを書いているうちに、いくら帝国海軍がダメだったと言っても、陸軍だけで対英米戦劈頭の南方作戦ができるわけではない、つまりは、海軍が対英米戦に付き合ってくれたことは評価しなければならないし、杉山らが撃ち方止めにしようとした時にだって海軍が従ってくれなきゃ大変なことになったな、と考え出し、どうして全てがうまくいったのかを突き止める必要に迫られるに至った。
 その折、まず思いついたのは、山縣有朋が、陸軍は直接統制下に置き続けたのに、海軍はそうしなかった理由が、海軍は、狭い艦艇内での秩序厳守の必要性から始まって、運用面での部下の自由裁量/下剋上が陸軍とは違って基本的に許されておらず(典拠省略)、よって、そう遠くない将来において、杉山構想的な構想が策定され、それが実施に移された時点以降において、この構想推進者達が、海軍大臣とせいぜい軍令部長とを直接統制下に置き続けることさえできれば、海軍全体を直接統制下に置き続ける必要はない、と判断したからではないか、ということだった。
 しかし、仮にそうだとすると、どうして、いわゆる条約派と艦隊派との間で派手な内ゲバが生じたのかの説明が困難になってしまうので、やらせ(プロレス)内ゲバだったのではないか、という仮説を立ててみた。
 以上を踏まえ、帝国海軍の海相や軍令部長を務めた人々を、最初は適宜選び、途中からは全部並べて・・一部、それ以外の人々も並べ・・、その各人の事績をおさらいすることにした。
 そうすれば、これらの人々が海軍内を統制してくれたので、山縣(、及びその後継たる杉山構想推進者達、)が海軍を直接統制する必要がなかったこと、や、条約派と艦隊派の内ゲバがやらせだったこと、が検証できるのではないか、と考えた。
 で、この作業を始めてみると、私が、それまで、海軍や海軍の人々についての勉強を疎かにしていたこともあり、時間の制約から、海軍の人事教育の問題点の話は次の次のオフ会「講演」原稿に回すことにした。
 そして、その後、またもや、予定を変更し、海軍の杉山構想推進者達への協力を取り上げる以上、海軍以外の杉山構想協力諸組織も取り上げなければいけないと思い至り、全てを次の次のオフ会「講演」原稿に回さず、若干でも次の、つまりはこの、オフ会「講演」原稿に盛り込むことにし、その作業も開始した。
 その取敢えずの成果が、御覧のこの「講演」原稿だ。
 なお、海軍三馬鹿トリオについてだが、まさに馬鹿とハサミは使いようであり、杉山構想推進者達は、山本は対米英戦争の初期フェーズにおける海軍の戦術的な鉄砲玉として使い、米内と井上は、日支戦争だけフェーズに戦争拡大のために用いた上で、次には終戦時期のコントロールのために使ったところ、この3人は、いずれもそんな自覚が全くないまま、しかし、十二分に期待に沿った成果を挙げてくれたことを、それぞれのシリーズ(未公開)を読んでいる有料読者の諸君はご承知の筈だが、本日は、この3人中、基本的に米内だけを改めて取り上げている。

 (2)海軍における杉山構想的なものへの主要な協力者達 

 ア 西郷従道(じゅうどう。1843~1902年) 濫觴期

 「文部卿(第3代)、陸軍卿(第3代)、農商務卿(第2代)、元老、海軍大臣(初・4代)、内務大臣(第2・14代)、貴族院議員を歴任した。・・・
 剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学んだ。有村俊斎の推薦で薩摩藩主・島津斉彬に出仕し、茶坊主となって竜庵と号する。
 ・・・1861年・・・9月30日に還俗し、・・・斉彬を信奉する精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じる。・・・
 1869年(明治2年)、山縣有朋<(1838~1922年)>と共に渡欧し軍制を調査。1870年(明治3年)7月晦日、横浜に帰着。・・・
 隆盛が1877年(明治10年)に西南戦争を起こした際、従道は隆盛に加担せず、陸軍卿の山縣有朋が政府軍を率いて九州へ出征したため、陸軍卿代理に就任し政府の留守を守った。以後は政府内で薩摩閥の重鎮として君臨した。西南戦争が終わった直後には近衛都督になり、大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)直後の1878年(明治11年)には参議となり、同年末には陸軍卿になった。・・・
 内閣制度発足で初代海軍大臣に任命され、山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせて、日本海軍を日清・日露の戦勝に導いた。・・・
 1898年(明治31年)に海軍軍人として初めて元帥の称号を受ける。内閣総理大臣候補に再三推されたが、兄・隆盛の逆賊行為を理由に断り続けた(・・・従兄び・・・大山巌も同様)。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%BE%93%E9%81%93
 「<父親の>西郷吉兵衛<(1806~1852年)は、>・・・薩摩藩の鹿児島城下士。・・・曹洞宗<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%90%89%E5%85%B5%E8%A1%9B 

⇒明治の元勲クラスまで話を遡る必要があったのかと思う人がいるかもしれないが、維新から先の大戦までは一筆書きの一つの時代だというのが私の見方であり、かつ、山本権兵衛の項をご覧になると分かるように、少しずつ歳は離れているものの、生まれと育ちの点で、西郷、東郷平八郎、山本権兵衛は一卵性三つ子とも言うべき関係性を互いに有しており、明治の元勲の一人であった西郷従道から話を始めるのが適切だと考えた次第だ。
 この西郷従道は、維新以降の動静からして、山縣有朋の(政治面での分身が西園寺公望だったとすれば)軍事面での分身と言って良く、その後、山縣が軍事の全般統制及び陸軍の直接統制を行い、西郷が、山縣の全般統制の下で、海軍を直接統制することになった、と見てよかろう。(太田)

  イ 東郷平八郎(1848~1934年) 濫觴期

 「東郷氏<は、>桓武平氏流平良文を祖とし、坂東八平氏の系譜に数えられる秩父氏、また鎌倉幕府御家人で相模国渋谷庄を領した渋谷氏を祖とする<ところの、>鎌倉時代中期以降に薩摩国に移住した渋谷一族の総領家である。・・・
 先祖代々日蓮宗の崇敬者であったことから東京都府中市の東郷の別荘跡地には海軍関係者が中心となって日蓮宗寺院聖将山東郷寺が建立され現代では枝垂桜の名所となっている。・・・

⇒このことを知ったことで、それまでの私の東郷観が180度変わってしまった。
 彼が、日蓮宗信徒であってかつ薩摩藩士出身とくれば、頗る付きに「敬虔」な秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者であったに違いないからだ。(太田)

 明治38年(1905年)から明治42年(1909年)まで海軍軍令部長、東宮御学問所総裁を歴任。明治39年(1906年)、日露戦争の功により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を授与される。明治40年(1907年)には伯爵を授爵。1911年には英国ジョージ五世の戴冠式に出席する東伏見宮依仁親王に乃木希典とともに随行。大正2年(1913年)4月には元帥府に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許される。大正15年(1926年)に大勲位菊花章頸飾を受章。当時の頸飾受章者は皇太子・裕仁親王と閑院宮載仁親王だけだった。・・・
 晩年において海軍における東郷の権威は絶大で、官制上の権限は無いにもかかわらず軍令・軍政上の大事は東郷にお伺いを立てることが慣例化していた。 海軍省内では軍令部総長・伏見宮博恭王と共に「殿下と神様」と呼ばれ、しばしば軍政上の障害とみなされた。そして伏見宮すら「自分と東郷の意見が分かれるようなことがあってはならん」と気にしていた。井上成美は「東郷さんが平時に口出しすると、いつもよくないことが起きた」と述懐したうえで、「人間を神様にしてはいけません。神様は批判できませんからね」と語っている。

⇒その後軍令部長をやったとはいえ、東郷が、日本海海戦の時の功だけで「神様」に奉られるわけがないことに井上は気付いていない。
 明治天皇は、その死の前年である1911年には、「最晩年は、体調も悪く歩行に困難をきたすようになった。天皇自身、身体の衰えに不安を持っていて、「朕が死んだら世の中はどうなるのか。もう死にたい」「朕が死んだら御内儀(昭憲皇太后)がめちゃめちゃになる」と弱音を吐いたり、糖尿病の進行に伴う強い眠気から枢密院会議の最中に寝てしまい「坐睡三度に及べり」と侍従に愚痴るなど、これまでの壮健な天皇に見られなかったことが起こり、周囲を心配させた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
という状態であり、既に天皇家を牛耳っていたのは、後の大正天皇の皇后となる皇太子妃(後の貞明皇后)だった・・明治天皇が翌年の1912年(明治45年/大正元年)に崩御すると貞明皇后は大正天皇の補佐を周囲から進言されるが、自ら正面に出るのは避け、陸軍大将の伏見宮貞愛親王を内大臣府出仕とし、大正天皇を公的に補佐させている(コラム#12920)・・と仮定すると、東郷が日蓮宗信徒である海軍軍人であることを踏まえ、ジョージ五世の戴冠式に(海軍大将になる)東伏見宮を正使として派遣するのを決めたのは彼女だったのではなかろうか。
 その東伏見宮(1867~1922年)の同母兄は(後に参謀総長になる)閑院宮載仁親王(1865~1945年)であり、同母最長姉は瑞龍寺門跡の村雲日栄(1855~1920年)であり、更に言えば、正妃の(秀吉流日蓮主義信奉者であるはずの)鷹司景子の子である、(陸軍元帥になる)伏見宮貞愛親王・・その子が(軍令部総長になる)伏見宮博恭王(1875~1946年)だ・・はこの閑院宮・東伏見宮兄弟の異母兄にあたる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 いずれにせよ、東郷は、それ以降、年下である閑院宮載仁親王(や伏見宮貞愛王)とは兄弟のような関係になった可能性がある。
 そして、大正時代になってすぐに御前での杖の使用許可や(閑院宮載仁親王と同時に)頸飾授賞をしたのは間違いなく貞明皇后の差し金だろう。
 いわば、東郷は、貞明皇后によって海軍における神へと仕立て上げられた、というのが私の見解なのだ。(太田)

 また岡田啓介、米内光政、山本五十六なども、東郷の神格化については否定的な態度をとっている。

⇒「否定的な態度をとっ<た>」かもしれないが、「否定」できるわけがなかった。(太田)

 昭和期の海軍内の抗争において、東郷と伏見宮は艦隊派を後援し、岡田らは条約派に属した。・・・
 第一次世界大戦後の海軍軍縮において、末次信正や加藤寛治らのいわゆる艦隊派の提督が東郷を利用して軍政に干渉した。

⇒話は逆で、杉山構想的なものが近く策定され、それが実施に移されようとしている、と、伏見宮家の人々経由で貞明皇后から伝えられた東郷が、予め目を付けていた海軍内の俊秀達・・後に艦隊派と称されることになった・・に、やらせで反軍縮の狼煙を打ち上げさせた、と見るべきなのだ。(太田)

 昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議に際して反対の立場を取ったロンドン軍縮問題はその典型である。

 その他に明治以来の懸案であった、兵科と機関科の処遇格差の是正(海軍機関科問題<(注1)>。兵科は機関科に対し処遇・人事・指揮権等全てに優越していた)についても改善案について相談を受けた東郷は「罐焚きどもが、まだそんなことを言っているか!」と反発し、結局、この問題は第二次世界大戦の終戦直前に改正されるまで部内対立の火種として残された。・・・

 (注1)米海軍では1899年に兵機一系化が行われたが、英海軍では行われないままだった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E6%A9%9F%E9%96%A2%E7%A7%91%E5%95%8F%E9%A1%8C

⇒別段、東郷がおかしな主張をしていたわけではないことに注意が必要だ。(太田)

 この時には昭和天皇直々に「元帥は凡てに付き達観するを要す」と実質的戒告を受けた・・・。・・・

⇒これは、昭和天皇が貞明皇后との対立感情を東郷にぶつけただけ、と見ればよかろう。(太田)

 学習院へ招かれた際、講演中に生徒に「将来は何になりたいか」と質問し「軍人になりたい」と答えた生徒に「軍人になると死ぬぞ」 「なるなら陸軍ではなく海軍に入れ。海軍なら死なないから」 と発言し、陸軍大将であり、諧謔のセンスの乏しい乃木希典院長を激昂させ、同時に半ば呆れさせたというエピソードがある。・・・

⇒なかなか愉快で洒脱なおじさんではないか。(太田)

 ワシントン軍縮条約の結果、主力艦の保有比率が対英米6割と希望の7割より低く抑えられたことに憤激する将官達に向かって、「でも訓練には比率も制限もないでしょう」と諭したと言われる。・・・
 [昭和天皇<(1901~1989年)は、>・・・生後70日の7月7日、御養育掛となった枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。1904年(明治37年)11月9日、川村の死去を受け弟・淳宮(後の秩父宮雍仁親王)とともに沼津御用邸に住居を移転した。
 1906年(明治39年)5月からは青山御所内に設けられた幼稚園に通い、1908年(明治41年)4月には学習院初等科に入学し、学習院院長の乃木希典陸軍大将に教育された。また、幼少時の養育係の一人には足立たか(当時、のち鈴木貫太郎夫人)もいた。
 1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。

⇒明治天皇亡きこの時点で、天皇家を実質的に牛耳っていたのは、それこそ間違いなく貞明皇后であり、皇后は、同じ日蓮宗信徒である薩摩人の東郷に、(将来の)昭和天皇を秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者に仕立て上げてくれるよう依頼すると共に、陸軍を中心としてそう遠くない将来に、同主義/コンセンサス完遂を期して実行に移されることになるであろうところの、対欧米戦争へと海軍を善導する布石を打ってくれるよう依頼したところ、東郷は、前者の依頼は昭和天皇の抵抗によって果たせなかったけれど、後者の依頼は見事に果たした、というのが私の最近時点における見解だ。
 後出の、山本権兵衛による伏見宮博恭王の処遇厳命は、貞明皇后と東郷の依頼に基づくものだったと想像される。(太田)

 東宮御学問所では、杉浦重剛(倫理)、白鳥庫吉(歴史)、石井国次・山崎直方(地理)、飯島忠夫(国漢)、和田猪三郎海軍大臣
・服部広太郎(理科)、吉江琢児(数学)、澤田節蔵・土屋正直・山本信次郎(仏語)、壬生基義(馬術)ら、学者や軍人・官僚らが教育にあたった。]
 昭和天皇は学習院時代、東宮御学問所総裁であった東郷について、後年、記者の質問に「何の印象もない」と答えている。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87 ([]内)

⇒昭和天皇の抵抗は、明治天皇の「平和主義」に自己同定しようとしたからだと私は見ている(コラム#省略)わけだが、最も重要である倫理を担当した杉浦重剛がミスキャストだった(コラム#12651)ことも大きいけれど、白鳥庫吉・・ちなみにあの外務省の白鳥敏夫の叔父だ・・の歴史学が、「文献学派」である以上日蓮主義への言及が全くないものだったと想像されることも、一因だったのではなかろうか。
 (「昭和天皇は、終戦から1年後に、<白鳥からかつて教わったところの、>白村江の敗戦のあと天智天皇が敵であった唐の制度を採用した故事に触れて、今回の敗戦でも日本は敵である米国の制度を取り入れることで国家を再建すべきだと話したと言う。」
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784585221142
ことが示しているように、同天皇の歴史観は白鳥ゆずりのものだ。)
 なお、昭和天皇の東郷評もまた、貞明皇后へのあてこすりでしかない、と、我々は受け止めるべきだろう。(太田)

  ウ 山本権兵衛(1852~1933年) 海兵2期(16位(17名中)) 濫觴期

 薩摩藩士で右筆及び槍術師範を務めていた山本五百助盛珉の六男に生まれる・・・。・・・
 山本家は、鎌倉の源氏三代将軍からの大隅国御家人・地頭で、本姓建部、名字禰寝<(ねじめ)>(根占)を名乗った豪族禰寝<(ねじめ)>氏(根占・小松氏)の一庶流(分家)、山本(山元)氏に遡る。16世紀末すべての禰寝一族は、本家も庶流も勝者となった島津家のもとに置かれるに至った。・・・
  西郷従道<(1843~1902年)>や東郷平八郎は同じ町内の出身であり、深いつながりがある。・・・
 1898年(明治31年)、西郷従道の推薦により47歳で第2次山縣内閣の海相に就任し、その後は日露戦争が終結するまでの約8年という長きにわたって事実上の海軍トップとして君臨した。・・・
 <そして、>官房主事時代から取り組んできた海軍軍令部の独立を達成し、明治天皇による初めての海軍軍服の着用、予算規模の拡大などによって、海軍を陸軍と対等の関係まで進めた。
 また陸軍の大陸への兵站を守る海上権を先ず第一義に考え、日露戦争ではウラジオストク艦隊、次いで陸軍との協同作戦により旅順のロシア太平洋艦隊を全滅させ、船舶の通行の安全を図った。・・・
 日露戦争・・・開戦直前には東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命し、それまでの人事慣例を破るものと批判されたが、人事権は海軍大臣にあると断行した。・・・
 1904年(明治37年)、東郷と同時に海軍大将に昇進した。・・・
 総理大臣の時、海軍に入隊する皇族が少なかったこともあり、伏見宮博恭王の待遇について「宮様に、ご迷惑がいかないようにせよ」と申し継ぎを出した。この申し継ぎは後々の海軍でも重要視され、伏見宮の海軍での影響力を高める結果となった。・・・
 <権兵衛の祖父の>盛賢は・・・1802年・・・に大阪で死去し、大阪福島の妙徳寺に埋葬されたが、同じ寺に大久保利敬(大久保利通祖父)も埋葬されているという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%A8%A9%E5%85%B5%E8%A1%9B
 「妙徳寺(大阪府)<は、>・・・昭和2年まで大阪の福島にありましたが、都市計画により・・・大阪府東大阪市額田町・・・に移転しました。・・・黄檗宗」
https://iko-yo.net/facilities/32387

⇒大阪に妙徳寺という日蓮宗の寺院もあるので、一瞬、山本権兵衛も日蓮宗信徒かと思ったが違っていた。
 但し、一卵性三つ子とも言うべき西郷従道は直接島津斉彬の謦咳に接し、東郷平八郎は日蓮宗信徒で、と来れば、山本権兵衛も正真正銘の秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者だったはずだ。
 その、海軍出身としては初の首相の山本権兵衛が伏見宮を処遇せよと厳命した以上は、爾後海軍首脳達がその厳命に従ったのは当然だろう。(太田)

  エ 齋藤實(1858~1936年) 海兵6期、米留

 「斎藤氏の始祖とされる斎宮頭藤原叙用の五世孫の竹田四郎頼基の子孫一族から鎌倉幕府の奉行人が多く出ている。斎藤又四郎基長が鎌倉陥落の後に奥州へ赴き留守氏(後の水沢伊達氏)の配下となり、留守氏の居城であった岩切城がある宮城郡岩切邑(現・宮城県仙台市宮城野区岩切)に居住したのが初祖とされている。・・・
 仙台藩水沢城下に、当地を地方知行により治めていた水沢伊達氏に仕える藩士・・・の長男として・・・生まれた。
 1884年(明治17年)9月19日から1888年(明治21年)10月26日まで<米国>留学兼駐米公使館付駐在武官を務めた。・・・
 [1892年(明治25年)2月5日に・・・薩摩藩士で海軍の重鎮であった仁礼景範<(注2)>の長女・・・春子・・・と結婚
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E6%98%A5%E5%AD%90 ]

 (注2)にれかげのり(1831~1900年)。「薩摩藩士の子弟として生まれる。・・・薩英戦争に参加。1867年・・・に藩命により<米国>に留学(薩摩藩第二次米国留学生)。
 1872年(明治5年)、海軍に出仕して海軍少佐。のち、海軍兵学校校長、東海鎮守府長官、中艦隊司令官、軍事部長などを歴任。1885年(明治18年)、海軍中将。1886年(明治19年)より参謀本部次長、海軍参謀本部長、横須賀鎮守府長官、海軍大学校長などを歴任。
 1892年(明治25年)、第2次伊藤内閣の海軍大臣に就任、海軍備の充実に力を注いだ。海軍の軍令権<の>陸軍の参謀本部からの独立に尽力し、1893年(明治26年)に軍令部が設置され軍令部長(のちの軍令部総長)に就任するが、結局陸軍の反対により頓挫した。さらに民党や文官側より、海軍行革に不熱心との批判を受けて辞意を表明。・・・仁礼は予備役編入となった。同年枢密顧問官に就任。・・・
 孫:高田利種(海軍少将)<(後出)や、>・・・<その兄だが>高田利貞(陸軍少将)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E7%A4%BC%E6%99%AF%E7%AF%84

⇒齋藤實は、仁礼が義父となったことで、事実上、薩摩出身者、よってつまりは、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者、になったのではなかろうか。(太田)

 1898年(明治31年)11月10日に第1次大隈内閣の山本権兵衛海軍大臣の推挙により海軍次官に就任、艦政本部長を経て1906年に第1次西園寺内閣で海軍大臣を拝命し、・・・第一次西園寺・第二次桂・第二次西園寺・第三次桂・第一次山本の5内閣で・・・8年間つとめた。

⇒そんな齋藤實が、山縣有朋/西園寺公望の直系の人物になるのは必至だった。(太田)

 1912年(大正元年)、海軍大将。1914年(大正3年)、シーメンス事件により海軍大臣を辞任し、予備役に編入された。
 1919年(大正8年)、武断政治が批判された陸軍大将長谷川好道に代わって、現役海軍大将に復して第3代朝鮮総督に就任、文化政治を推し進めた。・・・ジュネーブ海軍軍縮会議全権委員、枢密顧問官への就任を経て1929年(昭和4年)に朝鮮総督に再任され1931年(昭和6年)まで務めた。
 1931年(昭和6年)9月満州事変が勃発し、翌1932年(昭和7年)5月15日、犬養毅首相が海軍若手将校らにより暗殺された(五・一五事件)。
 当初、犬養首相の後任は同立憲政友会の次期総裁から選出されるものと目されており、政友会右派の森恪らが司法官僚の平沼騏一郎を次期総裁に担ぐ動きもあったが、結果的に鈴木喜三郎(鳩山一郎の義弟)が次期総裁に選出された。
 元老西園寺公望も当初は政党内閣継続の為、鈴木を次期首相に推薦する意向であり、陸相の荒木貞夫も19日に鈴木と会見し「鈴木内閣発足に反対しない」と発言したと報じられた。だが翌20日、陸軍の少壮将校がこれに反発し、政友会単独内閣成立に強く反対していることが報じられ、不穏な情勢となった。21日、西園寺は重臣や元帥の意見を聞いた上で、鈴木ではなく海軍穏健派の長老である斎藤実を推薦する事にした。斎藤は英語に堪能で、条約派に属する国際派の海軍軍人であり、粘り強い性格、強靭な体力、本音を明かさぬ慎重さが評価されていたという。
 齋藤内閣は立憲政友会と立憲民政党の双方から大臣を迎えた挙国一致内閣(連立内閣)であり、蔵相に留任した高橋是清の下、積極財政を継続。翌1933年(昭和8年)には他の主要国に先駆けて昭和恐慌前の経済水準に回復し、国内の安定に努めた。

⇒「満州事変の勃発後、陸軍と同様に海軍も国防宣伝を行う必要に迫られるが、海軍は第一次ロンドン海軍軍縮会議時の失敗や、在郷軍人会を利用した陸軍の国防思想普及運動の成功にかんがみ、自己の指導下に国民的組織を持つ必要を感じていた。
 そして海軍が採用したのが既存の海軍協会の拡充だった。・・・
 1932年・・・3月31日に開かれた・・・海軍協会・・・評議員会・理事会で、・・・斎藤実<が>・・・会長<に>・・・新任<された。>・・・
 ところが、斎藤を新会長に迎えてまもなく、五・一五事件によって犬養穀首相が暗殺されると、斎藤に組閣の大命が下る。
 それに伴い首相が民間団体の役員を兼務することの当否について各方面から意見が出たが、斎藤は熟慮の末、日露協会会頭、中央教化団体連合会会長などとともに海軍協会会長も辞することなく、従来通り兼務することにした。・・・
 本部役員の人事を刷新した協会は、続いて地方組織の拡充に着手する。・・・
 <そして、>10月15日以降、全国府県単位で支部を設置することとし、各府県知事に支部長を、学務部長に副支部長を委嘱している。・・・
 彼らは、海軍軍備の英米との「均勢」を主張し、過去において日本が英米に対して劣勢な比率を受け入れたことを「失敗」と位置付け、その失敗の主原因を「国民の無関心」に求めた。
 そのため、1935(昭和10)年に予定されていたロンドン海軍条約の改定・・第二次ロンドン海軍軍縮会議・・に向けて、「一<大>国民運動」を起こすというのである。
 彼らの運動は、「1935・6年の危機」を煽り、ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約態勢の打破を目指すものであり、まさに当時の海軍の立場を代弁していた。・・・
 <そして、>今回の軍縮交渉では国民世論<・・海軍協会等の声!・・>が交渉材料として<用いられた>。
 その意味するところは、会議からの脱退も辞さない海軍にとっては、主にその主張を貫徹するためのものであり、他方国<際>協調を重視する外務省や政府首脳にとっては、日本政府の主張はあくまでも国民世論を汲んだもので、政府としては国際協調主義を放棄するものではないことをアピールするためのものであった。」(土田宏成(注3)「1930年代における海軍の宣伝と国民的組織整備構想–海軍協会の発達とその活動」より)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwj8x8T3mMn7AhXmplYBHRvwCLYQFnoECAMQAQ&url=https%3A%2F%2Frekihaku.repo.nii.ac.jp%2Findex.php%3Faction%3Dpages_view_main%26active_action%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D1396%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1%26page_id%3D13%26block_id%3D41&usg=AOvVaw2WqDYZzi6oFQ3fe7KnkBHP

 (注3)1970年~。東大文卒、同大院博士課程単位取得退学、神田外語大外国語学部国債コミュニケーション学科教授・同大日本研究所所長、博士(文学)。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%9C%9F%E7%94%B0%E5%AE%8F%E6%88%90_200000000739379/biography/

 軍部の方針とも大きく対立はせず、1932年(昭和7年)9月15日、日満議定書を締結し満州国を承認、その後国際連盟総会にて日本側の主張が却下されると、1933年(昭和8年)3月27日、国際連盟脱退を日本政府として表明した。しかし一部軍人からは、元来リベラル派である斎藤への反感や、陸軍予算折衝で荒木陸相を出し抜いた高橋蔵相への反発などから、閣僚のスキャンダル暴きが行われた。
 そして1934年(昭和9年)、帝人事件が勃発。鈴木商店倒産に伴い台湾銀行の担保とされた同子会社帝国人造絹糸(帝人)株式22万株をめぐり、財界グループ「番町会」が買い戻しの依頼を受け、その後の帝人増資で株価利益を上げた問題で、帝人社長高木復亨や番町会の永野護、台湾銀行頭取島田茂、黒田大蔵次官など16名が起訴された。斎藤内閣は綱紀上の責任を理由に、同年7月8日総辞職した。
 同事件は、265回にわたる公判の結果、1937年(昭和12年)10月全員が無罪判決を得るという異例の経過をたどったことから、検察内の平沼騏一郎派、陸軍将校、立憲政友会右派らが倒閣の為に仕組んだ陰謀であったと見られている。
 その後内大臣に就任した斎藤は、皇道派の陸軍中堅、青年将校から天皇をたぶらかす重臣ブロックとして目の敵にされ、1936年(昭和11年)の二・二六事件において斎藤は殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%9F

⇒二・二六事件の時の齋藤の殺害は、(西園寺は結果的に殺害リストから除外されたところ、)未遂に終わった牧野伸顕のケースよりも更に理不尽なものだったと言えよう。
 もとより、杉山らは同事件を実質的に引き起こさせた側であり(コラム#省略)、齋藤は殺害されないように事前に注意喚起されていたわけだが、耳を貸さずにむざむざ殺されてしまった理由についての私の仮説を後述する。(太田)

  オ 加藤友三郎(1861~1923年) 海兵7期、海大1期

 「広島藩士・・・の三男<。>・・・日清戦争に巡洋艦「吉野」の砲術長として従軍、「定遠」「鎮遠」を相手として黄海海戦に大いに活躍した。
 日露戦争では、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として日本海海戦に参加。連合艦隊の司令長官・東郷平八郎、参謀長・加藤、参謀・秋山真之らは弾丸雨霰の中、戦艦「三笠」の艦橋に立ちつくし、弾が飛んできても安全な司令塔には入ろうとせず、兵士の士気を鼓舞した。

⇒広島藩の藩主家である浅野家の初代は豊臣政権下で五奉行を務めた浅野長政の次男であり、第3代藩主・綱晟(つなあきら)(光晟の長男)は正室、継室にいずれも九条道房の娘を迎えている。道房の母は(秀次の弟である)豊臣秀勝(とあの江)の娘である豊臣完子(さだこ)(コラム#省略)であり、以降の浅野宗家は豊臣家の血を女系で受け継ぐことになった、ということもあり、「長州征伐・・・には否定的であり、幕府と長州藩の仲介を務める一方で、幕府が命じた長征の先鋒役を辞退して<おり、>・・・1866年・・・に第14代将軍・徳川家茂が死去し、第2次長征が事実上幕府軍の敗退に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、・・・1867年・・・には長州藩・薩摩藩と同盟を結び、倒幕に踏み切った。一方で、第15代将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白を行うなどしたため、日和見藩として不信を招き、明治維新の主流からは外された形となった<が、>戊辰戦争では官軍に参加して戦った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E8%97%A9
という、れっきとした秀吉流日蓮主義信奉藩の藩士の息子なのだから、もちろん、加藤自身もそうだったはずだ。
 その加藤と、日露戦争の時の生死を共にした、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者たる東郷平八郎とが、肝胆相照らす関係にならなかったほうがおかしい。(太田)

 その後、海軍次官、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を経て、1915年(大正4年)8月10日、第2次大隈内閣の海軍大臣に就任。

⇒大隈も秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者であった(コラム#省略)ことを思い出して欲しい。(太田)

 同年8月28日、海軍大将に昇進。以後、加藤は寺内・原・高橋と3代の内閣にわたり海相に留任した。
 1921年(大正10年)のワシントン会議には日本首席全権委員として出席。会議に向けて出発する際、当時の原敬首相より「国内のことは自分がまとめるから、あなたはワシントンで思う存分やってください」との確約を得た。・・・

⇒原も加藤も、表見的には、犬養毅の経済軍縮論(後出)と同様の考えをとっていた、と見ればよかろう。
 但し、加藤は、ホンネはそろそろ軍拡の時期だと思いつつも、ぎりぎりまで、当時の軍縮ムードの日本の世論、及び、日本が英米協調路線をとっていると信じていた英米、を引き続き欺いていた方がよいと判断した、というか、(当時まだ存命だった!)山縣有朋、や、西園寺公望、そして貞明皇后ら、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者達の総元締め格の人々による、そうせよとの指示に従っていたところの、英米協調偽装派(コラム#13160(未公開))だった、と私は見るに至っている。(太田)

 首席随員として赴いた加藤寛治は軍縮条約反対派であった・・・

⇒そんな加藤(寛)をわざわざ加藤(友)が会議に同道したのは、加藤(寛)がそう遠くない時期に軍拡に向けてのキャンペーンを打つ(打たせる)ことへの予冷を加藤(寛)自身に鳴らさせるためだった、と見るわけだ。(太田)

 米国案の五・五・三の比率受諾を決意した加藤は、海軍省宛伝言を口述し、堀悌吉中佐(当時)に次のように筆記させている。
 国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。……仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に……結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。

⇒この伝言が外部に洩れることを想定、期待し、欧米向けに心にもないことをあえて語った・・但し、「目下の時勢において」というディスクレイマーが付いている!・・と見る。(太田)

 全権代表として会議に臨んだ加藤を、各国の記者などはその痩身から「ロウソク」と呼んで侮っていたが、当時の海軍の代表的な人物であり「八八艦隊計画」の推進者でもあった彼が、米国発案の「五五三艦隊案」を骨子とする軍備縮小にむしろ積極的に賛成したことが「好戦国日本」の悪印象を一時的ながら払拭し、彼は一転して「危機の世界を明るく照らす偉大なロウソク」「アドミラル・ステイツマン(一流の政治センスをもった提督)」と称揚されたという。・・・

⇒とまあ、物の見事に欧米の識者達は加藤に騙されてしまったというわけだ。(太田)

 1922年(大正11年)6月12日、加藤友三郎内閣が発足した。しかし1923年(大正12年)8月24日、首相在任のまま大腸ガンの悪化で青山南町の私邸で臨終を迎えた。・・・
 <死後に>養子となった・・・女婿<の>・・・加藤(船越)隆義<も>、軍縮条約については反対派であ<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%8F%8B%E4%B8%89%E9%83%8E

⇒後世の人々が、歴史を書く際に、自分を誤解したままにならないように、こういう形で、加藤はホンネの「遺言」を残したのだろう。(太田)

  カ 財部彪(たからべたけし。1867~1949年) 海兵15期(首席)、海大は出ていない

 「・・・都城島津家<の>薩摩藩内<の>・・・都城藩士・・・の二男。・・・
 妻の「いね」は山本権兵衛の娘である。・・・

⇒実質薩摩藩士の子で、しかも山本権兵衛の女婿と来れば、財部は骨の髄まで秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者だったに違いない。(太田)

 日露戦争では、大本営作戦参謀を務める。
 <以後、1909年から1914年まで、齋藤實海相の下で海軍次官を務め、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%9C%81
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3 >
大正8年(1919年)、海軍大将。
 加藤友三郎内閣で<初めて>海軍大臣となり、その後、第2次山本<権兵衛>内閣、加藤高明内閣、第1次若槻内閣、濱口内閣の4内閣において<・・・途中、清浦内閣時代の5カ月余、田中義一内閣時代の2年3カ月弱を除き(上掲)・・・>海相を務める。
 <濱口雄幸内閣の時の>昭和5年(1930年)、ロンドン海軍軍縮会議において若槻禮次郎らとともに全権となり、同条約に調印した。・・・
 この軍縮会議での財部らの行動は戦後の歴史評論家をはじめ、評価する声が多いが、当時の世論では非国民扱いされた。会議後に欧州旅行をした事を非難したマスコミ達による誹謗も加わり財部らが帰国した際、東京駅や丸の内のオフィス街には財部らを罵倒する群衆(日本国民)が殺到し「売国奴財部を葬れ」「英米の前に拝跪して国を売り君命を辱めたる降将財部。速やかに自決して罪を謝せ」などと書かれた檄文が何百枚も撒き散らされたという。・・・

⇒第一次世界大戦後、軍縮ムードだった世論は、この頃までに完全に軍拡ムードに転じており、世論に袋叩きにされるであろうことは、最初から承知の上で、むしろそれを狙って、財部は、あえて、この条約に調印した、と見る。(太田)

 <加藤寛治軍令部長の下の>海軍軍令部<も>これに著しく不満で、犬養毅や鳩山一郎らが率いる政友会と協力し、同会議における浜口内閣の行為は統帥権干犯にあたると攻撃した(統帥権干犯問題)。

⇒財部と加藤(寛)が示し合わせた上で、ダブル主役のやらせ芝居が演じられた、と見るわけだ。(太田)

 財部は、同条約が批准された翌日に海相を辞任することとな<り、再び海相になることはなか>った。
 1932年(昭和7年)4月、海軍大将の年齢満限により、後備役<(注4)>となり現役を去った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A1%E9%83%A8%E5%BD%AA

 (注4)海軍の場合、予備役とどう違うのか、調べがつかなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B9%E7%A8%AE

⇒財部は、1931年から杉山構想が実施されるところ、その直前まで、日本が国際協調路線を引き続き維持している印象を欧米諸国に与え続けよ、と、東郷、山本、齋藤、らから厳命され、見事にこの損なミッションを演じきった、と見るわけだ。(太田)

  キ 鈴木貫太郎(1868~1948年) 海兵14期、海大1期

 「和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾で、当時は[譜代の
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%AE%BF%E8%97%A9 ]下総関宿藩の飛地)に関宿藩士で代官の鈴木由哲と妻・きよの長男として生まれる。1871年(明治4年)に本籍地である千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に居を移す。・・・

⇒全くもって、秀吉流日蓮主義や島津斉彬コンセンサスとは程遠い環境から鈴木はスタートしたことになる。(太田)

 ドイツ駐在中だった1903年(明治36年)9月26日に鈴木は中佐に昇進したが、一期下の者たちより低いその席次に腹をたて退役まで検討した。しかし「日露関係が緊迫してきた、今こそ国家のためにご奉公せよ」という手紙を父親から受けたことにより、思いとどまったという。・・・
 同年末に日本海軍は対ロシア戦のため、アルゼンチンの発注でイタリアにおいて建造され竣工間近であった装甲巡洋艦「リバタビア」を急遽購入し、同艦は「春日」と命名され、鈴木がその回航委員長に任じられた。
 「春日」とその僚艦「日進」が日本に近付いた1904年(明治37年)2月、日本が仕掛ける形で日露戦争が始まった。日本に到着した鈴木はそのまま「春日」の副長に任命され、黄海海戦にも参加している。その後第五駆逐隊司令を経て、翌1905年(明治38年)1月に第四駆逐隊司令に転じ、持論だった高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれたが、自らの駆逐隊で敵旗艦である戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」、同「ナヴァリン」、同「シソイ・ヴェリキィー」に魚雷を命中させるなどの戦果を挙げ、日本海海戦の勝利に貢献した。日露戦争後の海軍大学校教官時代には駆逐艦、水雷艇射法について誤差猶予論、また軍艦射法について射界論を説き、海軍水雷術の発展に理論的にも貢献している。この武勲により、功三級金鵄勲章を受章する。1912年(大正元年)、妻とよが33歳で死去。
 1914年(大正3年)、海軍次官となり、シーメンス事件の事後処理を行う。翌年1915年(大正4年)、東京女子高等師範学校付属幼稚園の教員だったが、同幼稚園の児童を孫に持っていた菊池大麓の推薦により、裕仁親王(昭和天皇)の幼少期の教育係を勤めていた足立たかと再婚。1923年(大正12年)、海軍大将となり、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長に就任。

⇒ハンモックナンバーの低かった鈴木は、海軍将校としての戦術面での優秀さにより、いわばたたき上げで海相直前まで出世したわけだ。(太田)

 1929年(昭和4年)に昭和天皇と皇太后・貞明皇后の希望で、予備役となり侍従長に就任した。

⇒たかとの縁で、昭和天皇が、貞明皇后の賛同を得た上で、鈴木を指名したのだろう。(太田)

 鈴木自身は宮中の仕事には適していないと考えていた。鈴木が侍従長という大役を引き受けたのは、それまで在職していた海軍の最高位である軍令部長よりも侍従長が宮中席次にすると30位くらいランクが下だったが、格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくなかったからといわれる。
 宮中では経験豊富な侍従に大半を委ねつつ、いざという時の差配や昭和天皇の話し相手に徹し、「大侍従長」と呼ばれた。
 また、1930年(昭和5年)に、海軍軍令部長・加藤寛治がロンドン軍縮条約に対する政府の回訓案に反対し、単独帷幄上奏をしようとした際には、後輩の加藤を説き伏せ思い留まらせている。本来、帷幄上奏を取り次ぐのは侍従武官長であり、当の奈良武次が「侍従長の此処置は大に不穏当なりと信ず」と日記に記しているように、鈴木の行動は越権行為のおそれがあった。

⇒こういった挿話に貞明皇后は注目し、翌年実施に移されるところの、杉山構想が概ね完遂される目途が立った暁には鈴木に首相をやらせて終戦に導くことを選択肢の一つにしたのではなかろうか。
 但し、最後まで鈴木に杉山構想が開示されることはなかった、と、私は見ている。(太田)

 昭和天皇の信任が厚かった反面、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ「君側の奸」と見なされ、このあと命を狙われることになった。・・・
 二・二六事件<当日の>・・・午前5時頃に安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が<鈴木の>官邸を襲撃した<が、奇跡的に一命をとりとめている。>・・・
 ・・・大東亜戦争(太平洋戦争)<の>・・・戦況が悪化した1945年(昭和20年)4月、枢密院議長に就任していた鈴木は、戦況悪化の責任をとり辞職した小磯國昭の後継を決める重臣会議に出席した。
 構成メンバーは6名の総理大臣経験者と内大臣の木戸幸一、そして枢密院議長の鈴木であった。若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎らは首相に鈴木を推したが、鈴木は驚いて「とんでもない話だ。お断りする」と答えた。しかし既に重臣の間では昭和天皇の信任が厚い鈴木の首相推薦について根回しが行われていた。

⇒貞明皇后が牧野伸顕や杉山元と相談の上、昭和天皇に鈴木への大命降下を促し、昭和天皇が内大臣の木戸幸一を通じて根回しをさせた、と見る。(太田)

 東條英機は、陸軍が本土防衛の主体であるとの理由で元帥陸軍大将の畑俊六を推薦し、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」と高圧的な態度で言った。これに対して岡田啓介が「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか。陸軍がそんなことでは戦いがうまくいくはずがないではないか」と東條をたしなめ、東條は反論できずに黙ってしまった。こうして重臣会議では鈴木を後継首班にすることが決定された。

⇒東條は、念のため、鈴木と一心同体と見ていたところの、岡田、から、鈴木内閣が直ちに終戦に向けて動き出すことはないという言質をとったわけだ。(太田)

 重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、組閣の大命を下した。・・・「軍人は政治に関与せざるべし」という信念から辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して、「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と天皇は述べた。鈴木は自身に政治的手腕はないと思っていたが、「頼む」とまで言われるとそれ以上は固辞しなかった。天皇から頼まれて首相に就任するというのは、異例のことだった。

⇒陸軍の反対で就任にまでは至らなかったが、宇垣一成が天皇に「頼む」とまでは言われた前例(コラム#省略)はある。(太田)

 また、かつて鈴木を侍従長に推した貞明皇后からも信頼を得ており、天皇よりも30歳以上年上の鈴木に対して「どうか陛下の親代わりになって」と言葉をかけた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E 

⇒鈴木への大命降下に貞明皇后が積極的に関わっていたことが、この挿話からも推認できる、というものだ。(太田)

  ク 岡田啓介(1868~1952年) 海兵15期(首席)、海大2期

 「福井藩士・・・の長男<。>・・・

⇒幕末の福井藩士達は横井小楠を師と仰ぐ横井小楠コンセンサス「のみ」信奉者達だったと考えられ、藩士の子であった岡田自身もそうだったと思われる。(太田)

 1923年(大正12年)に[財部彪海相の下で
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3 ]海軍次官、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官、・・・田中義一内閣で<財部彪の後を襲って初めて>海軍大臣を務めたのち[ロンドン軍縮会議<(注5)>では浜口雄幸内閣と海軍との間を斡旋して条約成立にこぎつけ,元老西園寺公望の信任を得た。
 次いで
https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%95%93%E4%BB%8B-17661 ]、<齋藤>内閣でも海軍長老として海軍大臣を再び拝命して五・一五事件後の騒然とした海軍省部内を収めた。・・・

 (注5)「立憲民政党の浜口雄幸内閣は幣原協調外交を推進する立場から条約の調印をめざし、元首相の若槻礼次郎・財部彪海軍大臣を全権として派遣した。」
https://ywl.jp/content/pgnxy

 1934年(昭和9年)、元老・西園寺公望の奏請により組閣の大命降下、内閣総理大臣となる。

⇒挙国一致内閣の最初の首班に就けた齋藤實が秀吉流日蓮主義者でかつ政治的手腕があったので辣腕を振るい、その結果、謀略で首相を座から引きずり降ろされてしまったことに懲りた西園寺が、海軍への罪滅ぼしに、同じ海軍の、しかし、無害無益の岡田を後継首相に就けたのだろう。(太田)

 一時、拓務大臣、逓信大臣も兼務した。斎藤実の後継として中間内閣を組織する<。>・・・
 岡田は前任の<齋藤實>にくらべ政治力は弱く、古巣の海軍内でも強硬派を押さえきれず、ロンドン・ワシントン両海軍軍縮条約離脱に追い込まれた。・・・

⇒岡田は、西園寺や伏見宮軍令部総長の齋藤の轍を踏むな的な示唆を受けて、これ幸いと、(経済・財政案件は蔵相の藤井真信と高橋是清に、陸軍案件は陸相の林銑十郎と川島義之に、そして)海軍案件は海相の大角に、ぶんなげていたのだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A4%A7%E8%94%B5%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%83%BB%E8%B2%A1%E5%8B%99%E5%A4%A7%E8%87%A3%E4%B8%80%E8%A6%A7 ←歴代蔵相
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3 ←歴代陸相
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3 ←歴代海相 (太田)

 二・二六事件で反乱軍に襲撃されたが、義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵が身代わりとなり、奇跡的に難を逃れた。・・・

⇒この時、自分の救出について、岡田は何のイニシアティブも執っていないように見える。
 軍人とは思えない、危機対処能力のなさだ。
 いや、そもそも、(憲兵隊を含む)陸軍も、海軍も、二・二六事件の生起を知っていながら、首相の岡田に、(海軍の場合は海軍の重鎮であるにもかかわらず、)事前にその情報を耳打ちすることさえ怠っているのだから、岡田は、よほど人望がなかったのだろう。(後述するところも参照。)(太田)

 1933年(昭和8年)- 1月21日 後備役編入<。>・・・ 
 その後の岡田は、二・二六事件の痛手から立ち直り、自国の破滅を意味する<米国>との戦争を避けるために当時、生存していた海軍軍人では最長老となる自分の立場を使い、海軍の後輩たちを動かそうとしたが、皇族軍人である伏見宮博恭王の威光もあって思うように行かなかった。

⇒仮に伏見宮が「皇族」でなかったとしても、杉山構想のほぼ完遂を目指す大戦争に海軍を協力させる最高責任者としての重責を担っているが故のその威光に岡田は逆らいようがなかったはずだ。(太田)

 1940年(昭和15年)以降は重臣会議のメンバーとして首相奏薦に当たっている。

⇒西園寺の没後であるとはいえ、それは形の上だけの話であり、重臣会議ではなく、牧野伸顕(と木戸幸一)が実質的な奏薦権を掌握し続けた、というのが私の見方だ。(太田)

 開戦後の岡田は、大本営参謀の長男<岡田>貞外茂<(注6)、>大蔵省総務局長で女婿の迫水久常<(注7)、>参謀本部部員で松尾伝蔵の女婿の瀬島龍三<、>の3名と、岡田宅で月に1回ほど会食するのを例として、他の重臣に比して戦況の推移の情報を常に得ていた。

 (注6)さだとも(1908~1944年)。海兵55期(次席)、海大37期(次席)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E8%B2%9E%E5%A4%96%E8%8C%82
 (注7)「岡田<の>・・・後妻<の>郁<は、> 薩摩藩士・迫水久仲の三女で、迫水久常の叔母。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%95%93%E4%BB%8B
 「迫水氏は薩摩藩藩主の島津氏の一族。戦国時代の武将島津安久の長男が“迫水”と名を改めたことにはじまり、江戸時代は薩摩藩の重職を代々務めた家系である(家格は小番)。
 母である迫水歌子の父親は陸軍中将で霧島神宮宮司を務めた大久保利貞。大久保利貞は維新三傑の一人大久保利通の従兄弟にあたる。歌子の妹丹生広子の長男は二・二六事件の決起将校でのちに刑死した丹生誠忠陸軍中尉。ハンガリー公使を務め終戦工作にも関わった外交官大久保利隆は歌子の弟。 妻の万亀(1910年(明治43年) – 2008年(平成20年)1月5日)は岡田啓介元首相の次女。岡田の先妻で万亀の母岡田英(旧姓川住)は夏目漱石の妻夏目鏡子の従姉妹。
 父親の迫水久成陸軍大尉の妹迫水郁は岡田啓介の後妻なので、岡田とは義理の叔父の関係でもある。さらに岡田の三女喜美子は鈴木孝雄陸軍大将の次男鈴木英海軍大佐に嫁いでいるので孝雄の兄である鈴木貫太郎とも姻戚関係にある。久成の姉の配偶者には末松茂治陸軍中将、古川弘海軍少将、田所廣海海軍中将。田所中将の長男で思想運動家の田所廣泰は従弟。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%AB%E6%B0%B4%E4%B9%85%E5%B8%B8

⇒杉山構想は、(その蚊帳の外だった昭和天皇を除いた)宮中の一部関係者と陸軍の歴代次官等と海軍のごく少数の人々、以外には一切開示されなかったと私は見ており、大蔵省関係者にも参謀本部の下僚達にも開示されなかった以上、戦況情報だけは得られたとしても、(杉山構想が開示されていなかったと私が見ている)岡田には、(彼の低い能力に目をつむっても、)先の大戦の全体像は全く見えなかったはずだ。(太田)

 1943年(昭和18年)の正月には、ミッドウェーの敗退とガダルカナルの戦いの消耗戦での兵力のすり潰しで最早太平洋戦争に勝ち目はないと見て、和平派の重臣たちと連絡を取り、当時の東條内閣打倒の運動を行う。若槻禮次郎、近衛文麿、米内光政、またかつては政治的に対立していた平沼騏一郎といった重臣達が岡田を中心に反東條で提携しはじめる。
 東條内閣倒閣の流れはマリアナ沖海戦の大敗により決定的となった。岡田は不評だった海軍大臣・嶋田繁太郎の責任を追及、その辞任を要求、東條内閣の切り崩しを狙う。東條英機は岡田を首相官邸に呼び出し、内閣批判を自重するように要求したが岡田は激しく反論し、東條は逮捕拘禁も辞さないという態度に出たが、岡田はびくともしなかった。岡田は宮中や閣内にも倒閣工作を展開、まもなくサイパンも陥落し、東條内閣は総辞職を余儀なくされた。東條内閣倒閣の最大の功績は岡田にあるといってよい。さらにその直後、現役を退いていた和平派の米内光政を現役に戻し小磯内閣の海軍大臣として政治の表舞台に復活させ、終戦への地ならしを行った。一方で1944年(昭和19年)12月26日には息子の貞外茂がマニラの戦いで戦死している。
 1945年(昭和20年)2月、天皇は重臣をふたりずつ呼んで意見を聞いた。岡田は「終戦を考えねばならない段階」であると明言、「ただ、きっかけがむつかしい」とも述べた。後に昭和天皇は『昭和天皇独白録』の中で岡田と元内大臣・牧野伸顕の意見が最も穏当だったと回想している。
 小磯内閣退陣ののちは鈴木貫太郎を首班に推挙、迫水久常を内閣書記官長の職に推し、和平に全力を尽くすことになる。鈴木と岡田の関係は常に密接で、鈴木内閣の和平工作には常に岡田の考えの支えがあったといわれ、「鈴木内閣は岡田内閣」と新聞が書いたほどだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%95%93%E4%BB%8B

⇒岡田は財部彪海相に次官に起用された時点で、爾後、財部の操り人形になることを肯んじさせられたと見ているわけだが、繰り返すけれど、彼には、財部を含め誰からも、杉山構想は最後まで開示されなかった、とも見ている。
 後備役編入後の財部の動静を調べることができなかったが、財部の後備役編入の翌年に編入された岡田に対し、西園寺や財部は、杉山構想が完遂される目途が立った暁には貞明皇后は鈴木に首相をやらせて終戦に導かせる心づもりなので、その折には、姻戚関係にある鈴木への大命降下に向けて、また鈴木内閣発足後は鈴木のサポートに、尽力するよう、岡田に言い渡し、岡田は承知し、だからこそ、上掲のような言動を取った、と、私は想像している。(太田)

  ケ 谷口尚真(なおみ。1870~1941年) 海兵19期、海大3期

 「広島藩士(足軽)・・・の二男<。>・・・

⇒父が足軽(注8)出身であったため、れっきとした藩士であれば身につけていたはずの秀吉流日蓮主義と無縁であったと思われ、よって、谷口自身も無縁だったのではなかろうか。(太田)

 (注8)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E8%BB%BD

 1904年、「浪速」乗り込みの参謀として日露戦争に出征。戦争途中で少佐に累進し軍令部参謀となって海軍作戦に参画。[1905年(明治38年)10月から1909年(明治42年)7月まで、駐米国武官、1913年(大正2年)、齋藤實海相の下で海軍省副官、
https://kotobank.jp/word/%E8%B0%B7%E5%8F%A3%20%E5%B0%9A%E7%9C%9F-1649322
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3 ]1921年、中将。1923年、海軍兵学校校長に就任、・・・1926年及び1929年、呉鎮守府司令長官。1928年、大将。同年、第18代連合艦隊司令長官に就任。1930年<6月11日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BB%A4%E9%83%A8 >、ロンドン海軍軍縮会議を巡って海軍が二分し始めた同年、<加藤寛治の後任として>海軍軍令部長に就任。・・・

⇒杉山らの間で、まず閑院宮載仁親王を参謀総長にしてその次に伏見宮博恭王を軍令部長に、というプランがほぼ固まっていたところ、谷口は、秀吉流日蓮主義者であると「誤解」されていた上に、彼が海相時代の齋藤實の薫陶も受けていることが考慮されて、「加藤の乱」の後の軍令部を平穏化する役割を担わされて、当時の財部彪海相
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
の下で軍令部長に就任する運びになったのだろう。(太田)

 軍令部長就任後満州事変が勃発したが、海軍は事前に情報を得ており、谷口は満州事変が日米戦争につながることを懸念して満州事変を起こしてはならないと反対した。事変勃発後も大陸出兵を図る陸軍の動きに反対し、海軍艦艇の派遣を拒否している。こうした谷口の態度を加藤<寛治>から聞かされていた元帥・東郷平八郎は、”谷口はなんでも弱い”と不満を抱き、谷口を面罵した。結局谷口は同様の考えであった次長・百武源吾とともに軍令部を追われることとなった。・・・

⇒谷口は、米国駐在時の知見等を踏まえ、米国の強大さや米国の対日警戒心、猜疑心の強さ、等を知っていたため、日本が支那大陸に勢力を拡大していけば日米戦争は必至であると正しく判断し、満州事変に否定的姿勢を貫いたのだろうが、伏見宮はは、谷口を見損なったと激怒したわけだ。(太田)

 <そして、>軍事参議官<になったが、>・・・1933年、大角人事で予備役に編入された。 ・・・
 その謹厳な人柄から「海の乃木」とも称された。第二艦隊司令長官時代、あまりの謹厳さに閉口した参謀長の米内光政が「河の水 魚棲むほどの 清さかな」と色紙に書いて進呈し、谷口も「(ご忠告)ありがとう」と笑って受け取ったという逸話がある。しかし、米内は谷口の「米英と戦わず」の考えに共鳴し、谷口が予備役になった後の意志を受け継いだ。

⇒とんでもない。
 日支戦争を第二次上海事変等を通じて不可逆的に拡大して日本と米英の関係を険悪化させるのに米内は大きな役割を果たすことになる(後出)のだから・・。
 確かに、米内は、三国同盟締結には反対したけれど、時既に遅く、結局、同盟は締結される(後出)。(太田)

 <米内が>谷口の葬儀の際「しばしおさらばです」と谷口の棺の前で膝をついて手を合わせた姿が非常に印象に残ったと長男の真が述べている。
 兵学校長時代には生徒の鉄拳制裁を禁止した。また教育参考館を設立し、館内には戦死者の遺品のほか、「ビーグル号」の船体の一部など文化財も展示している。著作に『大海軍発展秘史』がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E5%B0%9A%E7%9C%9F

⇒谷口は、常識人、教養人ではあったけれど、政治的嗅覚が無さ過ぎた、と言えよう。(太田)

  コ 伏見宮博恭王(ひろやす。1875~1946年) 海兵18期相当

 「伏見宮博恭王は・・・ロンドン海軍軍縮条約を巡り統帥権干犯問題が起ると軍拡反米英の「艦隊派」に加担、「海軍の父」山本権兵衛の「失礼のないように」との申送りで一躍実力を伴う軍令部総長に擁され、東郷平八郎の死に伴い唯一の海軍元帥となった。」
https://omoide.us.com/jinbutsu/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E5%8D%9A%E6%81%AD%E7%8E%8B/
 「<1889年から>ドイツ帝国海軍兵学校およびドイツ帝国海軍大学校で学び、1895年(明治28年)まで滞在した。・・・
 1897年(明治30年)1月9日、徳川慶喜の九女・経子と結婚した。・・・

⇒伏見宮が徳川慶喜の婿になったことに余りこだわる必要はなさそうだが、この経子(1882~1939年)との間にできた四男が海軍将校になっているし、彼女自身、陸海軍将校夫人会総裁を務めている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E6%81%AD%E7%8E%8B%E5%A6%83%E7%B5%8C%E5%AD%90
 また、彼女の異母弟の徳川誠(1887~1968年)の長男、つまり、彼女の甥の徳川熙(ひろむ。1916~1943年)は海兵65期で潜水艦水雷長として戦死している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E8%AA%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%86%99 (太田)

 日露戦争の黄海海戦において、連合艦隊の旗艦「三笠」の第三分隊長として、後部の30センチ砲塔を指揮、その際負傷した。・・・
 <また、>操艦の名手<だった。>・・・
 1913年(大正2年)8月31日に海軍少将に任官されると共に横須賀鎮守府艦隊司令官に就任。更に海軍大学校長・第二艦隊司令長官などを歴任し、1923年(大正12年)に貞愛親王の薨去に伴い、伏見宮を継承した(第25代)。

⇒伏見宮家は、秀吉流日蓮主義家だ(コラム#省略)。(太田)

 1931年(昭和6年)末、参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し、海軍もバランスをとる必要性から、1932年(昭和7年)2月2日付で、博恭王が海軍軍令最高位である海軍軍令部長に就任した。

⇒そんな矮小な理由で伏見宮が軍令部長になったのではないことは、既に述べた。(太田)

 同年5月27日付で、元帥府に列せられ元帥の称号を受ける。
 1933年(昭和8年)10月、・・・海軍軍令部は冠の「海軍」が外れて「軍令部」となり、海軍軍令部長も「軍令部総長」となる。これは陸軍の「参謀本部」「参謀総長」と対応させたものであ<る>・・・。
 [<井上成美は軍務局第一課長としてこれに徹底して反対し続けたが、>伏見宮が「井上をよいポストにやってくれ」と口添えしたため、井上は予備役編入され<なかった。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%88%90%E7%BE%8E ]

⇒これは、杉山構想が完遂された暁には海軍も終戦に応じさせなければならないので、予め、その際に戦争続行を訴える海軍内の勢力を押え込む役割を果たすことを期待しているところの、(しかし、全幅の「信頼」を寄せられない(!))鈴木貫太郎、岡田、米内、トリオを、彼らに対して確実なお目付け役を果たしてくれると目された井上でもって補強しておきたかったからだったのではなかろうか。(太田)

 海軍軍令部長・軍令部総長時代は、軍令部が権限強化に動き出した時で、博恭王自身も(陸軍と違い、伝統的に海軍省優位であった海軍にあって)軍令部権限強化のための軍令部令及び省部互渉規定改正案について「私の在任中でなければできまい。ぜひともやれ」と高橋三吉、嶋田繁太郎といった軍令部次長に指示して艦隊派寄りの政策を推進した。
 ついに海軍軍令部の呼称を軍令部に、海軍軍令部長の呼称を軍令部総長に変更、更には兵力量の決定権を海軍省から軍令部に移して軍令部の権限を大幅に強化し、海軍省の機能を制度上・人事上弱体化させることに成功し、軍令部は海軍省に対して対等以上の立場を得ることとなった。こうして日独伊三国同盟・太平洋戦争と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな発言力を持った。

⇒これは、端的に言えば、自らを名実ともに海軍の最高実力者へと祭り上げ、海軍全体を、杉山構想における陸軍の下請け機関化させるためだった、と見る。
 そうさせたのは、もちろん杉山だが、直接的な「指示」は、貞明皇后から、齋藤實や財部経由で伏見宮になされたのではなかろうか。(太田)

 二・二六事件では事件発生の朝、加藤寛治、<及び、教育総監を罷免され軍事参議官となっていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B4%8E%E7%94%9A%E4%B8%89%E9%83%8E >真崎甚三郎と協議を行ってから参内している。

⇒このように、陸軍の首脳クラスと「仕事」で胸襟を開いた話をした、話ができた、海軍の首脳クラスは極めて珍しい。
 真崎甚三郎(1876~1956年)は、同年配であって、1911~1914年、ドイツ駐在武官を務めており(上掲)、その縁もあり、親しくなったのではないか。
 なお、加藤寛治(後出)と真崎も親しかったようだ(上掲)が、加藤の息子が陸軍の武藤信義の養子になっていたこと、や、加藤が、第一次世界大戦後に「ドイツ海軍の好意の下に視察を終えた<後>、ドイツの技術力を高く評価する御前報告を行<い、>1921年、加藤は首席随員としてワシントン会議に赴く途中、再びドイツにティルピッツ提督を訪れ、将来の日独両海軍の相互協力関係強化を働きかけた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%AF%9B%E6%B2%BB
というドイツ通であったこと、が、その背景にあったのではなかろうか。
 ちなみに、閑院宮参謀総長は、二・二六事件の青年将校達に同情的であった点では伏見宮と同じだが、参謀次長時代の真崎の独断専行ぶりから彼に反感を抱いていた点が伏見宮軍令部総長とは異なる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E8%BC%89%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B (太田)

この時、昭和天皇の不興を買い、その後は叛乱鎮圧に向けて動いている。・・・
 博恭王は大艦巨砲主義者であった・・・

⇒いや、伏見宮は、「単なる」秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者だ。(太田)

 開戦時の嶋田繁太郎海相が避戦派から開戦派に転向したのも伏見宮の働きかけによるとされる。・・・

⇒二人でもって、そういうストーリーにした、ということだろう。(太田)

 博恭王自身は日米戦について「日本から和平を求めても米国は応じることはないであろう。ならば早期に米国と開戦し、如何にして最小限の犠牲で米国に損害を与え、日本に有利な条件で早期和平を結ぶべきである」という『早期決戦・早期和平』の考えを持っていたとされ、実際にその様な内容を昭和天皇にも上奏を行っている。艦隊派の重鎮であった博恭王とは反対の立場であった『欧米協調派』の山本五十六とは、日米戦について近い考えをしていたと考えられる。・・・

⇒伏見宮は、最も海軍部内で対英米戦コンセンサスを醸成し易いリクツを、(同期相当の)加藤寛治あたりと相談しつつでっちあげたのだろう。(太田)

 太平洋戦争中においても、大臣総長クラスの人事には博恭王の諒解を得ることが不文律であった。・・・
 臣籍降下した四男伏見博英<(1912~1943年。海兵62期。戦死により海軍少佐に特進。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%8D%9A%E8%8B%B1 >が1943年に戦死し<ている。>・・・
 1944年(昭和19年)6月25日、サイパン島の放棄を決定した天皇臨席の元帥会議において、「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。そしてこの対策は、急がなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言した。この「特殊な兵器」は特攻兵器を指したものであるとの主張もある[誰によって?]。

⇒この挿話についての私の所見を記した(コラム#13146(未公開))ことがある。(太田)

 同年末頃に、脳出血を起こし、心臓の病を抱え、熱海別邸で療養生活を送る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E5%8D%9A%E6%81%AD%E7%8E%8B

⇒閑院宮は1945年5月20日という絶妙なタイミングで逝去しているが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E8%BC%89%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
伏見宮は、1946年8月16日まで生き、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E5%8D%9A%E6%81%AD%E7%8E%8B
天皇制維持を決めていた占領軍の配慮か、無傷のまま逝去している。(太田)

  サ 加藤寛治(1870~1939年) 海兵18期(首席)

 「福井藩士・・・の長男。息子孝治<(注9)>は陸軍大将・武藤信義の養子。・・・

 (注9)1908~?年。「妻:武藤みさを(男爵 武藤信義の二女)」
https://keibatsugaku.com/muto-3/

⇒「武藤信義(1868~1933年)は佐賀藩士の子で島津斉彬コンセンサス信奉者であったと思われますが、陸士、陸大(首席)という大秀才であり、杉山元が軍事課長をしていた1923(大正12)~25(大正14)年、武藤信義は参謀次長をしており、
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/sugiyama_h.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E4%BF%A1%E7%BE%A9
・・・[1927年(昭和2年)6月27日から7月7日まで・・・開かれた・・・東方会議
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A%E8%AD%B0_(1927%E5%B9%B4) ]の席上<での関東軍司令官の武藤信義>の発言<・・「それだけの大方針を実行に移す時は少なくとも米国は黙っていない。英国もまた騒ぎ立てることになる。場合によってはために世界戦争を誘発するかも知れない。その決心と用意ありや」(ちなみに、その後のやりとりは、田中大将<(首相)>は・・・即座に、「オラには決心がある」と答えた。そこで武藤中将は、「政府にそれだけの決心と準備があれば我々現地にあるものは何も言うことはない。命令一下、いつでも政府の政策の遂行に当たるだけである」だった)
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwien8C5yO77AhUzmlYBHQmiB6oQFnoECAoQAQ&url=https%3A%2F%2Fsapporo-u.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D7394%26file_id%3D18%26file_no%3D1&usg=AOvVaw3lwIjFIW8izxm_7PBPir4A ・・>は、恐らく、武藤の持論であるところ、この持論を参謀次長の時に<12歳近く年下の>杉山に吹き込み、「対策・・・決心を用意」せよ、と「命じ」た可能性が大だと思います。つまり、武藤こそ、杉山構想の生みの親である可能性が大だ、ということです。」と、以前に記した(コラム#10435)ところだが、もう少し的確に言えば、杉山は、武藤の知恵を借りながら、杉山構想を練り上げていったといったところか。
 その武藤は、東方会議後の「1927年(昭和2年)8月26日、教育総監。1932年(昭和7年)5月15日に五・一五事件が起った事により引責辞任、5月26日から軍事参議官に退く。1932年(昭和7年)8月8日、再び関東軍司令官に就任。満州国駐在特命全権大使と関東長官を兼務して満洲国承認にあたり、9月15日に同国務総理・鄭孝胥との間で日満議定書を調印。満洲国内の治安維持や熱河平定の軍功により、1933年(昭和8年)5月3日に元帥号を賜る。1933年7月22日に黄疸に罹る。一旦回復したものの、25日に腹膜炎を併発して新京の官邸で倒れ、7月28日・・・薨去」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E4%BF%A1%E7%BE%A9
という晩年を送っており、杉山が杉山構想を概成した、1928年8月からの軍務局長時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E7%9C%81
には武藤は教育総監をしていて、杉山構想を杉山と一緒に概成させたと言ってもよいのではなかろうか。
 更に想像を逞しくすれば、杉山は武藤を通じて海軍の加藤寛治にも紹介され、加藤もまた杉山構想の概成に寄与したのではなかろうか。
 この間の1928年(昭和3年)6月4日に、(通説では)村岡長太郎関東軍司令官<は>独断で河本大作大佐に張作霖爆殺事件を引き起こさせており、その結果、「奉天軍閥を継いだ張作霖の息子・張学良も程なく真相を知って激怒し、国民政府と和解して日本と対抗する政策に転換。1928年(昭和3年)12月29日朝、奉天城内外に一斉に青天白日満地紅旗が掲げられた(易幟)。結果、日本は満洲への影響力を弱める結果とな<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ことも、杉山元が、(1930年の統帥権干犯問題生(下出)とも相俟って、)満州事変を含めて1931年に実施に移されたところの、杉山構想を概成するにあたって、大きな参照事例群となったと言えるだろう。
 いや、更に踏み込んで言えば、武藤の五・一五事件後の関東軍司令官への再度の就任はイミシンであり、武藤の突然の死さえなければ、私は、武藤に敬意を表して、杉山構想と名づけた大陰謀を武藤構想と名づけることになっていたかも・・。
 ちなみに、1931年(昭和6年)9月18日の満州事変は、杉山構想に基づき、当時陸軍次官だった杉山が自ら事実上の総指揮をとって決行したと私は見ている(コラム#省略)わけだが、勃発直後の9月20日午後の3長官会議には、陸相南次郎、参謀総長金谷範三、と共に、教育総監の武藤信義も出席しており、陸軍省部の関東軍の行動に対する追認的方針決定に関与している。
https://www.u-keiai.ac.jp/issn/menu/ronbun/no3/001.pdf (太田) 

 ロシア駐在<。>・・・日露戦争に参加し、・・・戦争後半の1905年(明治38年)2月に<山本権兵衛海相の下で>海軍省副官兼海相秘書官として勤務した。・・・

⇒この副官時代に、加藤は、山本権兵衛から、改めて、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス、を叩きこまれたはずだ。(太田)

 戦後、1907年(明治40年)1月から8月まで伏見宮貞愛親王に随行しイギリスに出張し、装甲巡洋艦「浅間」「筑波」副長を歴任。1909年(明治42年)、駐英大使館付武官。1911年(明治44年)・・・

⇒この伏見宮貞愛親王・・1915年には陸軍元帥になっている・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%84%9B%E8%A6%AA%E7%8E%8B
との関係から(元々福井藩士の子だったので横井小楠コンセンサス信奉者であったはずだが、)加藤寛治は秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者になったと以前(コラム#13080(未公開)で)指摘したところだが、加藤寛治を武藤信義に引き合わせたのも、恐らく同親王だろう。(太田)

 <1922年の>ワシントン会議には首席随員として赴くが、ワシントン海軍軍縮条約反対派であったため、条約賛成派の主席全権加藤友三郎(海相)と激しく対立する。しかしワシントン軍縮条約後の人員整理(中将は9割)で、“ワンマン大臣”と呼ばれた加藤友三郎が加藤寛治を予備役に入れず、逆に軍令部次長に据えたことなどから、加藤友三郎は加藤寛治を後継者の一人と考えていた可能性さえあり、両加藤の間に決定的な対立は存在しなかったという見方もある。・・・

⇒このように解釈が分かれているところ、既述した私の説で結論が出せたのではないか。(太田)

 1926年(大正15年)12月から1928年(昭和3年)12月まで連合艦隊司令長官兼第1艦隊司令長官、その間、1927年(昭和2年)4月1日に海軍大将に昇進している。・・・
 1929年(昭和4年)1月、鈴木貫太郎が急遽侍従長に転じた後を襲って、海軍軍令部長に親補された。

⇒時の海相は(財部の一回目の海相の時に次官に起用され、二回目の海相の時に海相を引き継いだ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3 前掲
岡田啓介だ。
 財部の指示を受け、岡田は、加藤が軍令部長として何を仕出かすかを知らなかったのか、さすがにうすうす勘づいていたのかは分からないが、言われるがままにこの人事を行った、と私は見るに至っている。(太田)

 <1930年の>ロンドン海軍軍縮条約批准時にも巡洋艦対米7割を強硬に主張し反対、首相濱口雄幸、<そして、岡田に代わって再び>海相<に就いていた>財部彪と対立。これが統帥権干犯問題に発展し、1930年(昭和5年)6月の条約批准後、<岡田は>帷幄上奏(昭和天皇に直接辞表を提出)し軍令部長を辞任。岡田啓介ら条約派に対し、伏見宮博恭王・末次信正らとともに艦隊派の中心人物となった。

⇒財部が、岡田を一旦海相に就けたのは、自分が加藤を軍令部長に就けたのでは、その後「加藤の乱」を起すような人物をどうして起用したのか説明に窮しかねないからだろう。
 とまれ、加藤と念入りに打ち合わせた上で、財部はロンドンに赴いたはずだ。(太田)

 晩年、元帥府に列しようとする話が持ち上がったが、条約派の反対で沙汰やみになった、1935年(昭和10年)11月2日、後備役。1939年(昭和14年)2月9日、脳出血により死去。・・・
 <ちなみに、加藤は、1920年(明治42年)からの海軍大学校>校長時代、入校式では「当校は戦争に勝てばよいので、哲学も宗教も思想も必要ない」と訓示の中で述べていた。・・・

⇒この訓示の解釈だが、哲学/宗教/思想、に相当するところの、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス、を、(自分を含めた)日本の上澄みは信奉しており、彼らが策定する構想に基づき、この主義/コンセンサスが掲げる大義の実現を期する戦争が近い将来に始まるけれど、その中心的な担い手は陸軍なので、海軍大学生の大部分はそんなことを知ろうとする必要はなく、ひたすら、上司、究極的には海相、の命令、指示に従い、日本の海軍力の整備、運用に努力を傾注するよう努めよ、ということだろう。(太田)

 真崎甚三郎と親しく、<1936年の>二・二六事件では事件発生の朝、伏見宮、[<及び、>川島義之陸相と密談して、反乱部隊を解散させるのは難しいから「蹶起趣意書」、「陸軍大臣要望事項」にそって天皇から詔勅を渙発してもらい事態の解決を図るべきだと主張した真崎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B4%8E%E7%94%9A%E4%B8%89%E9%83%8E ]と協議を行った後三人で参内し、伏見宮が昭和天皇に拝謁したが、天皇の不興を買う。加藤はのち憲兵隊の取調べを受けた。

⇒「陸軍三長官は、教育総監渡辺錠太郎は即死、陸軍大臣は当事者能力を失い、参謀総長閑院宮載仁親王は神奈川県小田原の別邸に引き籠って上京しなかった」
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2070
、つまりは、参謀次長の杉山元(とその指揮下の作戦課長の石原莞爾)に対処を任せきりにしたことで、「その対応の拙さから、かつて自らが教育した昭和天皇の叱責を受けた。このとき親王は70歳、天皇は35歳であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E8%BC%89%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
わけだが、閑院宮も伏見宮も杉山構想を開示されていて、二・二六事件の生起については、知っていた・・海軍は組織としても東京憲兵隊長から事件発生の7日前に海軍次官に首謀者のリスト入りで知らされていた・・
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/blog/bl/pneAjJR3gn/bp/pnd61wJlr9/
ところ、杉山元から、東京にいては事実上軟禁状態に置かれて叛乱軍から担ぎ上げられた形になりかねないので、皇族は殺害されることも拉致されることもない・・君「側」の奸ならぬ君「内」の人物なるが故・・けれど、しばらく別邸に引き籠っているように求められ、言う通りにしたのだろう。
 伏見宮は、海軍なので陸軍の叛乱部隊に担ぎ上げられることはない、と見て東京にとどまり、昭和天皇の不興を買うのは予想しつつ、陸海軍の首脳クラスを経験した軍事参議官をそれぞれ1人ずつ同道し、軍部の総意であることをにおわしつつ、同天皇の反軍感情を無害化させる(すぐ下の囲み記事参照)ために昭和天皇のところに押しかけたのだろう。(太田)


[杉山構想における二・二六事件の目的]

一、陸軍大将達を一掃し、事件後杉山元を大将に昇任させる
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/sugiyama_h.html
ことで、(寺内寿一は別として)彼を事実上の陸軍トップに据えること。(成功)↓

 「事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち、荒木・真崎・阿部・林の4名は3月10日付で予備役に編入された。侍従武官長の本庄繁は女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、4月に予備役となった。陸軍大臣であった川島は3月30日に、戒厳司令官であった香椎浩平<(かしいこうへい)>中将は7月に、それぞれ不手際の責任を負わされる形で予備役となった。・・・
 また、これらの引退した陸軍上層部が陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになった。この制度は政治干渉に関わった将軍らが陸軍大臣に就任して再度政治に不当な干渉を及ぼすことのないようにするのが目的であった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒いや、そういう名目で、政治干渉に関わったかどうかを問わず、隠退した陸軍上層部が陸軍大臣に就任して杉山らに干渉を及ぼすことのないようにするのが真の目的であった、と見るべきだろう。(太田)

二、杉山構想完遂戦争態勢を構築する。(成功)↓

 「<翌年、>日中戦争の勃発(十二年七月)と拡大、<その翌年、>国家総動員法の公布(十三年四月)となった。」
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2070 前掲

⇒これは説明を要しないだろう。(太田)

三、昭和天皇の反軍感情を無害化する。(成功)↓

 「蹶起将校の一人である磯部浅一は、事件後の獄中手記の中で、昭和天皇について次のように書いている<。>
 「陛下が私共の挙を御きき遊ばして、『日本もロシアの様になりましたね』と云うことを側近に云われたとのことを耳にして、私は数日間狂いました。『日本もロシアの様になりましたね』とは将して如何なる御聖旨か俄かにはわかりかねますが、何でもウワサによると、青年将校の思想行動が、ロシア革命当時のそれであると云う意味らしいとのことをソク聞した時には、神も仏もないものかと思い、神仏を恨みました」。
 ロシア革命は1917年(大正7年)、2.26事件の19年前にあたり、昭和天皇が16歳の時に起こった事件である。ロシア革命の最終段階では軍が反乱に協力し、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世は、一家ともども虐殺された。昭和天皇が「日本もロシアの様になりましたね」と言ったとすれば、皇室がロシア王家と同じ運命を辿ることを危惧していた<と>考えられる。・・・
 この事件に対する昭和天皇の衝撃とトラウマは深かったようで、事件41周年の1977年(昭和52年)2月26日に、就寝前に側近の卜部亮吾に「治安は何もないか」と尋ねていた。また、1981年1月17日に現在の警視庁本部庁舎を視察した際に、今泉正隆警視総監に「色々な重要な施設等暴漢例えば、2・26の如き折、充分防護は考えていようね」と訊ねている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲

⇒結局のところ、日支戦争も対米英戦争も、縄文モード志向の昭和天皇が認めざるをえなかったことを思え。(太田)

四、重臣達中岡田啓介、鈴木貫太郎、高橋是清を殺害させる。(高橋だけしか成就できなかった一方で、齋藤實を殺害させてしまった。また、想定外だったのではないかと思われるが、渡辺錠太郎を殺害させてしまった)↓

 ・齋藤實(内大臣):「事件の数日前、警視庁<(警視総監?)>が斎藤に「陸軍の一部に不穏な動きがあるので、私邸に帰られないようにするか、私邸の警備を大幅に強化したらいかがでしょう」と言ってきた。・・・しかし斎藤は「気にすることはない。自分は別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか」と落ち着いて答えたという。・・・
 事件の前夜、斎藤は知日派のジョセフ・グルー駐日大使の招きで<米国>大使公邸で夕食をとった後、邸内で<米国>映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。当初は中座して別荘に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに会話がはずみ、結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった。
 2月26日未明に坂井直中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉に率いられた150名の兵士が重機4、軽機8、小銃、ピストルなどを持ち斎藤邸を二手に分かれて襲撃した。自室にいた斎藤は無抵抗で虐殺された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%9F

⇒牧野伸顕はもちろんだが、牧野以後の歴代内大臣にも杉山構想は明かされていたと私は見ており、齋藤は、岡田啓介首相や鈴木貫太郎侍従長襲を含む二・二六事件生起も知っていたが、それらの暗殺が失敗する、とりわけ、官邸に住んでいる岡田の襲撃は失敗する可能性もあると考え、あえて自分は確実に殺害されるようにした、と大胆に想像してみたいところだ。
 なお、警視庁が注意を喚起したのが重臣中の齋藤だけだった理由については、当時の内相が後藤文夫であり、外相であった廣田弘毅が二・二六事件生起を知っていて、齋藤内閣の時に初入閣した廣田
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BD%8B%E8%97%A4%E5%86%85%E9%96%A3
が、(齋藤に杉山構想が明かされていたことを知らないまま、)標的の一人だった齋藤を救うべく、国維会仲間であった後藤
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%B6%AD%E4%BC%9A
に極秘で頼み込んで警視庁に齋藤への注意喚起を行わせた、という可能性がある。
 「1月下旬から2月中旬にかけて反乱部隊の夜間演習が頻繁になっていたことなどから、警視庁で<も>情勢の只ならぬことを察し<ていた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲
とはいえ、そのことを天皇の耳に入れてもらうために、警察のイニシアティブで齋藤内大臣に情報を入れた、ということではなかろう。
 いずれにせよ、私見では、齋藤は先刻ご承知で、彼に情報を入れる必要などなかったわけだが・・。(太田)

 ・高橋是清(蔵相):「1931年(昭和6年)、政友会総裁・犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止・日銀引き受けによる政府支出の増額、時局匡救事業で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。五・一五事件で犬養が暗殺された際に総理大臣を臨時兼任している。続いて親友である斎藤実が組閣した際も留任。また1934年(昭和9年)に、・・・岡田啓介首班の内閣にて6度目の蔵相に就任。当時、ケインズ政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算を抑制しようとした。陸海軍からの各4000万円の増額要求に対し、高橋は「予算は国民所得に応じたものをつくらなければならぬ。財政上の信用維持が最大の急務である。ただ国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない。自分はなけなしの金を無理算段して、陸海軍に各1000万円の復活は認めた。これ以上は到底出せぬ」と述べていた。軍事予算を抑制しようとしたことが軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発銃撃され、暗殺された。享年83。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85

⇒岡田首相の、と言うより高橋蔵相の、軍拡後における軍事費抑制姿勢の打ち出しという失策をも杉山元が利用して二・二六事件を生起させ、その結果として、高橋は殺害されてしまった、というわけだ。(太田)

 ・渡辺錠太郎(教育総監):「1935・・・年<7>月に真崎が教育総監を更迭されその後任として渡辺が選ばれた。
 人事後の7月18日に行われた軍事参議官会議において、退任に納得のいかない真崎と荒木は林陸相と対峙した。永田鉄山軍務局長を黒幕であると見ていた真崎は、永田が三月事件の際に執筆したクーデター計画書を持ち出した。
 渡辺からこれは私文書なのかそれとも機密書類なのかと尋ねられた荒木が機密文書であると述べたところ、渡辺は、機密文書を一参議官にすぎない真崎がなぜ所持しているのか、この場でそれを持ち出すのは永田を陥れようとする策略ではないのかと真崎、荒木を厳しく追及した。
 ・・・<また、>教育総監就任後に第3師団の将校たちに対して真崎による国体明徴訓示を批判した。
 軍事参議官会議におけるやり取りは真崎によって青年将校に漏らされ、さらに国体明徴声明への批判は天皇機関説の擁護と捉えられいずれも青年将校の憤激を買った。・・・
 <齋藤實>内大臣を私邸において襲撃、殺害した坂井直中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉率いる兵150の部隊から安田少尉、高橋少尉が兵30を率いて杉並区上荻窪の渡辺教育総監私邸を<2月26日>午前六時頃に襲撃し、表門から入り玄関前に機関銃を据えてこれを乱射、裏庭から室内に侵入して廊下から寝室に向け機関銃を発射、さらに銃剣で殺害した。・・・
 安田優少尉は、本来渡辺を殺害する意図は無く、陸軍大臣官邸まで連行するのが目的であったと供述している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E9%8C%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E

⇒どうやら、高橋太郎少尉の個人的独断によると思われるところの、最初から機関銃の乱射という乱暴な形での凶行だったわけだが、陸軍首脳クラスも犠牲になってしまったことで、結果的に、陸海軍間のわだかまりが高まることが回避されるという効果があったのではなかろうか。
 なお、渡辺が殺害されなかったとしても、陸軍三首脳の一人として、事件終息後、事件の責任を取らされ、彼の予備役編入は避けられなかっただろう。(太田)

 ・岡田啓介(首相):「反乱軍は岡田の殺害を狙って首相官邸を襲撃した。反乱軍は岡田を殺害したと誤認したが、実際に殺害されたのは岡田の義弟で<無償で>秘書官を務めていた松尾伝蔵であり、岡田は首相官邸の中で女中部屋にかくまわれていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%95%93%E4%BB%8B
 「<首相>秘書官の迫水久常は、なんとか岡田を救出しようと海軍大臣大角岑生に相談を持ちかける。
 迫水は岡田生存の事情を伏せつつ大角大臣に相談する。
 「陸戦隊を出して欲しい」
 しかし、大角は・・・「そんなことをしたら陸海軍の戦争になる」と反対。
 迫水は更に言葉を続け「もし都合が悪かったらこの話は聞かなかったことにしていただきたい。実は岡田大将は生きてます。官邸の一部屋に隠れて救出を待っています。」と。
 聞かされた大角海軍大臣「君、その話は聞かなかったことにするよ」と・・・。」
https://senseki-kikou.net/?p=770
 「検分のために首相官邸へ入っていた篠田惣壽憲兵上等兵が岡田首相が生存していることを発見した。当時麹町憲兵分隊の特務班班長(特高主任とも)であった小坂は、篠田の報告を受けて首相秘書官であった福田耕や迫水久常らと協力し、青柳軍曹及び小倉倉一憲兵伍長らと策を練り、翌27日に岡田と同年輩の弔問客を官邸に多数入れ、反乱部隊将兵の監視の下、弔問客に変装させた岡田を退出者に交えてみごと官邸から脱出させた。
 3月11日に岩佐禄郎憲兵司令官より、岡田首相を救出した功績により青柳軍曹、小倉伍長とともに表彰を受ける。しかし、小坂の著書によれば当時の憲兵将校の中には皇道派に同調する者も多く、小坂が首相を救出したと知ると・・・正面切って非難され<たり>、褒賞面で冷遇された<りした。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%9D%82%E6%85%B6%E5%8A%A9

⇒憲兵隊は、二・二六事件が起こることを海軍には伝えたが首相官邸(岡田)には伝えず、しかも、大角海相も(恐らくは、海軍次官の長谷川清
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%9C%81
に海軍の外には一切漏らさないよう口止めした上で)、海軍の先輩である岡田に(気を利かせて念のためにでも)事前に伝えようとしなかっただけでなく、叛乱部隊の占拠下にある首相官邸の岡田の救出ないし救出協力、さえ全くしようとしなかったことから、齋藤同様、大角は、二・二六事件的なものを生起「させる」ことを含め、杉山構想、を開示されていたことを推認させる。(太田)

 鈴木貫太郎(侍従長):「事件前夜に鈴木はたか夫人と共に駐日<米国>大使ジョセフ・グルーの招きで<齋藤も出席していた>夕食会に出席した後、11時過ぎに麹町三番町の侍従長官邸に帰宅した。
 午前5時頃に安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が官邸を襲撃した。はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。鈴木は四発撃たれ、肩、左脚付根、左胸、脇腹に被弾し倒れ伏した。血の海になった八畳間に現れた安藤に対し、下士官の一人が「中隊長殿、とどめを」と促した。安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。安藤はうなずいて軍刀を収めると、・・・兵士を引き連れて官邸を引き上げた。
 反乱部隊が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。たかは止血の処置をとってから宮内大臣の湯浅倉平に電話をかけ、湯浅は医師の手配をしてから駆けつけた。鈴木の意識はまだはっきりしており、湯浅に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と言った。声を出すたびに傷口から血が溢れ出ていた。鈴木は大量に出血しており、駆けつけた医師がその血で転んだという風評が立った。
 近所に住んでいた日本医科大学学長・塩田広重とたかが血まみれの鈴木を円タクに押し込み日医大飯田町病院に運んだが、出血多量で意識を喪失、心臓も停止した<が、>・・・、奇跡的に息を吹き返した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E

⇒岡田同様、鈴木にも、杉山構想も二・二六事件も、教えられていなかったわけだ。
 岡田と鈴木は、その後、齋藤には警視庁(警視総監?)から、海軍次官には東京憲兵隊長から、二・二六事件の予冷が鳴らされていたのに、自分達にはなかったことで、一緒に、或いは、まず岡田が、次いで恢復後鈴木が、少なくとも大角海相を問い詰めたことだろうが、大角が答えるわけがなく、そうこうしているうちに、貞明皇后から、直々に、2人が九死に一生を得たのは天の加護があるからだとしか思えず欣快に絶えない、ついては、詳しい説明は省くが、早晩日本は陸軍がリードする形で軍事的には必敗の長期にわたる大戦争を戦うことになるので、その終戦を図るべき時が来たら改めて肩を叩くので、両名は協力して海軍を使って終戦のイニシアティヴを取って欲しい、と言い渡され、2人は苦笑しながら承知した、といったやりとりがなされた、と、私は、大胆に想像するに至っている。(太田)

 ・西園寺公望:「決起将校の一部が西園寺襲撃を計画していた。対馬勝雄・竹島継夫らをはじめとする将校が、愛知県豊橋市の陸軍教導学校の生徒120人を使って坐漁荘を襲撃する予定であった。しかし将校の一人が生徒を利用することに反対したため、襲撃計画は中止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B

 ・牧野伸顕:「牧野は・・・湯河原の伊藤屋旅館別荘「光風荘」に宿泊していたところを襲撃されるが、孫でもある麻生和子(吉田の娘で麻生太郎の母。)[牧野伯をかばって襲撃した将兵の銃口に身をさらした<ことと牧野の妻の峰子の>・・・機転によって]・・・窮地を脱した一方で、護衛の警官が殺害された。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E5%92%8C%E5%AD%90 ([]内)

⇒前者は最初から襲撃計画がなかったことを示しているし、後者は襲撃を最初から未遂に終わらせる計画だったことを示している、と私は考えている。(太田)

 なお、後藤文夫<(前出)>(内相・副総理格):「警視庁占拠後、警視庁襲撃部隊の一部は、副総理格の後藤文夫内務大臣を殺害するために、内務大臣官邸も襲撃して、これを占拠した。・・・後藤本人は外出中で無事だった。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲とされているところ、その一方で、「2月22日に暗殺目標<から外された」(上掲)ともあり、真相については調べがつかなかった。

 <齋藤實>とともに日露協会の幹部を務め、駐日大使のアレクサンドル・トロヤノフスキー<(注10)>とは親しくした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%AF%9B%E6%B2%BB

 (注10)1882~1955年。「1904年社会民主労働党に入党し、’10年にエニセイ県に流刑となるが、後に国外に亡命。’17年の革命後に帰国し、メンシェビキ党中央委員となるが、’23年には共産党員となる。’27年駐日特命全権大使に任命され、’33年には駐米大使となるが、’39年に解任された。なお、後に息子のオレグ・トロヤノフスキーも駐日大使を務めた。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%20%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%A4%E3%83%8E%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC-1627260

⇒岡田は、齋藤實にも親しくしてもらっていたというだけのことだろう。(太田)

  シ 大角岑生(おおすみみねお。1876~1941年) 海兵24期(3位)

 「愛知県中島郡三宅村(現・稲沢市平和町)で、農<家>・・・の長男として生まれる。・・・
 明治42年(1909年)より2年間ドイツに駐在し、帰国とともに中佐に進級し、東郷平八郎元帥の副官となる。1年近く東郷の側近として修行し、「筑波」副長を経て再び軍務局に戻る。

⇒大角は、この時、東郷からリクルートされた、と見る。(太田)

 大正3年(1914年)から6年(1917年)までの3年間、シーメンス事件を処理した八代六郎、八八艦隊計画を実行に移した加藤友三郎の両大臣の側近となった。

⇒加藤友三郎は、日本海海戦の時、「連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として日本海海戦に参加。連合艦隊の司令長官・東郷平八郎、参謀長・加藤、参謀・秋山真之らは弾丸雨霰の中、戦艦「三笠」の艦橋に立ちつくし、弾が飛んできても安全な司令塔には入ろうとせず、兵士の士気を鼓舞した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%8F%8B%E4%B8%89%E9%83%8E
というのだから、東郷とは切っても切れない縁がある人物だ。(前出)(太田)

 しかし加藤が自ら推進した八八艦隊計画を捨ててワシントン軍縮条約受諾を決意した際、大角はフランス大使館附武官として加藤のもとから離れていたため、何も加藤から学ぶことはできなかった。

⇒大角のウィキペディア執筆陣が、大角が条約派にならなかった理由が分からず苦慮していることを示している。(太田)

 大正7年(1918年)から2年間、フランスに滞在した。ジュネーヴに本部を置く国際連盟に最も近く、連盟の状況をいち早く把握できる重要なポストである。大角はパリ講和会議に随員として列席しており、日本の南洋諸島獲得が承認されたその現場にいた。

⇒東郷から報告を受けていたであろう西園寺公望や牧野伸顕は、当然、大角にも目をかけたことだろう。(太田)

 大正9年(1920年)に少将へ進級し、翌年7月に帰国した。
 しばらく無任所であったが、大正11年(1922年)5月、<加藤友三郎海相の下で>軍務局長、12年(1923年)12月、第3戦隊司令官、14年(1925年)4月、<財部彪海相の下で>海軍次官、昭和3年(1928年)12月、第二艦隊司令長官と、連合艦隊・海軍省の重要ポストを交互に経験した。

⇒大角は、「東郷→加藤(友)→財部→大角」という帝国海軍嫡流の嫡子だったわけだ。(太田)

 次官進級の直前に中将へ進級している。次官として大角が補佐した大臣は財部彪大将だった。大角は軍縮条約にまったく関与していないため、条約派と艦隊派の対立には関心がなく、次官時代はワシントン条約受諾はやむを得ないとする空気があったため、大角自身も問題にしていなかった。

⇒ここからも、ウィキ執筆陣が、大角が条約派にならなかった理由が分からず呻吟していることが伝わってくる。(太田)

 昭和4年(1929年)の定期異動で横須賀鎮守府司令長官に任命され、2年間勤めた。
 この間、昭和6年(1931年)4月に山本英輔と同時に大将に進級した。
 昭和6年(1931年)12月、第2次若槻内閣が総辞職し、前任の安保清種が慣例に従って横須賀鎮守府長官の大角を犬養内閣の海軍大臣に指名した。

⇒横須賀鎮守府長官だったからというよりも、次官経験者なのだから、その後どこにいようと、当然、大臣候補者であったわけだ。(太田)

 艦隊派と条約派の抗争が続き、強硬な条約派だった軍令部長・谷口尚真<(コラム#13088(未公開))>の更迭を決めた矢先に、安保<(あぼ)>は大臣を大角に譲らざるを得なくなり、後任人事を託した。
 大角は、陸軍参謀総長に閑院宮載仁親王元帥が就いていることを勘案して、伏見宮博恭王大将を軍令部長に推し[1932年(昭和7年)2月2日に就任し
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BB%A4%E9%83%A8
]た(陸軍が皇族総長の威光で海軍を圧迫する可能性を封じる意図もあったという)。

⇒参謀総長と軍令部長にそれぞれ皇族を就けることが杉山構想に盛り込まれており、貞明皇后/西園寺公望/牧野伸顕、が、海軍の場合は、財部(軍事参議官)/大角(海相)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A1%E9%83%A8%E5%BD%AA 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A7%92%E5%B2%91%E7%94%9F 前掲
を通じて、伏見宮を軍令部長に就けたと考えられる。
 大角個人の意思は殆ど働いていないはずだ。(太田)

 昭和7年(1932年)に伏見宮は元帥となり、東郷平八郎の死後は海軍最長老となる。これが後に自らを窮地に追い込むことになる。

⇒そういう次元を超えた話だった可能性が高い、と、私は指摘しているわけだ。(太田)

 着任から半年後、首相・犬養毅が五・一五事件で海軍将校に暗殺されたため、大角は引責辞任を余儀なくされた。現役海軍将校が徒党を組んで首相を暗殺した際の海相ということを考えれば予備役になってもおかしくなかったが、世論に暗殺犯への同情が強かったこともあり現役にはとどまることができた。
 犬養の後継に首班指名されたのが海軍の重鎮である<齋藤實>大将であったことと五・一五事件の収拾を図る必要があったことから、大角はあえて長老の岡田啓介大将を後任に指名した。
 しかし、岡田には定年退職(65歳)の期限が迫っていた。これが計算ずくなのかは不明だが、岡田の定年に合わせて大角は昭和8年(1933年)1月に海軍大臣の座に復帰した。この復帰により、大角は後世から数々の批判を受ける決断を重ねる。
 まず強硬な艦隊派の領袖であった軍令部次長・高橋三吉が、戦時のみ軍令部に移譲されていた海軍省の権限の一部を平時にも軍令部に引き渡すよう要求してきた。当然ながら官僚気質の大角は、既得権を放棄する気はない。

⇒そういうポーズをとっただけのことだろう。
 なお、この入り組んだ海相人事の背景についての私見を前述した。(太田)

 しかし、局長部長や次官次長の激論は平行線で終わるものの、大臣・部長級の議論となれば、大角の相手は皇族である伏見宮である。部下たちの議論は平行線が続き、最高責任者同士の交渉に持ち越された。
 伏見宮の威光を前に、大角は艦隊派(軍令部側)の要求を次々と認めていく(伏見宮はこの件について「私の在任中でなければできまい。是非やれ」と部下を督励しており、皇族の威光で押せば大角は折れると読んでいたようである)。
 かくて、軍令部からは将来の軍拡路線を妨害する恐れのある将官の追放を要求された。谷口尚真のほか、山梨勝之進、左近司政三、寺島健、堀悌吉ら次官、軍務局長経験者、軍事普及部委員長・坂野常善らを、大角は自らの署名つき辞令で追放した。これが「大角人事」と呼ばれる恣意的な条約派追放人事である。

⇒猿芝居をした上で、大角は、以前からの予定通り、杉山構想的なものに感受性のなさそうな人間で順当に行けば将来海軍首脳になるであろう人々を退役させた、ということだ。(太田)

 海軍内で弾圧の片棒を担がされている頃、<日本は>外交問題で重大な局面を迎えていた。リットン調査団の報告に日本は反発し、国際連盟脱退も辞さない空気がみなぎった。
 枢密院の実力者であった伊東巳代治<(コラム#12910)>は、大角がパリ講和会議で獲得した南洋の委任統治領を返還したくないと判断するものと期待<(注11)>し、大角に脱退阻止行動を起こすよう訴えた。

 (注11)「1933年(昭和8年)、日本が国際連盟を脱退すると委任統治の根拠に疑義を呈せられたため、・・・ 委任統治はヴェルサイユ条約での批准事項であることを盾に引き続き委任統治を行<うこととし>た・・・一方で国際連盟を脱退したということで国際連盟理事会が制定した「委任統治条項」は無効であるとの見解を示し、軍事基地設置禁止規定に反し来るべき対米戦争のためにワシントン海軍軍縮条約が失効した1936年以降は各島の基地化、要塞化を推し進めてい<った>。なお国際連盟への統治に関する年次報告は1938年まで行っている。・・・同年3月16日「帝国の国際連盟脱退後の南洋委任統治の帰趨に関する帝国政府の方針決定の件」を閣議決定し、南洋庁告諭(南洋庁告諭昭和8年1号)を示して引き続き委任統治を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%8B%E8%AB%B8%E5%B3%B6

⇒伊東は山縣有朋死去後は糸の切れた凧になってしまっていた、and/or、ボケてしまっていた、のだろう。(太田)

 しかし陸軍が熱河省に進出する計画を察知していた大角は、海軍だけが反対するのは政治混乱を招くので好ましくないと反論し、激怒した伊東は脱退阻止行動そのものを放棄してしまった。
 また、関東軍司令官・本庄繁と陸軍大臣・荒木貞夫が、満洲事変の戦功により男爵に叙せられた際に、事変には何も関与していなかったにもかかわらず、事変勃発時の海軍大臣という理由で大角も男爵に叙せられた。海軍部内では失笑され、陸軍部内では憤慨する者が続出した。

⇒西園寺/牧野が、杉山構想に沿って尽力した大角を労ったということだろう。(太田)

 確固たる信念を持たず、指導力に欠け、ただ内外と波風を立てぬように腐心してきた大角が遂に馬脚を現したのが、二・二六事件の処理であった。
 海軍出身の首相・岡田啓介、内大臣・斎藤実、侍従長・鈴木貫太郎が襲撃されたため(斎藤は死亡、鈴木は重傷、岡田は死亡と報道されたが無事であった)、海軍省内では反乱軍との徹底抗戦論が沸き起こった。しかし大角は的確な処理を下せず狼狽するばかりだった。大角を尻目に、連合艦隊司令長官・高橋三吉は東京湾に第一艦隊を進入させ、反乱軍の占拠拠点に艦砲の照準を合わせて臨戦態勢を取った。
 横須賀鎮守府でも、留守の長官・米内光政に代わって参謀長・井上成美が陸戦隊の編制を命じ、戻った米内も後押しして東京突入の準備が早々に完了した。
 しかし現場の的確・迅速な行動に反して、大角は命令を下せなかった。暗殺されたと思われた岡田の生存情報を受け取った大角は「何も聞かなかったことにする」と返答し、岡田を救出しようとはしなかった。

⇒既述したように、大角は、そもそも、二・二六事件的なものが起きることやその杉山構想における位置づけについても知っていた上、直前に、東京憲兵隊から生起情報を得ており、これまた、以前から予定していた通りに対処した(無視した)、ということだ。(太田)

 反乱鎮圧後、大角は海軍大臣を永野修身大将に譲り、軍事参議官となる。二・二六事件後、荒木貞夫・真崎甚三郎ほか多数の大将を予備役に編入した陸軍とのバランスを取るために、海軍からも3名の大将を予備役に編入する事になったが、山本英輔・中村良三・小林躋造(中村は大角より3期下、小林は2期下)がその対象となり、この時も大角は現役にとどまることができた。したがって、大角の現役大将の中での序列は伏見宮に次ぐもの、皇族以外では最古参であることには変わりなかった。

⇒大角は、伏見宮のスペアとしての役割を忠実に果たし続けた、ということだろう。(太田)

 昭和15年(1940年)末頃から、体調を崩した伏見宮は軍令部総長を辞職する意向を固めていた。

⇒体調如何にかかわらず、(私見では、対英米戦の時期が近づいてきていたことから、就任の時の順序に従い、)閑院宮が1940年10月に参謀総長を辞めた時、何か月後かには伏見宮も辞めることになっていたはずだ。(太田)

 序列に従えば、次期総長は大角か永野に禅譲される。海軍大臣・連合艦隊司令長官を歴任して実績を積んでいる永野に対し、大角は過去の人と見なされていた上に定年間近であった。

 大角は挽回のために中国視察を決意し、大陸に渡った。昭和16年(1941年)2月5日、大角は随員(須賀彦次郎少将、角田隆雄中佐、白濱栄一中佐、立見忠五郎主計大佐、松田英夫大尉)等とともに広州から飛行機(日本航空)で飛び立ち、消息不明となる。

⇒「挽回のために」は意味不明。(太田)

 その後、広東省西江下流西岸の黄揚山にて墜落した機体が発見され、乗員全員の死亡が確認された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A7%92%E5%B2%91%E7%94%9F

  ス 末次信正(1880~1944年) 海兵27期、海大7期(首席)

 「<旧長州藩(萩藩)の支藩の>旧徳山藩士・・・の次男として山口県に生まれる。・・・
 1910年(明治43年)、海軍砲術学校教官となった末次は、艦の中心線上一列に主砲を装備し、一斉射撃の効率を高める独創案を無断で学生に伝授した。上官は黙殺したが、当時世界最高の海軍国であった<英国>が同様の思考で超弩級戦艦「オライオン」を建造したことで、末次の見識が認められた。
 1914年(大正3年)に・・・<第一次世界大戦>従軍武官として・・・渡英。・・・
 特に戦艦の変容と潜水艦の活用に関心を持ち、在英中に作成した「対米戦略論」では、潜水艇によるパナマ運河及びハワイの閉塞作戦に始まり、西太平洋での迎撃を想定した五段階の漸減戦略を構想している。

⇒末次は、海軍戦術の天才だったわけだ。(太田)

 1919年(大正8年)の軍令部第一課長(作戦課長)となる。
 1922年(大正11年)のワシントン軍縮会議では次席随員を務める。条約案に反対し、首席随員である加藤寛治と共に全権・加藤友三郎に抵抗したが、条約は締結された。

⇒加藤(寛)の反対は、前述したように、加藤(友)からの「指示」に基づく芝居だったが、末次のそれは本心からのものだった、と見る。(太田)

 12月1日、慣例では少将が補職される軍令部第一班長(作戦部長)に大佐で就任した。

⇒これは、鉄砲玉として使える、と加藤(友)/加藤(寛)、はふんで、末次を抜擢した、と見る。(太田)

 日本海軍の作戦指導書海戦要務令の作成に携わって対米作戦の改善を進め、対米作戦の完成者との評価もある。 後に、軍縮条約の影響による索敵・漸減・決戦構想について根本的な疑問を示し、高木惣吉は末次の研究の深さに感銘を受けている。また海軍艦艇は重武装のため友鶴事件を引き起こしているが、末次は事前にこの重武装を戒める警告を発していた。
 日本の潜水艦は佐久間勉の殉職などを生みながら、未だ草創期にあったが、末次は漸減戦略の要となる潜水艦の強化を図り、1923年(大正12年)には自ら第一潜水戦隊司令官となり輪型陣突破の猛訓練を実施した。
 同時に潜水艦の性能向上に努め、艦隊運動に策応できる長距離航海可能かつ高速性を備えた艦隊用潜水艦が開発された。演習で末次指揮下の潜水艦3隻が戦艦2隻を撃沈するなどの実績もあがり、六割海軍である日本海軍は米国艦隊との対決に成算を得ることができ、末次の声価は高まった。

⇒しかし、末次は、戦術的思考ないし静的(static)思考はできても戦略的思考ないし動的(dynamic)思考ができない人間だった。
 井上成美が後に「新軍備計画論」(コラム#13126(未公開))で指摘したように、日本に米本土侵攻・占領能力がない以上、米国の軍事生産が加速度的に増え、日本海軍が米海軍に対してどれだけ戦術的に勝利を積み重ねたとしても、時間の経過と共に兵力量の格差は増大して行き、早晩、日本は軍事的に敗北する、ということが末次にはついに本当の意味では分からずじまいだったと思われる。(太田)

 1929年(昭和4年)、軍令部次長に進んでいた末次はロンドン海軍軍縮会議を迎えることとなる。・・・
 末次らが「対英米7割論」を唱え、軍縮条約に三大原則を主張した点については理論的根拠があった。海上での戦闘行動が行われた場合、彼我の勢力比は静止状態の勢力の自乗に正比例するというものである。
 つまり、米国10対日本7の勢力比は、戦闘行動中は100対49(ほぼ2対1)となる。この比率であれば、戦術的工夫で艦隊決戦の勝利を望み得るというものである。これには7割未満の艦隊は敗北するという戦史上の裏づけもあった。
 なお7割論を戦史研究から導き出したのは、秋山真之である。この理論を基礎とした七割論は説得力があり、対米十割でも米国との戦争はできないと主張していた石橋湛山なども条件付ながら認めていた。
 同じ理由により、もし同一条件で10隻対7隻が戦闘した場合の残存艦は7隻対0隻である。 こうした数字の現実が、末次を対米戦術に腐心させ、月月火水木金金と謳われた猛訓練を生んでいるのである。一方海軍部内には同じ理由で対米戦、まして対英米戦は不可能と考える将官たちも少なからずいた。
 なお日露戦争以降、米国側でも日本を仮想敵国とした戦争計画が策定されており、同様に「日本側にとって70%の優位性は攻撃の成功にあたり必須であるだろう」と考えている。・・・

⇒もちろん、静的(static)思考の範囲内では、対米7割論は「真理」なのだ。(太田)

 3月17日、海軍は軍縮条約に不満があるという海軍当局の声明が夕刊に掲載されたが、海軍省が関知しないものであり、加藤寛治も知らないものであった。この声明により海軍部内に対立があることが表面化したが、声明をもらしたのは末次であった。

⇒いやいや、阿吽の呼吸で加藤(寛)が末次に鉄砲玉をやらせたのだろう。(太田)

 政府は海軍側の意向を受けて軽巡洋艦及び駆逐艦を減らし、大型巡洋艦及び潜水艦の増加を求めるよう回訓した。
 3月22日、全権団から会議決裂の覚悟がなければ、新提案は無益との回答が来る。
 4月1日、首相・濱口雄幸は海軍首脳の岡田啓介、加藤寛治、山梨勝之進に了解を求める。海軍首脳は海軍の要望を受け入れることを条件に賛成し、同日午後の閣議で今後は航空兵力の増強に努める等の要望事項が了解され回訓発信となった。なお末次は海軍側の協議でこの回訓の発信に賛成している。末次はこの数日後、航空兵力増強策で海軍の意向を取りまとめた山梨に対し、「良いものを出してくれてよかった。そのへんで納まるよ」と語っている。
 4月2日、末次は黒潮会(海軍省記者クラブ)に不穏文書を発表しようとして海軍省に抑えられる。このことは表面化しなかったが、末次は海軍省事務取扱でもあった濱口総理に呼ばれ回訓に沿って努力するよう求められる。末次は了承し、3月17日の声明につき直立不動で次のように謝罪した。
 先に不謹慎なる意見を発表したるは全く自分一己の所為にして、甚だ悪かりし、自分は謹慎すべきなれども目下事務多端なれば毎日出勤しおれり、なにとぞしかるべき御処分を乞う・・・
 4月5日、貴族院議員との会合に出席した末次は秘密事項に触れ、それは文書となって一部に流出した。一連の行為は濱口の怒りを買い、政府内部で問題化した。海軍側では末次が公開の場で政治を語ったとして海軍省法務局で末次の処分が検討された。末次の行動は加藤寛治さえ持て余すものであった。

⇒末次自身は、自分が芝居がかった政治的マヌーバーを巧妙にやっていると思い込んでいたのだろうが、実際のところは、加藤(寛)の掌の上で転がされていただけだ、と見る。(太田)

 4月17日、末次は加藤寛治から戒告を受ける。なお4月から5月にかけて末次宛に機密費が集中して支出されており、政治家や右翼団体への工作費ではなかったかとの推測がある。

⇒その後の伏見宮軍令部長(部総長)時代ならいざ知らず、加藤は全くお飾り的要素のない時代の軍令部長なのだから、当然、加藤が全て承知の上で末次に機密費を使わせていたわけだ。(太田)

 6月7日、昭和天皇に軍事の進講をした際、軍縮条約に強硬に反対する旨を述べた。これは既に軍縮条約締結に賛成した海軍省及び軍令部の方針に反するもので、天皇の不興を買った。
 6月10日、末次、山梨勝之進はそれぞれ軍令部次長、海軍次官から更迭された。
 ロンドン海軍軍縮条約による補助艦比率は、要求の対米7割(70%)に対して不足は僅か2厘5毛(0.25%)であった。このことはワシントン海軍軍縮条約に比べて、譲歩を勝ち取ったといえる。
 にも関わらず、艦隊派が強硬に反対した理由としては、次のような点があった。
 ワシントン海軍軍縮条約の結果、戦艦等の主力艦が既に対米6割になっていた。
 主力艦の代用となる大型巡洋艦が対米6割となった。
 漸減作戦の鍵となる潜水艦の所要量に不足した。
 末次が強硬にロンドン海軍軍縮条約に反対した最大の理由は、潜水艦量に制限を加えられたためと推測されている。上述の通り対米作戦において潜水艦が担う索敵、漸減の役割は大きく、末次は自ら潜水艦部隊を作り上げてきた。末次にとって潜水艦は絶対量が必要であり、比率は無意味であったのである。
 なお、第二次世界大戦では主力兵器となった航空機は、第一次世界大戦において兵器として活用が始まったばかりで技術的にも未発達であり、例えば零式艦上戦闘機が開発・配備されるのは十年以上後の1940年7月(昭和15年7月)のことだった。
 当時の各国は海戦の勝敗を主力艦が握ると考えていた、いわゆる大艦巨砲主義の時代である。しかし当時の日本は、1905年のドレッドノート完成による既存艦艇の陳腐化とそれを補うための建艦競争の激化に加えて、1923年に発生した関東大震災からの復興対応と1929年に起こった世界恐慌による経済的苦境にあり、更に日露戦争の戦費調達の為に発行した外債約1億3,000万ポンド(約13億円弱)の借り換え時期を控えていた。
 七割論は艦隊派、条約派を問わず支持するところであったが、日米の国力差を考慮すれば軍縮条約が必要であるとするのが、岡田啓介、山梨勝之進<(コラム#13072)>、堀悌吉ら条約派であ<った。>・・・

⇒このうち、岡田は、既述したように、横井小楠コンセンサス信奉者であったはずの福井藩士の長男で、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者たる加藤友三郎海相によって海軍次官に任用されたにもかかわらず、また、田中義一首相の時に前任海相の、杉山構想策定協力者たる財部彪らによって海相に初任用されたにもかかわらず、いや加えるに田中や張作霖爆殺事件等からも何も学ぶことなく、幕末の同藩のオーナーの松平春嶽が徳川慶喜や薩長等の動きを読み切れず右往左往したことを思い出させるような、右往左往ぶりを見せたことから、そこを「見込まれて」杉山構想推進者達に利用されることになった、と私は見ているところ、山梨は、旧仙台藩士の長男で、山本権兵衛の副官を務めたにもかかわらず、やはり、岡田同様、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者にはならなかった、海軍プロパー以外のことには無知・無関心な、真面目で謙虚なだけが取り柄の人物(注12)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E5%8B%9D%E4%B9%8B%E9%80%B2
であり、また堀は、豊臣氏の木下家を藩主と仰ぐ日出(ひじ)藩領出身者ではある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%87%BA%E8%97%A9
けれども、豪農の家に生まれ、母親こそ日出藩士の娘であったものの、「父は堀の兵学校受験に反対し・・・、学費の心配は要らないから他の学校に行け、と堀に言ったという」人物であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%82%8C%E5%90%89
日本海海戦参戦や第一次世界大戦の時のフランス駐在の経験から、戦争罪悪説を唱えるようになった(上掲)ところの、横井小楠コンセンサス信奉者にすらなりえなかった、(つまりは、父の言に従い海軍軍人になどなるべきではなかったところの、以前(コラム#12794で)記したように、)利巧馬鹿の典型だった、ことから、山梨、堀の両名は、杉山構想推進者達によって、単に斬り捨てられることになった、と見る。(太田)

 (注12)戦後、山梨は、「統帥権問題に対する海軍の全般的な態度は、もともと、憲法解釈は枢密院の権限であるのにかんがみ、われわれが憲法論などを言ってみたところで世間の物笑いになるだけであり、アメリカの態度、予算の問題などで頭がいっぱいで、海軍省及び軍令部において、考えたことも、言ったこともなく、興味もなければ研究したこともなかった。」と述べている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E5%8B%9D%E4%B9%8B%E9%80%B2 前掲

 軍縮条約締結後も批准のためには帝国議会の承認、軍事参議院の同意、枢密院への諮詢が必要であり、末次ら艦隊派は統帥権干犯を唱え反対を続けた。それまで憲法を研究したことのなかった海軍にあって、末次らが統帥権を取り上げたのは、政権奪取を図る野党政友会の影響があったとされる。末次は同党幹事長で策士といわれた森恪とつながっていた。
 加藤寛治は海軍部内で神聖視されていた東郷平八郎に働きかけ、東郷は軍縮条約反対に回り、また伏見宮博恭王も反対であった。

⇒いや、話は逆で、東郷と伏見宮が加藤(寛)に働きかけた、と私は見る。(太田)

 軍令部の反対にも関わらず政府が条約を結んだこと、また、軍令部長である加藤の上奏の順序が政府の上奏の後回しになったことなどが統帥権干犯であるとして、政府攻撃を行ったのが犬養毅・鳩山一郎らの政党政治家であり、後に墓穴を掘ったと評されることとなる。

⇒むしろ、岡田側が彼らを巻き込み、犬養は政治的利用をされ、鳩山は政治的利用に加えてその法学知識を利用されたのだろう。(太田)

 草刈英治の自決<(コラム#13082)>や、加藤寛治の帷幄上奏による軍令部長辞任、外相・幣原喜重郎の失言など事態は混迷し、一時は批准が難しい事態になったが、濱口総理の強硬姿勢と宮中関係、財界、言論界の支持があり、1930年(昭和5年)10月2日にロンドン海軍軍縮条約は批准された。
 ロンドン海軍軍縮条約を巡る紛糾は海軍部内の分裂を招き、戦前の日本の針路に大きな影響を及ぼした。具体的には次のような影響が指摘されている。
・1931年(昭和6年)、濱口総理暗殺。
・1932年(昭和7年)、五・一五事件において海軍青年将校らによる犬養総理の暗殺を招き、政党政治の終焉を迎えた。
・1933年(昭和8年)、艦隊派が主導した大角人事によって条約派将官の山梨勝之進、堀悌吉らが予備役となった。また、「軍令部令」及び「省部互渉規定」改正によって海軍省の権限が弱体化し、軍令部の影響力が強まった。
・1936年(昭和11年)、二・二六事件において陸軍青年将校らによって重臣達が襲撃された理由となった。
・統帥権を主張する軍部の影響力が強まった。
 こうしたことから、ロンドン海軍軍縮条約は太平洋戦争の要因にも数えられている。

⇒というより、杉山構想推進者達がロンドン海軍軍縮条約締結騒動を引き起こすことによって、杉山構想概ね完遂を目指す最終フェーズにおける対英米戦付の先の大戦を始める契機としたのだ。(太田)

 また副次的には財部彪が失脚し、海軍創設以来の薩の海軍がその実体を失うこととなった。

⇒海軍は、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者たる伏見宮軍令部総長が牛耳るところとなったのだから、話は逆で、海軍は最後まで薩摩の海軍であり続けたのだ。(太田)

 なお、五・一五事件を起こした海軍青年将校に末次の影響があったともいわれる。指導者であった藤井斉は、信頼する海軍軍人として末次を挙げ、また実行者は理由に統帥権干犯を挙げている。米内光政は扇動したのは末次だと考えていた。 <その>末次は<、>二・二六事件において<は>、海軍兵力による反乱部隊鎮圧に賛成している。

⇒末次のような政治/戦略音痴の戦術の天才は、往々にして、自分の戦術的才能が発揮できる場を求めて、戦争志向者(Warmonger)になる場合がある、ということだろう。。(太田)

 1931年(昭和6年)9月に満州事変が生起した際、末次は第二艦隊司令長官に就任。続いて発生した第一次上海事変では戦闘区域に民家があったが、艦砲射撃を実施した。 末次が事態を拡大することが危惧され、第三艦隊が編成され、野村吉三郎が司令長官に任命された。
 1933年(昭和8年)11月15日、海軍兵科将校の最高の憧れであった連合艦隊司令長官に就任した。 海軍青年将校はその就任を大歓迎したという。また連合艦隊司令長官は国民の間に人気がある職位であったが、末次の人気は歴代長官中、東郷平八郎に次ぐものであった。末次には犯し難い威厳があったとされ、長官としては夜戦を重視した猛訓練を施してその戦力を向上させ、小柳冨次はその程度を極度としている。

⇒まさに、Warmonger の面目躍如といったところだ。(太田)

 連合艦隊司令長官在職中、南雲忠一らが集めた軍縮条約から脱退を求める署名を海軍大臣・大角岑生に提出し、また伏見宮にも取り次いでいる。伏見宮は加藤寛治と末次に注意を与えた。

⇒さすがの伏見宮も持て余したが、高級鉄砲玉としての使い勝手はまだ海軍内でもある、と、西園寺、牧野、杉山、伏見宮らは判断し、末次を退役させなかったのだろう。(太田)

 また軍事参議官として迎えた軍縮条約の延長問題に対しては、無条約無拘束を最上とし、次善の策として各国の最高軍備の限度を共通とすることを主張した。・・・
 右翼的傾向があり、国家主義者でもあった末次は、連合艦隊司令長官の頃から政治的野心を持ち始めたといわれ、平沼騏一郎・松岡洋右・近衛文麿と交流を持ち次第に政治力を強めていった。
 陸軍では当初、荒木貞夫、真崎甚三郎ら皇道派とつながりがあったが、のちに林銑十郎と親密な関係にあった。国家革新を必要とする考えを持っていた近衛が新党結成を目指した際、末次はその相談役となった。近衛新党結成運動はのち大政翼賛会に結実する。末次は大政翼賛会中央協力会議議長、東亜建設国民連盟会長、スメラ学塾長を務めた。
 1937年(昭和12年)2月の林内閣成立時、末次は林銑十郎から海軍大臣就任の要請を受け了承したが、海軍人事に影響力があった伏見宮博恭王の信頼を失っており、海軍大臣・永野修身は海軍次官・山本五十六が推した米内光政を後任に選ぶ。
 同年6月、近衛文麿は初の組閣に際し、末次の内閣参議就任を要望する。この時、末次は「軍令部総長になれるなら、内閣参議は断る」と海軍省人事局長・清水光美を通じて米内に伝言していたが、現職の軍令部総長は皇族の伏見宮であり、伏見宮は末次に後を譲る気はなかった。また海軍の政治に関わるのは海軍大臣のみとする伝統から、10月15日に米内は末次を予備役に編入する。

⇒しかし、ついに、末永は退役させられた、というわけだ。(太田)

 なお両人の個人的関係は険悪であった。後に末次は米内内閣成立時に内閣参議を辞任している。
 第1次近衛内閣では、内閣参議から内務大臣に就任した。秘書官は二・二六事件後に予備役に編入された山下知彦である。治安の最高責任者たる内務大臣に末次を据えることに反対の声もあったが、近衛には末次を支援する右翼団体や国粋主義者を取り込み安定した政治基盤を築く意図があった。しかし近衛や木戸幸一には末次を制御することはできなかった。
 その一例が、日中戦争終結を目指したトラウトマン工作の拒絶であり、蔣介石を対手とせずという近衛声明を出すよう主張した。対米、対英、対ソ強硬論を唱え、また金融を国営化すべしとの論陣を張る。こうした末次の態度は宮中、財界、一部軍部にも不評であった。なお末次は日独伊三国軍事同盟に賛成であった。国内政策としては、内務省土木局に砂防専門部署を設け砂防事業の発展に貢献した。

⇒しかし、なお、杉山らは、海軍外での鉄砲玉としての末次の使い道はあると考えていたのだろう。(太田)

 1939年(昭和14年)、第1次近衛内閣退陣後に首班となった平沼騏一郎は、末次と一心同体と見られていたが、平沼は末次を内相に留任させず内閣参議にとどめた。第3次近衛内閣で日米和戦の決定が迫られる中、近衛は日本の軍事能力への疑問から、末次に軍事的見通しを問いかけている。
 末次は次のように回答した。
 そんなことを一々考えて居たら何も出来はしません。日本が南方をしっかり確保すれば、半年や一年では大した国力の増大にはならないが漸次に自給自足の体制は強化されて行く、さすれば長期となればなる程日本の体制は強化される訳で何も憂うるには当たらぬ。・・・

⇒政治/戦略音痴の戦術フェチがいかに愚かたりうるか、ということだ。(太田)

 この見通しは太平洋戦争の実相から程遠いものではあるが、当時の軍務局第一課長、作戦課長らが加わった海軍国防政策委員会・第一委員会の見通し<(コラム#13128(未公開))>と同様であった。
 1941年(昭和16年)、第3次近衛内閣が退陣した際に全国治水砂防協会会長であった末次は総理候補との噂が流れた。事実、海軍省調査課長の高木惣吉<(コラム#13134(未公開))>や矢部貞治らが末次首班実現に動いていた。また陸軍省軍務局の予想していた首班筆頭候補も末次であった。

⇒高木惣吉の良く言えば懐の広さ、悪く言えば振幅の大きさ、は驚きだ。
 また、矢部が末次首班実現に動いたのは、昭和研究会での縁を通じた近衛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E9%83%A8%E8%B2%9E%E6%B2%BB
の依頼を受けてだったのだろうが、矢部のようなキリスト教徒・・しかも恐らく無教会派(上掲)・・は言動は、往々にして始末に負えない。(太田)

 対米戦争となれば軍事的主役は海軍であり、内務大臣の閲歴を持つ海軍大将、枢軸派、そして日米開戦論者である末次が首班となることは蓋然性があった。しかし昭和天皇を始めとする宮中関係者は、末次と右翼団体とのつながりを危惧しており、末次への信任はなかった。重臣会議で末次を推すものもなく、内大臣・木戸幸一が推した東條英機が首班に指名された。末次は落胆したという。

⇒どんな立場の人間であれ、対英米戦開戦時に末次を海相をやらせようと思うような者は異常だと言わざるを得まい。(太田)

 東條内閣により「帝国国策遂行要領」の再検討が行われた後も国策に変更はなく、1941年(昭和16年)12月8日、日本海軍は真珠湾攻撃を実施した。
 <その後、>山本五十六、古賀峯一、2人の連合艦隊司令長官が戦死・殉職する悪化した戦局のなか、末次は教育局長の高木惣吉に東條内閣の倒閣に協力することを約束し、嶋田繁太郎を問い詰め回答不能に追い込んでいる。予備役となって7年あまり経っているこの時期にも、末次は戦局に対し優れた見識を見せていた。

⇒末次は戦術の天才ではあり続けたのだろうから、その面での非天才を簡単にやりこめることができる話題はいくらでもあったことだろう。(太田)

 戦争終結を意図していた岡田啓介は、海軍大臣兼軍令部総長・嶋田繁太郎を更迭することで東條内閣倒閣の契機を掴もうと図り、米内を海軍大臣に末次を軍令部総長として現役復帰させることを提案した。岡田にとっては、米内の海軍大臣就任が眼目であったが、米内の円満な復帰のため末次の系統へも配慮したのである。また末次の手腕に期待する海軍部内の空気もあった。石川信吾、高橋三吉のお膳立てもあり、両人の引き合わせが実現。末次、米内は協力を約束した。末次はサイパン島奪回に熱意を示していたという。
 米内の現役復帰と海軍大臣就任が実現した後、米内は末次の軍令部総長就任に向けて意気込んだが、伏見宮をはじめとする海軍首脳と陸軍の強い反対のため実現しなかった。末次本人の急病もあったが、昭和天皇も反対であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%AC%A1%E4%BF%A1%E6%AD%A3

⇒終戦をマネージしなければならない時に末次を軍令部総長にすることなど、自殺行為に等しいのであって、いくら、杉山構想が明かされていなかったとはいえ、岡田や米内の愚かさ加減には口あんぐりだ。
 彼らに比し、杉山構想推進者だったところの、伏見宮の判断の確かさが光っている。(太田)

  セ 永野修身(おさみ。1880~1947年) 海兵28期(次席)、海大8期、ハーバード大(1913~1914年)。(永野についてはコラム#12991も参照。)

 「高知県で士族(上士)・・・の四男として生まれる。海南中学に入学、吉田数馬<(注13)>、田岡正樹<(注14)>(後の東亜同文書院教授)らの薫陶を受け卒業。・・・

 (注13)1848~1910年。「土佐高知藩校致道館でまなぶ。戊辰戦争に従軍。明治4年親兵に編入され上京,のち陸軍中尉。征韓論政変で軍職をさる。旧藩主山内豊範(とよのり)に進言して<明治>9年海南私塾分校(のちの海南中学)を創設,校長となる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%95%B0%E9%A6%AC-1119629
 「征韓論政変<、或いは、>・・・明治六年の政変<では、>・・・その後、西郷らに同調する政治家や官僚・軍人の辞職が相次いだ。」
https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%85%AD%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89-1820246#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
 (注14)「田岡正樹<は、>・・・明治の終わりから大正時代にかけて<支那>の大連で詩社を組織し、<支那>の人々とも親しく交流した」
https://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-20K00374/

 高知に帰省した際は必ず恩師の墓参りに行っていたという。・・・

⇒永野は、旧制中学時代にアジア主義者の校長の吉田数馬と教師の田岡正樹に感化され、アジア主義的志向を生涯抱き続けたのではなかろうか。
 しかし、土佐藩が秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉藩ではなく、せいぜい横井小楠(太田)コンセンサス信奉藩であったこともあり、永野は、秀吉流日蓮主義信奉者にはならずじまいだった、と見る。(太田)

 永野は元々政治家か技術者を志しており、東京帝国大学に入学して法科か工科を修めたいと希望していたという。受験日程の関係から腕試しに海軍兵学校を受験したところ合格、周囲の説得もあり後に軍人を志すようになるが、その後も軍事学以外にも日頃から政治や経済、外交、科学など幅広く専門書籍を読み勉学を続けた。・・・
 1920年(大正9年)12月1日、在<米国>大使館付武官。1921年(大正10年)10月7日、ワシントン会議全権随員。・・・1924年(大正13年)2月<帰国。>・・・
 「軍人でなければ、(<米国>に)住み続けたい」と話していたという。・・・

⇒エッ?(太田)

 1928年(昭和3年)12月10日、海軍兵学校長。兵学校長時代は、伊藤整一とともに自学自習を骨子とするダルトン式教育<(注15)>を採用、体罰の禁止など、抜本的な教育改革を推進した。

 (注15)ドルトン・プラン (the Dalton Plan) 。「1920年代に<米国>のマサチューセッツ州のドルトンの小学校においてヘレン・パーカーストにより指導・実施された教育指導法である。・・・
 ドルトン・プランは彼女が教師としての最初の赴任校で1人で40人の生徒を指導する体験をしたことがきっかけとなり、その後学んだマリア・モンテッソーリの自発性、自主性を重んじる着想(モンテッソーリ教育)やジョン・デューイの問題解決学習などの長所を取り入れて練られたものである。クラスの人数が多くとも児童一人一人の能力を伸ばす目的で考案された。中心になるのは自由と協同という考えである。・・・
 日本では1922年、大正自由教育運動の末期にまず成城小学校に導入された。・・・しかし昭和に入り、ドルトン・プランは教師の手抜きであり、生徒の学力低下を招き進学に不利である等の批判からドルトン・プランは日本の教育の表舞台から排除されてしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3
 「イタリアのローマで医師として精神病院で働いていたモンテッソーリは、知的障害児へ感覚教育法を施し知的水準を上げるという効果を見せ、1907年に設立した貧困層の健常児を対象とした保育施設「子どもの家」において、その独特な教育法を完成させた。・・・
 子どもの自主性、自立心、知的好奇心などを育み、社会に貢献する人物となること(モンテッソーリ教育の終了は24歳)を目的とする・・・モンテッソーリ「子供の家」の教室に入ると、整然と並ぶ色とりどりの「教具」と呼ばれる木製玩具が目に飛び込んでくる。これらはモンテッソーリの感覚教育法に基づく教材で、モンテッソーリとその助手たちが開発した。モンテッソーリ教育法では教具の形、大きさは無論、手触り、重さ、材質にまでこだわり、子供たちの繊細な五感をやわらかく刺激するよう配慮がなされている。また、教具を通し、暗記でなく経験に基づいて質量や数量の感覚を養うことと、同時に教具を通して感じ取れる形容詞などの言語教育も組み込まれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%AA%E6%95%99%E8%82%B2
 マリア・モンテッソーリ(Maria Montessori。1870~1952年)。「イタリア初の女性の医学博士号を取得<。>・・・
 1907年、障害児の治療教育で一通りの成果を挙げた感覚教育法を、マリアはローマの貧困家庭の子供たちに応用する機会を得る。ここにおいても知能向上で著しい結果を得<た。>・・・
 モンテッソーリ教育の生徒にはアンネ・フランクやジャクリーン・ケネディ・オナシスを始め、世界中に数多くの有名人がいるが、ワシントン・ポスト誌の経営者および、ジャーナリストだったキャサリン・グラハム、 Amazon.comの創立者ジェフ・ベゾス、Googleの共同創立者セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ、wikipedia創設者ジミー・ウェールズ、などもモンテッソーリ・スクール出身者である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%83%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%AA

⇒永野は、自分自身が旧制中学の教育で決定的な影響を受けたことから、かねてより教育問題に関心があり、ワシントン勤務時代に、世に出た直後のダルトン・プランに注目していたことから、直前まで兵学校の教頭を務めていた及川古志郎からの、改革の必要性の提言
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8A%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E5%BF%97%E9%83%8E
もあり、同プランを海兵教育に導入したのだろうが、私見では、及川も永野も、陸軍の幼年学校の教育に注目していて、幼年学校なき海軍で海兵を専門教育の他に幼年学校的なものを加味したものへと改革することを目指したのではなかろうか。(太田)
 
 永野はダルトン教育を導入することで、これまでの受身一辺倒の兵教育を改め、自主性、積極性、創造性を重視し、個々の生徒が持つ才能や資質、専門性を開花させ、自由に伸ばす方向へと転換させようとした。永野がダルトン式教育を取り入れたのは強兵政策のための試みだったとわれている。永野は日本は国土も狭く、資源もなく、一番の財産は人材だと考えていた。その為、優秀な人材を育てることで日本を守ろうと考えていたといわれている。そのため、永野は欧米人が作った教科書をそのまま丸暗記する人材を育てるのではなく、生徒達自身に自由に考えさせ、自発的に学ばせることで、日本の将来を担う人材を育てるために、率先して熱心に教育活動に取り組んでいたことから、生徒達に「永野校長の頭を叩けば、自啓自発の音がする」といわれたという。この取り組みによって向学心溢れる生徒は自ら教官を活用しながら自由に自学自習をし、優秀な人材へと育つ一方、自主性不足の為に何をすればいいか分からずに落ちぶれてしまう生徒をも生むことになり、賛否を生んだといわれている。ダルトン教育の導入は永野が軍令部次長に転じた後に消滅したが、太平洋戦争に駆逐艦長・潜水艦長・隊司令として活躍した55期(吉田俊雄によれば58期から60期)を中心とする永野の教え子たちからは、永野校長時代の兵学校の校風を絶賛する声が大きい。一方、他律的な型嵌め教育を受けていないために任官先の他の期の士官からは上官に対する意見(提案)が多く、理屈っぽく意見が多いと評判が悪かったという。但し、ダルトン教育を受けた者の中には新たな爆撃術の研究開発を行った関衛など数々の有能な人材を輩出している。
 大戦中に兵学校長を務めていた井上成美は「一人前の海軍士官を育てるのが兵学校最大の任務で、ある程度型嵌め教育は必要」との立場から永野のダルトン式教育を批判しており、永野が井上校長時代の兵学校を訪れた際に「生徒の前で永野に持論を述べられると困る」との思惑から慣例となっていた生徒向けの訓話を行わせなかった。これは「すぐ現場で役に立つ即戦力としての海軍士官を育てることが兵学校の最大の任務」と考える井上校長と、将来、兵学校の生徒たちが問題や壁にぶつかった時、自らの頭で考え、進んで学習(自学自習)をしながら、問題を解決できる力(行動力や創造力など)を持った人材を育てることが大切だと考えていた永野校長の考え方の違いにあった。以上ように、初級士官として当面の任務遂行に必要な教育を優先する教育を重視したのが井上成美の教育方針であったのに対し、将来の指揮官としての基盤を形成する教育を重視したのが永野修身だった。このどちらを優先するのかという問題は、将校養成教育のジレンマとして海軍内で存在し続けた。

⇒井上は、「単に、日本の敗戦後、海兵在籍者や卒業者が一般大学を受験する時のための学力を身につけさせる教育を行った・・・に過ぎず、「もっと遊ばせてやれ」というのも、将来の受験に備え、気力・体力を温存させ養わせるためだった、というのが私の見方」(コラム#13132(未公開))であるところ、そんなことよりも、更に長期的な視野に立って、永野流の「「自主性、積極性、創造性」を喚起する教育を、今こそ井上は推進すべきであったというのに、大戦中といえども、海兵教育は「当面の任務遂行に必要な教育を優先」していてはならない、という、ごまかしの理由をつけて、永野流の教育を拒否した点にも、井上の限界というか、利巧馬鹿さが如実に顕れている。(太田)

 ちなみに海軍反省会などの資料には戦前の日本軍の教育の問題が書かれているが、日本軍では教科書の丸暗記を基本とする教育が中心であったため、日本軍の行動は<米>軍に簡単に予測されてしまったという。しかも日本軍の指揮官には創造性や個性がなく、教科書通りの型に嵌った戦法を繰りかえす事が多く、<米>軍のように一度失敗した戦法でも見直して対策を練ることはせず、日本軍は何度も同じことを繰り返し犠牲を増やしたとされる。
 学校法人玉川学園の小原國芳とは特に仲がよく、自宅に玉川学園の生徒を呼んでは園遊会などを開いたり、学園視察に度々出かけるなど交流を深めていたという。また、自由学園の羽仁もと子などともたびたび日本の教育活動の在り方について意見を交わしている。永野の教育改革を支えた及川古志郎海軍大将の孫・及川郁郎がダルトンプランの創始者ヘレン・パーカーストが来日した際、訪れたことでも知られる明星学園に入学していたこともあり、同学園とも深い交流を持っていた。
 1930年(昭和5年)6月10日、海軍良識派の代表的な人物として知られた軍令部長・谷口尚真のもとで、軍令部次長を務めた。1931年(昭和6年)12月9日、ジュネーブ海軍軍縮会議全権。1933年(昭和8年)11月15日、横須賀鎮守府司令長官。1934年(昭和9年)3月1日、海軍大将に進級。11月15日、軍事参議官。
 1935年(昭和10年)・・・11月4日、第二次ロンドン海軍軍縮会議全権。1936年(昭和11年)1月15日、会議において日本の脱退を通告する。
 二・二六事件が起きた際には「陸軍を粛正せねば国家遂に危かるべし」と前途の不安を、ある皇族に語っている他、陸軍を粛正するように昭和天皇に直接、働きかけられないか談義を交わしている。・・・
 もしこれが御詮議になっておれば、日本は今日の様な運命に陥ってはいないかと思う。残念なり。と回想している。・・・

⇒永野は、1936年2月の時点では、まだ、陸軍についても、いわんや、杉山構想的なものについても、完全に無知であったことが分かる。
 後者は措くとしても、前者だけからでも、「ダルトン教育」とやらを自分自身は受けていなかったからかもしれないけれど、永野には「自主性、積極性、創造性」が大いに不足していたことが分かろうというものだ。
 だから、永野と三馬鹿トリオとの違いは、実のところ紙一重だったということになりそうだ。
 なお、永野は終戦後に回想を行っているわけだが、「もしこれが・・・残念なり」は、陸軍を悪玉にすることで天皇を救うためのメーキングだろう。(太田)

 1936年(昭和11年)3月9日、広田内閣の海軍大臣を拝命。「国策の基準」<(注16)>の策定を推進。三国軍事同盟を回避するため、海軍航空本部長に左遷されていた山本五十六を中央に引き戻し海軍次官に据えて、中央の改革を行い、大角人事によって追放されてしまった条約派や軍政畑軍人を再復活させ、後の海軍三羽烏(米内光政・山本五十六・井上成美)の礎を築いた。

 (注16)「東亜新秩序構想の萌芽は,〈帝国指導の下に日満支三国の提携共助〉の実現を決めた1933年10月21日の斎藤実内閣の閣議決定にあった。それは満州事変勃発前後の〈日満ブロック〉構想を一歩進め,〈日満支ブロック〉の実現を国策として決定したものであり,36年8月7日の広田弘毅内閣下の5相会議決定〈国策の基準〉に受け継がれた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E7%AD%96%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%BA%96-1316909
 「日本が東アジアの安定勢力になって東洋の平和を確保し人類の安寧福祉に貢献し日本の理想を実現するといった内容の壮大な目標がまず掲げられています。その目標を実現するため、当面の日本の国策を東アジア大陸での日本の基盤を固めるということと南方の海洋に進出することとしています。更に基準となる方針が東アジアでの欧米列強の覇道政策を排除して共存共栄の考えに従い幸福を分かち合おうということや日本が東アジアの安定勢力という立場を確保するために日本の軍備をしっかりと整備することや日本や満州国の安全を保障するためソ・・・連・・・の脅威を除去し欧米列強との友好関係に留意しながら英国や米国に備え日本、満州国、中華民国が緊密に連携して日本の経済発展を目指すということや他国を刺激しないように配慮しながら徐々に平和的に南方の海洋へ進出し経済的な発展を目指すこと、以上の4つとなりました。
 その方針の実現のため軍事面で陸軍の軍備はソ連が極東で動員できる兵力に対抗出来るようにしてソ連と開戦した場合即座に攻撃をおこなうことが出来るよう満州国、朝鮮半島に駐留する兵力をしっかりと整えることとしています。また海軍の軍備については<米>海軍を向こうにまわして日本が太平洋西側の制海権を確保できるような軍備を整えることとなっています。・・・その他外交、経済政策、行政機構、国民に対する措置(生活安定、体力増強、思想健全化など)、航空、海運業発展のための注力、外交機関刷新、情報宣伝組織の整備などについても簡単な表現で言及しています。」
https://iineiineiine.net/2234.html

⇒日本の安全保障の観点から策定されているところの、「国策の基準」、自体には日本の安全保障を超えているところの、杉山構想、色は必ずしも伺えないが、私が杉山構想を開示されていたと見ている廣田弘毅首相は、自分の内閣の海相である永野修身との対話等を通じて、同構想の全貌ならぬ概要でも永野に開示してやれば、永野は対英米戦の発動に反対はしない、という見極めをつけ、対英米戦発動時期の軍令部総長候補に永野をカウントすべきことを当時教育総監だった杉山元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%8F%E7%9B%A3
に伝えた、というのが私の想像だ。(太田) 

 また、海軍内にあった対立論(大艦巨砲主義論と航空主兵論)の調整を行い、大和型戦艦2隻、翔鶴型航空母艦2隻の建造を提案、予算案を帝国議会において成立させている。
 海軍の制度と人事を刷新すると意気込んで部下にその検討をさせた。高木惣吉は軍務局でこの時の制度調査会に参加させられており、岡敬純・神重徳等と共に作業にあたり11月に兵備局<(注17)>の新設を提言するとともに、海軍内部の長年に渡る懸案とされていた兵機一系化についての提言を井上成美にまとめさせた。

 (注17)兵備局<は、>1940年(昭和15年)11月15日発足。国家総動員・出師準備・動員・生産計画など戦争遂行の国家計画を分掌する。1945年3月1日、軍務局に統合される形で廃止。・・・
 <全期間を通じ、局長は、>保科善四郎少将<だった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%9C%81

 提言書には、精神主義に傾斜する兵科士官教育を、科学、合理的な教育に改めること、そのためには兵学校を廃止して海軍機関学校に統一するべきことなどがまとめられていたが、永野が改革に乗り出す前に大臣を辞職してしまったため、改革は実現に至らなかった。しかし、1940年(昭和15年)に高田利種少将が制度改革に手をつけた際にはこの時の経験を参考とし、海軍機関学校の一系化などの類似した内容の改革が行なわれている。・・・この時、永野海軍大臣は教育学者の小原國芳の助言を受け、海軍の伝統だったハンモックナンバーによる昇進、役職任命制度を廃止し、能力主義による制度へと改めようとした。しかし、腹切り問答の際に立憲民政党と陸軍の仲裁を試みたものの陸軍は国会を解散に追い込もうと意気込んでいたため先手を打たれ、1937年(昭和12年)2月2日、<廣田>内閣は総辞職に追い込まれた。そのため、永野の制度改革案も提言の際に守旧派の反対に遭ったまま進展せず、同日付で連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官を拝命。改革を実現する前に、大臣を辞任してしまった。・・・
 1941年(昭和16年)4月9日軍令部総長に補される。

⇒当時参謀総長だった杉山元が、海相だった及川古志郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
と最終調整を行った上で、伏見宮軍令部総長にその座を永野修身に譲るよう「上申」し、伏見宮にそのことについて昭和天皇の了解を取り付けさせた、と見る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BB%A4%E9%83%A8 (太田)

 開戦前には病気を理由に辞職を考えたが後任に避戦強硬派の長谷川清や百武源吾が就任する恐れがあったため、開戦派の圧力を受けて続投した。ただ、永野も本来は避戦派であり、・・・永野は、軍令部総長に就任すると、軍令部次長を親独派の近藤信竹から米国関係に精通している伊藤整一に変更している。

⇒軍令部の海軍省に対する権限が参謀本部の陸軍省に対する権限並みになっていたとはいえ、伏見宮が去ってしまえば、海軍の伝統的な海軍省の優位、海相の絶対性、が回復する、と、杉山らは判断していたと思われ、実際にその通りになったので、永野はもちろんのこと、次長が誰であれ、海相が対米英戦開戦に賛成すれば、海軍が割れることはなかった、というわけだ。(太田)

  ソ 米内光政(1880~1948年) 海兵29期、海大12期

 「旧盛岡藩士・・・の長男<。>・・・ 
 1915年(大正4年)・・・ロシア・・・駐在武官補佐官。・・・<引き続き、ウラジオストック駐在<。>・・・1919年(大正8年)9月、ウラジオストック駐在を免ぜられ、海軍大学校教官。12月、軍令部参謀。1920年(大正9年)6月よりベルリン駐在。12月、任海軍大佐。

⇒米内は、ロシアに長期滞在したことで、ロシア通にはならなかったけれど、(後の方で分かるように)親ロシアになってしまった、ということからして、海軍将官クラスの中では、学業成績がばっとしないだけでなく、地頭も悪いにもかかわらず、大出世を遂げるのだから、怪物のような人誑しだったのだろう。(太田)

 1921年(大正10年)、ポーランド駐在員監督。1922年(大正11年)、装甲巡洋艦「春日」艦長。1923年(大正12年)、練習艦「磐手」艦長。・・・1924年(大正13年)戦艦「扶桑」「陸奥」艦長。1925年(大正14年)、任海軍少将、第二艦隊参謀長。・・・1926年(大正15年)、軍令部第三班長。1927年(昭和2年)、第四水雷戦隊司令官・・・。1928年(昭和3年)、第一遣外艦隊司令官。
 1930年(昭和5年)、任 海軍中将、鎮海要港部司令官。・・・
 海軍は米内を予備役編入する予定であった。しかし、海軍政務次官を務めていた政治家の牧山耕蔵<(注18)>(米内と面識があった)がそのことを知り、米内を現役に残すように東郷平八郎に掛け合ったことで、米内は予備役編入を免れた。

 (注18)1882~1961年。長崎県壱岐市出身。早大政経卒。「朝鮮に渡り、京城居留民団議員、京城学校組合会議員、朝鮮新聞社社長などを務める。1917年の第13回衆議院議員総選挙で初当選。以来連続8期務める。第二次若槻内閣で海軍政務次官に就任<。>・・・
 1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で非推薦で立候補したが落選した。戦後は公職追放となり、追放解除後の1953年の第26回衆議院議員総選挙で長崎2区から分党派自由党公認で立候補したが落選。・・・
 この他、長崎日日新聞社、佐世保新聞社、国際観光興業各社長などを務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E5%B1%B1%E8%80%95%E8%94%B5

⇒米内の軍令部第三班長時代の軍令部長は鈴木貫太郎、次長は野村吉三郎だ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BB%A4%E9%83%A8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E5%90%89%E4%B8%89%E9%83%8E
が、米内が一年で軍令部をお払い箱になっているところを見ると、彼らが米内を買っていたとは到底思えず、そういうこともあって、米内は早期に予備役に編入されることになったのだろうが、米内が、牧山や東郷をどう誑しこんでそれを回避したのか、調べがつかなかった。
 なお、余談ながら、野村も、戦後、CIAからカネをもらっていた(上掲)ことを知り、暗澹たる思いがしている。(太田)

 1932年(昭和7年)、第三艦隊司令長官に親補される。米内はインフルエンザをこじらせて胸膜炎になり療養を必要としたが拒絶した。海軍次官だった藤田尚徳は軍令部次長・高橋三吉と相談し、・・・海軍次官と軍令部次長の権限で米内を療養させた。早期治療の効果か1か月後には米内は職務に復帰することができた。のちに藤田と高橋は、米内を現役大将として残すため、自ら予備役編入を願い出ている。

⇒藤田も高橋も米内と海兵同期である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%B0%9A%E5%BE%B3
ところ、とにかく、海兵時代の米内の同期や教官の間での人気には凄まじいものがあったようだ。↓
 「藤田尚徳は人事局長時代、当時の呉鎮守府司令長官・谷口尚真から「君のクラスでは誰が一番有望かね?」という質問に即座に「それは米内です」と答えたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF (太田)

 幕僚の保科善四郎によれば、砲艦二見が揚子江を航行中に暗岩に乗り上げてしまい、司令長官である米内が責任を取り進退伺の電報を打つよう保科に命じた。米内を辞めさせてはならないと考えた保科は、電報を打ったフリをして独断で握り潰した。・・・

⇒米内が、部下もまた、すぐに誑しこんでしまうことが分かる。(太田)

 1933年(昭和8年)、佐世保鎮守府司令長官に親補される。・・・
 1935年(昭和10年)、横須賀鎮守府司令長官に親補される。1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件発生の際、米内は柳橋の待合茶屋に宿泊しており、事件のことは何も知らず、朝の始発電車で横須賀に帰った。

⇒鎮守府の任務の筆頭は海軍区の防備であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E5%AE%88%E5%BA%9C_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E8%BB%8D)
横須賀海軍区の管轄は、陸上に関しては、「東京府、青森、秋田、岩手、宮城、福島、茨城、千葉、栃木、群馬、埼玉、神奈川、山梨、静岡、愛知、長野、岐阜、三重の諸県、北海道および樺太<、並びに、>・・・南洋群島委任統治区域」という広大なものであって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%8C%BA
管轄区域内で最も枢要な東京で大治安事件が起きたら、ただちに防備事案としてその対処を考えなければならない立場であるというのに、それまでも自身が女のところにしけこんで「所在不明」になる事態をたびたび起こしていたことが窺え、無責任の極みであり、それだけでも、米内は、本来ずっと前に免官されてしかるべき人物だった、と言うべきか。(太田)

 鎮守府に着いた米内は参謀長の井上成美とともにクーデター部隊を「反乱軍」と断定、制圧に動いた。
 12月1日、連合艦隊司令長官に親補される。
 1937年(昭和12年)2月2日、林内閣の海軍大臣に就任。米内は軍政が嫌いで連合艦隊司令長官を就任僅か2か月で退任させられ海相に任ぜられることを非常に渋り、周囲には「一属吏になるなんて、全くありがたくない話だ」とぼやいていたという。当初、林銑十郎は海相に末次信正を望み、両人間で了解済みであった。しかし海軍次官・山本五十六は前海相・永野修身に米内を強く推し、軍令部総長・伏見宮博恭王の同意を得て決定した。米内は山本を次官に留任させている。軍務局第一課長だった保科善四郎によれば、「広田内閣崩壊後、後任の海軍大臣を誰にするかについて話し合われた時、保科が真っ先に米内を挙げ、次官の山本五十六の同意を得て留任希望の永野修身を説得して米内の大臣就任の了承を取った」という。永野からの招電は、米内が横須賀を出港するわずか1時間前であった。

⇒要するに、米内は御し易い末次である、との判断でもって、西園寺/牧野/大角/伏見宮/杉山らが一致した結果、伏見宮軍令部総長が米内を指名した、ということだろう。(太田)

 4月、海軍大将に親任される。・・・
 1937年(昭和12年)6月4日、第1次近衛内閣でも海相に留任した。
 8月9日に第二次上海事変が発生すると、8月13日の閣議で断固膺懲を唱え、陸軍派兵を主張した。8月14日には、不拡大主義は消滅し、北支事変は支那事変になったとして、全面戦争論を展開、台湾から杭州に向けて、さらに8月15日には長崎から南京に向けて海軍航空隊による渡洋爆撃を敢行した。さらに同日から8月30日まで、上海・揚州・蘇州・句容・浦口・南昌・九江を連日爆撃し、これにより日中戦争の戦火が各地に拡大した。

⇒米内は、杉山らの期待に十分過ぎるほど応えてくれたわけであり、おかげで、陸軍としても日支戦争を労せずして本格化させることができた。(支那方面艦隊参謀長時代の井上成美による1940年の重慶爆撃(コラム#13120(未公開))も想起されたい。)(太田)

 1938年(昭和13年)1月11日の御前会議では、トラウトマン工作の交渉打切りを強く主張、「蔣介石を対手とせず」の第一次近衛声明につながった。1月15日の大本営政府連絡会議において、蔣介石政権との和平交渉、トラウトマン工作の継続を強く主張する陸軍参謀次長・多田駿に反対して、米内は交渉打切りを主張し、近衛総理をして「爾後国民政府を対手とせず」という発言にいたらしめた。これは中国における最も有力な交渉相手を捨て去って泥沼の長期戦に道を拓いた上、<米国>政府の対日感情を著しく悪化させた。

⇒米内は、日支戦争の早期収拾を断乎拒否したわけであり、またもや、杉山らの期待に十二分に応えたわけだが、本人は、それが対米戦争を不可避ならしめる危険性を承知していた↓というのだから、なおさら呆れる。(太田)

 11月25日の五相会議で、米内は海南島攻略を提案し合意事項とした。当時の海軍中央部では「海南島作戦が将来の対英米戦に備えるものである」という認識は常識であり、米内は「対英米戦と海南島作戦の関係性」は承知であった。この件に関して、「第二次上海事変で、出兵に反対する賀屋興宣を閣議で怒鳴りつけて、無理矢理、兵を出して、シナ事変を泥沼化させた」「海南島に出兵を強行して日米関係を決定的に悪化させた」という批判もある[要出典]。この言動は、海軍の論理を政治の世界で優先させるということが米内の一貫した思想にすぎなかったということを示しており、当時、上海や海南島には多数の海軍部隊が孤立しており、それを救出するために米内は派兵を主張したが、その派兵が事変全体の長期化を招く危険には米内は考慮をはらっていなかった。
 1939年(昭和14年)1月5日、平沼内閣でも海相に留任した。
 海軍次官山本五十六、軍務局長井上とともに、ナチス・ドイツ及びイタリア王国との日独伊三国軍事同盟に反対する。<なお、米内は、>日独防共協定締結に際しては、「なぜソ連と手を握らないか」と慨嘆した<ほどの>親ソ派であった。
 8月、五相会議の席上で、「同盟を締結した場合に日独伊と英仏米ソ間で戦争となった場合、海軍として見通しはどうか」と大蔵大臣・石渡荘太郎から問われた時に米内は「勝てる見込みはありません。日本の海軍は米英を相手に戦争ができるように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」と言下に答えた。8月30日 昭和天皇は、米内に「海軍が(命がけで三国同盟を阻止したことに対し)良くやってくれたので、日本の国は救われた」という言葉をかけたという。
 米内の日独伊三国同盟反対論について、「海軍力が日独伊では米英に及ばないという海軍の論理から反対しただけであって、大局的な意味での反対論ではなかった」「魅力に富んだ知的人物だが、政治面において定見のある人物とはいえなかった」という否定的な意見もある。・・・

⇒ほぼ全て同感だ。(太田)

 平沼内閣の総辞職により海相を辞任して軍事参議官となる。・・・
 1940年(昭和15年)1月16日、第37代内閣総理大臣に就任する。
 内大臣の湯浅倉平は米内首相就任の実現に大いに働いている。

⇒ますます米内が気に入ったところの、西園寺/牧野/大角/伏見宮/杉山ら、の意向を受けて湯浅が動いた、ということだろう。(太田)

 なお大命が降下した時、米内は海相を退任して閑職の軍事参議官の任に就いてはいたものの、まだ現役の大日本帝国海軍大将であったが、首相就任と同時に自ら予備役となる。・・・
 大命降下のあった現役将官があえて予備役になってから首相となることは先例がなく、また後例もない人事だった<。>・・・
 米内が予備役となったことは、軍令部総長伏見宮博恭王の後任に米内を擬していた海軍人事局をも困惑させる事態であった。・・・

⇒米内はカッコをつける人物だった、ということだ。(太田)

 陸軍は<日独伊三国同盟締結に抵抗し続ける>米内と対立、陸軍大臣畑俊六を辞任させ、同年7月22日に米内内閣を総辞職に追い込んだ。

⇒ところが、米内でも、対米戦争は日本必敗との認識くらいは持っていたので、対米戦争はとにかく回避したいとの海軍の組織的エゴ、また、更につきつめて言えば、自分の保身を重視する海軍軍人としての個人的エゴ(、そしてそれに加えるにソ連/ロシア大好き人間としての個人的エゴ)、から、対米戦争を引き寄せること必至で対ソ戦争まで引き寄せかねないところの、三国同盟締結、に抵抗を続けたため、西園寺/牧野/大角/伏見宮/杉山らは、激怒して、米内を首相の座から引きずり下ろしたわけだ。
 (但し、終戦用には使える、と、米内を放逐せず控置しておくことにした、とも。)(太田)

 後継政権には、首相経験のあった公爵近衛文麿が再就任し、第2次近衛内閣が成立した。

⇒杉山らは、もともと近衛の再登板を期しており、マクロ的には予定通りだったはずだ。(太田)

 当時は軍部大臣現役武官制があり、陸軍または海軍が大臣を引き上げると内閣が倒れた。米内は畑の疲労し切った表情をみて「畑が自殺でもするのではないか。」と心配したという。昭和天皇も「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば戦争になることはなかったかもしれない」と、石渡荘太郎に語っている。・・・

⇒昭和天皇がいかに蚊帳の外に置かれていたか、が分かろうというものだ。(太田)

 9月15日、日独伊三国同盟に対する海軍首脳の会議があり、軍令部総長伏見宮博恭王が「ここまできたら仕方ない」と発言し、海軍は同盟に賛成することを決定した。翌日、会議に出席していた連合艦隊司令長官山本五十六は、海相及川古志郎に、米内を現役復帰させ連合艦隊司令長官に<二度目の>就任<を>させることを求めている。この日は昭和天皇が伏見宮の更迭を口にした日でもあったが、及川は米内の復帰と伏見宮更迭を拒んでいる。10月末または11月初頭、山本は及川に米内を軍令部総長として復帰させるよう提案した。この時も及川は採り上げなかったが、山本は11月末に再び米内の連合艦隊司令長官起用を及川に進言している。この時、伏見宮は米内を軍令部総長とすることに同意した。しかしのちに伏見宮が辞任した際、後任として伏見宮が指名したのは永野修身であった。及川は米内の中学の後輩で米内を尊敬しており、第3次近衛内閣成立の際に米内の海相としての復帰を図ったことがある。

⇒対米英戦開戦反対の米内を、このクリティカルな時期に、連合艦隊司令長官や軍令部総長に就けるわけにはいかない、と、大角、及川、や伏見宮が判断したのは当然だろう。(太田)

 こうした米内の現役復帰をめぐる動きはいずれも実現せずに、1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争(大東亜戦争)を迎えた。・・・
 1944年(昭和19年)、東條内閣が倒れると、予備役から現役に復帰して小磯内閣で再び海軍大臣となる。
 軍部大臣現役武官制により、予備役海軍大将の米内が海軍大臣となるには「召集」ではなく「現役復帰」の必要があった。予備役編入された陸海軍将校・士官が現役復帰するには、「天皇の特旨」が必要とされ、極めて稀なことだった。米内は、陸軍出身の小磯國昭と二名で組閣の大命を受けた(小磯が上席で、内閣総理大臣となった)異例の組閣経緯から「副総理格」とされ、「小磯・米内連立内閣」とも呼ばれた。米内は、海軍次官の岡敬純を「一夜にして放逐する」と更迭、横須賀鎮守府でコンビを組んだ井上成美(当時海軍兵学校校長)を「首に縄をかけて引きずってでも中央に戻す」と直接説得、「次官なんて柄ではない」「江田島の村長(= 海軍兵学校校長)で軍人生活を終わらせたい」と言い張る井上を中央に呼び寄せた。なお、米内の同期生で親友であった荒城二郎の姉妹は井上の兄・井上達三に嫁いでおり、米内、井上には私的にもつながりがあった。・・・
 復帰直後の米内は末次総長が実現しない場合には辞任する旨を語っており、末次の総長人事には熱意を持っていた。結局軍令部総長には及川古志郎が就くこととなった。・・・
 1945年(昭和20年)、鈴木貫太郎内閣にも海相として留任。米内本人は「連立内閣」の小磯だけが辞職し自分が留任するというのは道義上問題があると考えていた。だが今度は次官であった井上成美が米内の知らないところで「米内海相の留任は絶対に譲れない」という「海軍の総意(実は井上の独断)」を、大命の下った鈴木に申し入れていたのだった。

⇒井上ごときが画策して通るような話ではなく、もちろん、今回も伏見宮が決めたはずだ。(太田)

 5月11日、ドイツ降伏直後に宮中で開かれた最高戦争指導会議における対ソ交渉について、「ソ連からの援助を引き出すべきだ」と主張したが、「ソ連を軍事的経済的に利用できる段階では、もはやない」と外務大臣・東郷茂徳に却下されている。しかし鈴木内閣は結論としてソ連に対する和平仲介を依頼する方針を決定し、交渉を開始した。・・・

⇒米内は、全くロシア(ソ連)のことが分かっていない「ロシア通」だったわけだ。(太田)

 5月末の会議で一勝の後に終戦とすることを主張した陸軍大臣・阿南惟幾に対し、米内は早期講和を主張した。

⇒陸相の阿南や参謀総長の梅津美治郎は、期待通りの米内であることに、さぞ喜んだことだろう。(太田)

 6月9日の鈴木による議会での発言(天罰発言事件)<(注19)>を継戦派の議員が2日後に問題視したことで国会は混乱に陥り、倒閣運動まで発生してしまった。

 (注19)立ち入らない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%BD%B0%E7%99%BA%E8%A8%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 これにより、米内は議会の内閣に対する姿勢を問題視して辞意を表明したところ、阿南から辞意を思いとどまるように手紙による説得を受け、これを受け入れた。

⇒終戦の時期調整の任を(勝手に)負わせたところの、おバカ切り札の米内、に海相を辞められては困るので、阿南は、(後でもう一度触れるが、)米内の首相時代・・阿南は陸軍次官だった・・以来、ソ連に対する無知さかげん等で軽蔑していた米内に、嘔吐を堪えつつ猫なで声で留任を求めたのだろう。(太田)

 ソ連との交渉については、すでに内密に対日参戦を決意していたソ連からは回答を引き伸ばされるだけであった。やがて7月末に至り、連合国が日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言が発表される。東郷は受諾の可能性を主張するが、阿南をはじめとする統帥部は宣言拒否を激しく主張、結果として閣議では「ポツダム宣言に関しては強い見解をださず様子をみる」旨発表すると決定した。ところが統帥部は閣議の決定を無視して鈴木に宣言に対して強い態度を取るべきと主張、鈴木はこの突き上げに屈して、宣言の黙殺を記者会見で声明した。この黙殺声明により、原子爆弾投下とソ連の対日参戦という新たな事態が発生した。

⇒ソ連の対日参戦(1945年8月9日未明)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%8F%82%E6%88%A6
は予定通り行われたもので、原爆投下(広島:8月6日8時過ぎ、長崎:8月9日11時過ぎ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8B
は、ソ連の対日参戦前後には決行しなければならないというのが米国政府の考え(コラム#省略)であり、他方、杉山らは、米国とソ連が日本本土上陸作戦に着手してからの終戦を考えていたのを、原爆投下によって降伏時期を早めた、と、私は申し上げてきている(コラム#省略)ところ、鈴木首相の黙殺発言、ないし、その英訳の仕方、は、ソ連の対日参戦に影響を及ぼしていない、というか、及ぼすはずがない・・ポツダム宣言を直ちに受諾しておれば事情は多少異なっていたかもしれないが・・ので、このくだりのウィキペディア執筆陣の記述は誤りだ。(太田)

 米内は<、>連合国のポツダム宣言発表から鈴木の黙殺声明にいたるまで、ポツダム宣言に対して曖昧な態度をとっている。米内のこの曖昧さが、阿南などポツダム宣言拒否派に押し切られ、黙殺声明への大きな原因になったとする批判もある。

⇒米内も、国体護持(天皇制維持)論者であったに違いない(注20)以上は、ポツダム宣言受諾で国体護持が可能かどうか不明であった時点で受諾を叫ぶわけにはいかなかっただろう。(太田)

 (注20)「戦後の極東国際軍事裁判では証人として1946年(昭和21年)3月と5月の2度に亘って出廷し、・・・「陛下は、開戦に個人的には強く反対されていたが、開戦が内閣の一致した結論であったため、やむなく開戦決定を承認された」と、昭和天皇の立場を擁護する発言に終始した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF

 原爆投下・ソ連参戦以降、米内はポツダム宣言受諾による戦争終結を東郷外相とともに強力に主張する。受諾に反対し本土決戦を主張する阿南と閣議・最高戦争指導会議で激論を展開した。「戦局は依然として互角である」と言う阿南に対し「陸相は互角というが、ブーゲンビル、サイパン、レイテ、硫黄島、沖縄、みんな明らかに我が方は負けている。個々の戦いで武勇談はあるやもしれないが、それは勝敗とは別の問題である」と米内は言い返した。さらに「戦闘には負けているかもしれないが、戦争そのものに負けたとはいえない。陸軍と海軍では感覚が違う」と再反論する阿南に対し米内は「あなたがなんと言おうと日本は戦争に負けている」と言い、両者の話に決着はつかなかった。

⇒杉山構想をほぼ完遂、というのが杉山らの戦争目的であったところ、この目的に照らせば、米内の主張は完全な間違いなわけだが、そんなものを持ち出すまでもなく、対英米戦開始時点で日本は既に軍事的には必敗だった以上、今更、こいつ、何を言っているのよ、と阿南は思っていたはずだ(太田)

 8月9日の御前会議で、東郷茂徳、米内光政、平沼騏一郎は、「天皇の地位の保障のみ」を条件とするポツダム宣言受諾を主張。それに対し阿南惟幾、梅津美治郎、豊田副武は「受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。天皇は東郷、米内、平沼の見解に同意し、終戦が原則的に決定された。しかし連合国側から条件を付す件について回答文があり、ふたたび受諾賛成と反対の議論が再燃する。

⇒陸軍の杉山構想推進者達の中で、原爆投下を受け、当初の予定通りソ連の北海道上陸まで終戦を引き延ばすべきかどうかについて、まだ完全な意思統一ができていなかった(コラム#省略)、ということだ。(太田)

 8月12日、軍令部総長・豊田副武大将(及び大西瀧次郎軍令部次長)と陸軍参謀総長・梅津美治郎大将が昭和天皇に対してポツダム宣言受諾を反対する帷幄上奏を行う。

⇒梅津は単に時間稼ぎをしていただけ、豊田は梅津、というか、陸軍に追随していただけ、というのが私の見方だ。。(太田)

 同日、米内は、抗戦を主張する豊田と軍令部次長・大西瀧治郎の二人を呼び出した。米内は大西に対して「軍令部の行動はなっておらない。意見があるなら、大臣に直接申出て来たらよいではないか。最高戦争指導会議(9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度で入って来るなんていうことは、実にみっともない。そんなことは止めろ」と言いつけ、大西は涙を流して詫びた。次に豊田に対して「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部のやることに兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣と意見を交えた上でなければ、軍令部と雖も勝手に行動すべからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである。それにも拘らず斯る振舞に出たことは不都合千万である」と非難し、豊田は済まないという様子で一言も答えなかった。豊田が軍令部総長に就任する際に、昭和天皇は「司令長官失格の者を総長にするのは良くない」と反対する旨を米内に告げているが、米内は「若い者に支持がある。彼の力によって若い者を抑えて終戦に持っていきたい」と返答した。しかし豊田は押し切られた形になり、米内も親しい知人に「豊田に裏切られた気分だ。見損なった」と述べ、昭和天皇は「米内の失敗だ。米内のために惜しまれる」と述懐している。

⇒そもそも、米内には人を見る目はないけれど、豊田のことは一貫して信頼していてそれは間違っていなかったものの、大西については完全にミスキャストであって、さすがの米内も大西がクーデタを起しかねないと心配し、大西を叱り飛ばす目的で、豊田もつきあわせたのだろう。(太田)

 8月14日、天皇は最高戦争指導会議および閣僚の面前で、再度受諾を決定、これにより終戦が最終的に決した。
 鈴木内閣の陸軍大臣だった阿南惟幾は終戦の日当日に「米内を斬れ」と言い残して自決したが、米内本人は軍人として法廷で裁かれる道を選んだ。戦犯として拘束されることを予期し、巣鴨プリズンへ収監される場合に備えていたものの、結局米内は容疑者には指定されなかった。
 米軍側は米内の以前の言動を詳細に調査しており、GHQの某軍人が元秘書官の麻生孝雄のもとを訪ねた際、いきなり米内のことを切り出し「米内提督については生い立ちからすべて調査してある。命を張って日独伊三国同盟と対米戦争に反対した事実、終戦時の動静などすべてお見通しだ。米内提督が戦犯に指名されることは絶対にない。我々は米内提督をリスペクトしている」と断言し、麻生に米内の伝記を書くことさえ勧めている。
 また保科善四郎や吉田英三、豊田隈雄などが「米内さんだけは戦犯にしてはいけない」と奔走したという話もある。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、東久邇宮内閣・幣原内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。幣原内閣の組閣時には健康不安から辞意を固めていたにもかかわらずGHQの意向で留任している。

⇒占領軍まで、米内に誑しこまれたわけだ。(太田)

 米内は「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は天佑だった」続けて「国内情勢で戦いをやめるということを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾やソ連の参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態(食糧事情などによる国内秩序の崩壊から日本が内部から崩壊すること)が主である。(中略)軍令部あたりも国内がわかっておらなくて困るよ」と近衛文麿や細川護貞などに語った。・・・

⇒トロくて内外情勢に疎い米内が、そういう自覚が皆無だからなのだろうが、よく言うよ、といったところだ。(太田)

 幣原内閣において海軍省は廃止され第二復員省となったことから、米内が日本で最後の海軍大臣となった。・・・
 山本五十六は海軍次官として米内の部下だった頃に「うちの大臣は頭はそれほどでもない。しかし肝っ玉が備わっているから安心だ」というコメントをしている。また、大井篤は米内の功績を評価しつつも『孫子』の「将は智・信・仁・勇・厳なり」という言葉を挙げ、「信・仁・勇・厳は文句なしだが智に関しては問題がなかったとは言えない」としている。・・・
 高木惣吉は、「世にいう秀才タイプでなかったことは事実」「雄弁も、迫力も、政治的烱眼もたしかに持ち合せていなかった」「だがその代り、いつも自分の精魂を傾けて信ずる結論だけを最後までくりかえした」と評する。・・・
 中国文学者の守屋洋は『老子』を解説した著書の中で大山巌と米内の名前を挙げ、「暗愚に見えて実は智を内に秘めている。しかし智を表面に見せずあくまで暗愚に装う」「熟慮や智謀を超越し、その果てに達した無為自然の境地を持った人物」と東洋的リーダーの典型として評価をしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF

⇒「石黒忠悳<いわく、>「<大山巌>公爵は決して才智を表に現す事のない人です。即ち智というものを全く超越している人であると思います・・・一見何事をも知らざるが如く、しかして何事をも知っていた。公の本領はもちろん、軍将として三軍を叱咤するにあったが、一面政治をも解し経済にも通じ、八方無凝の大才であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%B7%8C
に米内が比肩するとの守屋洋の米内評は噴飯物だ。
 繰り返し的に総括すれば、米内は、矮小にしてトロいが大変な人誑しだったが故に、杉山構想推進者達によって、近衛文麿並みに使い倒され、そのことに全く気付かないままこの世を去った、たぐいまれなイタい人物、だった。(太田)


[「米内を斬れ」について]

 「阿南惟幾<は、>・・・自決の前に「米内を斬れ。」と口走っていることなどから、実際は最後まで抗戦派であったのではないかと、その発言の真意をめぐる議論がある。阿南の本心はあくまでも陸軍の名誉挽回のための一戦を交えるというもので、まずは自らの自刃で陸軍将兵の士気を鼓舞してから、その後、決起した陸軍将兵が和平派の米内を殺害し、海軍の決起の障害を取り除けという意味であったとの推測する意見や、作家の半藤一利は、絶対主義天皇制を信じる阿南は、本土決戦の混乱による共産主義革命を恐れ、早期に降伏し、天皇機関説に則って機関としてだけでも天皇制を残そうと画策していた米内を不忠であると思っており、このような発言に至ったと推測しているが、この言葉を阿南から直接聞いたと証言した竹下によれば、阿南は終戦に関して米内と散々議論してきた直後でもあり、母親の死後絶っていた酒を久々に口にして酔っていたことや、自決前の気持ちの高ぶりもあって、この言葉には深い意味はなく、つい興奮のあまりに口走ってしまった感じだったという。その証拠として、この発言のあとに米内に関する話を続けることはなく、すぐに他の話題に移ったことをあげている。阿南の秘書官であった松谷誠中佐も竹下と同じく「意味のない言葉だったんでしょう」と証言しているが、その根拠としては、「日頃から阿南さんは、深く考えてものをいう人ではなかった。自分の言葉の影響も余り考えず、瞬間的に頭にひらめいたことをすぐに口に出す人でした。それだけに、無邪気な、気のいい人だったと思います。」と阿南の普段の人柄を挙げている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE

⇒上掲引用中に登場する諸見解は、酒が入れば、その人の本性、本心が露見するものであるとの一点だけからも、全て誤りだと思う。
 私は、阿南は、1939年(昭和14年)10月に阿部内閣の畑俊六陸相
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD と
の下で陸軍次官に就任した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE

時に、杉山構想を伝達されたと考えているが、杉山らの傀儡であった米内が、その海相時代において、1937年の盧溝橋事件の後の第二次上海事変以降、同じく、杉山らの傀儡であった近衛をたじろがせるほどの対支強硬姿勢を取り続けたことが杉山らに買われ、1940年1月に首相に仕立て上げられるも、今度は、一転、(むしろソ連と組むべしとして!)三国同盟締結に反対を貫いたことで、阿南は、仕方なく、同期の澤田軍令部次長、と、軍務局長の武藤章、と図った上で陸相の畑に対して辞職するよう強要し、米内内閣を倒壊させたところ、阿南は、米内の行動原理が、国内外情勢認識のお粗末さと海軍セクショナリズムに由来するものであることを見抜いていて、再び杉山らの傀儡として、今度は終戦を促す役割を期待されて、1944年7月22日に米内が小磯國昭内閣の下で副総理格で海相に再就任させられ、1945年4月7日の鈴木貫太郎内閣でも留任させられるが、相も変わらず、ソ連に終戦仲介をさせる案に固執する米内に(それが成就するわけがないことを知っているだけに反対こそしなかったものの)、そしてまた、対米細菌戦実施を承認した米内(コラム#12996)に、阿南は呆れ、1945年6月の議会がらみでの米内の唐突な辞意に振り回され、また、(どちらも有難かった面もあるけれど、)米内の人を見る目のなさが露呈したところの軍令部人事、とりわけその次長人事、や、米内個人に関しては、(彼が杉山構想を開示されていなかった以上、)その海軍セクショナリズムの発露であるしか考えられないところの、陸海軍統帥統合・航空兵力一本化への反対、にも呆れ、終戦後、占領軍等によって近衛は処断されても米内は終戦に尽力したとしてむしろ持ち上げられるであろうことを予想しつつ、せめて自分だけでも米内を歴史に残る形で糾弾し、米内が愚かで矮小であるとの糾弾理由を後世の誰かに「発見」してもらいたい、と阿南は思ったのだろう。(事実関係は上掲に拠った)(太田)

  タ 高橋三吉(1882~1966年) 海兵29期(5位)、海大10期

 「旧岡山藩藩士・・・の三男として東京市に生まれた。・・・

⇒岡山藩は、秀吉流日蓮主義信奉藩であり(コラム#12651)、高橋は、父親から同主義を受け継いでいる可能性が高い。(太田)

 日露戦争には駆逐艦「叢雲」乗組員として参加。黄海海戦後に戦艦「敷島」の分隊長に転任して日本海海戦に参加した。・・・
 第一次世界大戦中の大正4年(1915年)2月から翌年4月まで、少佐に進級していた高橋は欧米諸国を出張視察した。とはいえ、欧米諸国の軍艦に乗り込んで海戦を視察する観戦武官の地位は得られなかったため、戦場を見ることはなく銃後の社会を広く見聞するに留まった。
 視察から帰国した高橋は中佐に昇進。大正6年(1917年)6月に第一特務艦隊参謀に任じられて海外派遣されるまでの一年間、戦隊参謀や戦艦副官を務めた。第一特務艦隊は、インド洋を横断する連合軍の補給船団をドイツ潜水艦の攻撃から守るために臨時編制され、シンガポールとケープタウンに常駐して護衛任務を担当した。実際はドイツにインド洋まで潜水艦を派遣する余裕がなかったため、この艦隊は対潜戦闘をほとんど経験することなく、高橋は半年の任期を全うして帰国した。帰国後、大佐に昇進するまでの3年間は横須賀鎮守府や第二艦隊の参謀、海軍大学校の教官を歴任している。
 なおこの時、留守を守る夫人に変な虫がつくことを心配し、佐世保鎮守府で内勤していた<海兵同期の>米内光政のもとに夫人を預けている。のちに高橋は強硬な艦隊派となり、米内は壊滅した条約派の遺志を継いで避戦に徹することになり、両者の思想信条は大きくかけ離れていた。しかし私生活においては高橋と米内は強い友情で結ばれていたといわれる。同級生の藤田尚徳とともに、昼行灯で出世に無頓着な米内の潜在能力を早くから見抜いており、自分と藤田より米内の出世が1年遅いことを苦々しく思っていた。
 高橋が海軍の歴史に顔を出すのは、2年間務めた大学校教官を退いて大正11年(1922年)11月に着任した軍令部第2課長の時代である。前年にワシントン軍縮条約が調印され、高橋が課長に着任する直前の8月に発効となっていた。砲術専攻の高橋としては、幻に終わった八八艦隊があまりにも惜しく、条約に反対することを決意した。政府を牽引して条約を成立させた加藤友三郎大臣以下の海軍省が強力な権限を発揮したことを読み取った高橋は、海軍省から軍令部に権限を譲渡させ、軍令部の発言力を強化すべきと考えた。

⇒直接的な典拠が付されていないが、そんなことはありえない。
 陸軍であれ、海軍であれ、人事権を握っているのは部ではなく省であり、参謀本部/軍令部、の権限をいくら強化しても、そこに省にとって都合が良い人物を省は配置できるからだ。
 (なお、陸軍の場合は、省は、陸相、参謀総長、と教育総監、の人事については、例外的に、参謀総長と教育総監と話し合って決めることになっていた(コラム#省略)けれど、これは次元の異なる話だ。)
 既述したように、軍令部長(後に軍令部総長)に就任した伏見宮の権威を高めることによって、全重要人事の事実上の決定権をこの伏見宮に与えるべく、杉山構想推進者達が東郷平八郎等を通じて(いずれも秀吉流日蓮主義者であるが故に見込まれた)加藤(寛)、末次、高橋ら、に軍令部の権限強化を指示し、それを受けて彼らが策動を始めたのだ、と、私は見ている。(太田)

 さっそく加藤寛治軍令部次長や末次信正第一班長に進言したが、実際にワシントン会議で主張を一蹴された加藤と末次は「時期尚早」として高橋の進言を却下した。さかのぼって大正4年、軍令部の権限拡大運動を画策した佐藤鉄太郎中将は、軍令部次長に着任して僅か4ヶ月で更迭された。加藤や末次が佐藤の二の舞を避けたいと思うのも無理はない。しかし、高橋案が却下されてから実現まで、僅か10年の歳月しか経たなかった。

⇒この3人で、行動を起こす最適な時期を相談した、という程度の話だろう。(太田)

 大正13年から翌年にかけて、高橋は敷設艦「阿蘇」・戦艦「扶桑」の艦長を歴任し、大正14年(1925年)12月に少将へ昇進すると同時に軍令部第二班長に着任した。戦術戦略を担当する第一班と違い、高橋が担当する第二班は戦争指導が主務であり、高橋の私案を扱う部署ではなかった。
 大正15年(1926年)11月、連合艦隊参謀長に着任した。連合艦隊司令長官は加藤寛治で、連日激しい訓練を強いていた。・・・
 加藤は末次信正や中村良三とともに高橋を腹心として高く評価していた。しかし実際は、末次は加藤を最大限利用したに過ぎず、高橋と中村にとって加藤は頼るべき存在ではなく、たまたま上官になっただけの関係と見なしていた節がある。

⇒憶測に過ぎない。(太田)

 昭和3年(1928年)4月、連合艦隊に初めて空母を組み込むことになり、「赤城」を中心とした第一航空戦隊が設けられた。この初代司令官に任命されたのが高橋である。砲術一筋の高橋にとって、空母の運用はまったく異質なために相当困惑し、一度は辞退したものの、漸減邀撃作戦に航空機を導入する絶好の試用期間であると説得されて着任した。当時の赤城艦長は山本五十六大佐で、山本以下のスタッフの働きに高橋は大いに満足した。と同時に、航空が艦隊の中で重要な位置を占めると確信できたようで、のちに連合艦隊司令長官に着任した頃、「大和」「武蔵」の建造が始まった際には、戦艦建造の必要性があるかどうか再考を促すコメントを残している。鉄砲屋の高橋が宗旨替えしたことに技官たちは驚きつつも、「軍令部の意向に反して自分の経験だけで計画に横槍を入れるとは、連合艦隊司令長官はそんなに偉い立場なのか」と反論されている。
 中断をはさんで合計1年の司令官生活を終えて海軍大学校長に転任する。・・・
 昭和6年(1931年)、高橋が長らく暖めていた軍令部の権限強化を実行する絶好の好機が訪れた。満州事変が勃発し、関東軍の独走を事後承諾する形式とはいえ、参謀本部は陸軍省より迅速に事変への介入と指導に邁進した。
 陸軍省をもしのぐ参謀本部の実力が遺憾なく発揮されたことで、海軍省に頭が上がらない軍令部の現状に問題提起しやすくなったのである。

⇒とんでもない。
 全ては当時陸軍省の次官だった杉山元が黒幕として取り仕切った、というのが私の見解である(コラム#省略)ことはご承知の通りだ。(太田)

 さらに軍令部長に伏見宮博恭王が着任し、高橋が昭和7年(1932年)2月に軍令部次長に招聘されたため、雌伏10年にして私案を堂々と提出できる立場になった。伏見宮の激励も追い風となり、高橋は海軍省の権限を少しずつ剥ぎ取って軍令部のものに変えていった。

⇒いや、海軍部内に関しては、「主犯」は伏見宮なのだ。(太田)

 なお昭和7年に出版された「米国海軍の真相(有終会)」は「米国の工業力は日本の10~20倍」「米海軍軍人の士気・能力は日本海軍軍人に劣らない」など日米海軍の戦いでは日本の勝利はおぼつかないとする内容の書籍であったが、高橋は海軍軍令部次長として、これを極めて高く評価する推薦文を寄稿している。

⇒当時、そう考えない陸海軍将官など(末次のような例外中の例外を除いて)まずいなかったはずであり、特記されるような話ではなかろう。(太田)

 昭和8年(1933年)3月、高橋は軍令部条例と省部互渉規定の改定案を提出した。この両法令は、平時に海軍省が掌握している人事権や予算編成の権利を、緊急を要する戦時には軍令部へ預けて迅速な戦争遂行を進める一方、終戦とともに海軍省へ返還する各種の権限を定めてある。
 これを平時にも軍令部に完全移譲させようというのが高橋の最終目標であった。この改正案は、昭和天皇が一読して「人事や予算が軍令部の勝手に使われる恐れが極めて高い」と憂慮するほど劇的なものであった。

⇒そこまで調べなかったが、例えば人事権について言えば、省部間の人事異動等までには渡らないに決まっていよう。従って、白紙的には、軍令部にとって、それほどありがたみのある話ではないはずだ。(太田)

 軍令部と海軍省の交渉は難航することが必至で、実際に最初の衝突となった課長級協議では、南雲忠一第二課長と井上成美軍務局第一課長の罵倒合戦となり、予想通り決裂した。この席で南雲が井上を脅迫したことはよく知られている。嶋田繁太郎第一班長と寺島健軍務局長による局長級会議、高橋と藤田尚徳海軍次官との次官級協議も決裂した。高橋個人としては、同期の友人でありライバルである藤田と戦うことには引け目を感じていたが、次官級協議が決裂しても、最終協議をする伏見宮部長に対して大角岑生海軍大臣が異議を唱えることはないという勝算があった。高橋の予想通り、大角は伏見宮に屈服して改正案が認められた。

⇒大角と内々話はついている、と、高橋は伏見宮から示唆されていたはずだ。(太田)

 こうして十年越しの野望を達成した高橋は、この年の11月定期異動で第2艦隊司令長官に転任して赤煉瓦を去った。さっそく「大角人事」と揶揄される条約派粛清の人事が発動しようとしていた頃である。先に航空戦隊司令官を経験した高橋は、最前線部隊の第2艦隊にこそ航空戦隊が必要と説いた。しかし空母そのものが3隻しかないため、航空戦隊は第1艦隊しか設置できなかった。高橋の要望がかなったのは、4隻目の空母「龍驤」が完成し、高橋が連合艦隊司令長官に栄転した翌年11月のことで、第2艦隊時代に空母を運用する機会は遂に訪れなかった。
 実働部隊の頂点に立った高橋の任期は昭和9年から11年までの2年間<だった。>・・・
 昭和11年(1936年)2月には陸軍皇道派による二・二六事件が勃発。この時には軍令部・海軍省とも大混乱に陥り、反乱軍を鎮圧すべきか黙認すべきか判断できない状況になった。高橋は独断で第一艦隊を東京湾に、第二艦隊を大阪湾に突入待機させ、いつでも反乱軍を攻撃できるよう万全な準備を整えて待機した。幸いにも反乱軍は自ら退去し、事態は収拾された。この年の4月に大将へと登り詰めた。

⇒こういう作戦(運用)上の下剋上は、陸軍では珍しくなかったが、海軍では画期的だったのではなかろうか。(太田)

 昭和11年末の定期異動で高橋は現場を去って軍事参議官に退いた。ロンドン軍縮条約が破棄されて建艦競争が始まり、盧溝橋事件を契機に日華事変が始まる時期である。高橋は軍令部の権限強化を<望>んで自ら実現化させてはいたが、だからといって対米戦争を積極的に起こす気もなかった。しかし軍事参議官を務めている間にも、海軍では対米戦も辞さない空気が広がりつつあった。駐米武官の経験があって対米協調を重視する将官に百武源吾・長谷川清・山本五十六らがいたが、海軍省で戦争回避に奔走できるのは山本ぐらいしかいない。そこで高橋は藤田とともに海軍を去ることを決意する。両者が辞めることで、1年遅れで昇進していた米内光政を表舞台に引き上げようと画策したのである。米内が第29期筆頭に昇格すれば、第32期の山本では指揮できない31期の対米強硬派を制圧でき、閑職に追いやられた百武や現場指揮官に任じられた長谷川を米内の後継者として海軍省に呼び戻すことも可能になるのである。それを期待して高橋と藤田は身を引いた。

⇒説明になっていない。
 高橋ないし藤田が引退せずに自分達でやればいいだけの話だからだ。
 杉山らが、傀儡としては、(近衛文麿もそうだったが)馬鹿で(近衛はそうではなかったが)人誑しの米内の方が使い勝手が良いと考え、伏見宮を通じて高橋や藤田に退場を促したのだろう。(太田)

 米内が一度は日独伊三国同盟を退けたことは両者の思惑通りであり、米内が両者の期待に応えたのは周知のとおりである。
 しかし首相時代に陸軍から足をすくわれ、急速に求心力を削がれていったのは想定外のことであった。

⇒ここも憶測に過ぎず、話は逆で、米内が日独伊三国同盟に反対を貫いたのは両者の期待に反していたのだ。(太田)

 高橋は昭和14年(1939年)に予備役編入を受けたため、太平洋戦争開戦前に対米戦に関して公的な意見を述べる資格を失っていた。・・・
 終戦後、1945年12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し、高橋を逮捕するよう命令を出した(第三次逮捕者59名中の1人)。伏見宮総長・大角大臣がともに死亡し、左近司政三次官は大角人事で追放された避戦派のため捜査の対象外で、高橋は唯一逮捕拘禁が可能な首脳だったためである。巣鴨拘置所では意気消沈して一時期は抑鬱に近い無気力に陥ったが、笹川良一の励ましを受け、褌姿で放歌しつつ踊るなど自らを鼓舞し続け、不起訴釈放となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E4%B8%89%E5%90%89

⇒高橋は、秀吉流日蓮主義者でありながら、私見では杉山構想を明かされておらず、それが故の悲哀を高橋は味わわされた、というわけだ。(太田)

  チ 寺島健(1882~1972年)。海兵31期(4位)、海大12期

 「寺島家<は、>戦国時代は武田信虎に仕え、江戸時代中期以降、紀州徳川家御付家老安藤家家中であった。父・・・は和歌山県庁に勤務し、寺島はその四男である。・・・

⇒紀州藩士の子であることから、寺島が秀吉流日蓮主義者であった可能性はあると思う。(太田)

 寺島健<(コラム#13088(未公開))>・・・の海軍中央での履歴は軍令系統であったが、1924年(大正13年)12月に海軍省先任副官に補される。・・・
 花井卓蔵貴族院議員<が> 天皇は陸海軍の編成及常備兵額を定む(編成大権、軍政大権) に対する輔弼責任者は誰であるかを質問し、陸海軍は答弁書を作成することとなる。・・・
 寺島は答弁書の起草委員に選ばれ、陸軍の杉山元(陸軍省軍事課長)と起案にあた<り、>・・・「憲法第12条の大権の憲法上の輔弼の責任は陸海軍大臣にあり、但し兵力に関しては参謀総長及び軍令部長は天皇を輔翼す」との答弁書が決定された。

⇒重要な仕事を共にしたことで、寺島は杉山元と友人関係となった、と見る。(太田)

 「1930年(昭和5年)6月、教育局長に就任する。・・・寺島は在任中にファッショ的傾向が見られるようになった青年士官の教育改善や、<永野修身が校長時代に導入した>兵学校でのダルトン・プラン教育から従前の手法への復帰を図っている。・・・

⇒杉山は陸軍の軍務局長をしていて、1930年8月1日に陸軍次官になるが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
交友関係が続いていた寺島を次には海軍の軍務局長にするということを伏見宮から聞いていて、貞明皇后の関与をほのめかしつつ、伏見宮が海軍の上級人事権を事実上握ることができるよう、軍令部総長の権威を高めるべく、軍令部の権限強化を図ろうとしているので、協力して欲しい、決して悪いようにはしない、と頼み、寺島が引き受けたのではなかろうか。(太田)

 1932年(昭和7年)5月、寺島は教育局長兼軍務局長として海軍軍政の中枢を預かることとなった(6月より軍務局長専任)。寺島の軍務局長時代は五・一五事件の処理が行われたほか軍令部から海軍省に対し軍令部条令及び省部互渉規定改定案の商議がなされる。この商議は唐突なものではなく、軍令部の権限拡大を目指した動きは、加藤友三郎、村上格一の海相在任時からみられる。しかし島村速雄部長、佐藤鉄太郎次長時代、山下源太郎部長、加藤寛治次長、堀内三郎次長時代の試みは実現していなかった。なお軍令部の権限拡大を要求した理由に軍部大臣に文官が就任した場合への懸念があった。昭和期になると1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議に際して統帥権干犯問題が起き、軍令部は憲法11条、12条につき陸軍と同様の公式見解をまとめ、内閣法制局の11条解釈「統帥権に付ては国務大臣は輔弼の責に任ぜず 但し・・・其の国務に関する範囲に於ては 国務大臣は之に参画し輔弼の責に任ず」に対し、但し書き以下の削除を求めた。海軍省は反対し、日本は国家として結論を出せないままであった。海軍は軍事参議官会議で、兵力量は海相と軍令部長の「意見の一致しあるべきものとす」と決議する。ロンドン会議後の人事面では東郷の推薦で、軍令部寄りの考えを持っていた伏見宮博恭王が軍事参議官会議の決議を得て海軍軍令部長に就任する。前任の海軍軍令部長谷口尚真はロンドン会議後に辞任した加藤寛治の後任者で、退任に抵抗を示している。
 こうして皇族をトップとした軍令部はまず戦時大本営編成、戦時大本営勤務令の改定に成功する。これは参謀本部に比べて小さかった軍令部の戦時における権限を拡大したもので、松田千秋が軍令部側の主務者である。しかしこの改定は平時には影響せず限定的なものであった。引き続き軍令部は岡田為次を主務者とする改定案を作成し、軍令部編成の強化を図った。寺島軍務局長ら海軍省側は抵抗したが、高橋三吉次長と岡田海相の会談は喧嘩別れに近い状態で、岡田の「見たという印」のサインをもって海軍軍令部長の権限で発令された。海軍省は増員された定員に配員を行わずに抵抗を続けたが、高橋や伏見宮は阿武清人事局長に談じ込み、新設の軍令部第四班長へ配員が実施された。
 1933年(昭和8年)1月、伏見宮海軍軍令部長、大角岑生海相、閑院宮参謀総長、荒木貞夫陸相の四者は「兵力量の決定に就て」という名の文書に署名を行う。この文書には兵力量は「参謀総長、軍令部長が立案する」と記され、加藤寛治から枢密顧問官金子堅太郎にも送付されている。この内容は上述した憲法12条に対する海軍の従来の考え方を覆し、参謀本部と同様の立場に立つものである。同年3月、軍令部は海軍省に軍令部条令及び省部互渉規定改定を提案した。当時の省部主要幹部は以下のとおりで、海軍省の寺島、井上は条約派、軍令部の伏見宮、高橋、南雲は艦隊派に分類される。

海軍省  大臣 大角岑生 (海兵24期)
     次官 藤田尚徳 (海兵29期)
     軍務局長 寺島健(海兵31期)
     第一課長 井上成美 (海兵37期)
軍令部  軍令部長 伏見宮博恭王(海兵18期相当)
     次長 高橋三吉 (海兵29期)
     第一班長 嶋田繁太郎 (海兵32期)
     第二課長 南雲忠一(海兵36期)

 改定案は多岐にわたるが、重要な点は海軍軍令部長の「国防用兵に関することを参画し親裁の後之を海軍大臣に移す」との規定を「国防用兵の計画を掌り用兵の事を伝達す」に変更、また「用兵」の範囲は省部互渉規定で定めることとし、その互渉規定でも海軍省から軍令部に権限を移すことにあった。なおこの提案は軍令部に起案権すらないものである。改定案は軍務局員河野千万城に持ち込まれ、上司の第一課長井上成美が自ら処理にあたり、南雲忠一との交渉で改定案を認めなかった。この井上の態度は寺島、藤田両人の了解の上である。井上の反対理由は大きく3点に分かれており、クラス会限りとして著した「思い出の記」から引用する。
一 海軍大臣は統帥の一部に関することを掌り、それに関する輔弼(憲法上の)の責任を持っておる。之は軍の特殊性に基づく軍部大臣特有のもので、大臣が国務大臣として責任を果たす為、当然のものである。
二 軍部大臣の掌理する統帥に関する国務は、極めて深い専門知識と経験とを必要とする。従って軍部大臣は是非共軍人でなければならない。尚、吾々は吾々の尊敬する先輩を大臣に戴いてこそ職務に張合いもあるが、海軍の事など判る道理もない政党人などに大臣に来られて、喜んでその下で死ねるかっ!!というのは理屈ぬきの吾々の強い感情である。軍令部要求の如く大臣の権限を大幅に縮小することは、文官大臣論に有力な武器を与えることになる。
三 軍令部長は大臣の部下ではない。又憲法上の機関でもないから、憲法上の責任をとることがない。(結構な御身分で)法の上での責任をとらない。そして大臣の監督権も及ばない人に非常に大きな力を持たせることは、憲法政治の原則に反するし、又、危険である。
 この第三項は、井上特有のものではなく、海軍内に基本的に存在していた考え方であった。6月、交渉は寺島と嶋田に移るが、寺島は強硬な態度で反対し、改定項目の二、三に同意したのみで、残り全項目を拒否した。なお寺島の言によれば、伏見宮に対し「制度は間違いのない責任体制を持たねばならぬ」と述べ、伏見宮の不興を買っている。事態は膠着し、交渉は藤田次官と高橋次長、大角海相と高橋部長代理に段階を移しても解決には至らず、最後は7月の大角海相と伏見宮海軍軍令部長の会談で基本的に妥結している。こうして海軍の伝統であった海軍省の軍令部に対する優位は崩れた。この妥結に対し海相経験者の斎藤実首相、海軍軍令部長経験者の鈴木貫太郎侍従長は不満を表明した。大角海相の上奏を受けた昭和天皇は海軍省の所掌事項への軍令部の過度の介入を懸念し、大角からその回避ができるかを書類で提出させている。
 寺島はこの妥結後に原田熊雄に対し、加藤寛治、金子堅太郎、大角、伏見宮の動きなどの裏面事情を語り、改定を食い止めようとした旨を語っている。しかし寺島は最後まで抵抗を続けた井上の説得を図ってもいる。寺島の言葉は「今度ある事情により、この軍令部最終案により改正を実行しなければならないことになった。こんなバカな軍令部案によって制度改正をやったという非難は局長自ら受けるから、枉げてこの案に同意してくれないか」というものであった。井上は直属上司たる寺島の言葉にも妥協しなかった。

⇒「ある事情」は、かつて杉山から聞かされていて、大角に確認したところ、大角もその通りだよと頷いた事情だった、と見る。(太田)

 9月、寺島は練習艦隊司令官に転出した。・・・しかし翌月に軍令部出仕を命じられ、翌年3月、52歳で予備役に編入された。この際寺島は「男子由来尚潔清 毀誉褒貶任人評 請見猛夏殷雷後 霽月光風天地清」という漢詩を残した。寺島に関する人事は満州事変に際し、日米戦争を招く危険を考慮して陸軍の動きに反対した谷口尚真、ロンドン会議において軍縮条約賛成派であった山梨勝之進、左近司政三、堀悌吉ら条約派将官の予備役編入と同じ動きであり、いわゆる大角人事の一環である。

⇒後出の寺島の言からすると、寺島も満州事変における陸軍の動きに反対した口なのだろう。
 このことから、寺島にも杉山構想は伝えられなかったと考えられる。(太田)

 寺島の離現役は国会でも問題になり、一連の人事に不審を抱いた中澤佑は、山梨勝之進に事情を聴いている。山梨は大角海相に対する伏見宮と東郷平八郎の圧力を挙げ、「東郷さんの晩節のために惜しむ」と語った。

⇒東郷は誤解されて気の毒なことだ。(太田)

 この年の11月、 山下亀三郎の意向で浦賀ドック社長に迎えられた。就任に際し寺島は伏見宮に挨拶を行っている。

⇒寺島と伏見宮が相通じていたからこそだ。(太田)

 浦賀ドックは造船を主たる業務とする会社で、寺島社長の7年間で駆逐艦、青函連絡船など62隻を建造した。また20ミリ機銃製造を行うため富岡兵器製作所を創設した。同社は大日本兵器に発展し、寺島は社長を兼務している。この20ミリ機銃は零式艦上戦闘機にも搭載され、威力を発揮した。なお永野修身海相による米内光政への次期海相就任の打診を行ってもいる。
 1941年(昭和16年)10月7日、東條英機を首班とする東條内閣が成立する。東條は前海相の及川古志郎に逓信大臣と鉄道大臣を兼任する人物の推挙を求め、海軍は寺島を推薦した。

⇒杉山元が、寺島への恩返しの時が来た、と、及川(下出)と東條に話をつけたのだろう。(太田)

 寺島は東條と面会した際、避戦派といわれた自分は不適任という趣旨を述べたが、東條の説得を受けた。寺島は山下亀三郎の了解のうえで就任を受諾する。鉄道大臣はこの年の12月まで、逓信大臣は1943年(昭和18年)10月まで在任している。逓信大臣からの離任は鉄道省、逓信省の合併による運輸通信省発足に伴うものである」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B3%B6%E5%81%A5

  ツ 及川古志郎(1883~1958年) 海兵31期(76番位(185名中))、海大13期

⇒「及川に関しては、「<対英米>戦争を大東亜共栄圏の建設という至上の理想、「近代の超克」のために止むを得ないものと肯定した・・・高山岩男」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%B2%A9%E7%94%B7
との濃厚な交流や、「生家が比較的近い(現在は同じ花巻市内)<日蓮主義者の>宮沢賢治について、宮沢賢治全集を読み「面白い、不思議な人が生まれたものじゃないか」と同級生の野村胡堂に語っていた」」こと、や、「<対英米>戦争<開始>時の東條内閣顧問<務めたところの、当時、>三菱重工業社長<であった>・・・郷古潔<(ごうこきよし。1882~1961年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E5%8F%A4%E6%BD%94 >
と、「盛岡中学の同級生で・・・<及川の>葬儀の際<に>・・・弔辞を読んだ」という間柄だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8A%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E5%BF%97%E9%83%8E 前掲
ことから、杉山構想的なものに基づいて陸軍が動いていることを察知し、共感を覚え、この動きに沿った方向に海軍を、その発達障害に付け込んで、秘密裡に巧みに誘導したのではないか、という気がするに至っています。」(コラム#13062(未公開))と書いたことがあるが、以下述べるのは、「杉山構想的な」以下を全面的に改説した新たな私見だ。(太田)

 「・・・明治以来、西欧から輸入され形成されてきた海軍の統制教育に疑問を感じ「上官の命令に従うだけで本当に戦争ができるのだろうか、一人一人の兵隊が、その場その場で考えて、自分で判断できなければ戦いに負けてしまう」<(注21)>と考え、海軍兵学校の教育の改革を考えたのが32代校長の永野修身海軍中将だと言われている。

 (注21)「大木毅<:>・・・海軍の軍人にも政治的な動きをする人はいましたが、一般的には自分に与えられた職能や権限に厳格です。私も海軍で佐官(大佐・中佐・少佐)クラスを務めた方々に何度も話を聞いたことがありますが、「他の職務に口を出さない、その代わり自分の仕事にも口を出させない」という特徴があったように思います。」
https://gendai.media/articles/-/86423?page=4
 大木毅(たけし。ペンネーム:赤城毅(つよし)。1961年~)。立大文(史学)卒、同院博士課程単位取得退学。「ボン大学留学。その後、日本学術振興会特別研究員、千葉大学・横浜市立大学などの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを経て、・・・現在は作家として活動する傍ら、研究を続けている。研究者としてはナチス・ドイツの政治外交史を研究している。2020年、『独ソ戦』で新書大賞を受賞。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%9F%8E%E6%AF%85

 しかしその永野が校長に就任する直前に教頭を勤めていて「職員の意識の変革を企画し、改革の準備を進めていた」のが及川古志郎であった。及川はその後、永野の改革を支え続け、第35代同校校長、更に1942年(昭和17年)10月18日には海軍大学校校長に就任。校長在任中、及川は和平派で京都学派の高山岩男に「日本は今、英米と戦争している。この主因の一つは軍人の教育が戦闘技術に偏したことである。政治と軍事の正しい関係とは何か、これを達成するにはどうすればよいか。文武の新しい統合の道を樹立しなければ日本は救われない。そのために力を貸して欲しい」と依頼している。・・・

⇒及川自身や大木毅が指摘している、帝国海軍軍人像は、海軍は(海兵隊/陸戦隊、を捨象すれば)、訓練時も有事も狭い艦艇に乗り組んでおり、艦長の下、上意下達の一糸乱れぬ態勢を常に維持している必要があったことから、いわば、万国共通のものだったのだが、それが、次第に航空部隊が中心になってくると、戦闘機同士の空中戦の場合は、まさに一人一人の操縦士の創意工夫が重要になって来るところ、及川は、海軍軍人像を転換しなければならないという問題意識を、帝国海軍内で最も初期に抱いた一人だったのだろうが、下掲を参照されたい。↓
 及川は、「1915年12月から1922年12月まで、裕仁親王の東宮付武官を務め・・・た。and these three years became his capital in the navy during the Showa period.」
https://www.baike.com/wikiid/2293747522010698304?from=wiki_content&prd=innerlink&view_id=4d7p90kp7wi000 ←前段Google方誤訳、後段Google英訳
 ちなみに、牧野伸顕の(将来の内大臣就任含みでの)宮内大臣就任は1921年2月19日だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
 伏見宮博恭王は、「1932年(昭和7年)2月2日付で、・・・海軍軍令最高位である海軍軍令部長に就任した。・・・日独伊三国同盟・太平洋戦争と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな発言力を持った。・・・太平洋戦争中においても、大臣総長クラスの人事には博恭王の諒解を得ることが不文律であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E5%8D%9A%E6%81%AD%E7%8E%8B
わけだが、及川の「一人の大将で海軍大臣、軍令部総長、鎮守府司令長官、艦隊司令長官、航空本部長、兵学校教頭、兵学校校長、海軍大学校校長をやった者は一人もいなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8A%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E5%BF%97%E9%83%8E
というキャリア中、兵学校教頭を除き、兵学校校長から後であるその他の上出諸職位に及川を就けたのは、牧野を通じて貞明皇后からの要請を受けたと思われる、伏見宮、だろう。
 とにかく、及川は、言うなれば、海軍におけるところの、陸軍の杉山元に匹敵する大変な職歴の人物であるにもかかわらず、余りに短い杉山元のものよりほんの少し長いだけの邦語ウィキペディアしか存在せず、とりわけ、彼の若い頃の職歴が大幅に端折られていたため、止むを得ず漢語のウィキペディアもどきであるところの上掲「←・・・」を参照せざるをえなかったところ、中身によって、Google邦語訳と英語訳とを使い分けなければならなかった上、記述内容に矛盾がある・・東宮付武官であった期間が7年なのか3年なのか? で、その後気付いたのだが、邦語ウィキペディアの末尾に年譜があり、そこに、1915年12月1日東宮武官 1923年12月1日軽巡洋艦「鬼怒」艦長 と記載されている(上掲)のを「発見」したが、これだと8年ということになる・・ことから、使用には慎重でなければならないけれど、及川が、昭和天皇の皇太子時代にその付武官を長期にわたって務め、そのことと、及川の異例なまでに華麗なるその後の職歴との間に関係がありそうであることはウソではなかろうと考えた。
 その時、(例えば、日蓮宗信徒の貞明皇后が及川の郷里近くに生まれたところの、日蓮主義者たる宮沢賢治の話題を出した時に、及川が熱弁を振るって称賛したといったことを通じて、)貞明皇后から及川が見込まれ、及川が離任する直前に、同皇后、西園寺公望、牧野伸顕の3名が調整の上、牧野立ち合いの下、貞明皇后から、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスを完遂する構想の作成を陸軍省航空課長の杉山元
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/sugiyama_h.html
に申しつけてあること、いずれ、皇族を、それぞれ、参謀総長、軍令部長に就け、軍令部長には参謀総長の意向に沿った人事を海軍内で行わせるつもりでおり、岐路において及川を海軍大臣に就けさせるので、就任したら、(杉山元が牛耳っているはずの)陸軍の意向に沿って海軍の進路を決定するよう、指示された、と、見たらどうだろうか。
 そう見れば、海軍大臣(や終戦時の軍令部総長)の時の及川の不思議な言動の説明がつくし、それよりも何よりも、ハンモックナンバーが悪かった及川が海軍のあらゆる顕職を総なめにすることができたのはどうしてかの説明がつくというものだ。
 では、及川の高山岩男への問いかけを我々はどう受け止めるべきだろうか。
 その後、及川は、杉山構想を開示された上で、この構想を同構想が開示された一握りの陸軍上層部の人々が完遂中であることも知らされたと思われるのであって、そうだったとすれば、「日本は今、英米と戦争している。この主因の一つは軍人の教育が戦闘技術に偏したことである。政治と軍事の正しい関係とは何か、これを達成するにはどうすればよいか。文武の新しい統合の道を樹立しなければ日本は救われない。そのために力を貸して欲しい」は、「日本は今、<その戦争そのものには必ず敗北するが戦争目的は達成するであろうことを一部の者だけが自覚しつつ>英米と戦争して<いるが、海軍においては、自覚している者が殆どいない>。この主因の一つは<海軍>軍人の教育が戦闘技術に偏したことである。<逆に、杉山構想完遂後の日本の軍隊では、国内政治や対外政策志向性を禁じられることだろう。>政治と軍事の正しい関係とは何か、これを達成するにはどうすればよいか。文武の新しい統合の道を樹立しなければ<戦後の>日本は救われない。そのために力を貸して欲しい」と解釈されるべきだろう。(太田)
 
 及川は支那派遣艦隊司令長官<(1938~1939年)>であったころ<支那>について岩手日報のインタビューに答え「漢民族は偉い国民だ、教育がなく訓練がないから、亡国の民のように扱われてるが、もしこれに教育を施し真に自覚せしむるならば恐るべき国となる。産物が地域ごとに偏るが両大河の水を利用して互いに交易を行い、衣食住皆その所に適ったものをもって生活することを知っている。経済の観念に至っては驚くほど精緻である。今は貧乏をしているから外国資本に依存している様だがこれが平穏の日が続き、真に彼らの経済力が回復してきたならばそれは世界一の強国となるだろう」「清が明を滅ぼして60余年で国を統一した、この事変の成果を見るのが果たして何十年の後であろうか、我が国民の所謂長期建設というのはここにあると思う」といった趣旨を述べている。・・・

⇒及川自身、慧眼であったのだろうが、それだけではなく、(毛沢東をパートナーに選んだところの)改訂杉山構想を知っていたからこそ、このような、予言者のような発言を確信的に行いえたのではなかろうか。(太田)

 高田利種少将は<、及川は、>「口下手なせいで損をしている」と・・・評している。・・・
 渡辺滋(2021年現在、山口県立大学国際文化学部准教授)は、1944年(昭和19年)に海軍大臣に就任した米内光政が、及川を軍令部総長に起用したことについて<、>「(前略)〔米内が〕自らのサポート役として軍令部総長の地位に就けたのが、及川古四郎である。・・・数年前に現役を退いていた米内にとって、現役最年長の将官(永野修身元帥を除く)〔である〕及川が自らを支える体制こそ、安定維持の良策だった。」・・※()内は原文ママ、〔〕内は引用者が補完・・と述べ、及川と米内の交流についても言及し、同郷(岩手県出身)・同窓(盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)出身)である及川と米内の間に強い信頼関係・補完関係があったことを指摘している。・・・

⇒これは、米内がいかに及川のことが分かっていなかったかを物語っており、米内は人が抱く思想や世界観に関しては無関心ないしは音痴であったということだ。
 そんな米内だからこそ、この及川の次に、「1945年5月29日、・・・豊田副武<を>・・・軍令部総長<に就けたわけだ。>・・・昭和天皇は「司令長官失格の者を総長にするのは良くない」と豊田の総長就任に反対する旨を海軍大臣米内光政に告げているが、米内は「若い者(本土決戦派)に支持がある豊田なら若い者を抑えて終戦に持っていける」という意図を天皇に告げ押し切った。しかし結果的に若い者を抑えるどころか押し切られ<そうな>形になり、米内も親しい知人に「豊田に裏切られた気分だ。見損なった」と述べ、昭和天皇は「米内の失敗だ。米内のために惜しまれる」と述懐している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%89%AF%E6%AD%A6
という顛末とあいなった。(太田)

 <ちなみに、及川は、>同窓生に1学年上に米内光政や作家の野村胡堂、言語学者の金田一京助、2学年下に板垣征四郎、3学年下に石川啄木がいて、彼らと面識もあった。」(上掲)

⇒逆に及川は、海軍以外に進んだ同窓生らとの生涯にわたる交友を通じて自身の思想や世界観を豊饒なものにしていったのだろう。(太田)

 「・・・及川は、定説としては、他の海軍首脳との了解なしに、<三国同盟>締結に賛成したとされている。
 また、1941年10月12日に、<米国>との交渉の押し詰まりを受けて、日米開戦か<支那>からの撤兵かを決定するために開催された「荻外荘会談」においても、定説としては、「海軍は<米国>に勝利できない」ということを言わず、「近衛総理に一任」とし、海軍大臣としての責任問題を問われている。
 [戦後、海軍反省会で井上成美大将から及川がこの時に海軍は戦えぬとなぜ言わなかったと詰寄ると、及川は「全責任<は>我にある」と答えた。理由は満州事変での東郷平八郎の海軍省への怒鳴りこみ・・満州事変の際、谷口尚真軍令部長が反対意見を述べたが、この話を聞いた東郷が海軍省に出向き、谷口に向かって「軍令部は毎年作戦計画を陛下に奉っているではないか。いまさら対米戦争ができぬというならば、陛下にウソを申し上げたことになる。また東郷も、毎年この計画に対し、よろしいと奏上しているが、自分もウソを申し上げたこととなる。いまさら、そんなことが言えるか」と叱りつける事件があった。・・と近衛に下駄をはかされるなという部内の声が頭を支配したせいだとい<う弁明をしている>。]
 佐薙<毅:> ・・・<また、1941年>10月の15日までに和戦の決を決めてくれと言って<東條陸相と及川海相の了解の下に>両統帥部長が政府<(近衛内閣)>に申し入れをしたわけなんですね。
 大井<篤:> ・・・参謀本部の戦争指導課の・・・種村(佐孝・士37)が・・・『大本営機密日誌』<(>1952年・・・ダイヤモンド社<)を読んでおられるようですが、そこの箇所を、>・・・印刷(出版)したときに・・・適当に直して、自分がその、戦争反対<だったという風>に、反対と言うと悪いけどね、戦争をやったのは参謀本部じゃないかと言われんように、そういうふうに思われんように<及川さんを悪者にして>直して書いているわけですよ、あれは。・・・
 及川(古志郎・兵31)海相は<、>第三項を、「我が要求を貫徹し得る目<途が立た>ない場合は、自存自衛のため最後的方策を遂行する」と、こういうふうに修正を出したんです。・・・
 (案には)・・・<10>月<15>日までかな、交渉<が>まとまらない場合は・・・開戦を決意すると書いてあったんです、最初の案は。<その日付を及川さんは消させたんですよ。>・・・」
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/5800
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8A%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E5%BF%97%E9%83%8E ([]内)

⇒しかし、そんな及川を積極的に擁護する海軍での後輩は、高田利種(注22)(後出)とこの大井篤(注23)くらいのようだ。

 (注22)1895~1987年。海兵46期(実質首席)、海大28期(次席。首席説あり)。「1940年(昭和15年)11月、軍務局第1課長に着任。対米強硬派の一員として、石川信吾<(コラム#13008)>(同局第2課長らとともに海軍国防政策委員会・第一委員会に加わり、1941年6月に対米開戦を想定した報告書「現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度」を取り纏めた。作成された報告書の内容は、海軍部内の姿勢を煽るような内容となっていた。作成者である高田の証言によると海軍としては戦争を避けたいと考えていたが、それでは陸軍や国民に海軍は弱腰だと非難を浴びる。そこで日米関係を煽る内容の報告書を作成することで、海軍の面目を保ち、さらに臨時軍事費(予算)を獲得しつつ、後に米国と妥結するという筋書きのもと作成したという。しかし、報告書が作成された時期は、日米交渉も終盤にあり、<米国>でも1941年(昭和16年)7月21日には日本本土に対する先制攻撃作戦案(J.B.No.355)が裁可されるなど関係が極度に悪化していた。・・・
 軍令部OBを中心に開催されていた海軍反省会において第一委員会の責任が問われ、高田も1982年(昭和57年)12月22日に開かれた第37回反省会に招かれた。高田は「海軍部内で戦争に賛成したか反対したかこういうことももう忘れました」、「日本海軍に日米戦争をやれば絶対に勝つと思っている人があったかなかったか私にはわかりません」とコメントし、以後は反省会に出席することはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%88%A9%E7%A8%AE
 「1940年(昭和15年)9月、海軍大臣が吉田善吾から及川古志郎に交代した。及川は、海軍次官に沢本頼雄中将、軍務局長に岡敬純少将を配置した。同年11月には、軍務局第一課長に高田利種大佐、同第二課長に石川が任命された。石川の第二課長配置に人事局は反対であったが、再び岡軍務局長が押し切って実現させたものであった。これらの対米強硬派が中心となり、海軍国防政策委員会・第一委員会が組織され、海軍政策の作成が行われた。1941年(昭和16年)6月に、第一委員会は報告書『現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度』を提出した。その内容は、日独伊三国軍事同盟を堅持し、南部仏印に進駐し、米国の禁輸政策が発動された場合は直ちに軍事行動を発動するという趣旨のものであった。委員会を主導したのは石川と富岡定俊とされ、のちに石川は「(日本を)戦争にもっていったのは俺だよ」と発言している。なお中山定義は、開戦時の海軍省人事につき、沢本、岡、石川、藤井茂と同郷人が要職にあったことに「偶然にしては少し出来過ぎではあるまいか」と述べている。・・・
 太平洋戦争敗戦後、「米英蘭の世界戦略が太平洋戦争の勃発を招いた」と主張を続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E4%BF%A1%E5%90%BE
 沢本頼雄(1886~1965年)は、海兵36期(次席。首席は佐藤市郎)、海大なし、中央の勤務なし。 「少佐時代には2年間英国に駐在した。・・・
 1941年(昭和16年)4月4日、及川古志郎海軍大臣の海軍次官に就任する。
 日米開戦に対しては反対であり、第3次近衛内閣が総辞職し東条内閣が成立する際に、及川古志郎は後任の海相として豊田副武を推薦した。しかし豊田の陸軍嫌いは陸軍側に周知のことであり、陸軍は当然としてこれを拒否、沢本はこれを好機として内閣の流産を期待したが、結局嶋田繁太郎が海相に就任した。
 日米開戦の決定についても、次官として開戦は承服しかねる、自信がないので次官を辞めさせてほしいと嶋田に頼むが、嶋田が沢本の大将昇進と連合艦隊司令長官への補職をちらつかせたために翻意する。これに関しては沢本も後年非常に悔いていた。・・・
 戦後は、1955年(昭和30年)9月24日に防衛庁顧問に就任したほか、水交会会長を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E6%9C%AC%E9%A0%BC%E9%9B%84
 岡敬純(たかずみ。1890~1973年)は、海兵29期、海大21期(首席)。「<海大後は、フランス駐在時を除き、>後軍令部勤務、海軍省臨時調査課長、ジュネーヴ会議全権随員、軍務局第一課長などの中央の勤務が多く、その間の海上勤務は潜水母艦「迅鯨」の艦長くらいである。なお、軍務局第一課長の時には、部下に大のドイツ贔屓といわれた神重徳が、上司の軍務局長には大のドイツ嫌いの井上成美がいた。
 1940年(昭和15年)の軍務局長就任と同時に、「陸軍が政策を掲げて海軍に圧力を掛けてくる。海軍はそれまで、それに対応出来なかった。どうしてもここで、陸軍に対応する政策担当者を作らなければならぬ。さもなくば、日本がどちらに持っていかれるかわからぬ」と発言し、軍務局を改編し第二課に国防政策を担当させた。この時第二課長に任命したのが、同郷かつ攻玉社の4年後輩の石川信吾である。岡は石川が二・二六事件の際予備役編入となるのを救ったという経緯もあった。強硬な対英米開戦論者だった石川を軍務局第二課長に充てる人事には、親英米派が多く、石川を異端視していた(通称は「不規弾」。一斉射撃の中で、あらぬ方向に飛んでいく砲弾、という意味)海軍部内からは猛烈な反対を受けるが、岡は強硬に押し通し、この頃から岡・石川の二人が海軍の政策を動かす役割を果たすようになった。この事は、岡は日米開戦派であり、親独派であった事を如実に物語るエピソードであると言える。この事から、戦後、木戸幸一が海軍内で最も対米開戦を強硬に主張した人物として名前を挙げた為、A級戦犯に指定された。
 その一方で、ハル・ノートを受け取った際には、あまりのショックから「これではいよいよ開戦のほかはない。今日までの苦心も、ついに水の泡である」と涙を流したとも伝えられている。
 嶋田繁太郎海軍大臣の辞任に伴い、海軍次官を辞任した沢本頼雄の後任として、繰上りの形で海軍次官に就任するが、東條内閣総辞職をうけて成立した小磯内閣の海相に就任した米内光政は、海軍次官については「岡を一夜にして放逐する」とし井上成美を次官とした。岡は鎮海警備府司令長官として中央から遠ざけられている。その後、1945年(昭和20年)6月20日に予備役へ編入された。
 太平洋戦争後、極東国際軍事裁判で終身禁錮の判決を受け服役。1954年に仮釈放されているが、その後は亡くなるまで公的な場所に現れる事は殆どなかった。裁判における個人判決文は、岡に対するものが最も短かった。
 1958年以降、法務省によって行われた聞き取り調査に答えて、太平洋戦争の結果としてアジアの植民地が独立したと考えるのは自己満足に過ぎぬと指摘した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%95%AC%E7%B4%94 
 神重徳(かみしげのり。1900~1945年)。海兵48期(10番)、海大(首席)。「1933年・・・12月6日、ドイツ駐在。1935年(昭和10年)4月1日、在ドイツ日本大使館附海軍駐在武官府補佐官補。12月11日、帰国。帰国後は親ナチスとなりヒトラーが勝つと周囲に説いた。神はヒトラー髭にもしていた。・・・
 航空戦力のない艦隊が敵航空攻撃を防ぐのは困難であることは第二艦隊だけでなく第一機動艦隊からも同様の意見具申が作戦後に提出されていたが、・・・現場のこういった現実を・・・神<が中心となって、ついに>連合艦隊司令部は認識しようとし・・・なかった<。>・・・
 <また、>神は・・・「大和」(第一航空戦隊)による海上特攻を主張し<、実現させた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%87%8D%E5%BE%B3
 「ヘンリー・S・ストークス著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたか」は2012年に出版された。
 < https://www.amazon.co.jp/%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AF%E3%80%81%E5%AF%BE%E6%97%A5%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E4%BB%95%E6%8E%9B%E3%81%91%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E7%A5%A5%E4%BC%9D%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8287-%E5%8A%A0%E7%80%AC-%E8%8B%B1%E6%98%8E/dp/4396112874/ref=pd_sxp_f_i >
 そしてABSニュースでスクープとして報道された「J.B.No.355」。
 「J.B. No.355 (Serial 691)」は 日本爆撃作戦。<米国>政府のお墨付きの作戦、だが爆撃機は欧州戦線に送られてしまい計画が遅れた。」
https://minkara.carview.co.jp/userid/757405/blog/35425724/
 「1941年4月に、<米>陸軍航空隊のクレア・ シュノルトを中華民国空軍航空参に任命したルーズベルト大統領は、フライング・タイガー戦闘機部隊を結成して、1941年7月23日、蒋介石政権に新型のボーイングB17大型爆撃機を供与して、支那機に偽装したうえで、<米国>の退役軍人や民間人のボランティアを搭乗させて支那の航空基地から発進し、日本を爆撃する「JB No.355」計画に署名しました。
 1970年にABCテレビ20/20で公開された「JB No.355」によると、1941年10月1日に、蒋介石政権に 150機のB17爆撃機と、350 機の戦闘機を供与して、ビルマのラングーン飛行場まで運び、そこから、東京、横浜の産業地域と、神戸、京都、大阪 に奇襲爆撃を加えることになっていました。ところが、この日本本土奇襲爆撃作戦は、・・・結局実施されませんでした。」
https://genryu.org/tanaka/rohen/rohen500.pdf
(注23)1902~1994年。海兵51期、海大34期(3番)。「1930年(昭和5年)・・・12月18日、ヴァージニア大学、ノースウェスタン大学へアメリカ語学学生留学。1932年(昭和7年)1月30日、在アメリカ日本大使館附海軍武官府出張。6月18日、帰朝。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BA%95%E7%AF%A4

 高田は、軍務局第1課長に就任する前に、及川から、杉山構想の少なくとも概要を聞かされた上で及川のために働いたと見てよかろう。
 戦後、海軍反省会の招致に一応応じたのは、杉山構想の概要が漏れていないかどうかを確認するため、と見る。
 石川信吾は、陸軍中央の佐官クラスの情報を取るのと、鉄砲玉として使うために、及川が起用したのだろう。
 石川には、杉山構想は概要すら明かされなかったのではないだろうか。
 また、及川が、沢本頼雄を次官に起用したのは、沢本が海軍内のことにも、政治・行政にも疎いことに付け込み、沢本にめくら判を押させるためだろう。
 当然、杉山構想の概要すら彼には明かされなかったはずだ。
 そして、岡敬純だが、杉山構想を明かされており(後述)、海軍は、及川-岡ラインで陸軍追随路線を採り続けた、と私は見ている。
 なお、岡同様、神重徳も海大首席だが、岡が(志向が彼等とは逆という違いこそあれ、)私の言う、米内、山本、井上の三バカトリオと同様のバカであったのに対し、神はキチガイだった、と言うべきか。(太田)

 「海軍省と軍令部の省部合同会議で総論として三国同盟締結に傾き、9月15日の海軍首脳会議にて調印に賛成の方針が決定した。会議直前、山本は海軍大臣・及川古志郎から機先を制されて賛成するよう説得され、会議では殆ど発言しなかったので、司会役の海軍次官・豊田貞次郎により「海軍は三国同盟賛成に決定する」が正式な結論となる。山本は条約成立が米国との戦争に発展する可能性を指摘して、陸上攻撃機の配備数を2倍にすることを求めたのみだった。山本は堀悌吉に「内乱では国は滅びない。が、戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒も甚だしい」と言い残して東京を去った。2か月後の9月27日、日本は日独伊三国同盟に調印した。山本はこれを受け、友人の原田熊雄に「全く狂気の沙汰。事態がこうなった以上全力を尽くすつもりだが、おそらく私は旗艦「長門」の上で戦死する。そのころまでには東京は何度も破壊され最悪の状態が来る」と語った。・・・

⇒「主人」の西園寺公望はもうこの世にはいなかったが、原田熊雄は、さっそく、アホ山本はやる気十分になってるぞ、と牧野伸顕に伝え、さぞかし二人でほくそ笑んだのではないか、と想像している。(太田)

 1941年(昭和16年)1月7日、海軍大臣・及川古志郎への書簡『戦備ニ関スル意見』にて「(真珠湾攻撃構想は)既に昨年11月下旬、一応口頭にて進言せる所と概ね重複す」とあり山本はすでに真珠湾攻撃を検討していた。山本は及川への書簡で、自分を第一航空艦隊司令長官に格下げし直接指揮させてほしいと希望し、空母喪失と引き換えに戦争を一日で終える気構えも示していた。また、山本は連合艦隊司令長官には米内光政を期待していた。また、新聞記者に山本が海軍大臣だった場合の連合艦隊司令長官人事を問われ「米内さんだヨ。あのひと一人だネ」と答えている。書状には「大臣一人限御含迄」とあり、軍令部総長・伏見宮には伏せていた。堀悌吉への手紙によれば及川は米内の連合艦隊長官人事に同意したが、井上成美の反対で潰されたという。・・・
 10月12日、近衛文麿別邸・荻外荘で会談が行われ、及川古志郎と海軍首脳は優柔不断な応答に終始、山本は「乃公(だいこう)が当局者であったら、海軍は正直に米国に対し最後の勝利はないというネ」と批判した。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD

⇒海軍部内のしかも身近にいる及川のホンネにすら山本も井上も全く気付いていなそうなお目出度さは・・もちろん、米内も同じだろう・・三馬鹿トリオだから驚くべきことではないが、まんまと及川に載せられてしまっていた山本を井上はさぞや軽蔑したことだろう。
 ま、どんぐりのせいくらべのレベルの話だが・・。(太田)

 「1941年(昭和16年)10月18日、内閣総辞職に伴い軍事参議官に転ずる。12月8日、太平洋戦争が開戦した。
 1943年(昭和18年)11月15日、<及川は、>初代海上護衛司令長官に補される。海上護衛総司令部は一定海域に安全航路を設定し防備を集中して戦力不足を補う「航路帯構想」を進めた。同構想は及川の指示で、海軍大臣の嶋田繁太郎や軍令部総長の永野修身とも話し合った結果まとめられた。作戦参謀の大井篤によれば「潜水艦阻止帯を作り安全海域とする。ここで自由航行し積極的に稼行率を発揮する。これらの島や陸地を連ねる機雷敷設線を作る。深いところは付近に陸上見張り所を設ける。電探、水中聴音装置で監視し常時哨戒する」構想だったという。12月中頃から東シナ海方面で実施された。

⇒これは英断。
 この構想は、概ねそのまま、海上自衛隊に引き継がれたと考えてよい。(太田)

 また、艦艇不足を補うため大規模な機雷堰を作ることを提案し、「対ソ連に二万充当しておかなければならない、実効果<が>あまり期待できない<し、そもそも>。性能上耐久力がない」という軍令部の反対を押し切って、1944年(昭和19年)1月から1945年(昭和20年)2月にかけて機雷堰に力を入れたが、十分にそろえることはできなかった。

⇒及川が、ソ連参戦を予期していたことに不思議はないと言えばその通りだが、杉山構想を明かされていたとすれば、なおさら腑に落ちる挿話だ。(太田)

 1944年(昭和19年)8月2日、軍令部総長拝命。10月5日、第一航空艦隊長官に内定した大西瀧治郎中将が出発前に特攻を開始する許可を求めた際、及川は「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します」「指示はしないが現地の自発的実施には反対しない」と承認した。大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した。11月23日、神雷部隊を視察。

⇒これは、杉山構想を開示されていたことに伴うところの、ソ連参戦の時期と米国の日本上陸作戦の時期とを両にらみしつつ、後者の時期を調整するための苦肉の策か。(太田)

 終戦後の1945年(昭和20年)9月5日、依願予備役被仰付。その後、公職追放となった(1952年(昭和27年)追放解除)。
 公職追放解除の前より、陸軍の岡村寧次と共に蒋介石の国民党に対する軍事顧問団「白団」(ぱいだん:団長富田直亮の中国名、白鴻亮から)としての活動を行い、募兵や教育用カリキュラムの作成といった後方支援に当たり、この際1955年秋より高山岩男に再び協力を依頼している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8A%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E5%BF%97%E9%83%8E 前掲

⇒及川は、杉山らのように終戦後自殺しなかったわけだが、その後、蒋介石に協力したのは、杉山構想の存在、及び、自分がそのほぼ完遂に向けて積極的に協力したこと、を積極的に秘匿するためだったのではなかろうか。(太田)

  テ 嶋田繁太郎(1883~1976年) 海兵32期(27位(191名中))、海大13期

 「旧幕臣で神官の嶋田命周の長男として生まれる。実家が神官の家系であることから敬神家であり、毎朝の神社参拝を日課とし、日々の職務を規則正しくこなす、他の軍人に見られるような我の強さが無い、酒も飲まない、政財界との付き合いも一切無い、といった質素で非常に生真面目な人柄だったとも言われる。・・・
 海兵・・・同期に山本五十六・吉田善吾・塩沢幸一・堀悌吉らがいる。・・・
 1916年(大正5年)より3年間イタリア駐在武官を務める。・・・
 1932年・・・6月28日に着任した海軍軍令部第三班長を皮切りに軍令部畑を歩み、同第一班長(軍令部令改正に伴い1933年(昭和8年)10月1日に第一部長に改称)を経て1935年(昭和10年)に軍令部次長に就任した。海軍軍令部第三班長として、<米>本土の諜報を指導し・・・た。・・・

⇒伏見宮博恭王が軍令部長(後軍令部総長)になったのは1932年2月だが、嶋田はその直後に軍令部にやってきて、5年以上軍令部に留まり次長にまでなっており、それは、イエスマン的に伏見宮の軍令部強化策の実現に奔走した賜物だろう。
 ハンモックナンバーがばっとしない嶋田がその後、顕職を重ねることができたこともそれで説明がつく。
 この間に、伏見宮から、(当時陸相だった杉山元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
の了解を取り付けた上で、)宮自身が知らされているところの、杉山構想を伝達された上で、将来の対英米戦開始時に海相か軍令部総長に就けるので、陸軍の言う通りに海軍を引っ張っていくように言い渡されたのではないか。(太田)

 1937年(昭和12年)・・・12月1日・・・に第二艦隊司令長官に親補されてからは、呉鎮守府、支那方面艦隊、横須賀鎮守府の司令長官を歴任した。・・・
 1941年(昭和16年)10月18日、東條内閣の海軍大臣を拝命。打診された際は辞退したが、<4月9日に軍令部総長を退任していた>伏見宮博恭王
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BB%A4%E9%83%A8 >
の勧めで受諾した。

⇒伏見宮が当時海相だった及川古志郎と調整した後、予め当時参謀総長だった杉山元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
の最終的了解も取り付けた上で、昭和天皇の了解も取り付け、嶋田に申し渡したのだろう。(太田)

 就任時は不戦派だったが、伏見宮から「速やかに開戦せざれば戦機を逸す」と言葉があり、対米不信(この時、海軍は<米国>が来春には米領フィリピンのルソン島に300機のB17爆撃機を増強することをつかんでおり、国防上、それよりも前に開戦しなければならないと考えていたとされる)、物資への関心からも開戦回避は不可能と判断し、10月30日に海軍省の幹部たちを呼んで「この際、戦争の決意をなす」「海相一人が戦争に反対した為に戦機を失しては申し訳ない」と述べ、・・・対米開戦に同意した。また、海相に就任した嶋田がこれまでの不戦論を撤回し、陸軍に対して協調的態度を取った事により、遂に日米開戦は不可避となった。・・・

⇒及川がそういうストーリーをでっち上げて嶋田にそのストーリーを流させたのだろう。(太田)

 11月30日、軍令部員の高松宮宣仁親王が戦争慎重論を上奏した。この時、召喚された際には昭和天皇の問いに「物も人もともに十分の準備を整えて、大命降下をお待ちしております。先日上京した山本連合艦隊司令長官の話によりますと、訓練も出来上がり、将兵の士気旺盛、自信あり、ハワイ作戦には張り切っていると申しておりました」「今度の戦争は、石にかじりついても勝たねばならぬと考えております」と述べた。これに対し天皇が「ドイツが欧州で戦争をやめたときはどうするかね」と訊ねると「ドイツは真から頼りになる国とは思っておりませぬ。たとえドイツが手を引きましても、どうにかやってゆけると思います」と述べたとされる。

⇒当時参謀総長だった杉山元に対する昭和天皇の追及よりも厳しい追及を受け、ウソはつかなかった杉山とは違って、嶋田は、ウソであるところの、ドイツ云々、などという回答までしてしまっている。(太田)

 しかし、政治的な情勢を見る目は優れていた。山本の推し進める真珠湾攻撃作戦を開戦時の作戦としてあまりにも挑発的な側面がある事を危惧していたらしく、同時に大戦への参入を意図して、敵対的な外交姿勢を貫いてくる<米>国政府の態度に鑑みて、この状況での真珠湾攻撃作戦は<米国>が日本の軍事的挑戦を受けたという政治的状況を生み出し、<米国>政府に参戦への大義名分を与えることに気付き、むしろ(被害を出すことを覚悟しても)<米国>側の攻撃によって戦争が始まったという状況を生み出したほうが<米>国民の戦意を低下させられるのではないかとの見方を持って<いた。>・・・

⇒日本国内で米国諜報を手掛けたことがあっただけの嶋田の方が米国滞在が長かった山本五十六よりも米国のことを的確に理解していたことになる。
 私の言う、三馬鹿トリオの一員たる山本の面目躍如といったところか。(太田)

 1942年(昭和17年)11月、第三次ソロモン沖海戦において戦艦「比叡」と運命を共にしなかった艦長・西田正雄に対し、査問会も開催せずに予備役編入・即日召集という懲罰人事を行った。山本五十六はこの措置に「艦長はそこで死ねというような作戦指揮は士気を喪失させる」と抗議したが、山本と不仲でもあった嶋田はそれを無視した。・・・

⇒いずれにせよ、軍事的には敗北するのだから、大佐級以上の海軍幹部がどんどん亡くなって行って補充できなくなったとしても構わないし、国民が蒙ることになるであろう人的物的損害の巨大さを考えれば海軍幹部は常に不惜身命でなければならない、といったことか。(太田)

 1944年・・・2月21日、軍令部総長を兼任。嶋田の兼任は戦局が不利なこともあり、部内の風当たりは強く、東條に従属しすぎるという批判を著しく刺激する結果になった。岡田啓介は東條内閣の倒閣のため嶋田の更迭を考慮するようになる。嶋田は着任すると陸海の統帥部一体化、航空兵力統合などのXYZ問題の研究を即時打ち切って、研究も禁止した。・・・

⇒陸軍が終戦の時期を決定したら、(恐らくは、杉山元らからの求めに応じ、)陸軍自身が取りにくい終戦へのイニシアティブを海軍が取る必要があるとの認識の下、あらゆる陸軍との統合を拒否することにしたのだろう。。(太田)

 6月のマリアナ沖海戦の敗北<を受け>・・・、6月25日、その後の方針を決めるための元帥会議に出席。会議後、嶋田は、手筈を定め今後の対策を迅速に行うこと、陸軍航空機を海上へ迅速に引き出すこと、(特攻兵器を含む)奇襲兵器促進掛を設けて実行委員長を定めることを省部に指示した。これによって7月1日、大森仙太郎が海軍特攻部長に発令された。

⇒陸軍が終戦時期を決めるにあたっての自由度を増すため、海軍が対米軍抗戦の汚れ役を率先して引き受けようとしたのだろう。(太田)

 サイパン陥落で反東條に併せて反嶋田の動きが起こり、7月17日に海相を辞任。8月に軍令部総長も辞任。8月2日に軍事参議官となる。1945年(昭和20年)1月20日、予備役編入。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E7%94%B0%E7%B9%81%E5%A4%AA%E9%83%8E

⇒嶋田に関しては、井上正美の「三等大将・国賊」評価(コラム#12978、13146(未公開))が当たっている面があるが、そんな人物であることも織り込み済みで、伏見宮が目を付け、その期待通り、杉山元らのロボットたる伏見宮のポチとして杉山構想に基づき、嶋田は海軍に対英米戦を戦わせたわけだ。(太田)

  ト 吉田善吾(1885~1966年) 海兵32期(12番)、海大13期

 「佐賀県出身。士族・・・の四男。・・・

⇒父親を通じ、秀吉流日蓮主義者になっていた可能性がある。(太田)

 「春日」艦長(加藤定吉)附として日本海海戦に参戦した。・・・
 1923年・・・教育局第二課長・・・1931年12月・・・<小林躋造司令長官の下で
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88%E8%89%A6%E9%9A%8A%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%95%B7%E5%AE%98 >連合艦隊参謀長、・・・1933年9月・・・<大角岑生海相の下で>海軍省軍務局長、練習艦隊司令官、第二艦隊司令長官などを歴任。

⇒軍務局長時代に、大角海相と伏見宮軍令部長/総長(1933年10月より呼称変更)
https://kotobank.jp/word/%E8%BB%8D%E4%BB%A4%E9%83%A8%E7%B7%8F%E9%95%B7-487958
の2人から説得された上で杉山構想を開示されたのではなかろうか。(太田)

 1937年(昭和12年)12月1日からは連合艦隊司令長官を務めるが、1939年(昭和14年)8月30日に阿部内閣の海軍大臣に就任。米内内閣、第2次近衛内閣でも留任した。・・・
 第2次近衛内閣発足以後、日独伊三国同盟締結に向けた動きが加速し、海相である吉田はその対応に苦慮する事となった。外相松岡洋右は熱心な三国同盟推進派であり、松岡は「アメリカ国民の半数はドイツ系なので、日独同盟を結べばドイツ系アメリカ人が戦争抑止に動き、アメリカとは戦争にならない」と自説を展開。これに説き伏せられた吉田は日独伊三国同盟締結に賛成する。

⇒賛成せよとの指示が伏見宮等から下されており、それに従ったのだろう。(太田)

 吉田は海軍を代表して同盟論に賛成したものの、内閣の予想に反し米軍は軍備に着手。吉田は心配のあまり強度の神経衰弱にかかった。周囲に辞任を勧められたものの、吉田は自らの辞任が国際関係に悪影響を及ぼすことを避け、職務に励み続けた。しかし、限界を超えた吉田はついに自殺を図り、日独伊三国同盟締結直前、1940年(昭和15年)9月5日に海相を辞任した。

⇒単に神経が細く、杉山構想ほぼ完遂までに予想される犠牲の大きさを考えて精神が圧し潰されてしまったのだろう。(太田)

 後任の海相及川古志郎も前任<の>吉田が三国同盟に賛成した以上、自身が反対する訳にもいかず、同27日、日独伊三国同盟は締結された。

⇒及川は、神経が太く、淡々と任務を遂行した、というわけだ。(太田)

 なお在任中吉田は消極的ではあったが、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」や「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」、出師準備の発動を認めている。・・・

⇒全て指示に従ったものだったけれど、吉田なりには積極的に推進したはずだ。(太田)

 1940年(昭和15年)・・・11月15日・・・に大将に累進。軍事参議官、支那方面艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官などを経て、1945年(昭和20年)6月1日に予備役となる。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%96%84%E5%90%BE

  ナ 豊田副武(そえむ。1885~1957年) 海兵33期(26位(171名中))、海大15期(首席)

 「大分県速見郡杵築町(現杵築市)に生まれる。・・・

⇒幕末までは親藩の城下だった地であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9F%E8%A6%8B%E9%83%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B5%E7%AF%89%E8%97%A9
こともあり、豊田は秀吉流日蓮主義とは疎遠だったと見る。(太田)

 1919年(大正8年)・・・12月1日、在<英国>日本大使館附海軍駐在武官補佐官に着任・・・1922年(大正11年)8月1日、帰朝。・・・1928年(昭和3年)12月10日、海軍省教育局第1課長に着任。・・・
 <谷口尚真軍令部長から伏見宮軍令部長/総長へ、という大変な時代に、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BB%A4%E9%83%A8 >1931年(昭和6年)12月1日、・・・海軍軍令部参謀第2班長に着任<し、>1932年(昭和7年)10月10日、兼第4班長<、>1933年(昭和8年)2月23日、免第4班長<を務めている>。

⇒ここで、伏見宮等の秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者達から同主義/コンセンサスを吹き込まれた、と見る。(太田)

 9月15日、<小林躋造から末次信正司令長官時代に
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88%E8%89%A6%E9%9A%8A%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%95%B7%E5%AE%98 >連合艦隊参謀長兼第1艦隊参謀長に着任。
 <そして、どちらも大角岑生海相の下で、>1935年(昭和10年)3月15日、海軍省教育局長<、>・・・12月2日、海軍省軍務局長兼将官会議議員に着任。

⇒大角海相から、ここで更に、杉山構想を開示された、と見たい。(太田)

 1937年(昭和12年)10月20日、第四艦隊司令長官に着任。・・・11月15日、第2艦隊司令長官に着任。1939年(昭和14年)10月21日、海軍省艦政本部長に着任。
 1941年(昭和16年)9月18日、海軍大将に昇進、呉鎮守府司令長官に着任。10月、東條英機内閣の発足時には海軍大臣に内定したが、首相が東條と知って就任を拒絶した。もっとも東條のほうでも豊田を忌避してきた。

⇒そういうストーリーが流布させられたけれど、要は、伏見宮が豊田に全幅の信頼を寄せられなかったのだろう。(太田)

 1941年12月、太平洋戦争勃発。
 1942年(昭和17年)11月10日、軍事参議官に着任。1943年(昭和18年)4月21日、横須賀鎮守府司令長官に着任。
 1944年(昭和19年)5月3日、連合艦隊司令長官に着任。前任の連合艦隊司令長官古賀峯一大将の遭難・殉職(いわゆる海軍乙事件)を受け連合艦隊司令長官に親補される。先任順では山本五十六の死後、連合艦隊司令長官に補職されるべき職位に居たが、兵学校1期後輩の古賀峯一が選任された事にこだわり続け、戦争末期の就任時にも当初は「今さら任されても自分にできる事は何もないし気力もない」と突っぱねた。当初、連合艦隊司令部を軽巡洋艦大淀に設置したが後に司令部を慶應義塾大学横浜日吉校舎内に移動し陸上から指揮を執った。
 1944年12月1日、神雷部隊を視察。隊員に神雷鉢巻と短刀を授与する。
 1945年4月、戦艦大和を含む第二艦隊による海上特攻隊が実施された。この作戦は連合艦隊参謀神重徳大佐が参謀長草鹿龍之介中将を通さずに豊田から直接裁決を得た。豊田は「大和を有効に使う方法として計画。成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」という。

⇒非常識であると言うべきであり、伏見宮の眼は確かだったことを示しているが、豊田自身は、終戦時期決定の自由度を上げるのに少しは貢献するかもしれない、と思ったのだろう。(太田)

 1945年(昭和20年)4月25日、兼海軍総司令長官。5月1日、兼海上護衛司令長官。
 1945年5月29日、軍令部総長に着任。<以下、繰り返しだが、>昭和天皇は「司令長官失格の者を総長にするのは良くない」と豊田の総長就任に反対する旨を海軍大臣米内光政に告げているが、米内は「若い者(本土決戦派)に支持がある豊田なら若い者を抑えて終戦に持っていける」という意図を天皇に告げ押し切った。しかし結果的に若い者を抑えるどころか押し切られた形になり、米内も親しい知人に「豊田に裏切られた気分だ。見損なった」と述べ、昭和天皇は「米内の失敗だ。米内のために惜しまれる」と述懐している。

⇒希代の人誑しの米内に海相として、終戦に決定的な役割を果たさせなければならないので、米内が切れて海相から降りてしまわないよう、伏見宮は、危惧の念は抱きつつも、この人事を受け入れたのだろう。(太田)

 戦争末期、軍令部次長大西瀧治郎中将とともに徹底抗戦を訴えた。もっとも豊田は自著で、太平洋戦争末期に於ける徹底抗戦主張で和平派と立場を異にする事により、海軍内部における決戦派の暴走を食止めたと自己弁護論を展開している。・・・

⇒当時の豊田は、杉山構想を明かされた者として、単に、杉山元直系の梅津参謀総長ないし阿南陸相の言動に沿った言動を取り続けただけだろう。(太田)

 8月12日、軍令部総長の豊田は陸軍参謀総長梅津美治郎とともにポツダム宣言受諾の反対を奏上する。同日海軍大臣米内光政は豊田と<軍令部次長の>大西の二人を呼び出した。米内は豊田の行動を「それから又大臣には何の相談もなく、あんな重大な問題を、陸軍と一緒になって上奏するとは何事か。僕は軍令部のやることに兎や角干渉するのではない。しかし今度のことは、明かに一応は、海軍大臣と意見を交えた上でなければ、軍令部と雖も勝手に行動すべからざることである。昨日海軍部内一般に出した訓示は、このようなことを戒めたものである。それにも拘らず斯る振舞に出たことは不都合千万である」と非難し、豊田は済まないという様子で一言も答えなかった。

⇒下出の挿話からも、米内が本当に心配していたのは大西の方であり、大西がクーデタに荷担したり独断行動をしたりしないように叱り飛ばすのが目的だったと見る。(太田)

 敗戦直後の幣原内閣発足時、米内は病気を理由に海軍大臣を辞退し後任に豊田を推薦したが、占領軍が豊田の太平洋戦争中に於ける職歴から戦争犯罪容疑で調査を進めており、かつ海軍部内に於いても井上や高木惣吉などから豊田の就任には猛反対があり、ついに豊田の海軍大臣就任は実現せず、米内が海軍省廃官まで大臣を務めた。

⇒この挿話からも、米内が海軍内の空気すら読めない人物だったことが分かる。(太田)

 9月2日に、第二次世界大戦の降伏文書調印式が東京湾(内の瀬水道中央部千葉県よりの海域)に停泊中のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上で、日本側全権代表団と連合国代表が出席して行われた。しかし豊田は調印式への出席を拒否し、仕方なく富岡定俊海軍少将が代理として出席した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%89%AF%E6%AD%A6

⇒これも、豊田は、出席を拒否した梅津に倣っただけで、梅津に梯子を外され、さすがに豹変するのはバツが悪過ぎ、寝ころんだままにせざるをえなかったのだろう。(太田)

  ニ 豊田貞次郎(1885~1961年) 海兵33期(首席)、海大17期(首席)

 かつて豊田の経歴を紹介したことがある(コラム#12966)が、海兵(首席)、オックスフォード大2年半留学、海大17期(首席)、英大使館附武官とそれに引き続くジュネーブ海軍軍縮会議随員で外地に4年間、という大変な経歴の人物だ。
 「紀伊田辺藩<(注24)>士・豊田信太郎の次男」

 (注24)「紀伊田辺藩(きいたなべはん)は、紀伊徳川家の御附家老だった安藤家が治めた藩。藩祖は直次。代々の当主は「帯刀」を名乗ったため安藤帯刀家と呼ばれた。紀伊国田辺に3万8千石の所領を与えられたが、江戸時代を通じて独立した藩としては扱われず、紀伊田辺藩主は江戸城では無席、単独登城の特権もなかった。藩主が諸侯(大名)に列し正式に藩として認められたのは明治維新後のことである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E4%BC%8A%E7%94%B0%E8%BE%BA%E8%97%A9

⇒紀州藩士の子であることから、寺島同様、豊田も秀吉流日蓮主義者であった可能性がある。(太田)

 1931年に軍務局長に就任するが、経緯は不明ながら、恐らくは伏見宮軍令部長の逆鱗に触れて左遷<されるも>、1940年9月に次官。
 「最大の懸案事項であった日独伊三国同盟の締結に向け、海軍大臣・及川古志郎を差し置いて活動した。豊田自身は三国同盟を好ましくないと認識していたが、外務省・帝国議会・陸軍が賛成している状況下で海軍が孤立することを警戒していた。同盟成立後、首相・近衛文麿に「海軍全体としては反対だが、国内の調和を優先して政治的にやむなく賛成した。対米英戦に有利になるかどうかは別問題である」と暗に対米交渉の責任は外務省と政府の責任であることを告げた。まさかその外務大臣の椅子に自身が座ることになるとは、当時の豊田は夢想だにもしなかった。・・・
 第21代商工大臣 内閣 第2次近衛内閣 在任期間 1941年4月4日 – 1941年7月18日
 第57代外務大臣 内閣 第3次近衛内閣 在任期間 1941年7月18日 – 1941年10月18日
 第20代拓務大臣 内閣 第3次近衛内閣 在任期間 1941年7月18日 – 1941年10月18日・・・
 日本製鐵社長・・・
 第4代運輸通信大臣 内閣 鈴木貫太郎内閣 在任期間 1945年4月7日 – 1945年4月11日
 第4代軍需大臣 内閣 鈴木貫太郎内閣 在任期間 1945年4月7日 – 1945年8月17日」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E8%B2%9E%E6%AC%A1%E9%83%8E

⇒結果的にではあれ、豊田が杉山構想概ね完遂の最終段階において、様々なポストでそれに協力したことは明らかだが、伏見宮との関係から、彼には最後まで杉山構想は開示されなかった、と見る。
 なお、豊田が三国同盟締結に係る外務省の責任を示唆したことは間違っておらず、昭和天皇が戦後一貫して外務省悪者論に立ったのも、その限りにおいてはおかしくはない。(太田)

  ヌ 岡敬純(たかずみ。1890~1973年) 海兵39期、海大21期(首席)

 「[出生地山口県 出身地東京・牛込]。攻玉社を経て、海軍兵学校に入学。・・・

⇒岡のウィキペディアは、「大阪市で生まれる。」としているが、「日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)」に拠るとしているコトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A1%20%E6%95%AC%E7%B4%94-1640939 ([]内)
が正しそうだが、そうだとして、仮に岡の父親が山口県出身でかつその家が広義の長州藩士の家だったとすれば、少なくとも岡は、横井小楠コンセンサス信奉者ではあった可能性が高い、ということになる。(太田)

 フランス駐在・・・、海軍省臨時調査課<(注25)>長、・・・1932年<~>・・・ジュネーヴ<軍縮>会議<(注26)>全権随員、軍務局第一課長などの中央の勤務が多く、その間の海上勤務は潜水母艦「迅鯨」の艦長くらいである。

 (注25)「<大角岑生海相、藤田尚徳次官、寺島健軍務局長時代の>昭和8<1933>年6月
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%9C%81
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%8B%99%E5%B1%80
20日、「官房所掌事項中海軍軍政上必要ナル諸資料ノ総合整理ニ関スルコト及特ニ命ゼラレタル事項ヲ分掌ス」ることを目的に設置された・・・。・・・<その後>身<が>・・・昭和14年3月31日(勅令第144号)、大臣官房<に>設置された・・・海軍省調査課<であり、・・・調査課長は、昭和14年4月1日:高木惣吉、昭和14年11月15日:千田金二、昭和15年11月15日:再び高木惣吉、昭和17年6月1日:矢牧章(軍務局第二課長兼任)だった。」
https://d-arch.ide.go.jp/asia_archive/collections/Kishi/a_00.html
 (注26)「一九三二年二月からジュネーブで国際連盟の主宰のもとに開かれた軍縮会議。国際連盟加盟国のほかアメリカ、ソ連など全部で六一か国が参加したが、ドイツとフランスの対立、ヒトラー政権の樹立(一九三三)、日本の国際連盟脱退(一九三三)などにより、成果のないまま一九三四年五月閉会。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%96%E8%BB%8D%E7%B8%AE%E4%BC%9A%E8%AD%B0-181418

⇒ 岡は、1922年か23年(大正11年か12年)に(牧野伸顕が設置した)社会教育研究所で、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス等を注入されたのではないか、と以前に(コラム#13094(未公開)で)指摘したことがある。
 社会教育研究所で見込まれたからこそ、臨時調査課長に任命されたと思われる岡は、当時の実質的な上司である寺島軍務局長の薫陶を受け、かつ、仕事の必要上からも、杉山構想を明かされたのではないか。
 (以前の説(コラム#13008)を改説した。)
 また、ジュネーヴ軍縮会議の時は、先輩の(恐らく秀吉流日蓮主義者だった)豊田貞次郎の薫陶も受けたはずだ。(太田)

 なお、軍務局第一課長の時には、部下に大のドイツ贔屓といわれた神重徳が、上司の軍務局長には大のドイツ嫌いの井上成美がいた。
 1940年(昭和15年)の軍務局長就任と同時に、「陸軍が政策を掲げて海軍に圧力を掛けてくる。海軍はそれまで、それに対応出来なかった。どうしてもここで、陸軍に対応する政策担当者を作らなければならぬ。さもなくば、日本がどちらに持っていかれるかわからぬ」と発言し、軍務局を改編し第二課に国防政策を担当させた。この時第二課長に任命したのが、同郷かつ攻玉社の4年後輩の石川信吾である。岡は石川が二・二六事件の際予備役編入となるのを救ったという経緯もあった。強硬な対英米開戦論者だった石川を軍務局第二課長に充てる人事には、親英米派が多く、石川を異端視していた(通称は「不規弾」。一斉射撃の中で、あらぬ方向に飛んでいく砲弾、という意味)海軍部内からは猛烈な反対を受けるが、岡は強硬に押し通し、この頃から岡・石川の二人が海軍の政策を動かす役割を果たすようになった。この事は、岡は日米開戦派であり、親独派であった事を如実に物語るエピソードであると言える。この事から、戦後、木戸幸一が海軍内で最も対米開戦を強硬に主張した人物として名前を挙げた為、A級戦犯に指定された。
 その一方で、ハル・ノートを受け取った際には、あまりのショックから「これではいよいよ開戦のほかはない。今日までの苦心も、ついに水の泡である」と涙を流したとも伝えられている。

⇒岡が、自ら、そういうストーリーを流布させたのだろう。(太田)

 嶋田繁太郎海軍大臣の辞任に伴い、海軍次官を辞任した沢本頼雄の後任として、繰上りの形で海軍次官に就任するが、東條内閣総辞職をうけて成立した小磯内閣の海相に就任した米内光政は、海軍次官については「岡を一夜にして放逐する」とし井上成美を次官とした。岡は鎮海警備府司令長官として中央から遠ざけられている。その後、1945年(昭和20年)6月20日に予備役へ編入された。
 太平洋戦争後、極東国際軍事裁判で終身禁錮の判決を受け服役。1954年に仮釈放されているが、その後は亡くなるまで公的な場所に現れる事は殆どなかった。裁判における個人判決文は、岡に対するものが最も短かった。
 1958年以降、法務省によって行われた聞き取り調査に答えて、太平洋戦争の結果としてアジアの植民地が独立したと考えるのは自己満足に過ぎぬと指摘した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%95%AC%E7%B4%94

⇒これは、杉山構想の存在を秘匿するための虚言だろう。(太田)

  ネ 高田利種(1895~1987年) 海兵46期(実質首席)、海大28期(次席)

 「鹿児島県で税務署長・高田利英の二男として生まれる。・・・

⇒高田の母方の祖父が薩摩藩士の子にして海軍の重鎮であった仁礼景範で、かつ、義理の叔父が齋藤實だった(前述)、のだから、高田は、当然、熱烈なる秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者だったはずだ。(太田)

 海大教官、海軍省軍務局第1課局員を経て、支那方面艦隊兼第3艦隊参謀としてパナイ号事件の解決にあたる。「蒼龍」副長、第2艦隊参謀などを経て、1940年(昭和15年)11月、軍務局第1課長に着任。対米強硬派の一員として、石川信吾同局第2課長らとともに海軍国防政策委員会・第一委員会に加わり、1941年6月に対米開戦を想定した報告書「現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度」を取り纏めた。

⇒高田は、軍務局第1課長就任の際に、局長の岡から、杉山構想を開示された、と見る。(太田)

 作成された報告書の内容は、海軍部内の姿勢を煽るような内容となっていた。作成者である高田の証言によると海軍としては戦争を避けたいと考えていたが、それでは陸軍や国民に海軍は弱腰だと非難を浴びる。そこで日米関係を煽る内容の報告書を作成することで、海軍の面目を保ち、さらに臨時軍事費(予算)を獲得しつつ、後に米国と妥結するという筋書きのもと作成したという。

⇒上司の軍務局長の岡、更には事柄の重要性に鑑み、海相の及川とも相談の上、高田が、そういうストーリーを流布させたのだろう。(太田)

しかし、報告書が作成された時期は、日米交渉も終盤にあり、<米国>でも1941年(昭和16年)7月21日には日本本土に対する先制攻撃作戦案(J.B.No.355)が裁可されるなど関係が極度に悪化していた。
 太平洋戦争には1942年(昭和17年)7月、第3艦隊首席参謀として旗艦の「翔鶴」に乗艦し、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加。機動部隊の再建、作戦指導の中心であったという。以後、連合艦隊首席参謀、横須賀航空隊副長、連合艦隊参謀副長兼海軍総隊参謀副長などを歴任し、1944年(昭和19年)10月、海軍少将に進級。軍務局次長、兼軍令部第2部長、兼大本営海軍戦備部長などを勤めて終戦を迎えた。
 1945年(昭和20年)11月、予備役に編入と同時に充員召集を受け、第二復員官として第二復員省に出仕し、翌年3月、充員召集が解除されるまで勤めた。のち、生化学工業株式会社社長や水交会副会長などを歴任した。
 軍令部OBを中心に開催されていた海軍反省会において第一委員会の責任が問われ、高田も1982年(昭和57年)12月22日に開かれた第37回反省会に招かれた。高田は「海軍部内で戦争に賛成したか反対したかこういうことももう忘れました」、「日本海軍に日米戦争をやれば絶対に勝つと思っている人があったかなかったか私にはわかりません」とコメントし、以後は反省会に出席することはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%88%A9%E7%A8%AE

⇒これについては既述した。
 いずれにせよ、高田の戦後の姿勢は、彼が、杉山構想を開示されていたことを強く推測させるものだ。(太田)

2 外務省

 (1)始めに

 天皇の統帥大権を補佐していたのが陸海軍だったのに対し、天皇の外交大権(コラム#12930)を補佐していたのが外務省だった(典拠省略)ことから、少なくとも、宣戦布告が伴わざるをえない対英米戦開始にあたっては、外務省の賛同を取りつけることが、杉山構想推進者達にとって必要だったわけだが、国外情報収集・分析、通訳、儀典、条約類(起草・解釈)の専門家集団ではあっても、国外情報収集・分析、(主要外語の)通訳、儀典、に関しては外務省の陸海軍に対する比較優位は殆どなかった(典拠省略)こともあり、武力を持たないお公家集団の外務省は、(たとえ陸海軍に「強姦」されなかった合でも、)基本的に陸海軍の対外政策に追随せざるを得ず、従って、陸海軍、とりわけ陸軍、その中でも杉山構想推進者達が、同構想推進協力者を外務省内で積極的に確保しようとした形跡は見られない。
 但し、外務省内から、自発的に、陸海軍、とりわけ陸軍、その中でも杉山構想推進者達、に積極的に協力した殊勝な人々だって若干名はいた。

 (2)杉山構想的なものに協力した外務省キャリア達

  ア 内田康哉(こうさい。1865~1936年)

 「熊本藩医・内田玄真と熊本士族黒田五左衛門長女ミカの子として肥後国<の細川藩領の>八代郡竜北(現・熊本県八代郡氷川町)に生まれる。八代郡鏡町にあった名和童山<(注27)>の新川義塾などで学んだ後、同志社英学校に入学するも2年後に退学。東京帝国大学法科卒業後に外務省に入省<。>・・・

 (注27)「名和が記した『八代城志』の序文によると、自身の系譜について、南北朝時代に南朝方として活躍し、伯耆から肥後へ下った名和氏の末裔であるとしているが、祖父・太平以前の系譜は伝わっていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%92%8C%E7%AB%A5%E5%B1%B1

 明治・大正・昭和の3代にわたって外務大臣を務めた唯一の人物。戦前の日本を代表する外政家だが、その外交姿勢は時期によって揺れがあり、単純ではない。通算外相在職期間7年5か月は、現在に至るまで最長である。・・・
 第2次西園寺内閣、原内閣、高橋内閣、加藤友三郎内閣に於いて外務大臣を務める。特に原内閣以降、パリ講和会議やワシントン会議の時期の外相として、ヴェルサイユ体制、ワシントン体制の構築に関与し、後述のように1928年の不戦条約成立にも関係するなど、第一次世界大戦後の国際協調体制を創設した一人であった。これらについて内田は「四国条約の締結といい、支那関係の原則の決定といい、全てこれらは世界における恒久平和の樹立に対する一般人類の真摯なる要求の発露に外ならない。単に各国政府の一時的政策と認むるべきではない」と演説している。
 ただし、清国山東省の元帝国ドイツ領での日本の権益を主張したヴェルサイユ条約の山東条項(156~158条) は山東問題を引き起こし、日清関係は、1922年の山東懸案解決に関する条約が締結されるまで解決を見なかった。・・・
 1931年(昭和6年)に南満州鉄道(満鉄)総裁に就任。当時の満鉄は張学良政権との関係が悪化しており、外交官としての経歴を買われての就任であった。同年9月の満州事変には不拡大方針で臨んだが、満鉄理事で事変拡大派の十河信二<(注28)>の斡旋によって関東軍司令官・本庄繁<(注29)>と面会したのを機に、急進的な拡大派に転向する。

 (注28)1884~1981年。一高、東大法。「当初は農商務省に進むつもりであったが、・・・時の鉄道院総裁であった後藤新平・・・より「国民の役に立ちたいというなら鉄道の方がより役に立つことができる」と諭されて鉄道院に入省したという。・・・
 元鉄道大臣で南満州鉄道(満鉄)総裁の仙石貢の誘いにより、1930年(昭和5年)7月に南満州鉄道株式会社(満鉄)の理事(商事部担当)に就任。
 1931年(昭和6年)9月に勃発した満州事変に対して満鉄首脳部が全体的に事変拡大反対の姿勢を取る中、十河は満鉄理事の中でただ一人関東軍を支持した。十河は事変拡大に消極的だった内田康哉満鉄総裁と本庄繁関東軍司令官の会談を設け、内田を急進的な事変拡大派に転向させることに成功する。この会談以後、満鉄は関東軍に協力して満州事変の拡大を進めていった。・・・
 1955年・・・5月20日に第4代日本国有鉄道総裁に就任した。・・・
 十河<は>「新幹線の父」と呼ばれるに至<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%B2%B3%E4%BF%A1%E4%BA%8C
 (注29)1876~1945年。幼年学校、陸士(9期)、陸大(19期)。「兵庫県多紀郡(現・丹波篠山市)に生まれる。生家は農家であった。本庄氏は多紀郡の有力国人酒井氏に仕えた名家で、戦国期には明智光秀の丹波平定時に主君とともに没落した。・・・
 1921年(大正10年)5月<~>・・・1924年(大正13年)8月<の間、>・・・張作霖軍事顧問<。>・・・
 1931年(昭和6年)8月1日、菱刈隆大将の後を受けて関東軍司令官に就任。就任前から南次郎陸軍大臣とも打ち合わせがあった旨を、満州軍の高級参謀板垣征四郎大佐とのやり取りで確認されていた、と半藤一利は述べる。その1ヶ月後に柳条湖事件が起こる。・・・
 1932年(昭和7年)8月8日に軍事参議官の辞令が出たため東京へ戻り、関東軍の軍状について天皇に拝謁し奉告する。天皇の下問の中に「柳条湖事件は関東軍の陰謀であるという噂を聞くが、真相はどうか」とあった。これに対し本庄は「関東軍並びに司令官である自分は絶対に謀略はやっておりませぬ」と答え、天皇は「そうか、それならよかった」と述べた 。1933年(昭和8年)・・・4月から侍従武官長となり、6月には陸軍大将に親任される。・・・
 1936年・・・に二・二六事件が発生した。
 娘婿の歩兵第1連隊中隊長山口一太郎大尉は決行当日に歩一の週番司令として反乱部隊に協力した。山口は伊藤常男少尉を使者として本庄のもとに送り、兵500が出動したこと、推測される襲撃目標とを伝えた。山口が伊藤に託したメモには「今出たから、よろしく頼む」と記されており、これは事件首謀者たち、山口、本庄の間で事前に了解があったことが示唆される。
 本庄は憲兵司令官岩佐禄郎中将、侍従武官中島鉄蔵少将に電話連絡して宮中に向かった。・・・
 事件翌日の27日、事件の収拾に概ねの方針が定まり、叛乱軍鎮定の奉勅命令が下された。本庄は「御前に進むこと十三回」青年将校の国を思う精神は認めてほしい旨を幾度も奏上するなど反乱部隊に利する言動を繰り返したが、昭和天皇は事件の報せを聞いて以来一貫して断固鎮定の方針を変えなかった。・・・二・二六事件後の1936年(昭和11年)3月、待命となり翌4月に予備役編入。・・・
 終戦後の1945年11月19日、連合国軍最高司令官総司令部は、日本政府に対し本庄ら11人を戦争犯罪人として逮捕し、巣鴨刑務所に拘禁するよう命令。 翌20日、本庄は青山の旧陸軍大学校内の補導会理事長室で自決。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E7%B9%81
 1932年(昭和7年)4月、犬養内閣によって江口定條満鉄副総裁(民政党系の人物で軍部に批判的だった)が突然罷免された際には罷免に抗議して辞表を提出したが、内田の総裁留任を支持する軍部の説得により、最終的には満鉄総裁に留まる。同年5月に成立した斎藤内閣では7月に外務大臣に就任。国際連盟において滿洲国の取り扱いが審議され、松岡洋右全権の交渉によって、主権を中華民国(蔣介石勢力)に潜在的に認めたまま日本の「勢力圏」とするという、日本に有利な調停案がまとまる。しかし内田はこの提案を一蹴し、日本は満洲国を国家承認、国連脱退に追い込まれる。1932年8月25日、衆議院で「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」と答弁(焦土演説)。質問者の森恪は武断外交の推進者として知られるが、さしもの森も仰天し答弁を修正する意思がないか問うが内田は応じなかった。1920年代の国際協調の時代を代表する外政家である内田の急転向は、焦土外交として物議を醸した。当時の外交評論家清沢洌は「国が焦土となるのを避けるのが外交であろう」と批判、西園寺公望も、かつて自らの内閣で外相を務めた内田の変貌に驚愕し、落胆したという。・・・
 岡崎久彦は「彼についての記録から彼の思想信念を知ることは難しい。おそらく特に哲学のない単なる有能な事務官僚だったのだろう。したがってその行動も時流とともに変わっていく。その意味で内田の意見は、時の国民意識の変化を代表しているといえる」と評している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E5%BA%B7%E5%93%89 

⇒私は、柳条湖事件(満州事変)の首謀者は、当時陸軍次官であった杉山元であるとの認識であり(コラム#省略)、当時の陸相の南次郎も関東軍司令官の本庄も、杉山につんぼ桟敷に置かれたまま一方的に利用されたと見ているところ、内田は、故郷で名和を通じて南朝史観、ひいては日蓮主義を叩きこまれていたところ、そこを見込んで、西園寺が、内田を外相として初起用し、その折に、西園寺によって秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスを直接注入され、爾後、西園寺の指示通りの外交的スタンス・・最初は国際協調外交的スタンス、途中からは(杉山構想を開示された上で)杉山構想に沿ったスタンス・・を1936年に死ぬまで(喜んでだが)とらされた、と見ている。
 そんな内田が、20歳近く年齢の離れた、「部下」の、しかも東大法の後輩の、十河など相手にするはずがないのであって、単に、外交的スタンスを転換する名目作りに、お飾り関東軍司令官であった本庄繁・・後に彼が侍従武官長であった二・二六事件の時も当時参謀次長であったところの陰の首謀者たる杉山(コラム#省略)につんぼ桟敷に置かれたまま、彼は利用されることになったと私は見ている・・と会談の場を設けるよう、十河に命じたというだけのことだったはずだ。(太田)

  イ 廣田弘毅(1878~1948年)

 「福岡県立尋常中学修猷館<時代に>・・・玄洋社の社員となった。」一高、東大法。「学費は玄洋社の平岡浩太郎<(注30)>が提供している。

 (注30)こうたろう(1851~1906年)。福岡藩士・・・の次男<。>・・・藩校修猷館に学ぶ。1868年(明治元年)、戊辰戦争で奥羽に転戦し功をなし、その後、同志と共に藩兵隊就義隊を組織する。
 1875年(明治8年)、高知の立志社に倣って武部小四郎が矯志社を組織すると、箱田六輔等と共に参加。1877年(明治10年)、西南戦争に呼応して越智彦四郎、武部小四郎等が挙兵(福岡の変)するとこれに加わるが敗れ、その後、単身西郷軍に合流し、豊後・日向の本営において謀議に参与。敗戦後、東京の獄に懲役1年の刑を受ける。
 出獄後は自由民権運動に参加し、1878年(明治11年)12月、箱田六輔、頭山満、進藤喜平太等と共に向陽社を組織。1879年(明治12年)11月に開催された愛国社第3回大会では幹事を務め、1880年(明治13年)3月に開催された愛国社第4回大会においては国会期成同盟の設立に主導的な立場をとっている。1881年(明治14年)、向陽社を玄洋社と改名して初代社長に就任。1882年(明治15年)、朝鮮の壬午事変に際し、西郷軍の生き残りの野村忍助と義勇軍計画を起こすなど、早くからアジア問題に関心を示した。
 その後、実業方面にも進出。赤池・豊国炭鉱などの経営に成功し、その豊富な資産で玄洋社の対外活動を支え、一方で九州鉄道の創設、官営八幡製鉄所の誘致運動などに関わり、福岡県の経済発展に貢献した。
 1894年(明治27年)、第4回衆議院議員総選挙で福岡県第三区から出馬し衆議院議員に当選。以後、第9回総選挙まで連続6回当選を果たす。中国革命の支援にも情熱を注ぎ、1897年(明治30年)、日本に亡命した孫文に活動費、生活費を援助している。1898年(明治31年)には、憲政党結成に尽力し、隈板内閣樹立に努めた。国民同盟会にも参加し、ロシアの満洲侵略が顕著となると1903年(明治36年)に対露同志会に参加し対露強硬論を唱えた。・・・
 1913年(大正2年)2月18日、辛亥革命を成し遂げ再び来日した孫文は、福岡市の聖福寺に平岡浩太郎の墓参に訪れている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B2%A1%E6%B5%A9%E5%A4%AA%E9%83%8E
 聖福寺(しょうふくじ)は、「臨済宗妙心寺派の寺院であ<り、>栄西創建で、日本最初の本格的な禅寺<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E7%A6%8F%E5%AF%BA_(%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E5%B8%82)

 また頭山満の紹介で副島種臣、山座円次郎<(注31)>、内田良平<(後出)>や杉山茂丸<(注32)>の知遇を得た。

 (注31)1866~1914年。「福岡藩の足軽・・・の次男<。>」一高、東大法(法律学科首席卒)。
 「外務省に入省する。修猷館の先輩である栗野慎一郎の知遇も得て、釜山総領事館在勤、仁川領事館在勤、イギリス公使館三等書記官、京城領事兼公使館一等書記官を経て、明治34年(1901年)9月、外務大臣小村壽太郎により、わずか36歳にして政務局長に抜擢される。そのころ、そのあまりの有能さ故に、「山座の前に山座なく、山座の後に山座なし」といわれたほどであった。その後、政務局の部下坂田重次郎の補佐を受けながら、小村外相のもとで、日英同盟締結、日露交渉、日露戦争開戦外交に関わり、日露戦争宣戦布告文を起草、日露ポーツマス講和会議に随員として出席するなど、小村外交の中心的役割を担った。小村が最も信頼する外交官であったとされる。明治41年(1908年)、駐英国大使館参事官となる。
 大正2年(1913年)7月、駐中国特命全権公使となり、辛亥革命後の中国に赴く。旧知の孫文の活動を支持しており、孫文が第二革命を決起した際には、「中華民国最高顧問」として旧友中村天風が孫文を支援に行くきっかけを作った。しかし第二革命は頓挫し、山座は翌年北京で客死した。孫文を支持する山座を快く思わない袁世凱による暗殺という説もある。・・・
 積極的な日露開戦論者であったが、「伊藤(博文)公が日露協商論者だからなかなか開戦に持ち込めない。いっそ公を暗殺して開戦に持ち込んでしまおう」と酒の席で同郷の金子堅太郎に話したが、このことを金子から知らされた伊藤は山座を呼びつけて、「暗殺するならやってみろ!!」と叱りつけた。その時は山座も引きさがり謝罪したが、それ以来しこりが残り、伊藤博文とは不仲となる。
上記の経緯から、山座は伊藤の対外政策にことごとく異を唱え、(日露)戦後の韓国併合についても伊藤の穏健政策とは違って強硬策を支持した。伊藤のハルビン出張については「俺は随従でないから暗殺される心配は無い」と周囲に漏らしていた。
 福岡藩士を中心に形成された玄洋社に同郷の士として一員になっており、当時<支那>を支援していたこの組織を通して孫文とも既知を得、<支那>事情に精通するきっかけとなった。
 修猷館の後輩である後の首相広田弘毅を、外務省に導いた人物としても知られる。山座は頭山満から紹介された広田に一高の学生時代から目をかけ、東大在学中には外交関連の小冊子を発行するように依頼しており、広田が東大2年であった明治36年(1903年)には、将来の日露戦争を見越して、学生旅行と偽っての遼東半島の偵察を命じ、旅順要塞などに関する詳細な報告書を提出させている。後に外務省に入省した広田は吉田茂・太田為吉とともに「山座門下の三羽烏」と称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%BA%A7%E5%86%86%E6%AC%A1%E9%83%8E
 (注32)1864~1935年。「肥前の戦国大名龍造寺隆信の末裔<たる>・・・福岡藩士・・・の長男<。>・・・自らは官職も議席も持たない在野の浪人であったが、山縣有朋、松方正義、井上馨、桂太郎、児玉源太郎、後藤新平、寺内正毅らの参謀役を務め、政界の黒幕などと呼ばれた。・・・
 長男は作家の夢野久作。・・・
 明治18年(1885年)、・・・頭山満に出会い、心服して以後行動を共にした。頭山とともに福岡に戻った杉山は、玄洋社の経済基盤確立のため、頭山に筑豊炭田の取得を勧め、自らその資金調達に奔走、そのために当時元老院議官であった安場保和を福岡県知事に就任させた。明治21年(1888年)九州鉄道を創立。
 玄洋社機関紙『福陵新報』(のち九州日報を経て、福岡日日新聞と合併し、現在は西日本新聞)創刊などにも関わり、結城虎五郎とともに「頭山の二股肱」と呼ばれた。またこの時期、玄洋社員・来島恒喜による大隈重信外相襲撃事件が起こり、多くの玄洋社員とともに杉山も嫌疑をかけられ収監されるという経験をした。
 明治25年(1892年)、第1次松方内閣による流血の選挙干渉事件の際、杉山は頭山の指示のもと、民党圧迫に協力するが、頭山が松方の豹変に激怒して政界との関わりを絶った頃、杉山も玄洋社から離れた。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E8%8C%82%E4%B8%B8

 内田の紹介で講道館に入り、また山座には特に気に入られた。山座は広田らに外交関連の小冊子の発行を依頼し、1903年(明治36年)には満州・朝鮮の視察を命じている。日露戦争時には捕虜収容所で通訳を行い、ロシア情報の収集に当たった。大学卒業後の1905年(明治38年)に外交官及領事官試験を受けるが、英語が苦手で落第、ひとまず韓国統監府に籍を置いて試験に備えた。帝大同期の佐分利貞男は首尾よく合格している。赴任直前に玄洋社幹部・月成功太郎の次女で、広田らの下宿生活の手伝いをしていた静子と結婚した。静子との結婚前には元外相・加藤高明の紹介で三菱財閥の令嬢との縁談が持ち上がったが、これを断っている。翌年の外交官及領事官試験では、合格者11人のうち、首席で合格して外務省に入省した。同期に吉田茂、武者小路公共、池邊龍一、林久治郎らがいる。

⇒廣田の場合、玄洋社が、よってたかって、彼を外務省に送り込んだ、と、捉えるべきだろう。
 廣田が杉山構想の概ね完遂事業にどれだけ貢献したかは、今更ここで繰り返さない。(コラム#省略)(太田)

  ウ 松岡洋右(1880~1946年)

 <・・・。↓>
 「<米国>留学時にキリスト教に関心を持ち、プロテスタントの信者となったクリスチャンである。しかし、戦後に肺結核を発病したまま収監された際、主治医の井上泰代(ベタニア修道女会所属の女医)の影響でカトリックへの関心を強めてカトリックへの改宗を決意し、臨終のわずか数時間前、井上医師の手によって洗礼[要出典]を受けた。・・・
 大木毅によれば、松岡の・・・国際連盟<での>・・・「十字架上の日本」・・・演説に対して「欧米諸国の代表は、あるいは憤り、あるいは自らを救世主にたとえるとは沙汰のかぎりと嗤った」という。・・・

⇒反宗教改革ではあるまいし、プロテスタントからカトリック信徒に「退行」したり、そもそも、キリスト教の教義について生煮えの理解をしていたり、なんともはや嘆かわしいことだ。(太田)

 「<米国>人には、たとえ脅されたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは、対等の立場で臨まなければならない。力に力で対抗する事によってはじめて真の親友となれる。」・・・

⇒米国と言ってもその西海岸しか基本的に知らない松岡は、もっぱら東海岸にいたところの、米国のエスタブリッシュメント(典拠省略)、に関しては「力に力で対抗する事によってはじめて真の親友となれる」などということは全く当てはまらないことに、松岡はついぞ気付かなかったように思われる。(太田)

 「独逸人ほど信用のできない人種はない」・・・

⇒ナチ党員たるドイツ人の相当部分には当てはまるかもしれないが、一般論としては言語道断な言明だ。(太田)

 松岡は遠からず西欧ブロックがドイツの指導の下形成されるであろうと考え・・・
 ドイツ訪問時にリッベントロップから独ソ関係は今後どうなるか分からず、独ソ衝突などありえないなどと日本政府には伝えないようにと言われ、ヒトラーも独ソ国境に150個師団を展開したことを明かすなど、それとなくドイツ側が独ソ戦について匂わす発言をしたのにも関わらず、松岡はこれらのことを閣議で報告しなかったばかりか、独ソ開戦について否定する発言を繰り返していた。・・・
 日ソ中立条約締結前、<英国>のチャーチルは松岡宛に「ヒトラー(ドイツ)は近いうちに必ずソ連と戦争状態へ突入する」とMI6から仕入れた情報を手紙として送ったが松岡はこれを無視し日ソ中立条約を締結した・・・ 

⇒この挿話だけでも、松岡は、政治家失格とか外交官失格のレベルではなく、人間失格のレベルだと分かる。(太田)

 松岡は、伊藤博文の影響もあって昔から親ロシアを唱えており、伊藤門下の親露派の首領を自ら任じていた。松岡はロシアブロックの指導国家ソビエト連邦にパキスタン・インドへの進出を認めることで、その東進を防げると考えていた。・・・

⇒親ロシアと言えば、海軍三馬鹿の一人の米内光政と同じだが、松岡は、米内以上にロシア(ソ連)について無知、で決まりだ。(太田)

 松岡は常々から<英国>との戦争は避け得ないと考えていたが、<米国>との戦争は望んでいなかった。彼は「英米一体論」を強く批判し、<英国>と戦争中であるドイツと結んでも、<米国>とは戦争になるはずがないと考えていた。・・・

⇒結論だけは正解だが、恐らくは、その結論に至る思考過程は無茶苦茶なのだろう。(太田)

 満鉄総裁時代の1938年にオトポール事件ではユダヤ人難民救援用の列車を出動させるなど積極的に動いており、ユダヤ難民を後にヒグチ・ルートと呼ばれる満鉄の特別列車で上海まで特別列車を出して5000人以上を救っている。しかしこれでナチスの不興を買っているが無視している。
 また、外務大臣時代の1940年(昭和15年)12月31日には、在日ユダヤ人の実業家らとの会合の中で、「人間ヒトラーとの提携が、ただちに日本で反ユダヤ政策を実施するということでは無い」と約束している。また、「これは私個人の見解では無く、日本の見解である」とまで述べており・・・

⇒これも、そのような言動がなされた理由は支離滅裂なのだろうが、本件について、松岡が、行ったこと、言ったこと、は、たまたま正しい。(太田)

 「日本は元来、共産主義的民族であるが、<米>文化に侵されて資本主義的になってしまった」・・・「私は共産主義者だ」・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3

⇒後段は間違いだが、前段は同床異夢ではあれ、私と見解を同じくしている。
 近衛が松岡を外相に起用したのは、彼がパリ講和会議当時以来の知己(上掲)だったからだろうが、近衛には、(米内同様、)人を見る目もまたなかったことがここからも分かる。
 私が言いたいのは、武士としての教育に加えて世界観も(二度にわたって)日蓮主義を注入された内田康哉とは違って、松岡は、武士としての教育を受けたわけではなく、また、世界観も米国西海岸で自分でいわば恣意的に身につけたものであり、外務省に入ってからは、留学させられたことがなく、また、彼に限ったことではないが外務省内において長期研修を受けたこともなく(後述)、だからこそ、松岡は、これほど間違いだらけの国際認識しか身につけ得なかったということだ。(太田)

  エ 白鳥敏夫(1887~1949年)

 「千葉県の長生郡茂原町(現在の茂原市)に生まれた。<一高、東大法(経済学科)卒。>・・・
 1930年(昭和5年)に情報部長となったが、1931年(昭和6年)には満州事変が勃発した。白鳥は事変擁護の姿勢をいち早く打ち出し、森恪や鈴木貞一陸軍中佐(当時)と提携し、国際連盟の批判に対抗するための外交政策の代表的役割を果たした。・・・
 事変後・・・の白鳥の変化を山本勝之助は、白鳥は職務上軍と接触することが多く、小心な彼は反英米・反国際協調的な思想を持つ彼らと同調することで歓心を得ようとしていたが、いつしかそれを自分の本質と考えるようになったと指摘している。
 12月には事変後の混乱により第2次若槻内閣が倒れ、犬養内閣が成立した。内閣書記官長には白鳥と親しく、「アジアに帰れ」という言葉を用いる森が就任した。森の主導によって、対満蒙実効策案審議会が設立され、白鳥はその外務省代表メンバーとなった。また白鳥は外務省内部に陸軍の参謀本部のような外交政策を検討する「考査部」の設立を主張し、一部の若手官僚の支持を集めた。また政治家との接触を頻繁に行い、森や鈴木とは連日料亭で会談をおこなった。特に森との関係は濃密であり、「白鳥はどうでも自分のいふ通りになります」と森が語るほどであったという。・・・
 白鳥は意見を異にする同僚・上司、政治家に対しても極めて攻撃的であり、犬養内閣での上司芳澤謙吉外相とは犬猿の仲であった。義兄の出淵勝次にも批判的で、省内で出淵に対する反感を醸成する黒幕ともなっていた。特に谷正之亜細亜局長とは考査部設立問題で激しく対立し、1932年に就任した有田八郎外務次官とも対立するようになった。有田は白鳥と谷を海外赴任させて調停する案を考えたが、白鳥は省内の革新派の影響力を背景に、有田にも海外赴任させるよう内田康哉外相に迫った。内田は白鳥の圧力に負け、有田にも海外赴任を求めたが、喧嘩両成敗の形となることに憤った有田は次官を辞任した。・・・
 1940年(昭和15年)7月には米内内閣が倒れ、第2次近衛内閣が発足した。米内内閣末期に近衛が首相となり、白鳥が外相となるという噂を米内が聞いていたように、白鳥外相を待望する声は多かった。しかし天皇が白鳥の外相就任に反対したため、外相となったのはかつて白鳥の上司だったこともある松岡だった。松岡は白鳥の後見人だった森<恪>とも親しかったが、森が松岡の恩人山本条太郎との関係を絶ったため、白鳥との関係も悪化していた。近衛や陸軍は白鳥を次官にするよう要望したが、松岡は大橋忠一を次官とし、白鳥には外務省顧問の地位を与えた。白鳥の言論は次第にユダヤ陰謀論的となり、<英国>が参戦したのはユダヤ資本家のせいであると唱え、やがてユダヤ人に支配されている<米国>とも戦わねばならず、日独伊三国同盟は<米国>を戦争に引き入れるためのものだと主張するようになった。またこの頃文化親善団体「イタリア友の会」が外務省の外郭団体となり、白鳥が会長となった。
 1941年4月、白鳥は躁病の治療のために顧問を辞任、以降一年間は入院と療養の生活を送ることになった。・・・
 一時は金光教などの新宗教に凝り、自宅に神棚を祀っていたこともあった<が、>・・・死亡する直前にキリスト教へ改宗した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E6%95%8F%E5%A4%AB

⇒鈴木貞一(1888~1989年) 「千葉県の地主である鈴木八十吉の長男として生まれる。<陸士旧10期、陸大10期。>・・・
 1931年(昭和6年)三月事件に参加する。・・・<同>年・・の満州事変勃発に伴い、軍務局勤務になると同時に、自らが代表となって満蒙班を立ち上げ、ほぼ独断といった状態で満洲政策を推し進めることとなる。その際、白鳥敏夫や森恪と連携して国際連盟脱退論を主張し、軍部における連盟脱退推進派としてその名が知れ渡るようになる。・・・やがて東條英機の側近にのぼりつめていった。・・・
 1938年(昭和13年)4月14日に第3軍参謀長、同年12月16日、興亜院政務部長に就任して(~1941年4月)1940年(昭和15年)8月1日、中将に昇進した。同年12月23日、興亜院総務長官心得に就任した。
 1941年(昭和16年)4月4日、予備役編入となる。それと同時に、第2次近衛内閣国務大臣兼企画院総裁に就任した。以後、第3次近衛内閣・東條内閣でそれぞれ国務大臣を務める。東條内閣の際には、<英国>のインド植民省を真似て大東亜省を設立して、外務省のアジア関係の権限を全て陸軍が奪い取り、自らが事実上の外務大臣に成り上がろうとしたが、大臣には青木一男が任命されて、失敗に終わっている。
 東條内閣時、帝国議会の閣僚席は内閣総理大臣の隣で、東條英機に近い重要閣僚であることを印象づけている。東條内閣発足時の記念撮影でも、東條の横に写っている。ニュース映画では、農林大臣井野碩哉が進み出ようとするのを遮って、最前列に出たのが確認できる。
 太平洋戦争開戦直前の1941年(昭和16年)10月-12月の御前会議において、日本の経済力と軍事力の数量的分析結果に基づき、開戦を主張した。会議において鈴木は、ABCD包囲網等により石油が禁輸されてしまった以上、3年後には供給不能となり、産業も衰退し軍事行動も取れなくなり、支那だけではなく満洲・朝鮮半島・台湾も失ってしまうだろう、と主張した。故に、天皇に「座して相手の圧迫を待つに比しまして、国力の保持増進上有利であると確信致します」と述べたうえで、米英蘭と開戦して、南方資源地帯を占領することが必要不可欠だ、ということを説明した。・・・
 戦後<は、>・・・公的な役職に就くことはなかった。・・・
 葬儀は東京都杉並区の[日蓮宗の・・・福相寺]で営まれ<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E4%B8%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%9B%B8%E5%AF%BA_(%E6%9D%89%E4%B8%A6%E5%8C%BA)
ことから、鈴木貞一は、日蓮宗信徒だったと思われる。
 そのこともあって、杉山構想を開示された上で、三月事件への参加から始まり、同構想のほぼ完遂を目指すプロセスで重要な役割を果たし続けたのだろう。
 白鳥は、内田とは違って、その世界観が180度転換し、幣原外交の寵児から杉山構想の使い走りへと回心した、と私は見ているところ、彼を秀吉流日蓮主義者へと折伏したのはこの鈴木貞一であり、それは、白鳥が、信心深い人物あったこと、と、双極性障害の気(コラム#13100)があったこと、に付け入ることでなされた、というのが私の仮説だ。
 なお、森恪(1883~1932年)に白鳥は取り入りこそすれ、私立の旧制中学卒の学歴しかない森
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%81%AA
に白鳥が私淑したとは考えにくい。
 いずれにせよ、一見内田康哉のそれと酷似しているところの、白鳥の回心は、内田の自律的回心、に対するに、白鳥の他律的回心、といったところか。(太田)

  オ 天羽英二(あもう。1887~1968年)

 「徳島県で生まれ・・・神戸高等商業学校(神戸大学の前身)を経て、1912年東京高等商業学校(一橋大学の前身)専攻部領事科卒業。1912年外交官及び領事官試験合格、外務省入省。・・・
 外務省情報部長を務めていた1934年(昭和9年)4月に、日本は東亜地域の秩序維持に責任を持つ国家であり、列強による中国援助は日中の特殊関係を考慮すれば「主義として之に反対せざるを得ない」と述べた非公式談話「天羽声明」で有名。
 この談話は1934年初頭以来広田弘毅外相が主導した日中の経済提携を推進する「和協外交」路線に呼応する形で述べられたもので、談話の力点は日中提携の強調にあった。しかし、満州事変以来日本の大陸政策を警戒していた欧米からは、日本が「東亜モンロー主義」を宣言したと解釈され、強い反発と警戒を生むこととなった(この反応を受けて、戦後の歴史研究でも天羽声明は「東亜モンロー主義」の表明と位置づけられることが主流となった)。
 第二次世界大戦が始まった1939年から駐<伊>特命全権大使を務めた。・・・
 近衞文麿内閣で外務次官、東條英機内閣で内閣情報局総裁を務めた経歴から、・・・<戦後、>A級戦犯の容疑で巣鴨拘置所に勾留され、公職追放の処分を受ける。 釈放後は公職追放解除とな<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%BE%BD%E8%8B%B1%E4%BA%8C

⇒天羽は、単に、上司の外相の広田弘毅を指示を受けて非公式談話を行っただけだと思われるが、枯れ木も山の賑わいでここで取り上げた。(太田)


 [戦前の外務省のキャリア人事教育の問題点]

一、始めに

 海軍は将校の上澄みの人事教育に遺漏があったわけだが、外務省もまた、キャリア外務官僚の人事教育に成功したとは言い難い。

二、戦前の外務省のキャリア人事教育の問題点

 ア リクルート(外交官試験) 

 「長らく大学卒業を要件としなかったため、多くの外交官が大学を中退している。
 松岡洋右は、オレゴン大学卒業後に東京帝国大学を目指して明治法律学校に在籍していたが、外交官及領事官試験に首席で合格し、明治法律学校を中退している。
 外務公務員採用I種試験は21歳から受験可能な一方で合格者名簿の有効期間が1年(国家公務員採用I種試験合格者の名簿は3年)と短かったため、合格者の中には大学を3年時に中退して入省した者もおり、それら「大学中退」者が、かえって飛び級的名誉とされていたという(なお、大学中退で入省した者は国費で外国の大学に留学して学位を得る例が多かった)。
沿革
1894年 – 外交官領事官及書記生任用令により外交官及領事官試験(所謂旧外交官領事官試験)開始
1918年 – 高等試験外交科(高等文官試験外交科)開始
1942年 – 外交科が行政科に統合
1944年 – 高等試験廃止、任用試験特例による採用を行う
1946年 – 高等試験行政科が復活する
1947年 – 外交官領事官試験(所謂新外交官領事官試験)
1958年 – 外交官領事官採用試験上級試験開始
1959年 – 外務省公務員採用上級試験開始
1985年 – 外務公務員I種試験
2001年 – 外務公務員I種試験が国家公務員採用I種試験(国I)に統合
2012年 – 国家公務員採用I種試験が国家公務員採用総合職試験に改正」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93

⇒そもそも、外務官僚は司法官のような特殊な狭い領域に通暁している必要がない点で一般官僚と同じであったにもかかわらず、外務省にしか行けない試験を設けてしまったことから、キャリア外務官僚の平均的資質は一等官庁のキャリア官僚の平均的資質より(両者の掛け持ち受験をして両方又は片方に合格した者もいたものの、)劣ってしまった。
 ということは、陸海軍の上澄みに比べれば、外務省キャリアは、その上澄みですら格段に劣っていた可能性が高い。
 しかも、大学中退者が理の当然として年次的に優遇されたとはいえ、実際に現在で言う短大卒相当者が外務省の主流になってしまったわけではない・・松岡のケースは例外(典拠省略)だし、そもそも彼が外務省から途中で転出したのも、支那でのドサ回りが多く、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3
次官になれないと見極めをつけたからだと思われるし、後に外相として外務省に「復帰」したのは、外務省出身者として
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E5%A4%A7%E8%87%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
ではなく、私見では、外務省を辞めてから20年近く、衆議院議員や満鉄総裁をやっていた松岡が、維新の元勲やら外務省出身者やら陸海軍出身者やらに交じって、(松岡と同じく満鉄総裁等をやっていて)民間人から外相に起用された後藤新平、に次いで民間人から2人目に外相に起用された、と受け止めるべきだろう・・但し、一般には、後藤は内務省、松岡は外務省出身者ということにされている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E5%A4%A7%E8%87%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) ・・が、科学的思考法を身につけなくても良い・・法学部卒なら卒業論文すら書かされないので卒業していたとしても科学的思考法は身につけられない(コラム#省略)が・・的な認識をキャリア外務官僚に植え付けてしまったとは言えるのではなかろうか。
 もとより、その大部分が法学部卒であったところの、一般官庁のキャリア、だって科学的思考法は身につけていなかったけれど、一般官庁のキャリアならば、仕事を通じて否応なしに、当該法律の対象たる社会事象の調査研究が不可欠であるところの、立法や法解釈、の専門家にはなるのに対し、外務官僚は、英語、または、英語と他の外国語に通暁することこそ強く求められ、また、条約起草・解釈業務という立法や法解釈に類してはいるけれども、私的契約書の作成や解釈に毛が生えた程度に過ぎない仕事が一応あるけれど、それらも含めて、的確な発言を行い的確な文章を書き、常識的な文章解釈を行うという、これまた一般官庁キャリアであれば、というか、選良社会人であれば、最低必要な素養を求められ、身につけさせられるだけにとどまった。(私自身の役人生活が典拠)
 要するに、外務省キャリアは、科学的思考法も身についていないわ、何の専門性もないわ、という哀れな存在だったわけだ。
 (これは、現在でも変わっていない。)
 しかし、外務省キャリアにも、本来は、国際情勢分析において、陸海軍のそれよりも高いレベルの専門性が求められたのであって、それは、現在で言うならば、国際関係論(International relations theory)と比較政治学(comparative politics)、に通暁していることだったのだ。
 ところが、いかんせん、当時は、まだどちらの学問も成立していなかったか成立途上だった。
 国際関係論に関しては、’Early international relations scholarship in the interwar years focused on the need for the balance of power system to be replaced with a system of collective security. These thinkers were later described as “Idealists”. The leading critique of this school of thinking was the “realist” analysis offered by Carr.’
https://en.wikipedia.org/wiki/International_relations_theory
という状況だったし、比較政治学に関しては、古典ギリシャ時代に始まる比較制度論が、20世紀後半において、米国における政治学(political science)なる学問領域の確立を背景に、の欧米諸国間の比較制度が、南米諸国や共産圏諸国も取り込んだ比較政治学へと発展した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E8%BC%83%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AD%A6
https://en.wikipedia.org/wiki/Comparative_politics
という状況だった。
 つまり、教授する際に拠るべき教科書的文献が、まだ存在しなかったことから、陸海軍と違って、外務省では、仕事のために必要な専門性を身につけさせるための省内で長期の研修を行うこともなかった、というか、できなかったわけだ。(下出)

 イ 研修

 (ア)留学

 戦前においても少なからぬ外務省キャリアには海外の大学等への留学が行われたようだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%8B%99%E7%9C%81%E7%A0%94%E4%BF%AE%E6%89%80
が、その多くは、英語以外の言語習得のためであり、仮に留学先が英語圏だった場合、傑出した英語力の習得が求められるだけに、科学的思考法を身につけるどころの騒ぎではなかったであろうことが、戦後における私自身の、米国での外務省キャリアとの交流経験を踏まえた想像だ。

 (イ)長期研修

 「外務省内でしかるべき研修養成所は存在していなかった。
 1941年に国際情勢の緊迫化に伴って職員訓練養成組織の必要性が注目されたことを受けて、組織化された総合的常設訓練機関として「外務省職員訓練所」が外務次官の下に所長を置いて本省内で開設された。1943年に「外務省職員訓練所」の附属機関として「外務省語学校」が本省内で開設された。しかし、「外務省職員訓練所」や「外務省語学校」は官制上の根拠を持つものではなかった。
 1946年に外務省官制が改正される形で「外務省官吏研修所」を設けることが規定された。1949年に公布された外務省設置法に基づいて制定された外務省研修規程により、「外務省官吏研修所」は「外務省研修所」となった。」(上掲)

 ウ 結論

 その上、これはまさに日本特有の事情なのだが、陸士・海兵出身者と違って、縄文的弥生人たるべき教育訓練を一切受けたことがなく、かつ、日本の国内社会の基調が弥生性の不存在であることもあって、国際情勢分析の必須の素養であるところの、(私の言うところの)弥生性の何たるかについての理解が欠如している者達ばかりになってしまったために、外務省キャリア達は、国際情勢分析力においてすら、軍部、とりわけ陸軍の後塵を拝するようになってしまったどころか、軍部との意思疎通さえままならない存在へと堕してしまうに至ったと考えられる。

 (この点もまた、現在変わっていない。)

3 世論

 (1)新聞/政党

  ア 軍縮世論をめぐって

 「東京の有力紙『時事新報』の記者であった伊藤正徳は次のように述べている。
 終始一貫して海軍拡張を主張して来た時事新報が,一転して海軍縮小論を発表したのは,大正十<(1921)>年一月元旦であった。
 海軍に関しては,何の新聞にも優った関心を有し,常に拡張論をリードして来た時事が,逆に縮小論のトップを切ったことは,今日から見れば当然のことを当然に論じたやうに思はれるが,其当時に於ては,由々しい社論の転向であった・・・。」
https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/wp-content/uploads/2010/03/p24.pdf

⇒私見では、明治維新後、旧武士の家庭から子弟への弥生性の継承が行われなくなり、弥生性は、基本的に陸海軍の軍人が独占するところとなって行った。
 また、孝明天皇、明治天皇、大正天皇(そして摂政時代を含めた昭和天皇)の弥生性は稀薄だった。
 そこへもってきて、日露戦争の日本の勝利と第一次世界大戦中のロシアの内戦によって、対日ロシア脅威が一時的に著しく減衰した上に、第一次世界大戦終結後、欧米を中心に世界で軍縮ムードが高まったこと、しかも、男性だけだったとはいえ、選挙権・被選挙権付与対象の拡大によって、もともと縄文人ばかりだった庶民の声に新聞や政党が応えなければならなくなったこと、が、このような『時事新報』の軍縮への転向をもたらした、と考えられる。(太田)

 「関東都督は、1906(明治39)年8月の関東都督府官制(勅令第196号)によって関東都督府とともに設置された。関東都督は、関東州の監督のみならず南満洲における鉄道・線路の保護及び取締、南満洲鉄道会社の業務の監視を担当した。関東都督は親任であり、陸軍大将または中将が任じられ、軍隊指揮権を持ち、外務大臣の監督を受けながら諸般の政務を統理した。都督は外交に関する事項まで行い、文官に対する懲戒権も持っており、その権力は広範かつ強いものだった。1910(明治43)年6月の都督府官制改正により、外交に関する事項を除き、都督の指揮権は外務大臣から総理大臣に移行した。しかし1913(大正2)年6月、反軍感情を背景に再び指揮権は外務大臣に再統合され、さらに1917(大正6)年7月、外交に関する事項を除く指揮権は総理大臣に戻された。1919(大正8)年4月の勅令第94号で関東都督府は廃止され、関東庁と関東軍を分立させ、関東庁の長官には文官が就任できるようになった。」
https://www.jacar.go.jp/glossary/term2/0050-0030-0010-0010.html

⇒これにより、日本の、新聞や政党だけでなく、理の当然として、政府もまた、転向せざるを得なくなかった、というか、転向を装わざるを得なくなった、ということだろう。(太田)

 「1920(大正9)年に設置された陸軍省新聞班は,「一般社会ニ軍事思想ヲ普及セシメ又軍事施設ニ関シテ輿論ヲ指導セムトスル」というように宣伝活動を主要な業務とする一方で,「内外ノ情勢,輿論ノ傾向ヲ考察シテ之ヲ大臣以下ノ実行機関ニ知悉セシメ軍事施設上ニ社会的省察ヲ与ヘシムル」というように輿論の動向を把握することも重要な役割としていた。・・・
 世論調査など社会調査に対する認識を持っていなかった軍部は,総力戦体制を構築するための前提として新聞の紙面から国民「輿論」を把握しようとしていた。またそれと同時に,既存のマス・メディアである新聞の影響力に注目し,軍に批判的な新聞の主張を緩和させることで国民の「世論」を軍に好意的なものに導き,総力戦体制に対する国民の動員を引き出そうとしたのである。軍部は新聞の軍縮「輿論」に働きかけることで,国民の軍縮に対する「世論」を好転させようとしていたといえるだろう。・・・
  1921(大正 10)年以降満州事変に至るまで,『時事新報』は一貫して軍縮を重要な政策課題として強調していくが,そこには海軍軍縮と陸軍軍縮に対する明確な争点の違いをみることができる。まず海軍の軍縮については,「国際関係」に関する争点と強く関連付けられている傾向が示された。このことは海軍の軍縮が,「協定による軍縮=世界平和の確立」というように,国際関係を改善するための手段として強調されていたことを示している。これに対し陸軍の軍縮に関する社説は,国民負担の軽減といった「財政・経済」カテゴリー,政党や内閣などの「政治家・政府」カテゴリーとの関連性が高かった。このことから,陸軍軍縮は国内問題としての側面が強調されていたといえる。
 また,これと関連しているのが「政軍関係」の問題である。初期の軍縮論は,政軍関係の問題の強調度が非常に低かったことが量的分析によって明らかとなった。ここでいう政軍関係の問題とは,軍縮をめぐる軍部と政府との主導権についての問題のことを指している。この問題は統帥権干犯問題が発生したときに最も強調されるのだが,すでに宇垣軍縮,ジュネーブ海軍軍縮会議の失敗の経験から認識され始め,徐々に軍縮問題との関連の度合いを高めていった。このようにみると,統帥権干犯問題に関連して政軍関係の問題が議題としてとくに強調されたことに関して,単なる時事的な問題として捉えるのではなく,軍縮が進むなかで醸成されていった政軍関係論の一つの到達点と理解できるだろう。
 しかし,政党内閣は新聞の後援にもかかわらず,党略,政権維持のために軍部との妥協を優先したことで,統帥権問題以降,軍縮についての社説には政党に対する批判が強調されていく。大正後期から昭和にかけて,政党<に>対する輿論の不信感が高まったということがこれまでも指摘されているが,軍縮問題についても,政党に対する批判が強調されることで軍部に付け入る隙を与え,同時に国民の信用を失墜させることになったと考えられる。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/mscom/73/0/73_KJ00005006342/_pdf

⇒より「理論的」に言い換えれば、
 一、日露戦争日本勝利による横井小楠コンセンサスの主敵ロシアの暫時消滅。
 二、天皇家を始めとする日本国内における縄文モード回帰に向けてのベクトル。
 三、第一次世界大戦後の欧米の軍縮風潮。
を背景として、有力新聞/政党が軍縮へと転向した一方、陸軍は、一貫して、秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者、たる山縣有朋の直轄下にあり、杉山構想的なものの策定と実行の時期が近づいているとの認識を持っていたことから、危機意識にかられて、特定の政党と暗黙裡に連携して(下述)、世論を再転向させるべく誘導しようとしたわけだ。(太田)

  イ 憲政会/立憲民政党

 「『京都日出新聞』の歴史は古く,その起源は1879(明治12)年創刊の『京都商事迅報』にさかのぼる。その後改題を繰り返し,1897(明治30)年7月に『京都日出新聞』(以後『京都日出』とする)と紙名が改められた。
 ちなみに『京都日出』はその後,アジア・太平洋戦争中の1942(昭和17)年4月に,同じ京都の地方紙であった『京都日日新聞』と合併,『京都新聞』となり現在に至っている(京都新聞社史編さん小委員会編 1979)。・・・
 <同紙は、>東京・大阪の有力紙が軍縮論を主張し始めた1921年初頭,『京都日出』は,軍縮は実現不可能であると主張していた。そこにはアメリカに対する不信感が見られ,アメリカが中国において利権獲得を狙っているという国際情勢に対するイメージを示<し、>・・・中国が内乱状態にある現状では,日本が「覇主」として東洋の平和を維持することが使命であり,そのためにはむしろ軍備拡張が必要であ<る、と主張した。>・・・
 <そして、>『京都日出』は,<1922年の>ワシントン会議を「失敗」と評価し,それを殊更に強調した。そこには,日本が主力艦比率で譲歩したことに対して,「劣等の地位に在ることを甘んじたものは,何時迄たっても弱者である,未来永劫頭のあがる気遣ひはない」といった,いわゆる「屈従外交」に対する批判と危機感があった。先行研究では,ワシントン会議における諸条約に強く反発し,「屈従外交」を喧伝する軍部や右翼についてしばしば言及されているが・・・,軍縮を支持し,協調外交を評価したとされる日本の新聞のなかにも,同様の解釈を示すものがあったのである。
 大正期には,東京・大阪の有力紙は「不偏不党」を掲げ,そのほとんどが特定の支持政党を持たない「中立」新聞となっていたが,地方紙については依然政党とのかかわりが強く,それは戦時中に行われた新聞統合まで存続していたことが指摘されている(城戸 1973,山本 2005)。・・・
 『京都日出』と憲政会との関係については今後更なる調査が必要だが,少なくとも『京都日出』の軍縮に対する主張が,憲政会のそれと極めて近いことは記事内容から明らかである。」
https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/wp-content/uploads/2010/03/p24.pdf 前掲

⇒新聞界における軍拡論の種火となったところの、『京都日出新聞』の論調の変化の背後には憲政会がいたわけだ。(太田)

 「加藤高明<は、>・・・尾張藩の下級藩士<の子で東大法卒>・・・ その後三菱に入社しイギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、明治19年(1886年)岩崎弥太郎・・・の長女・・・と結婚。・・・
 明治20年(1887年)より官界入りし、外相・大隈重信の秘書官兼政務課長や駐英公使を歴任。

⇒加藤の出身の尾張藩は近衛家と密接な関係にあり続けたところの、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉藩(コラム#省略)である上、、「彌太郎の依頼で福沢諭吉が推薦した荘田平五郎が入社し、会社規則で三井住友にない社長独裁を謳った。福沢門下生で三菱に入ったものは吉川泰二郎(日本郵船社長)、山本達雄(日銀総裁)、阿部泰蔵(明治生命創業)がいた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%BC%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E
という、彌太郎の、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスを信奉する福澤諭吉ないし慶應義塾(コラム#省略)との関係、も深く、加藤自身が秀吉流日蓮主義者であったことは疑いようがない。
 また、大隈重信もまた、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者であって(コラム#省略)だからこそ、支那を辱めるために対華21ヶ条要求を加藤に突きつけさせ、また、2個師団増設を実現したわけだ。
 その加藤が立ち上げた政党が立憲同志会であり、それが、憲政会となり、立憲民政党となる(後出)わけだ。(太田)

 明治33年(1900年)には第4次伊藤内閣の外相に就任し、日英同盟の推進などに尽力した。

⇒山縣の傀儡内閣だったと私が見ている第4次伊藤内閣で加藤は初入閣しており(コラム#12896)、爾後、加藤は、山縣/西園寺の指示に従って行動した、と私は見ている。(太田)

 その後、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長、第1次西園寺内閣の外相、駐英公使、第3次桂内閣の外相を歴任する。・・・

⇒西園寺が加藤を外相に起用したのは、従って、当然だった。(太田)

 大正2年(1913年)、桂太郎の主導による立憲同志会の結成に参画する。同志会の成立を待つことなく桂が急死したため、同志会はいったん総務の合議による集団指導体制をとるも、のちに党大会で加藤が立憲同志会総理(党首)に選出された。
 翌年第2次大隈内閣の外相として、第一次世界大戦への参戦、対華21ヶ条要求などに辣腕を振るった。・・・
 <なお、この内閣の時の1915年に、陸軍の2個師団増設が実現している(コラム#12922)。>

⇒対華21ヶ条要求は、山縣、西園寺の観点からは、もはや時宜に沿わぬ加藤による勇み足だった(コラム#省略)。(太田)

 第二次護憲運動の高まりを受けた第15回衆議院議員総選挙で護憲三派勢力が圧勝したため、清浦奎吾首相は辞意を表明し清浦内閣は退陣、大命降下を受けた加藤は大正13年(1924年)6月11日、立憲政友会、憲政会<(注33)>、革新倶楽部からなる護憲三派内閣を率いる内閣総理大臣となった。

 (注33)「憲政会<は、>・・・1916年(大正5年)10月10日、第2次大隈内閣の与党であった加藤高明を総裁とする立憲同志会(加藤の他に河野広中・若槻礼次郎・濱口雄幸・安達謙蔵・片岡直温ら)に、同志会と並ぶ大政党である立憲政友会に不満を持つ尾崎行雄の中正会・公友倶楽部などの諸政党が合同して結成<され>る。総裁には加藤が就任して、総務7名(尾崎行雄・武富時敏・高田早苗・若槻礼次郎・濱口雄幸・安達謙蔵・片岡直温)がこれを補佐した。当初は198議席を有して衆議院第1党であった。
 しかし次の寺内内閣に対して野党の立場を取ったために次の総選挙で大敗し、以後第39~48議会(1917年(大正6年)‐1924年(大正13年))において立憲政友会に次ぐ第2党として元老の否認やシベリア出兵反対、労働組合の公認、憲政の常道に基づく政権交代を主張したものの、政友会の原敬が内閣総理大臣として政党内閣を組織して国民の人気を集めた時期と重なり、「苦節十年」とも呼ばれる長期低落傾向が続いた。だが、都市部において支持を獲得して1924年の第2次護憲運動の主力となり、第15回衆議院議員総選挙では151議席を獲得して第1党に返り咲いて清浦内閣を倒し、加藤高明を首班とする護憲三派(憲政会・立憲政友会・革新倶楽部)内閣を実現させて普通選挙法などを実現させた。後に憲政会単独内閣を組織する。加藤の死後は若槻礼次郎が総理・総裁に就任するが、昭和金融恐慌で政権は崩壊、1927年(昭和2年)には政友会から分裂した政友本党と合同して、立憲民政党となった。・・・
 歴代総裁・・・1・・・加藤高明・・・2・・・若槻禮次郎」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%94%BF%E4%BC%9A

⇒もちろん、加藤を首相に指名したのは、(松方はまだ存命だったが)事実上最後の元老となっていた西園寺だった。
 「1924年(大正13年)に内閣総理大臣となった清浦奎吾が陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣を除く全閣僚を貴族院議員で構成する特権内閣を組閣したことに対抗して、憲政会、政友会、革新倶楽部の三党は護憲三派を結成し、第2次護憲運動を展開。解散後の総選挙で圧勝した。元老の西園寺公望は、この選挙結果をみて、それまで忌避していた憲政会総裁の加藤高明を総理大臣に推薦する決心をした。政局の安定のためには加藤を推すのが穏当と考えたからである。・・・<これにより>、総選挙後に野党党首が組閣するという日本で初めての例を開いた。<その>理由として、西園寺の権威が絶対的だったことが挙げられている。政治家は西園寺の意図を忖度して行動し、自らの野望や落胆を抑制し忍耐することができたのである。しかも、西園寺の選択は彼らの野望と一致しなくてもそれなりの説得力を持っていたからである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%B8%B8%E9%81%93
というわけだが、西園寺が「加藤高明<を>・・・それまで忌避していた」などということはありえないところ、私は、この時点で、西園寺(と加藤)が憲政の常道への移行を決めた、とは考えていない。
 1923年に軍事課長になった・・西園寺がさせた、と言うべきか・・杉山元
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/sugiyama_h.html
には杉山構想的なものの策定を命じてあり、国内外情勢の推移如何によっては、その概成・実行着手の期限がいつやってきても不思議ではない状況だったから、対英米向け見せ金としての憲政の常道への移行を既定路線とするわけにはいかなかったのではないか、と、私は見ているからだ。(太田)

 加藤は初の東京帝国大学出身の首相である。選挙公約であった普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立するなど、成果をあげた。しかし一方では共産党対策から治安維持法を成立させた。・・・
 また、<1925年の>宇垣軍縮に見られるような陸軍の軍縮を進める一方で陸軍現役将校学校配属令を公布し、中等学校以上における学校教練を創設した。・・・

⇒加藤は、(西園寺の指示の下、)巧妙に、陸軍の近代化と教育等を通じての国民への弥生性の注入に着手したわけだ。(太田)

 翌年、憲政会と政友会のつなぎ役であった司法大臣・横田千之助が急死すると、政友会と憲政会は内紛を起こして護憲三派連立は崩れて加藤内閣は崩壊する。だが、元老の西園寺公望は自らが次の政友会内閣の首班に期待していた横田が没するとたちまちその遺志を踏みにじって護憲三派を崩壊させた政友会に失望して、個人的には好意的ではなかった加藤に政権を続投させる決断をした。これを受けて大正14年(1925年)8月2日、加藤の憲政会単独内閣となる。

⇒表向きにどう装っていたかはともかく、西園寺は、一貫して加藤の支援をしつつ、その操縦を続けた、と私は見ている。(太田)

 1926年1月22日に、加藤は帝国議会内で肺炎をこじらせて倒れ、そのまま6日後に66歳にて死去した。・・・
 西園寺公望は加藤のことを大久保利通、木戸孝允、伊藤博文とならべて「一角の人物であった」と述べるなど高く評価していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E

⇒山縣は一角を越えた人物だったから西園寺はここで山縣は挙げていないところ、(自分自身はもちろんそうだが)加藤を(自分以外で)この3人に匹敵する人物だと西園寺が言明したことに注目すべきだろう。(太田)

 「若槻禮次郎<は、>・・・<親藩の松平家の>松江藩<(注34)>の下級武士(足軽)<の子で東大法卒、大蔵省入省、主税局長、次官。>

 (注34)「幕末の松江藩は政治姿勢が曖昧で、大政奉還・王政復古後も幕府方・新政府方どっちつかずだったために、新政府の不信を買った。結局は新政府に恭順することとなり、慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争では京都の守備についた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E8%97%A9

 大正元年(1912年)、第3次桂内閣で大蔵大臣、大正3年(1914年)から同4年(1915年)まで第2次大隈内閣で再度大蔵大臣を務めた。大正5年(1916年)、加藤高明らの憲政会結成に参加して副総裁となる。大正13年(1924年)、加藤内閣で内務大臣となり、翌年、普通選挙法と治安維持法を成立させる。
 加藤高明が首相在職中に死去したため、憲政会総裁として内相を兼任し組閣する。・・・

⇒加藤が急死したため、やむなく、西園寺は、若槻禮次郎を首相に選んだわけだ。(太田)

 帝国議会終盤の3月14日、衆議院予算委員会で大蔵大臣・片岡直温<(注35)>は野党の執拗な追及に対し、次官から差し入れられた書付に基づき「現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました」と発言する。

 (注35)なおはる(1859~1934年)。「土佐国高岡郡半山郷永野村(現在の高知県津野町永野)出身。・・・
 小学校教員、郡書記、滋賀県警部長を経て1880年に上京、伊藤博文に知られその縁で内務省に入省。1889年に官僚を辞し、弘世助三郎に日本生命保険会社の実務を任せられ、創立時に副社長に就任。日本生命初代社長鴻池善右衛門に続き、1903年より1919年までの17年に渡って2代目社長を務めた。1915年、都ホテルの社長に就任。共同銀行、関西鉄道などでも活躍した。
 政界にも地歩を築き、1893年に衆議院議員に選出。以降当選8回を数える。この間に桂太郎の新党構想に関与して所属の立憲国民党の分裂を引き起こして桂新党(立憲同志会)に参加、後に後身の憲政会総務を務める。第2次加藤高明内閣にて、商工大臣として初入閣。第1次若槻内閣で大蔵大臣を務める。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%B2%A1%E7%9B%B4%E6%B8%A9

 実際には東京渡辺銀行は金策にすでに成功していた<(注36)>が、この発言で預金者が殺到し、休業に追い込まれてしまう。これにより昭和金融恐慌が勃発した。

 (注36)「1927年3月・・・14日、衆議院予算委員会にて審議の始まる直前、当日の決済資金の工面に困り果てた東京渡辺銀行の渡辺六郎専務らが大蔵次官だった・・・田昌<(でんあきら。1878~1943年。東大法卒)>のもとに陳情に訪れ、「何らかの救済の手当てがなされなければ本日にも休業を発表せざるを得ない」と説明し救済を求めた。これを受けて、田は片岡蔵相と対応策を相談すべく議場に赴いたが、既に審議入りしていたため直接面会できず、事情を書面にしたためて片岡蔵相に言付けた。一方、田から救済策を引き出せなかった東京渡辺銀行側は、大蔵省からの助力を得る見込みが立たなかったことで改めて金策に走り、第百銀行から資金を手当てすることに成功して当日の決済を無事に済ませ、その旨を大蔵省にも伝えたが、このことはすぐには田に伝わらなかった。このことについては、相談に訪れた段階で、渡辺専務側は救済を求める意図で陳情したのに対し、田ら大蔵省の側では事前の調査で東京渡辺銀行の経営状態が悪いことを把握しており、休業の報告に来たものと理解する「誤解」があったという。
 田が東京渡辺銀行の金策がついた旨の報告を受けたのは議場から大蔵省に戻ってからのことであったが、片岡蔵相への言付けを訂正する時間はもはやなく、片岡は田からの書面をもとに、予算委員会での答弁の中で「渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と発言してしまう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%98%8C

 大戦景気のあと不景気に悩まされていた銀行や成金たちは、ここで一気に倒産の憂き目に会うこととなる。特に台湾銀行は成金企業の鈴木商店と深い結びつきを持っていたが、台湾銀行が債権回収不能に陥り、休業すると同時に鈴木商店も倒産し、これは恐慌の象徴的事件ともいえる。台湾銀行の回収不能債権のうち8割近くが鈴木商店のものだったという。
 若槻内閣は日銀に特融を実施させて経済的混乱の収拾を図るために、台湾銀行救済緊急勅令案の発布を諮るが、枢密院は、本来帝国議会で救済法案を可決して対応すべきところ、勅令による手続きは憲法違反であるとして否決してしまう。政策実行不能と考えた若槻は4月20日に内閣総辞職し、政友会の田中義一に組閣の大命が下ることとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%A7%BB%E7%A6%AE%E6%AC%A1%E9%83%8E

  ウ 立憲政友会

⇒西園寺は、若槻禮次郎もまた、不慮の出来事により、首相を退陣させざるを得なくなったわけだ。
 時あたかも、支那は、北洋軍閥が牛耳る北京政府とソ連の強い影響下にあった広東政府、という、どちらも、杉山構想的なものにとっては好ましくない二大勢力が拮抗しており、(蒋介石によるところの)第三次北伐宣言が1926年7月1日にされ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BC%90_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%9A)
て間もなくであり、支那情勢が流動的過ぎることもあり、杉山構想的なものの概成・実行着手はまだ先にせざるをえない、先にしてよい、との判断の下、それまでの間、見せ金的な憲政の常道へ移行させることを西園寺は決断した、と、私は見るに至っている。
 (だから、「あくまで慣例であり、法的拘束力はなかったという説と慣例として認められた「憲法習律」であるとする説に分かれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%B8%B8%E9%81%93 前掲
ところ、私は、当時の論者とは同床異夢的な立場ながら、もちろん、法的拘束力はなかったとする前者の説を採っているということになる。
 なお、「井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
を見て、杉山元は、毛沢東を杉山構想的なものの支那での提携相手に決め、杉山構想の完成・実行着手を1931年に定めた、と、私は(改説して)考えるに至っている。
 満州事変は、毛沢東一派のための後背地の確保をも目的としたものであり、毛沢東が「敗残」後の長征の最終目的地を、満州国によって中国国民党勢力から概ね遮断されたところの、満州国近傍の陝西省にした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%BE%81
のは、杉山らからの示唆を踏まえた(?)ところの、かなり前からの予定の行動だったのではないか、とも。)
 さて、話を戻して、西園寺は、憲政会内閣を政友会内閣へ交代させることにしたところ、それは、憲政の常道なるタテマエを掲げつつ、その真の狙いは、(かつて、山縣有朋の指示を受けて、伊藤博文を掣肘するために政友会を乗っ取ったという過去を持つ)西園寺が、政友会の重鎮で自分の側近の横田千之助(注37)に言い含めて、かねてより声を掛けさせていたところの、(「日露戦争・・・後の1906年(明治39年)に提出した『随感雑録』が山縣有朋に評価されて、当時陸軍中佐ながら帝国国防方針の草案を作成し<、>・・・<また、>在郷軍人会を組織し<、>・・・原内閣、第2次山本内閣で陸軍大臣を務め、この時に・・・陸軍省内に新聞判を創設した」)田中義一を政友会総裁に迎えさせ、「第2次護憲運動と大正デモクラシー・軍縮路線の・・・政友会」の「親軍化・・・国粋主義<化>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80
を実現することにあった、というのが私の見方だ。

 (注37)1870~1925年。「下野国足利の織物商の次男として生まれる。実家が没落したため、織物商の丁稚奉公を経て上京し、東京法学院(現・中央大学)に通いながら新聞記者や星亨の書生を務める。1893年(明治26年)に代言人(今の弁護士)試験に合格して星の主宰する法律事務所に所属、1899年(明治32年)に独立した。翌年の立憲政友会の結党に星とともに参加、その頃より実業界にも進出して複数の企業の役員も務めた。
 1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に故郷の栃木県から立候補して初当選、以後死去まで5期連続当選を重ねた。西園寺公望・原敬の両政友会総裁の信任が厚く、1916年(大正5年)には党幹事長に抜擢され党勢拡大に尽力し、原内閣成立後は法制局長官に任じられて床次竹二郎内務大臣とともに将来の原の後継者とみなされるようになった。ワシントン会議に随員として参加中に原が暗殺されると、直ちに帰国して高橋是清を新総裁に擁立して党内の混乱を鎮めた。横田はロシア革命や五・四運動における<支那>民衆の動きなどを見て、日本でも国内改革の必要性があると唱え、普通選挙制の導入や軍縮、軍閥を通じた<支那>への介入政策の修正を唱えた。その頃、キングメーカー西園寺公望は床次を野心家とみなしてこれを嫌い、横田を将来の政友会総裁・内閣総理大臣にする事を望むようになる。ところが、こうした動きに対して床次は横田に対して激しくライバル意識を燃やすようになる。横田は西園寺公望・岡崎邦輔・野田卯太郎らとかつて政友会を追われて元老山縣有朋の側近となっていた貴族院議員の田健治郎を政友会に復帰、入閣させることで原を失った穴を埋める内閣改造を計画した。これに自分たちの更迭を危惧した床次派の閣僚が反発、横田は自分が法制局長官を辞任して事態の収拾を図ろうとした。それでも床次派閣僚は今度は高橋に批判の矛先を向けて高橋内閣は分裂し、内閣は倒れてしまう。これに対して党総務委員に転じた横田は党全体の利益に対するとして床次以外の床次派幹部6人を除名処分とした。
 以後、高橋を総裁として支えていく横田と総裁就任を目指す床次の確執は続き、清浦内閣に対して当初は床次の意向により支持の姿勢を示したものの、第2次護憲運動が起きると横田はこれを支持して対立関係にあった憲政会や革新倶楽部と和解して護憲三派の結成に奔走した。だが、これに反発する床次とその支持者はついに政友会を離脱して政友本党を結成、政友会は分裂した。
 1924年の第15回衆議院議員総選挙で護憲三派が勝利して憲政会の加藤高明内閣が成立し、横田は司法大臣として入閣した。ところが政友会は分裂の煽りで第1党の座から滑り落ちたことや憲政会との長年の確執から護憲三派からの離脱を求める意見が出てくるようになる。横田は内閣を支える立場からこうした意見を抑えていたが、体調を悪化させていた。・・・1925年在任中のまま薨去。・・・
 横田の死後、司法大臣職は高橋是清による4日間の臨時ポストを経て、過激社会運動取締法推進派の小川平吉に交代、治安維持法が制定された。・・・
 死の直前、高橋が総裁の辞意を表明したことから、当時陸軍大将の田中義一を総裁として迎える道筋をつけた。しかし横田は、元々1923年頃から田中の側近である西原亀三に政友会若手の森恪と親しくすることを依頼しており、互いを知った後で森が田中に会い、今度は西原に岡崎と会わせた上で同様に岡崎が田中と会うという手順を踏んで、ゆっくりと田中と政友会との結びつきを深めていったのである。・・・
 政友会と対立する元老山縣有朋も横田の人格を高く評価していた。西園寺は原に続けて自らの政治的後継者とみなしていた横田を失ったことを深く悲しんだ。更にその悲しみが癒えない内に政友会が加藤内閣からの離脱を決めたことに激怒し、以後元老西園寺とかつて総裁を務めた政友会の関係に微妙な隙が生じることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E7%94%B0%E5%8D%83%E4%B9%8B%E5%8A%A9

 しかし、西園寺や牧野にとって意外にも、政友会が、彼らの予想を超えて既に親軍化、国粋主義化していたことを、彼らは、張作霖爆殺事件の時に知ることになる。↓
 「<1928年>6月18日の閣議後、小川平吉鉄相が田中首相に「張の謀殺に関東軍が介在している」という情報を伝え、白川義則陸相にも伝えた。小川は河本に資金援助をしていたと言われる人物であった。・・・事態の展開を憂慮した小川は11月13日、久原房之助逓相を自宅に訪ね、「事件暴露阻止」について相談、日記には「首相は已に軍部の意見を纏めしむることを陸相に嘱したるを以て、軍部の意見を先以て暴露反対に一致するの要あり」と記している。さらに12月4日には「白川陸相より報告あり。曰く、奉天の件暴露の事首相より内大臣、侍従長等に話せしに賛成せり云々と。首相の軽妄嘆ずるに堪へたり。予は必ず其過を正さんと欲す。白川氏をして閣議提出を主張せしめんとす。白川氏諾す」と。小川はさらに11日、西園寺に面会、発表停止を要請したが、西園寺は拒否した。田中をはじめ元老、内大臣、侍従長等天皇の側近が事件の解明を求めていたのにたいして、小川や白川は阻止しようとしていた。<政友会>内閣の多数もまた事件隠蔽論だった。12月15日の日記に小川は「已にして中橋(徳五郎)商相亦奉天の事に関して鳩山 (一郎、書記官長) より之を聞き知り反対の意を表明す。閣員漸次伝え知り悉く反対なり。二十一日の閣議には原(嘉道、司法相)、望月 (圭介、内相)、三土 (忠造、蔵相) 諸氏猛烈に反対し協議続行す。此日朝西公に面し反対多数の状を告ぐ」と記している。」
https://www.u-keiai.ac.jp/issn/menu/ronbun/no3/001.pdf 前掲
 陸軍の新聞班等を通じて新聞、ひいては世論への働きかけ等に加え、米国による1924年(大正13年)の排日移民法<(コラム#13170(未公開))>への新聞、世論の反発もあり、二大政党等の政党幹部達の意識も、急激に親軍、反米、軍拡、へと変わっていたわけだ。(太田)

 「立憲民政党<は、>・・・1927年(昭和2年)、政友会の田中義一内閣に対抗する形で前政権(第1次若槻内閣)の与党であった憲政会と、内部対立から政友会を離党した床次竹二郎らによる政友本党が合併して成立。・・・
 年6月4日に発生した張作霖爆殺事件(いわゆる満州某重大事件)のために田中内閣が内閣総辞職に至ると、元老西園寺公望(元首相・元政友会総裁)は現状の政友会の政策の是非を問うていないことが政権崩壊の原因となったと考えて、野党第一党の民政党に政権を交代させた上で国民の信を問う方針を固めると、昭和天皇に濱口雄幸を次期首相として推薦した。
 こうして1929年(昭和4年)7月2日に田中内閣は総辞職し濱口内閣が成立する。濱口は金解禁を断行した上で、「綱紀粛正」と「軍縮実現」を掲げ1930年(昭和5年)に第17回衆議院議員総選挙<・・投票日2月20日・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC17%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99 >
を行った。その結果、過半数を占める絶対多数の273議席を獲得した。

⇒しかし、1930年の2月時点で、まだ、世論は軍縮志向だったわけだ。
しかし、「1918年(大正7年)8月14日に遣支艦隊<が生まれ>、さらに翌1919年(大正8年)8月9日に第一遣外艦隊と改名された。第一遣外艦隊は主に上海を拠点として、華中沿海および長江を行動範囲としていた。さらに華北あるいは華南沿岸で行動するために、1927年(昭和2年)5月6日に第二遣外艦隊を新編した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E9%82%A3%E6%96%B9%E9%9D%A2%E8%89%A6%E9%9A%8A
といった具合に、支那との経済交流や在支那日本人の増加と反比例するような支那の情勢悪化に海軍も対応せざるを得なくなっていたのに、海軍の軍縮と人員削減(注38)は続いており、組織防衛の観点も加わり、海軍の将官達や若手将校達の「過激化」・・西園寺公望の指示に基づき、牧野伸顕らによる、1922~25年の間の、社会教育研究所/大学寮で陸海軍の若手将校達への秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスの注入(コラム#13094)もあったことを想起せよ・・が陸軍のそれに先行し、かつ先鋭化することになった。(太田)

 (注38)「海軍兵学校<は、>・・・大正8<(1919)>年の50期から3年間は250名クラスが続いた。・・・
 しかし、大正11<(1921)>年にワシントン海軍軍縮条約が締結されて「ネイバル・ホリディ」が始まると、大正11年度の採用数が一挙に51名に削減された。しかし、生徒数が大きく減らされたの53期と54期だけで、大正13<(1923)>年入校の55期からは120名前後に回復した。・・・昭和7<(1932)>年入校の63期からは在校年限が再び4カ年、選修科学生の修業年限が1年8ヶ月に延長され/・・・た。
 昭和6<(1931)>年9月に満州事変、翌7<(1932)>年1月に第一次上海事変が勃発し、昭和8<(1933)>年3月に満州国の独立を認めないリットン報告が国際連盟で採決されると、日本は不満として国際連盟を脱退した。このような国際情勢を受け採用人数が次第に増え、昭和9<(1934)>年の65期は187名に増員された。しかし、63期から始まった在校4カ年の制度が65期で終わり、66期は6か月、67期、68si期は8か月も在学年限が短縮された。ワシントン、ロンドン条約が失効し昭和11年には日独防共協定が締結され、昭和12年7月には廬溝橋事件が勃発した。これに伴って昭和13年入校の68期は288名に増員された。」
http://hiramayoihi.com/Yh_ronbun_dainiji_etajima-tushi.htm

 そして、ロンドン海軍軍縮条約における「統帥権干犯問題」をきっかけに、同年11月14日に濱口は東京駅において右翼によって狙撃された。
 濱口の回復が思わしくないという事で1931年(昭和6年)4月4日に若槻禮次郎が総裁に就任して第2次若槻内閣が発足した。なお、濱口は同年8月26日に死亡する。ところが同年9月18日には満州事変が勃発、同じ頃に<米国>が発生した世界恐慌が日本経済にも深刻な影響を与えるようになった。
 そこで、内務大臣であった<民政党の>安達謙蔵<(注39)>は政友会に復党していた床次竹二郎<(注40)>らと組んで挙国一致内閣(協力内閣運動)を提唱するが、これが閣内分裂を招いたため、同年12月13日に若槻内閣は倒れ犬養内閣が成立する。

 (注39)1864~1948年。「熊本藩士・安達二平の長男として生まれる。のち佐々友房が熊本市に設立した学校・済々黌で学ぶ。
 1894年(明治27年)、朝鮮国で東学党の乱が勃発すると佐々友房の指示で朝鮮半島に渡る。宝田釜山総領事の薦めで邦字新聞『朝鮮時報』、井上馨公使の協力で諺文新聞『漢城新報』を発行。社長兼新聞記者として日清戦争にも従軍した。
 井上に代わり駐韓公使となった三浦梧楼の朝鮮王妃閔妃殺害計画に参加し、1895年(明治28年)、在韓の熊本県出身者を率いて乙未事変を実行。中心メンバーとして投獄されるがその後釈放される。 熊本に戻ると佐々友房とともに熊本国権党を結党、1896年(明治29年)に党務理事に就任。1902年(明治35年)の第7回総選挙で初当選して政治の世界に足を踏み入れ、以後14回連続当選する。1914年(大正3年)第2次大隈内閣が実施した第12回総選挙で与党立憲同志会の選挙長を務めて大勝し、徳富蘇峰から「選挙の神様」と評された。
 立憲同志会の後身・憲政会にも在籍し、加藤高明憲政会単独内閣で逓信大臣に就任した。第1次若槻内閣においても逓相を務め<た。>・・・
 <やがて、>若槻内閣の総辞職が近いことを知った安達は、政友会に政権を渡さないために政友本党の床次竹二郎との提携を図ったが(憲本連盟)、4月に金融恐慌で経営危機に陥った台湾銀行を救済するための緊急勅令案を枢密院が否決したために若槻内閣が倒れると、元老の西園寺公望は政友会の田中義一を奏薦したため、安達らの目論見は頓挫した。そこで憲政会は政友本党と合併し民政党が成立することになる。・・・
 1929年(昭和4年)に民政党単独政権として成立した浜口内閣では内務大臣に就任、続く第2次若槻内閣でも留任した。・・・
 1931年(昭和6年)9月に満州事変が勃発し、・・・また・・・、幣原喜重郎外相の協調外交(幣原外交)に批判的だったこともあり、政友会と協力しあって連立内閣を作り、軍部とも提携して挙国一致内閣で難局を切り抜いていくことを考えた。10月28日、政権運営に自信を失っていた若槻首相から事態の解決について相談を持ちかけられた安達が協力内閣構想を若槻に示すと、若槻は軍部の台頭による政治の無力化を防ぐためにも政友会との連立は必要と考えてこれに賛同した。安達は政友会の久原房之助の合意をとりつけ、協力内閣運動の声明を発表したりして、政友会総裁の犬養毅を首班とする連立内閣の成立に向けて動いた。軍部では小磯国昭、さらに西園寺にも構想を打ち明けている。政友会では松岡洋右、秋田清、前田米蔵なども当初は協力内閣構想に積極的だった。
 しかし協調外交を主張する幣原外相と、緊縮財政と金解禁の維持を主張する井上準之助蔵相らの強い反対を受けると、当初は安達と同じ考えだった若槻は豹変して協力内閣の考えを捨ててしまう。また政友会内部でも森恪をはじめとする幣原外交に批判的な勢力も強く、11月10日の議員総会において金輸出の再禁止を強く求める声明が出るに至って、民政党と政策面で相容れる見込みは小さくなった。
 12月9日から10日にかけて安達の腹心の富田幸次郎が奔走したものの、若槻を翻意させることはできず、かえって臨時閣議で安達に内相辞職が求められることとなった。既に政友会から合意を得ていた安達の面目はつぶれ、引くに引けないまま安達は辞職を拒絶して自宅に引きこもってしまう。これで閣議は空転、12月11日若槻はついに閣内不一致を理由に内閣総辞職に至った。西園寺は協力内閣構想が不発に終わったことを知ると、次期首班には迷わず政友会の犬養毅総裁を奏薦、犬養内閣の成立となった。かねてから久原や安達の独走に懐疑的だった犬養は政友会単独で組閣したが、これを受けて安達は中野ら数十名と共に民政党から脱党した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E8%AC%99%E8%94%B5
 「済々黌の発足と発展の背景には、その後ろ楯である「国権派」、すなわち佐々友房らが率いる紫溟会、国権党(=肥後熊本藩の保守勢力であった「学校党」の流れを汲む政治勢力)と「民権派」(=横井小楠ら、幕末に事実上藩の実権を握った進歩的派閥である「実学党」の流れを汲む政治勢力)の対立があったとされる。県政におけるこの政争が教育界に及んだ結果、1888年(明治21年)には議会の多数派であった国権派により、民権派色の強かった県立の熊本中学校が事実上廃止に追い込まれる事態も起きている。以後、済々黌は私立学校でありながら実質的に公立学校のような位置を占め、ついには県立となるに至るのである。・・・
 教育方針の影響もあり、戦前は陸軍士官学校・海軍兵学校へ進学する者が非常に多かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E6%B8%88%E3%80%85%E9%BB%8C%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
 (注40)1867~1935年。「薩摩藩士の床次正精・友子の長男として・・・生まれる。・・・第一高等中学校を経て、1883年に大学予備門、1887年に東京帝国大学法科大学政治科に入学した。・・・
 明治23年(1890年)に大学を卒業後、大蔵省に入省し、税務関係を担当したが(愛媛県で収税長だったが、後任が若槻禮次郎であった)仕事に馴染めず、明治27年(1894年)に内務官僚に転じ・・・中央で働きたいと転勤前の東京で初対面の原敬内務大臣に直訴したところ、見所があると認められて重職である地方局長に抜擢された<。>・・・
 以後、床次は内務大臣だった原敬に重用され、この頃原が進めた両院縦断に従事する。床次は主に研究会との折衝に当たり、立憲政友会と研究会双方との関係を深めていく。のちに床次の一派である政友本党が清浦内閣の与党となるのは、この時の縁が関係している。・・・
 明治44年(1911年)、第2次西園寺内閣が成立し、再び内務大臣となった原が床次を内務次官に起用した<。>・・・
 大正政変を経た大正2年(1913年)の第1次山本内閣の成立時には首相と同郷の薩摩出身者であることから薩派と政友会の連絡役として活躍した。その功績もあって山本内閣では鉄道院総裁に就任。これは内閣書記官長や法制局長官と同じく準大臣級の重職であった。・・・
 床次は代議士となることを念頭に大正2年(1913年)12月に政友会に入党した。・・・
 大正3年(1914年)、山本内閣の総辞職を受けて鉄道院総裁を辞任。・・・
 郷里の鹿児島県から衆議院議員補欠選挙(長谷場純孝の急死による補選)に立候補し初当選する。以後、殆どお国入りすることなく昭和7年(1932年)の総選挙まで連続8期の当選をした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%8A%E6%AC%A1%E7%AB%B9%E4%BA%8C%E9%83%8E

 1932年(昭和7年)12月22日、安達とその支持者は民政党から脱党して新政党「国民同盟」を結党した。この影響で同年の第18回衆議院議員総選挙では結党以来最大の惨敗を喫した上に、選挙中の同年2月に発生した血盟団事件で次期総裁の最有力候補だった前大蔵大臣の井上準之助が暗殺されてしまう。
 ところが、1932年・・・の五・一五事件で政友会の犬養毅首相が暗殺されると、政党政治は終焉して軍人首班の中間内閣の時代(斎藤内閣・岡田内閣)に入る。この中間内閣には民政党から2人ずつの閣僚(斎藤内閣…山本達雄(内務大臣)・永井柳太郎(拓務大臣)、岡田内閣…町田忠治(商工大臣)・松田源治(文部大臣))が入閣した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%B0%91%E6%94%BF%E5%85%9A

⇒「若槻内閣は倒れ犬養内閣が成立する。」というのは、正しくは、「元老・西園寺公望は<表見的には憲政の常道に則った形で>後継に犬養<毅(注41)>を推薦し」、犬養内閣が成立した、と書くべきだろう。

 (注41)1855~1932年。「備中松山藩板倉氏分家の庭瀬藩郷士<の子。>・・・慶應義塾中退<。>・・・大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、大同団結運動などで活躍する。また大隈のブレーンとして、東京専門学校の第1回議員にも選出されている。・・・
 1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を打ち立てる。
 のちに中国地方出身議員とともに中国進歩党を結成する(ただし、立憲改進党とは統一会派を組んでいた)が、進歩党・憲政本党の結成に参加、1898年(明治31年)の第1次大隈内閣では共和演説事件で辞任した尾崎の後を受けて文部大臣となった。
 1913年(大正2年)の第一次護憲運動の際は第3次桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相・桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は辛酸を舐めながら小政党を率いることとなった(立憲国民党はその後、革新倶楽部となる)。
 犬養は政治以外にも、神戸中華同文学校や横浜山手中華学校の名誉校長を務めるなどしていた。この頃、東亜同文会に所属した犬養は真の盟友である右翼の巨頭頭山満とともに世界的なアジア主義功労者となっており、ガンジー、ネルー、タゴール、孫文らと並び称される存在であった。
 1907年(明治40年)から頭山満とともに<支那>漫遊の途に就く。1911年(明治44年)に孫文らの辛亥革命援助のため中国に渡り、亡命中の孫文を荒尾にあった宮崎滔天の生家に匿う。・・・
 犬養は第2次山本内閣で逓信大臣を務めた後、第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣(護憲三派内閣)においても逓信相を務めた。しかし高齢で小政党を率いることに限界を感じた犬養は、革新倶楽部を立憲政友会に吸収させ、逓信大臣や議員も辞めて引退した。しかし辞職に伴う補選に岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させた。再選された犬養は渋々承諾したものの、八ヶ岳の麓富士見高原の隠居所とするべく建てた山荘に引きこもっていた。
 さらに1929年(昭和4年)9月に政友会総裁の田中義一が没した。後継をどの派閥から出しても党分裂の懸念があったことから、犬養を担ぎ出すことになった。
 1929年(昭和4年)10月、犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれた。・・・
 1931年(昭和6年)、濱口内閣が進めるロンドン海軍軍縮条約に反対して鳩山一郎とともに「統帥権の干犯である」と政府を攻撃した。・・・
 内閣誕生直後の総選挙で、政友会は議席を大きく伸ばした。国民の期待を受け、犬養は金輸出再禁止に踏み切り、財政改善を図った。しかし財閥が利益を得ただけの結果に終わった。満州問題でも、満州に傀儡政権設立を求める軍部に対し、犬養は中国の宗主権を認めた上で、経済的には日中合弁の政権設立を主張した。犬養は萱野長知を上海に送り、国民政府と交渉させた。しかし、萱野からの電報は内閣書記官長であった森恪が握り潰し、交渉は行き詰まった。犬養の構想は頓挫することとなった。
 犬養は、軍部主導の満州国の承認には消極的であったが、その一方で公債による膨大な軍事費を支出していた。この軍備拡張が、満州事変など関東軍の大陸作戦に貢献したことから、陸軍との関係はそれほど悪くなかった。・・・
 五・一五・・・事件の背景は、浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結したことにあった。その際に全権大使だったのが元総理の若槻禮次郎である。浜口内閣が崩壊すると、若槻が再び総理となり第2次若槻内閣が誕生した。そのため、本来なら若槻が暗殺対象であったが、その若槻は内閣をまとめきれず1年足らずで総理を辞任してしまい、青年将校の怒りの矛先は若槻ではなく政府そのものに向けられることになった。そもそも犬養は、軍縮条約に反対する軍部に同調して、統帥権干犯問題で浜口内閣を攻撃し、軍部に感謝されていた側の人間である。しかし、その政府の長に犬養が就任したため、政府襲撃事件を計画していた青年将校の標的になってしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E6%AF%85

⇒犬養は、日露戦争前から自称経済的軍備論者であり、日露戦争、第一次世界大戦を経た時点で、将来戦争は不可避だがそれまで時間があるので、軍縮をして、軍隊の近代化を図ると共に、日本の経済力を増大させることとし、国際紛争は出来る限り外交で解決するよう努めるべきである、という考え方だった。
 (1921年の「ワシントン軍縮会議の際、全権の加藤友三郎海相が随員の堀悌吉中佐に口述させたものの中に、・・・「国防は国力に相応する武力を整ふると同時に、国力を涵養し、一方外交手段に依り戦争を避くることが、目下の国防の本義なりと信ず」とあった」(工藤美知尋『海軍大将 井上成美』213頁)のは、犬養の経済的軍備論と全く同じであるところ、注目すべきは、「目下の」と加藤が限定的修飾句を付していることだ。当然、犬養も同じだったはずだ。)
 だから、山梨軍縮はもちろん、自分の選挙区のある岡山の師団が廃止されることに対しても、地元の陳情にもかかわらず、反対せず、師団が廃止された1925年に、一旦、隠退までする。
 ところが、その時の補欠選挙で地元の支持者達が犬養を「勝手に」当選させる。
 そして、「1929(「昭和4)年に・・・<政友会当主で首相の田中義一>が突然死去すると、党内事情から犬養が総裁に就任することになる。一方その時成立していた浜口雄幸民政党内閣は、折からワシントン軍縮会議に参加することになる。それで、ロンドン海軍軍縮に行く前の同年10月28日の午後に、最大野党である政友会総裁の犬養に海軍の軍縮を支持することを求めることになる。むろん、犬養は、長年主張してきた軍縮であるため、これに異論もなかったので賛成するが、その後、党内最大派閥の鈴木喜三郎派の影響によって、政府案に反対していく。これは、それまでの犬養の考えとは反対の行動をとることを意味し、ついには「統帥権干犯」発言までして政府案に反対することになるが、最後は浜口首相の強力なリーダーシップのもとに押し切られることになる。」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwj8qJzS3a37AhULgVYBHeRNAaoQFnoECBIQAQ&url=https%3A%2F%2Fkusa.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D254%26file_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0eYQ-7J0FO_VyLkXohviFJ
というわけだ。(太田)


 [統帥権干犯問題再考]

 鳩山一郎は、「1930年(昭和5年)、第58帝国議会のロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐる論議では軍縮問題を内閣が云々することは天皇の統帥権の干犯に当たるとして犬養毅総裁とともに濱口内閣を攻撃、濱口首相狙撃事件の遠因となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%B1%B1%E4%B8%80%E9%83%8E
ところ、彼は、「第2次若槻内閣末期には山本悌二郎、森恪らと共に陸軍首脳であった永田鉄山、今村均、東條英機らに倒閣を持ちかけるといった」こともしている(上掲)。
 この鳩山、「1908年(明治41年) 愛国団体玄洋社出身の衆議院議員秘書課長寺田栄の長女寺田薫と結婚」しており(上掲)、玄洋社のアジア主義の強い影響を受けていた、と私は見ている。
 さて、統帥権干犯問題の火つけ元は、枢密院の重鎮で、かつて、伊藤博文のポチから山縣有朋のポチへと乗り換えた、伊藤巳代治(1857~1934年)・・彼は、伊藤博文、井上穀、金子堅太郎と共に大日本帝国憲法の起草者の一人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95
で、憲法解釈(曲解?)はお手の物だった・・であって、「常に積極的な対外政策を主張し<、>憲政会・立憲民政党内閣の進めた協調外交(幣原外交)に批判的で、昭和2年(1927年)には枢密院で台湾銀行救済緊急勅令案を否決させ第1次若槻内閣を総辞職に追い込み、<引き続き、>昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮条約締結時にも反対して濱口内閣を苦しめた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E5%B7%B3%E4%BB%A3%E6%B2%BB
人物であり、彼が、政友会の重鎮で一高・東大法卒で弁護士でもある鳩山一郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%B1%B1%E4%B8%80%E9%83%8E 前掲
を「理論的に」説得し、今度は鳩山が、義兄であって田中義一が政友会総裁の時にその入党を仲介したとされるところの、当時やはり政友会の重鎮であった(やはり一高・東大法卒で司法官僚出身の)鈴木喜三郎を説得し、更に、鈴木喜三郎と一緒になって、政友会総裁の犬養毅を説得した(政友会がらみの事実関係については上掲及び↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%BF%E5%8F%8B%E4%BC%9A )のではなかろうか。
 但し、犬養の軍縮から軍拡への転換は、(上出の事情から)戦争が近いことを確信しなければありえなかったはずであり、かつて政友会総裁であった西園寺の指示を受けて、政友会の床次竹二郎が、その旨だけを犬養に伝えさせられ、最終的に犬養を決断させた、と見るに至っている。
 なお、西園寺は、戦争が近いので、挙国一致内閣を作る機運を、立憲政友会内で醸成するようこの床次に命じると共に、立憲民政党内では同じことを安達謙蔵に命じたけれど、うまくいかなかったため、改めて、安達に命じて、若槻民政党単独内閣をつぶさせ、(表見的には憲政の常道に従って、)犬養政友会単独内閣を成立させる運びとなった、ということではなかろうか。
 更に付言すれば、杉山元は、1923年からの軍事課長時代
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/sugiyama_h.html
に杉山構想の策定に着手し、1928年からの軍務局長時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
に、支那での提携勢力だけ未定の形で同構想を概成し、「1930(昭和5)年8月1日 – 1932(昭和7)年2月29日<の>・・・次官」時代(上掲)に同構想の実施に着手するところ、西園寺は、牧野伸顕を通じ、統帥権干犯問題であれ挙国一致内閣問題であれ、杉山元と調整の上で黒幕的役割を演じた、とも私は見ている。
 (挙国一致内閣の成立は、1931年の3月事件(未遂)、満州事変、10月事件、そして、1932年の五・一五事件、を、次々に杉山元が仕組んで、ようやく実現する運びとなったわけだ。

 ついでに、1936年の二・二六事件は、杉山元が、杉山構想に基づき、翌1937年に対中国国民党政府に対する戦争を開始する予定であったことから、対ソ抑止/対ソ戦のみを重視する陸軍内部の勢力・・いわゆる皇道派を中心とする勢力・・を一掃するために仕組んだものだ、というのが私は最新の説だ。)

  エ 結論

⇒とまあ、こういう経過を辿って、(1931年までに概成していた杉山構想が実行に着手されると、その翌年の)1932年、(杉山元と調整の上、)西園寺によって、挙国一致内閣が作られ、政党政治も憲政の常道も終焉を迎えさせられる運びとなった。(太田)

 (2)新聞

  ア 讀賣新聞

 「正力松太郎<(1885~1969年)は、>・・・<旧加賀藩(注42)の> 富山県射水郡枇杷首村(後の大門町、射水市)に土建請負業を営む父・正力庄次郎、母・きよの次男として生まれる。・・・

 (注42)「幕末の大政奉還時は将軍・徳川慶喜を支持したが、旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北した後、方針を改めて新政府の北陸鎮撫軍に帰順。海防に関心が深く独自の海軍を有し、維新後は海軍に多くの人材を輩出したと言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E8%97%A9

 雄神小学校から高岡中学(後の富山県立高岡高等学校)に進んだ正力は、「勉強よりは体を鍛えろ」という父親の教えに従って、寄宿舎には入らず、8キロメートルの道のりを地下足袋姿で通った。・・・
 東京帝国大学法科大学卒で内務省に入省。1923年(大正12)12月に虎ノ門事件が発生、当時警視庁警務部長であった正力は・・・懲戒免官となる。恩赦により懲戒処分を取り消されたものの、官界への復帰は志さなかった。・・・
 翌1924年2月、・・・番町会グループである郷誠之助、藤原銀次郎ら財界人の斡旋と、帝都復興院総裁だった後藤新平の資金援助により、・・・経営難で不振の<讀賣>新聞を買い受けて第7代社長に就任し、新聞界に転じる。意表をつく新企画の連発と積極経営により社勢を拡大。当初二流紙扱いであった<讀賣>は、1941年(昭和16年)に発行部数で朝日新聞・毎日新聞を抜いて東日本最大の新聞となる。・・・
 
 1940年(昭和15年)の開戦時は大政翼賛会総務であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E

⇒宣伝のために「大リーグ招聘・球団結成」をするといった経営を行い(上掲)、論調は正力の経歴から政府べったり(典拠省略)だったので、讀賣新聞は、当然、一貫して杉山構想的なもののちょうちん持ち新聞であり続けたと考えてよかろう。(太田)

  イ 東京日日新聞/大阪毎日新聞

 「1929年(昭和4年)には『國民新聞』主筆の徳富蘇峰<(注43)>が移籍<し来、>1936年(昭和11年)には『時事新報』<(前出)>を合同した。・・・

 (注43)「徳富蘇峰<(1863~1957年)は、>・・・熊本藩の・・・郷士<の子。>・・・
 山縣有朋や桂太郎との結びつきを深め、1901年(明治34年)6月に第1次桂内閣の成立とともに桂太郎を支援して、その艦隊増強案を支持し続け、1904年(明治37年)の日露戦争の開戦に際しては国論の統一と国際世論への働きかけに努めた。戦争が始まるや、蘇峰の支持した艦隊増強案が正しかったと評価され、『國民新聞』の購読者数は一時飛躍的に増大した。しかし、1905年(明治38年)の日露講和会議の報道では講和条約(ポーツマス条約)調印について、<「>図に乗ってナポレオンや今川義元や秀吉のようになってはいけない。引き際が大切なのである。<」>と述べて、唯一賛成の立場をとったことから、国民新聞社は御用新聞、売国奴とみなされ、9月5日の日比谷焼打事件に際しては約5,000人もの群衆によって襲撃を受けた。・・・
 1915年(大正4年)11月、第2次大隈内閣は異例の新聞人叙勲をおこなっている。蘇峰は、このとき黒岩涙香、村山龍平、本山彦一らとともに勲三等を受章した。なお、蘇峰の『國民新聞』は立憲政友会に対しては批判的な記事を掲載することが多く、それは第1次西園寺内閣時代の1906年(明治39年)にさかのぼるが、「平民宰相」となった原敬が最も警戒すべき新聞として敵視していたのが『國民新聞』であった。二個師団増設問題の解決をめぐって互いに接近したこともあったが、1918年(大正7年)の原内閣成立後も、原は『國民新聞』に対する警戒を解かなかった。」
 ジャーナリスト・評論家としての蘇峰は、大正デモクラシーの隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義」、両者を統合する「皇室中心主義」を唱え、また、国民皆兵主義の基盤として普通選挙制実現を肯定的にとらえている。・・・
 1929年(昭和4年)、蘇峰は自ら創立した国民新聞社を退社した。その後は、本山彦一の引きで大阪毎日新聞社・東京日日新聞社に社賓として迎えられ、『近世日本国民史』連載の場を両紙に移している。
 1931年(昭和6年)、『新成簀堂叢書』の刊行を開始した。同年に起こった満州事変以降、蘇峰はその日本ナショナリズムないし皇室中心主義的思想をもって軍部と結んで活躍、「白閥打破」[注釈 16]、「興亜の大義」、「挙国一致」を喧伝した。
 1935年(昭和10年)に『蘇峰自伝』、1939年(昭和14年)に『昭和国民読本』、1940年(昭和15年)には『満州建国読本』をそれぞれ刊行し、この間、1937年(昭和12年)6月に帝国芸術院会員となった。1940年(昭和15年)9月、日独伊三国軍事同盟締結の建白を近衛文麿首相に提出し、1941年(昭和16年)12月には東條英機首相に頼まれ、大東亜戦争開戦の詔勅を添削している。
 1942年(昭和17年)5月には日本文学報国会を設立してみずから会長に就任、同年12月には内閣情報局指導のもと大日本言論報国会が設立されて、やはり会長に選ばれた。前者は、数多くの文学者が網羅的、かつ半ば強制的に会員とされたものであったのに対し、後者は内閣情報局職員の立会いのもと、特に戦争に協力的な言論人が会員として選ばれた。ここでは、皇国史観で有名な東京帝国大学教授・平泉澄や、京都帝国大学の哲学科出身で京都学派の高山岩男、高坂正顕、西谷啓治、鈴木成高らの発言権が大きかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%AF%8C%E8%98%87%E5%B3%B0
 本山彦一(1853~1932年)は、「熊本藩士・本山四郎作の長男にして、元治元年(1864年)に家督を相続する。
 藩校・時習館で漢籍を修めたのち、明治4年(1871年)に上京して箕作秋坪に学び、明治9年(1876年)、慶應義塾に入学し、のち慶應義塾大学予科を卒業。・・・
 明治11年(1878年)兵庫県属となり、神戸師範学校長、牛場卓蔵の藤田組支配人となる。時事新報記者、岡山県児島付近の開墾に従事し明治生命、山陽鉄道、大阪製糖、南海鉄道等の取締役を歴任。・・・
 明治22年(1889年)から大阪毎日新聞の相談役となり、[温和な論調に転じ<させ、>]明治31年(1898年)に原敬が社長になると、両者分担して社務に当たる。明治36年(1903年)に社長となる。毎日新聞社の発展はこの本山時代に築かれたものと言われる。明治39年(1906年)には東京進出を図り、『毎日電報』を発刊、さらに明治44(1911年)、東京初の日刊紙『東京日日新聞』を譲り受けて毎日電報を合併、日本を代表する全国紙を築き上げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B8%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E6%AF%8E%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E ([]内)

 太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった1941年12月8日の朝刊では、「東亜攪乱・英米の敵性極まる」「断固駆逐の一途のみ」の見出しで、主要紙では唯一開戦をスクープした。戦争中は他紙と同様、戦争翼賛報道を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8E%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E と上掲

⇒時習館で横井小楠コンセンサス信奉者にかぶれ、慶應義塾で島津斉彬コンセンサス信奉者にかぶれた、と考えられる本山が、既に温和な論調に転換させていたところの、東京日日新聞/大阪毎日新聞の論調の維持強化と(共に東京日日新聞/大阪毎日新聞の論調の温和化に尽力していたところの、)盟友原敬・・1914年に西園寺公望の後継として立憲政友会総裁になる・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%BF%E5%8F%8B%E4%BC%9A
、の期待に沿ってその懐柔も目的として、れっきとした秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者たる徳富蘇峰、をを迎えたことで、東京日日新聞/大阪毎日新聞は、結果的に、杉山構想的なものの重要な推進勢力となったと言えよう。(太田)

  ウ 朝日新聞

 「1904年に二葉亭四迷,07年には夏目漱石が入社し,次々と作品を発表した。大正政変に際しては憲政擁護運動の一角を担い桂太郎内閣を攻撃,・・・いわゆる〈大正デモクラシー〉の最先頭に立つ言論活動を行っていた。とくにシベリア出兵,米騒動に関連して寺内正毅<(注44)>内閣を激しく攻撃していた。

 (注44)1852~1919年。「長州藩士・・・の三男として生まれる。・・・
 1864年に奇兵隊の中では武士が中心として組織された多治比隊に入隊する。功山寺挙兵後の再編成の際に御楯隊に転籍し、三田尻で西洋銃の操作や国学を学んだ。1867年に倒幕軍として従軍し、戊辰戦争、箱館戦争と転戦した。凱旋後、京都でフランス流の軍学を学び、兵部省第一教導隊に編入された。明治3年(1870年)に奇兵隊脱隊騒動の鎮圧に従軍し、戦後は御親兵に所属し上京した。
 フランス留学を希望した寺内は1872年に陸軍を休職し語学を学んだが、その機会は訪れなかった。1873年に士官養成所陸軍戸山学校に入学し、翌年に卒業する。卒業後は新設された陸軍士官学校にスタッフとして所属した。明治10年(1877年)に勃発した西南戦争では、当初後備部隊の大隊長に任じられたが前線を志願し、最大の激戦とされた田原坂の戦いで負傷して右手の自由をなくした。そのため、以降は実戦の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩んだ。
 1878年に士官学校生徒大隊司令官心得という職務を経た後、明治15年(1882年)閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学する。翌年には駐在武官に任ぜられ、1886年までフランスに滞在した。帰国後は、陸軍大臣官房副長(1886年)、陸軍士官学校長(1887年)、第1師団参謀長(1891年)、参謀本部第一局長(1892年)とキャリアを重ねた。 明治17年(1894年)の日清戦争では兵站の最高責任者である大本営運輸通信長官を務めた。その後、歩兵第3旅団長(1896年)、教育総監(1898年)を経て、明治33年(1900年)より参謀本部次長に就き、義和団の乱では現地に赴いた。
 第1次桂内閣(1901年6月2日 – 1905年12月21日)が成立すると陸軍大臣となり、日露戦争の勝利に貢献した。第1次西園寺内閣や第2次桂内閣(1908年7月14日 – 1911年8月25日)でも再び陸相を務めた。 明治39年(1906年)には南満洲鉄道設立委員長・陸軍大将に栄進した。・・・
 明治42年(1909年)10月26日のハルビンにおける伊藤博文暗殺後、第2代韓国統監・曾禰荒助が辞職すると明治43年(1910年)5月30日、陸相のまま第3代韓国統監を兼任し、同年8月22日の日韓併合と共に10月1日、朝鮮総督府が設置されると、引き続き陸相兼任のまま初代朝鮮総督に就任した。なお、陸相兼任は第2次西園寺内閣の成立で石本新六が陸相に就任するまで続いた。・・・
 大正5年(1916年)6月24日、元帥府に列せられる。10月16日に総督を辞任し、10月19日には内閣総理大臣に就任。・・・
 時は第一次世界大戦の最中であり、寺内は大正7年(1918年)8月2日にシベリア出兵を宣言したが、米騒動の責任をとって9月21日に総辞職した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E6%AD%A3%E6%AF%85

⇒寺内は、山縣有朋との戊辰戦争以来の縁と仏留の際の閑院宮載仁親王(コラム#省略)との縁で秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者になったと思われ、その後、山縣の引きで陸相、首相になったと見てよかろう。(太田)

 このため弾圧の機会をねらっていた寺内内閣は,<19>18年8月25日に開かれた〈関西新聞社通信社大会〉の・・・8月26日付け夕刊の・・・記事のなかの〈白虹日を貫けり〉という一句をとらえ,この一句が兵乱が起こる兆候を示す故事成句であることを理由に,新聞紙法・・・第41条・・・の〈朝憲紊乱〉に当たるとし,同紙を・・・告訴<し、>・・・発行禁止にもち込もうとした。・・・
 右翼団体が新聞社社長に暴行を加える事件も起こり、・・・村山竜平社長は退陣,次いで鳥居素川,長谷川如是閑をはじめ,大山郁夫,丸山幹治,花田大五郎らも社を去った。同紙がこの事件で「不偏不党公平穏健」に反する傾向があったと自己批判した<。(白虹事件)>」
https://kotobank.jp/word/%E7%99%BD%E8%99%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6-115008#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8

⇒そして、山縣と陸相時代に上司になったことがある西園寺の意向も受けて、寺内は、朝日新聞の論調の穏健化を強圧的に図り、それに成功した、というわけだ。
 その後、1925年からは、朝日新聞は、玄洋社「出身」の緒方竹虎(後出)の論調で染め上げられることになる。
 そして、「満州事変以後、政府中枢の「不拡大方針」があったにもかかわらず、なぜ新聞は軍部の拡大方針を支持するようになったのか。「毎日新聞」記者という立場から戦前の新聞の歴史を研究した前坂俊之が朝日新聞社の内部事情を説明している・・・。<『>事変前までは厳しい軍部批判を展開していた「大阪朝日」も事変勃発とともに「木に竹をついだ」ような転換が行われた。当初、大阪朝日編集局は整理部を中心に事変反対の空気がみなぎっていたが、事変約1カ月後に開かれた重役会は「日本国民として軍部を支持し国論統一することは当然」として軍部や軍事行動に対しては絶対に非難、批判を下さないよう決定したのである。これに対して、整理部の反対が依然として続き、会社側は大異動して事変反対の空気を一掃した<。』>」(伊藤陽一「意見風土,「空気」,民主主義」5頁) 
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjFuqW7mrD7AhXOslYBHRM_DIwQFnoECAwQAQ&url=https%3A%2F%2Fwww.mediacom.keio.ac.jp%2Fpublication%2Fpdf2006%2Fkiyou56%2Fkojin%2Fito-yoichi.pdf&usg=AOvVaw1WC9KnDdTUAU9XWANu4JpY 
ということが示すように、杉山構想が実施に着手された時点で、「1922年(大正11年)7月に・・・朝日新聞社幹部に温かく迎えられ、大阪朝日新聞社東京通信部長に就任。以降、1923年(大正12年)4月に東京朝日新聞社整理部長、10月に政治部長、1924年(大正13年)12月に支那部長兼務となり、1925年(大正14年)2月、37歳で東京朝日新聞社編集局長兼政治部長兼支那部長と出世街道を走り、1928年(昭和3年)5月に取締役、村山龍平没後の主筆制採用で1934年(昭和9年)4月に東京朝日新聞社主筆、5月に常務取締役。そして1936年(昭和11年)の二・二六事件までは副社長の下村宏が東京朝日新聞社の責任者だったが、下村が広田内閣組閣に際して退社したため(拓務大臣として入閣しようとしたが、陸軍が拒否)、同年4月、緒方が後任の代表者となった」ところの緒方竹虎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E7%AB%B9%E8%99%8E
が、取締役時代に、取締役会で、朝日を陸軍・・その実は陸軍を牛耳る杉山構想推進者達・・の宣伝媒体化させる方針を積極的に打ち出させたわけだ。(太田)

  エ その他

 「1932年(昭和7年)8月<以降>・・・、・・・<前陸軍次官の杉山元師団長の下、>第12師団<・・司令部の所在地は当初は小倉、1925年から久留米・・ 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC12%E5%B8%AB%E5%9B%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D) >
は五・一五事件による軍のファッショを批判する福岡日日新聞に対して嫌がらせを繰り返し、・・・脅迫状を新聞社へ送っ<たりもして>いる。」(コラム#12956)といった具合に、全国紙以外でも、杉山元が直接圧力を加えて論調の親陸軍化を図ったケースがある。
   
 (3)アジア主義団体

  ア 東亜同文会

 「東亜同文会は支那保全を掲げていたが、義和団の乱で井上雅二<(注45)>らによる連邦保全策が失敗してから新たに浮上した満州問題を廻って、対露強硬の姿勢を取る近衛篤麿と平和論を主張した陸羯南<(注46)>が対立する。

 (注45)1877~1947年。「兵庫県<に>・・・生まれ、・・・海軍兵学校に入るが、大陸に志を抱いて退学した。その後、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学。在学中からアジア主義団体の東亜会に関係し、1898年(明治31年)に東亜会と同文会が合同し、東亜同文会が成立すると、幹事に就任した。1899年(明治32年)に東京専門学校を卒業。1900年、清国・・・で義和団の乱が勃発すると、立憲派(勤王派 / 康有為派)の唐才常による「自立軍」蜂起計画を援助し、東亜同文会による「連邦保全」策に関与した。・・・
 「連邦保全」策とは、義和団事件で北京の清国朝廷が存亡の危機に陥った際、華南地域に李鴻章を中心に孫文ら革命派など改革・反清勢力も糾合して新政権を樹立し、北京朝廷と併せて連邦国家として中国の保全を図ろうとする構想であったが、あくまで清朝を維持しようとする李の北京入りにより挫折した。・・・
 またウィーン大学で経済学と植民政策学を学んだ。
 日露戦争開始とともに東亜同文会特派員・逓信省嘱託として韓国に渡り、1905年(明治38年)に目賀田種太郎財政顧問のもと財務官に就任した。1907年(明治40年)、宮内府書記官に転じ、1909年(明治42年)に退官した。
 その後1910年代には著作によって経済的な南進論を唱道し、実業としても東南アジア開拓を志して南亜公司を創設し、さらに南洋協会が設立されると理事(のち専務理事)となった。さらに1924年(大正13年)に海外興業株式会社に参加し、1926年(大正15年)には秘露綿花株式会社社長に就任するなど南米の開拓事業にも進出した。また1924年の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。そのほかメキシコ産業社長、東洋拓殖常務顧問、人口問題研究会常務理事、アフガニスタン協会会長、日伯中央協会常務理事などを歴任した。
 第二次世界大戦末期の鈴木貫太郎内閣成立に際しては顧問を務めた。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%9B%85%E4%BA%8C
 (注46)くがかつなん(1857~1907年)。「弘前藩の御茶坊主頭・・・の子として・・・弘前・・・に生まれた。・・・
 司法省法学校に合格し<たが、>・・・、明治12年(1879年)に賄征伐(調理場荒らし)のいたずらの譴責がこじれ、羯南は犯人でなかったが、義憤から原敬・福本日南・加藤恒忠・国分青崖らと退校した。・・・
 <明治22年(1889年)、>日本新聞を創刊し、主筆兼社長となった。時に羯南33歳であった。
 創刊の辞は次のような趣旨だった。
 <「>本紙は政党新聞や営利新聞ではない独立新聞である。今日本は国を挙げ、まるで植民地になるような西欧化に急いでいる。本紙も西欧文明の善美を知り、尊敬している。しかし、西欧文明は、独立日本の利益・幸福のために活用すべきだ。…<」>
 そして早速、『日本人』誌と共に、大隈重信の条約改正案の『まやかし』を非難して、評判を呼んだ。・・・
 明治28年(1895年)、三国干渉に対し受け入れ論の東京日々新聞と論戦した。明治29年(1896年)、各社新聞同盟を結成し、新聞紙条例撤廃の運動を主導し、翌年、条例を緩和させた。この年、樽井藤吉・中村太八郎らが創設した社会問題研究会の評議員に、明治31年(1898年)、創立された東亜同文会の幹事長になった。明治33年(1900年)、近衛篤麿・富田鉄之助らと、日露開戦やむなしと議し、また、国民同盟会に相談役として参画した。翌年、近衛に従い清国・韓国を視察した。近衛から日本新聞への資金援助を得た。
 明治35年(1902年)、『日本人』誌の三宅雪嶺の外遊中、その社説執筆を分担した。以前から『日本新聞』と『日本人』誌とは一心同体的に親密だった。
 明治36年(1903年)から翌年にかけ、米欧に旅行し、帰国後静養中に肺結核を発症し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E7%BE%AF%E5%8D%97

 東亜同文会の思想は近衛が康に述べたような「アジア・モンロー主義」<(注47)>に近い新秩序を志向するものとなった。

 (注47)「アジア・モンロー主義とは、アジア主義の一種。モンロー主義のように、アジアにおける排他的な覇権(自給自足圏)を確立することによって、大日本帝国の自立を図ろうとするものを指す。東亜新秩序・大東亜共栄圏の基礎となった。東洋モンロー主義、東亜モンロー主義、極東モンロー主義、日本モンロー主義とも呼ばれる。
 1898年11月、近衛篤麿が「亜細亜のモンロー主義」を打ち出したことが始まりとされる。第一次世界大戦後のパリ講和会議で人種平等法案が否決され、さらに1924年(大正13年)に排日移民法案が<米>議会を通過すると、日本国内には「アジア同盟で米英に対処すべし」との考えが生まれ高まった。1924年11月28日には、孫文が神戸で「大亜細亜主義」の講義を行い、新しい展開が生まれ、<英国>のインドへの圧政とインド人への同情とその後の国際的孤立、欧米列強のブロック経済による経済的圧迫が日本に大アジア主義的思想を育て、それが明治以来のアジア主義や南進論とも重なり、「アジア・モンロー主義」が誕生した。
 満洲事変以降、ワシントン体制に対抗する論理として本格的な展開を見せる。1934年4月、外務省情報部長であった天羽英二の非公式談話(天羽声明)<(前出)>は、欧米から「アジア・モンロー主義宣言」とみなされ、非難された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9

 会員の犬養毅が政府に活動資金を出すように働きかけ、外務省機密費で年に4万円が支給された。これにより、外務省の意向が会の役員人事にも影を落としていた半官半民の国策団体であった。日本政府は最初、康有為・梁啓超一派の亡命に対して協力的だったが、山縣内閣が清国の要求により康・梁追放を求めたのに対して近衛篤麿がこれを受け入れ、康有為を自発的に離日させることとなった。この近衛の行為には陸を始めとして会の中からも大きな批判があり、陸のほか数名の脱会者が出た。このようであったから、東亜同文会は孫文の革命派に対する支援にも消極的になり、広東支部の廃止なども相次いだ。その後、1936年から篤麿の息子で日中戦争時の内閣総理大臣も務める近衛文麿が第5代会長となる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%90%8C%E6%96%87%E4%BC%9A

⇒私見では、山縣有朋、西園寺公望、(存命中の)近衛篤麿、は、三位一体的に動いていて、1912年に清が崩壊すると、日本がいかなる支那の勢力と提携するか、いかなる支那の勢力を排除するか、模索を続けたところ、その過程で、東亜同文会のメンバーで離反する者もいた、ということだろう。(太田)

  イ 玄洋社

 「1881年(明治14年)、平岡浩太郎<(前出)>を社長として旧福岡藩士らが中心となり、・・・創立<。>
 昭和に入ると、玄洋社と関係の深かった中野正剛<(注48)>らは、大日本帝国憲法を朝鮮・台湾にも施行して、内地と朝鮮の法律上の平等の徹底(参政権は属地主義であったため、日本内地在住の朝鮮人、台湾人にのみ選挙権、被選挙権があった)をはかるべきと主張した。

 (注48)せいごう(1886~1943年)。「旧福岡藩士・・・の長男。・・・修猷館を卒業後は早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と一緒に上京している。 修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿をしていた時期もあった。
 学費や生活費を稼ぐために、三宅雪嶺の『日本及日本人』に寄稿。そして、このことが縁となって、玄洋社を主宰する頭山満と知り合う。
 1909年(明治42年)早大を卒業し、同級生だった風見章とともに、東京日日新聞(現・毎日新聞)を発行していた日報社に入社。次いで東京朝日新聞(東朝、現・朝日新聞)に移り、「戎蛮馬」のペンネームで「朝野の政治家」「明治民権史論」などの政治評論を連載し、政治ジャーナリストとして高い評価を得た。・・・
 1916年(大正5年)に東京朝日新聞を退職し、東方時論社に移って社長兼主筆に就任。 東方時論社に移った翌年の1917年(大正6年)、衆議院議員総選挙に立候補するも、落選・・・。
 しかし、日本外交を批判的に論考した『講和会議を目撃して』がベストセラーとなり、勢いをつけ、1920年(大正9年)の総選挙で当選する。以後、8回当選。当初は無所属倶楽部を結成するが、1922年(大正11年)に革新倶楽部結成に動く。その後も憲政会・立憲民政党と政党を渡り歩いた。・・・
 民政党時代は、党遊説部長として、永井柳太郎と臨時軍事費問題や張作霖爆殺事件を田中義一内閣に迫り、反軍派政党人として名を馳せた。また、政府では、内務大臣だった濱口雄幸の推薦で、三木武吉の後任の大蔵参与官や逓信政務次官などを歴任した。
 挙国一致内閣を提唱していた親軍派の安達謙蔵と民政党を脱党、国民同盟を結成。さらに1936年(昭和11年)には、東則正と東方会を結成し自ら総裁となった。
 1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)にかけて、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラーと会見、国際政治の動向について話し合う。・・・
 1939年(昭和14年)には、議会政治否定・政党解消を主張し、衆議院議員をいったん辞職する(翼賛選挙で衆議院議員に当選復帰)。南進論・日独伊三国同盟を支持し、撃栄東亜民族会議を主催した。
 1940年(昭和15年)、大政翼賛会総務に就任。・・・
 内閣総理大臣東條英機が独裁色を強めるとこれに激しく反発するようになる。1942年(昭和17年)に大政翼賛会を権力強化に反対するために脱会している。同年の翼賛選挙に際しても、自ら非推薦候補を選び、東条首相に反抗した。東方会は候補者46人中、当選者は中野のほか、本領信治郎(早大教授)、三田村武夫たち7人だけであった。それでも翼賛政治会に入ることを頑強に拒み、最終的には星野直樹の説得でようやく政治会に入ることを了承した。・・・
 議会での反東條の運動に限界を感じた中野は近衛文麿や岡田啓介たち「重臣グループ」と連携をとり、松前重義や三田村武夫らと共に東條内閣の打倒に動きはじめた(松前はこのため報復の懲罰召集を受けてしまう)。こうして中野を中心にして、重臣会議の場に東條を呼び出し、戦局不利を理由に東條を退陣させて宇垣一成を後任首相に立てようとする計画が進行し宇垣の了解も取り付け、東條を重臣会議に呼び出すところまで計画が進行したが、この重臣会議は一部の重臣が腰砕けになってしまい失敗に終わる。
 そののち、中野は東久邇宮稔彦王を首班とする内閣の誕生を画策する戦術に切替えたが、東條の側の打つ手は中野の予想以上に早く、まず1943年(昭和18年)9月6日、三田村武夫が警視庁特高部に身柄拘束される(中野正剛事件)。警視庁は10月21日に東方同志会(東方会が改称)他3団体の幹部百数十名を身柄拘束する中で中野も拘束された。東條は大いに溜飲を下げたが、この中野の身柄拘束は強引すぎるものとして世評の反発を買うことになった。結局、中野は10月25日に釈放される。その後、東條の直接指令を受けた憲兵隊によって自宅監視状態におかれ、・・・同年10月27日自宅1階の書斎で割腹自決<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E6%AD%A3%E5%89%9B

 一方、頭山満と親交のあった葦津耕次郎<(注49)>らは、国家として独立できるだけの朝鮮のインフラ整備は既に完了したとして朝鮮独立を主張した。

 (注49)あしづ(1878~1940年)。「神道家。筥崎宮に奉職し神明奉仕に励み、後には鉱山業や社寺建築業を営む実業家として活躍する一方、朝鮮神宮御祭神論争など神道・神社の見地から時の政治・社会問題に発言する言論人としても活躍。民間の神道人として活動しつつ、玄洋社の頭山満と親交を結ぶなど独自の活動をした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E6%B4%A5%E7%8F%8D%E5%BD%A6

 葦津は、満州帝国に対する関東軍の政治指導を終了すべきことも主張している。・・・
 著名な出身者<として、中野正剛(注50)のほか、>・・・緒方竹虎<(注51)(前出)>・・・内田良平<(注52)>・・・広田弘毅<(前出)がいる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E6%B4%8B%E7%A4%BE

 (注50)「中野正剛<(1886~1943年)は、>・・・修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿をしていた時期もあった。・・・
 1920年(大正9年)の総選挙で当選する。以後、8回当選。当初は無所属倶楽部を結成するが、1922年(大正11年)に革新倶楽部結成に動く。その後も憲政会・立憲民政党と政党を渡り歩いた。・・・ 挙国一致内閣を提唱していた親軍派の安達謙蔵と民政党を脱党、国民同盟を結成。さらに1936年(昭和11年)には、東則正と東方会を結成し自ら総裁となった。
 1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)にかけて、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラーと会見、国際政治の動向について話し合う。・・・当時の中野<は>、国民に圧倒的な支持を受ける両者を偉大な政治家だと認識していたが独ソ開戦後は評価を変えている。・・・
 ヒトラーを評価していた中野だが、フランスのジョルジュ・クレマンソーやイギリスのウィンストン・チャーチルも高く評価していた。・・・
 1939年(昭和14年)には、議会政治否定・政党解消を主張し、衆議院議員をいったん辞職する(翼賛選挙で衆議院議員に当選復帰)。南進論・日独伊三国同盟を支持し、撃栄東亜民族会議を主催した。
 1940年(昭和15年)、大政翼賛会総務に就任。1941年(昭和16年)に太平洋戦争開戦時、東方会本部で万歳三唱する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E6%AD%A3%E5%89%9B
 (注51)「緒方竹虎<(1888~1956年)は、>・・・福岡師範学校附属小学校から福岡県立中学修猷館に進学。緒方は小学校から中学校を通じて、無欠席・無遅刻・無早退を通した。修猷館の1年上級に中野正剛、同期に安川第五郎、斎村五郎がいる。12歳で一到館に入門して剣道を習い始め、修猷館時代に小野派一刀流免許皆伝となり、既に剣道の達人の域に達した。・・・
 1906年(明治38年)修猷館卒業後、<支那>貿易を志して東京高等商業学校に進学するが、同学校の専攻部廃止の文部省令に反対し学生総退学決議を行った申酉事件のリーダ-として責任をとり武井大助らとともに退学。のちに算盤と簿記が不得手で、退学したと述懐している。中野正剛に誘われ、申酉事件を支持して東京高商退学生受け入れを表明していた早稲田大学専門部の政治経済科に編入し、政治結社玄洋社の最高実力者・頭山満、さらに頭山を介して三浦梧楼、犬養毅、古島一雄らの門に出入りした。
 1911年(明治44年)7月に早稲田大学専門部を卒業後、やはり中野正剛に誘われ、同年11月大阪朝日新聞社に入社して弓削田精一率いる大阪通信部員(東京勤務)となる。・・・
 白虹事件<(上出)後、>・・・30歳で大阪朝日新聞社論説班の幹事に抜擢されて論説班を切り盛りした。この時期、緒方は上海特派員から大阪朝日新聞社社会部員に呼ばれた美土路昌一と同宿し、友情を温めた。しかし翌1919年(大正8年)7月に村山が朝日新聞社を株式会社化して社長に復帰する際、実質的な大阪朝日新聞社編集局長だった西村天囚が村山の怒りを買って退社し、同年末から翌1920年(大正9年)年明けにかけて上野理一、本多精一が相次いで没すると、上野派と見られて村山によく思われていない緒方は社に居辛くなり、退社を決意して、「筑豊御三家」の1人の玄洋社員・安川敬一郎(安川第五郎の父)の出資でイギリスへ私費留学に出た。
 しかし緒方が<米国>経由でロンドンへ行く途中、ニューヨーク特派員として赴任していた美土路昌一が緒方から退社の意思を聞かされ、美土路は1921年(大正10年)7月に東京朝日新聞社通信部長として帰国した後、朝日首脳陣に緒方慰留を働きかけ、ワシントン会議取材の記者団に参加させた。
 1922年(大正11年)7月に帰国すると朝日新聞社幹部に温かく迎えられ、大阪朝日新聞社東京通信部長に就任。以降、1923年(大正12年)4月に東京朝日新聞社整理部長、10月に政治部長、1924年(大正13年)12月に支那部長兼務となり、1925年(大正14年)2月、37歳で東京朝日新聞社編集局長兼政治部長兼支那部長と出世街道を走り、1928年(昭和3年)5月に取締役、村山龍平没後の主筆制採用で1934年(昭和9年)4月に東京朝日新聞社主筆、5月に常務取締役。そして1936年(昭和11年)の二・二六事件までは副社長の下村宏が東京朝日新聞社の責任者だったが、下村が広田内閣組閣に際して退社したため(拓務大臣として入閣しようとしたが、陸軍が拒否)、同年4月、緒方が後任の代表者となった。
 さらに二・二六事件後に緒方の構想による筆政一元化で同年5月に朝日新聞社主筆、代表取締役専務取締役となった(専務取締役は1940年8月に辞任)。1940年(昭和15年)8月には編集総長を置いて美土路昌一をこれに当てて東京本社、大阪本社、中部本社(現名古屋本社)、西部本社の4社編集局を統括させ、編集会議を設置して自ら議長となり、討議の上、社論を決め、全責任を主筆が負うことにした。緒方は外部に対して朝日を代表する者と見られ、一切の責任を負う立場になった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E7%AB%B9%E8%99%8E
 (注52)「内田良平(1874~1937年)<は、>・・・旧福岡藩士・・・の三男<。>
 明治25年(1892年)18歳のとき、頭山満の玄洋社の三傑といわれた叔父(父・良五郎の実弟)の平岡浩太郎に従い上京して講道館に入門し柔道を学ぶ。翌明治26年(1893年)東邦協会露西亜語学校に入学しロシア語を学び、明治30年(1897年)シベリア横断旅行を試みる。平岡浩太郎の影響を受けて、日本の朝鮮、<支那>への勢力拡大に強い関心をもった。明治31年(1898年)宮崎滔天を通じて孫文と知り合い、親交を結ぶ。明治33年(1900年)中国・広州に赴き、孫文・李鴻章提携を斡旋する一方、革命義勇軍を組織して孫文の革命運動を援助した。明治34年(1901年)黒龍会を結成し、ロシア事情を紹介。さらに明治36年(1903年)には対露同志会を結成し、日露開戦を強く主張した。明治38年(1905年)宮崎・末永節らとともに孫文・黄興の提携による中国革命同盟会の成立に関係する。また、フィリピン独立運動指導者のエミリオ・アギナルド、インド独立運動指導者のラス・ビハリ・ボースの活動も支援した。
 明治39年(1906年)に韓国統監府嘱託となり、初代朝鮮統監の伊藤博文に随行して渡韓した。明治40年(1907年)には、「一進会」会長の李容九と日韓の合邦運動を盟約し、その顧問となった。このとき双方で日韓合邦構想が確認された。 当時一進会は朝鮮半島への侵略行為を繰り返すロシアの南下に危機感を持ち、明治42年(1909年)12月、内田などが李容九とともに「一進会会長李容九および百万会員」の名で「韓日合邦建議書(韓日合邦を要求する声明書)」を、韓国皇帝純宗、曾禰荒助韓国統監、首相李完用に提出した。李容九はこの声明書の中で、「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」と、韓日合邦の目的をアジアの平和維持と韓国の発展としている。のちに内田と李容九の合邦論は、合邦反対派から日本政府の日韓併合をカムフラージュしたとされ、李容九は「売国奴」と呼ばれた。内田は日韓併合後の政府の対韓政策には批判的で、後に「同光会」を結成して韓国内政の独立を主張している。
 明治44年(1911年)の中華民国成立後は満蒙独立を唱え、川島浪速らと華北地域での工作活動を政府に進言する。さらに大正7年(1918年)のシベリア出兵には積極的に賛成するなど右派色を強めていくが、一方で大正10年(1921年)のロシア飢饉の際には救済運動も行っている。その後は、大正11年(1922年)のワシントン会議における海軍軍縮案への反対、大正12年(1923年)の<米国>政府による「排日移民法」への反対、といった国民運動の中心的存在となり、その社会的影響力を徐々に拡大していく。大正デモクラシーには否定的で、吉野作造と立会演説会を行った他、大正14年(1925年)の加藤高明首相暗殺未遂事件では容疑者として投獄された(翌年無罪)。また、この頃から大本教への接近を強め、同教が関係した紅卍字会日本総会の会長となる。
 昭和6年(1931年)に大日本生産党を結成し、その総裁となる。昭和7年(1932年)の血盟団事件・昭和8年(1933年)の神兵隊事件などの黒幕と呼ばれ、関東軍支持の立場から「日満蒙連邦建設」「日支共存」「皇謨翼賛運動」などを構想した。昭和9年(1934年)大本教系昭和神聖会副統管。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E8%89%AF%E5%B9%B3_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%AE%B6)

⇒客観的かつ俯瞰的に申し上げれば、東亜同文会は秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者達による半官半民の、玄洋社は旧福岡藩出身の人々を中心としたアジア主義者達による民間の、それぞれ団体であり、両者は車の両輪となって、前者は意識的に、後者は無意識的に、但し、部分的には前者の指導を受けつつ、杉山構想的なものの実施を、新聞界とも提携しつつ、世論を喚起する形で担った、と言ってよかろう。(太田)

(続く)

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太田述正コラム#13184(2022.12.17)
<2022.12.17オフ会次第>

→非公開