太田述正コラム#1723(2007.4.7)
<イランによる英国兵士拉致事件>(2007.5.12公開)
1 始めに
 イラクとイランの国境線が走っているシャトルアラブ河で、3月23日、モーターボートに乗って(幼児の母親たる女性兵士1人を含む)15人の英海軍および英海兵隊の兵士達が検問作業をしていた時、イランの舟艇2隻に乗ったイラン兵が取り囲み、兵士達を拉致した事件は、13日目に全員が解放されて決着しました。
 ようやく、この事件(Iran Hostage Crisis)の全容がほぼ明らかになったので、ご紹介しておきます。
2 事件の全容
 事件が発生してから数日経った頃、米国防省から英国防省に、米軍がとれる軍事行動のオプションが複数提示されました。
 その中には、米軍の戦闘機がイランの革命防衛隊の基地上空を示威飛行するという案も含まれていたようです。
 英国政府はこの申し出を謝絶するとともに、20日には、二つ目の米空母機動部隊がイラン周辺に到着しており、米海軍は都合40隻の艦艇と艦載機で演習を行っていたところ、この演習をイランを刺激しないような形にトーンダウンさせることを米国政府に要請し、米国政府もこれを受け入れました。
 英国政府は、米国政府に、イランをあまり声高に非難しないように要請し、これも米国政府は受け入れました。
 とにかく、これだけの規模の米海軍部隊がイラン周辺に結集している上に、英国と米国の諜報機関が、イラン国内の、アラブ人が多数住む西のクゼスタン(Khuzestan)州とバルチ族が多数住むバルチスタン州(Baluchistan)の叛乱分子を支援していることは公然の秘密であるだけに、下手に騒ぐとイランとの間で戦争が始まりかねないため、英国はもとより、米国も慎重に対応せざるをえなかったということでしょう。
 結論から言うと、英軍兵士達を拉致するという決定は、イランの中央の預かり知らないところで、シャトルアラブ河の水路を所管する現地の革命防衛隊の判断で行われた、ということのようです。
 ことの原因は、シャトルアラブ河の真ん中を走るイラクとイランの国境線が、河に土砂が堆積して諸所で不明確となっているところにあるようです(典拠失念)。
 拉致した場所は、英軍側からすればイラク領内だし、イラン側からすればイラン領内だったというわけです。実は英軍側は、絶対にイラク領内だったという確信はないようです。
 しかも、イラン側に言わせれば、この3ヶ月間に英軍によるシャトルアラブ河上でのイラン領侵犯が三回もあったというのです。
 さて、どうして解決にこんなに時間がかかったのでしょうか。
 何と、イランの旧正月(No Rouz)で、イランの中央の主要な関係者達が休暇を取っていたからだというのです。
 TVや新聞で事件のことは知るだろうに、イランでは、重大事件が発生したら関係者は休暇を切り上げて出勤する、という習慣はないのでしょうか。
 とにかく、4月3日の休暇明けに上記関係者達が勤務先に戻ると、(英国の要請を受けた)シリア(
http://www.guardian.co.uk/iran/story/0,,2050094,00.html
。4月5日アクセス)を始め、世界中の国々から、この事件の早期解決を促す電話がかかってくるのにびっくりしたといいます。
 そこでただちに同日中に、大統領府、軍、及び革命防衛隊の代表者を含む面々が集う最高国家安全保障会議(Supreme National Security Council)が開かれ、兵士達を解放する決定が内々下されます。
 翌4日には、法王からイラン最高指導者のハメネイ師(Ayatollah Ali Khamenei)に4月8日の復活祭(Easter)前に兵士達を解放するよう要請する書簡が届き、イランのアフマディネジャド(Ahmadinejad)大統領は、英軍兵士達を前にして、この法王書簡が念頭にあったのか、「ムハンマドの生誕(スンニ派は20日、シーア派は26日とする(
http://en.wikipedia.org/wiki/Muhammad
。4月7日アクセス))とキリストのpassinng(刑死を指すなら5日だし、復活・昇天を指すなら8日ということになる)にあたり、兵士達を赦す決定が行われた」と演説し、彼らは解放されたのです。
 (以上、特に断っていない限り
http://www.guardian.co.uk/iran/story/0,,2051971,00.html
(4月7日アクセス)による。)
3 コメント
 この事件が平穏無事に解決したのは、英国政府が外交的手段に徹したからだという説が有力ですが、イラン周辺に結集した米軍の威力のおかげだという説もあります(
http://www.slate.com/id/2163575/
。4月7日アクセス)。
 しかし、どちらの説も不正解であって、やや極論すれば、現場が勝手に兵士達を拉致したところ、イランの中央が「即日」解放した、というだけのことだった、ということであったようですね。
 問題はこの事件の過程でイランが犯した数々の国際法違反が、何のお咎めもないままうやむやになりそうなことです。
 イランも加入しているところの、捕虜の取り扱いに関するジュネーブ条約に照らせば、そもそも戦闘行為・・今回のケースで言えば、英軍兵士達による検問行為の阻止・・が終わった瞬間にこの兵士達は解放されなければなりませんでした。もちろんその後、革命防衛隊等が拉致兵士達に対して、国際赤十字にすら接見させないまま心理的拷問を加え、TV「出演」させたり手紙を書かせたりして兵士達を人質として扱い、晒しものにし、プロパガンダの手段として用いたことはこのジュネーブ条約の重大な侵犯です。
 (以上、
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-rivkin30mar30,0,4349815,print.story?coll=la-opinion-center
(3月31日)による。)
 うたた感慨を禁じえないのは、かつて世界に覇を唱え、イランにも怖れ慄かれた英国の兵士達が、イランの革命防衛隊等についにこんな扱いをされるようになったことであり、しかも、こんな扱いをされても、英国は、軍事力による報復どころか、イランとの外交関係の断絶にすら踏みきれないという惨めな姿を晒していることです。