太田述正コラム#13016(2022.9.24)
<『海軍大将米内光政覚書–太平洋戦争終結の真相』を読む(その9)>(2022.12.18公開)
「・・・最高戦争指導会議(20・6・22)・・・○鈴木首相 ○米内海相 ○阿南陸相 ○梅津参謀総長 ○豊田軍令部総長 〔<実松>注〕東郷外相の位置が不明、あるいは脱落?・・・
総理は、・・・「海軍大臣はどう思うか」といった。
<私>は、「外務大臣よりまず申し上げるのが順序であると考えますが、便宜上、海軍大臣<たる私>よりお答えいたします」と前置きし、・・・<ソ連への和平斡旋依頼案<(注12)>を説明した。>
(注12)「1945年4月7日に成立した鈴木貫太郎内閣の東郷茂徳外相は、日ソ中立条約が翌年4月には期限が切れても、それまでは有効なはずであったことから、ソ・・・連・・・を仲介役として和平交渉を行おうとした。東郷個人はスターリンが日本を「侵略国」と呼んでいること(1944年革命記念日演説)から、連合国との和平交渉の機会を既に逸したと見ていたものの、陸軍が日ソ中立条約の終了時、もしくはそれ以前のソ連軍の満州への侵攻を回避するための外交交渉を望んでいたため、ソ連が日本と連合国との和平を仲介すると言えば、軍部もこれを拒めないであろうという事情、また逆にソ連との交渉が破綻すれば、日本が外交的に孤立していることが明らかとなり、大本営も実質上の降伏となる条件を受け入れざるをえないであろうという打算があったとされている。かつて東郷自身、駐ソ大使として、モスクワでノモンハン事件を処理し、ソ連との和平を実現させたという成功体験も背景にあったとされる。
翌5月、最高戦争指導会議構成員会合(首相・陸相・海相・外相・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長の6人)において、東郷外相は、ソ連の参戦防止及びソ連の中立をソ連に確約させるための外交交渉を行なうという合意を得た。当初、これには戦争終結も目的として含まれていたが、阿南惟幾陸相が「本土を失っていない日本はまだ負けていない」と反対したため、上記2項目のみを目的とすることとなった。東郷は、かつての上司であった元首相の広田弘毅をヤコフ・マリクソ連大使とソ連大使館(強羅ホテルに疎開中)などで会談させたが、戦争終結のための具体的条件や「戦争終結のための依頼」であることを明言しなかったため、何ら成果はなかった。
その上、6月6日、最高戦争指導会議構成員会合で「国体護持と皇土保衛」のために戦争を完遂するという「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が採択され、それが御前会議で正式決定されたため、日本側からの早期の戦争終結は少なくとも表面上は全く不可能となった。にもかかわらず、矛盾する事に、木戸幸一内大臣と東郷外相及び米内光政海相は、第二次世界大戦の際限ない長期化を憂慮して、ソ連による和平の斡旋へと動き出した。木戸からソ連の斡旋による早期戦争終結の提案を受けた昭和天皇はこれに同意し、6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋を速やかに行うよう政府首脳に要請した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%99%8D%E4%BC%8F
<その上で、>外務大臣より補足し、詳しく申し上げると存じます<、と述べて答弁を終えた>。」(84~86、88)
⇒「注12」から、ソ連への和平斡旋依頼案は、一旦葬り去られていたものを、米内が諦めかけていた東郷を引っ張り込み、2人で木戸を強姦し、昭和天皇の首に鈴を付けさせたうえで、最高指導会議を開催して採択させた、と、私は見ています。
開戦回避交渉、開戦、が外交大権に属し、従って外務省マターであるのと同様、和平交渉、終戦、もまた外交大権に属し、従って外務省マターである、という認識が確立していたからこそ、6月22日の最高戦争指導会議で米内がディスクレイマーを付けた上で、同案を説明したのでしょうし、また、同案の主たる説明者を米内が務めたこと、しかも、米内が覚書の出席者リスト中で東郷を書き忘れたこと、が、同案の首謀者が米内であったことを物語っていると思います。
ところで、「阿南陸相<が>・・・<1945年8月14日、>割腹自殺を遂げ<る>直前に「米内を斬れ」と・・・義弟の・・・竹下中佐に言った<ことについてですが、>・・・昭和20年11月17日、米内・・・は連合軍の質問に答えて、陸海軍の意見の対立は、昭和20年6月6日と22日の最高戦争指導会議で持ち上がった<けれど>、それが決定的に割れてしまったのは8月上旬のことである、と証言している<ところ、>・・・<これは、>8月9日の論戦で終戦条件として四条件を主張する海相案(国体護持・武装解除・軍事補償占領・戦犯裁判の制限)と、一条件に絞るべしとする東郷外相案とが対立して決しかねた時・・・、海相がいつのまにか外相案についたため、阿南陸相を苦境に陥れた<ことと、>・・・8月14日<の>・・・バーンズ回答に対する議論<の時、>陸相は国体護持の確証だけは万難を拝してもとりつけたい一心<で、>・・・国体護持の再照会を主張した・・・が、これも海相の裏切りにより、国体護持確信の望みを絶たれた<こと、とを指している。>」
https://plaza.rakuten.co.jp/oceandou/diary/200607280000/
ことから、阿南の米内への怒りは、8月9日と14日の米内との論戦に由来するものであると受け止めるのが一見もっともらしいけれど、8月9日に関しては米内の言い分が通り、8月14日に関しては、阿南自身が「14日の御前会議の直後に井田正孝中佐ら陸軍のクーデター首謀者と会い、御前会議での昭和天皇の言葉を伝え「国体護持の問題については、本日も陛下は確証ありと仰せられ、また元帥会議でも朕は確証を有すと述べられている」と述べていて、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%99%8D%E4%BC%8F
要は天皇の言に従ったわけであり、これらが阿南の米内への復讐「指示」の原因とするのは、前者は理由が薄弱ですし、後者は天皇への反逆行為になるので採りえません。
私は、6月6日と22日の間の米内の策動にによって、(ソ連の対日参戦必至と陸軍は考えていた以上、)何の意味もないだけでなく、日本の国際的な恥晒しになることが必至であると米内が考えていたところの、ソ連への和平斡旋依頼案が採択されたことこそが原因だ、と見ています。(太田)
(続く)