太田述正コラム#13022(2022.9.27)
<『海軍大将米内光政覚書–太平洋戦争終結の真相』を読む(その12)>(2022.12.21公開)
「・・・建川(美次)<(注19)>陸軍中将の直話によれば、(米内内閣の)倒閣運動は同中将らが白鳥(敏夫)前駐伊大使たちとともに近衛・松岡(洋右)一派と通謀しておこしたものだと。
(注19)1880~1945年。陸士(13期)、陸大(21期・優等)。「インド駐在武官<等を経て、>・・・1929年(昭和4年)8月には参謀本部第二部長に就く。1931年(昭和6年)には宇垣を首班とした政権を目指すクーデター計画である三月事件に杉山元、小磯國昭らと参画したが何の処分もなく第一部長に転じた。また、橋本欣五郎ら佐官級の引き起こした同年の十月事件にも関与を疑われた<。>・・・
<1931>年9月の満州事変直前に、奉天総領事からの電報で軍事行動発生の情報を得た外務省が陸軍省に通報。8月に参謀本部第一部長に転じていた建川が、関東軍の行動を引き留めるため奉天に派遣される<が、>・・・陸軍大臣および参謀総長から戦闘勃発阻止を正式に命ぜられ<ていたにもかかわらず>、作為的に命令の伝達を遅らせることで消極的側面支援を行った<。>・・・
1936年(昭和11年)2月、二・二六事件が勃発。宇垣閥を敵視する皇道派青年将校らは、朝鮮総督の宇垣をはじめ、直系の南次郎関東軍司令官、小磯、建川の罷免を川島義之陸相に要求した。建川は第2師団長(仙台)の梅津美治郎と電話で連絡をとり、反乱軍の鎮圧について話し合っている。同年8月、事件後の粛軍人事の一環として、皇道派将官と抱き合わせの形で予備役に編入される。
1940年(昭和15年)10月に東郷茂徳の後任として駐ソビエト連邦大使となる。これは各国の大使を更迭して各界の要人を新任大使に任命した松岡洋右外相による人事の一環であった。1941年(昭和16年)4月の日ソ中立条約に松岡と共に調印。 1942年(昭和17年)3月には「かねてより健康上の理由で辞意を表明していた」として任を解かれ帰国。 その後は大政翼賛会総務、大日本翼賛壮年団長を務める<。>
2020年7月23日、第二次世界大戦当時駐ソビエト連邦大使であった建川が発給したビザにより、その命を救われたユダヤ人らの遺族が米東部ニュージャージー州レークウッドで、在ニューヨーク総領事の山之内勘二と面会し謝意を伝えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%B7%9D%E7%BE%8E%E6%AC%A1
⇒建川は、杉山同様にインド駐在武官を経験したところの、先輩であり、杉山構想の全貌に近いものを明かされていた可能性があります。(太田)
佐藤(尚武)<(注20)>大使を使節としてイタリアに特派し、その帰途ドイツに立寄らせたので同国政府の感情を害したことを、米内内閣の失敗の一事例としてかぞえたという。」(118、)
(注20)「1942年(昭和17年)、・・・建川美次の後任として駐ソビエト連邦特命全権大使就任。・・・1944年・・・日本からは仲介による独ソ和平に向けた交渉を要請され、佐藤はそれに従ったものの、イデオロギーなどで全面的に対立する両国が和平に応じる見込みはないという電報を外務省宛に送っている。独ソ和平に消極的な佐藤の態度に対し、日本国内では陸軍から佐藤の更迭論まで出たが、重光葵外相が交代に反対し、廣田弘毅元首相を特使として派遣できるようソ連と交渉して陸軍をなだめることになった。佐藤はこれに基づいて、1944年9月にヴャチェスラフ・モロトフ外務人民委員に特使派遣を申し入れたが、「特使派遣が何を目的とするか疑問である」という理由で拒絶された。だが、その後も重光からは陸軍の意を受ける形で、日ソ関係の強化と独ソ和平仲介への交渉を求められ、そのたびに佐藤は「中立関係の維持そのものが問題になりつつある」と否定的な返答を繰り返した。こうした日本から寄せられる「日ソ関係改善論」について、戦後に佐藤は「かつて軟弱といわれた自分以上の軟弱外交ではないか」と「せせら笑った」と回想している。
それだけに、条約の期限1年前までとされた中立条約の廃棄通告期限(1945年4月25日)が近づくと心中穏やかではなく、期日をやり過ごして自動延長を待ちたいと神頼みするほどであった。だが、4月5日にモロトフと会見した佐藤はその場で条約の1年後の廃棄を通告される。これを受けて佐藤が日本に送った電報では、ソ連の狙いは米英に好意を得るためのジェスチャーで対日参戦への決意を固めたものではない、このジェスチャーも米英にとってはむしろ迷惑に感じて米英とソ連の摩擦が増大する可能性もあると記した。同時に佐藤は「もしもヤルタ会談で決定した上で廃棄通告が出されたものだとすれば、自分の観察は根底から覆ることになる」と別の可能性にも触れていたが、「問題はそこまで深刻ではない」とこれを軽視することになった。
1945年5月のドイツ敗戦後、日本国内ではソ連を通じた「無条件降伏ではない和平」の仲介を求める動きが起きる。佐藤は既に戦争の大勢は決まった以上、ソ連が仲介の役に立つ可能性は少ないと判断して早期終戦を促す機密電報を東京の本省に送っている。7月に昭和天皇の意向で近衛文麿を和平交渉の特使としてモスクワに派遣することが決まると、7月12日に東郷茂徳外務大臣は佐藤に対して、特使派遣をモロトフに申し入れるよう訓令した。だが、モロトフとはポツダム会議の準備という理由で会うことはできず、外務人民委員代理のソロモン・ロゾフスキーに依頼を伝えている。佐藤は東郷外相の指示に従って行動したが、ここでも本省に対して具体的な条件を欠いた特使派遣の依頼ではソ連を動かすことはできないとして、無条件降伏に近い和平しかないという電報を送った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%B0%9A%E6%AD%A6
⇒佐藤尚武のイタリア大使時の話の詳細は調べがつきませんでしたが、終戦時にソ連大使であった佐藤の同大使当時の事績(「注20」)にからめて脱線を。
まず、「1944年(昭和19年)に東條内閣が倒れると、小磯内閣によって最高戦争指導会議が設置された<ところ、>9月4日に開かれた会議で・・・<独ソの(?)>和平仲介のため広田を特使としてソ連に派遣する決定を下した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85
ところ、この馬鹿げた策を、当時の重光葵外相や小磯國昭に持ち込んだのは、陸軍であったとは思えず、ドイツ政府であったと想像されますが、調べがつきませんでした。
また、スウェーデン駐在武官の小野寺信は、「45年2月<の>・・・ヤルタ会談<での>・・・[ドイツ降伏から約3ケ月後にソ連が日ソ中立条約を破棄、対日参戦するとの]・・・対日参戦密約・・・<を>会談直後に・・・、ロンドンの亡命ポーランド政府陸軍情報部からヤルタ密約を得て参謀本部に打電<しており、>」
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c07301/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA%E4%BF%A1 ([]内)
梅津は、つまりは杉山も、そのことを知った上で、あえて、米内らが打ち出したところの、ソ連に日本の終戦仲介をやらせる話に載ったというわけです。
「陸軍中枢はその情報を信じず、<米国>との和平の仲介をソ連に期待し続けた。」(上掲)などということは、杉山らが、対英米戦開始前から、戦争末期にソ連が対日参戦することを予期し期待していた、と、私が見ていることもあり、ありえません。(太田)
(続く)