太田述正コラム#13028(2022.9.30)
<『海軍大将米内光政覚書–太平洋戦争終結の真相』を読む(その15)>(2022.12.25公開)
「米内大臣直話 二0・七・九・・・
石渡(荘太郎)<(注22)>を宮内大臣になってもらったのは、本人にたいして気の毒千万なことである。
(注22)1891~1950年。「旧幕臣で第一次西園寺公望内閣の内閣書記官長を務めた石渡敏一の長男。」学習院中等科、一高、東大法卒、大蔵省入省、「賀屋興宣・青木一男とともに「大蔵省の三羽烏」と謳われたが、・・・1936年<に>・・・内閣調査局に事実上の左遷となる。・・・<しかし、>1937年2月 主税局長。・・・<学習院時代の>近衛文麿の学友であ<ったところ、>・・・1937年6月 第一次近衛内閣の大蔵次官。1939年 平沼内閣の蔵相。1940年 米内内閣の書記官長。(本来書記官長は勅任官であるが、特に親任官待遇とされた。)7月16日、貴族院勅選議員<。>1942年 汪兆銘政権の最高経済顧問。1944年 東条内閣の蔵相。小磯内閣でも蔵相、のち国務大臣兼書記官長。1945年 宮相。 平沼内閣の大蔵大臣時代、外相有田八郎、海相米内光政とともに日独伊三国同盟に反対を貫いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B8%A1%E8%8D%98%E5%A4%AA%E9%83%8E
⇒石渡が、大蔵省で左遷されたはずなのに、主税局長になったのは不思議ですが、官房長を経験しておらず、しかも、主計局長でもないのに、大蔵次官になれたのは、近衛のおかげでしょうね。
ところで、どうして、宮内大臣になったのが「気の毒千万なこと」なのでしょうか?(太田)
自分は石渡を友人としてはもっているが、子分としては思ってもおらず交際もない。・・・
〔<実松>注〕石渡は、平沼内閣(米内は海相)のときの蔵相、米内とともに日独伊三国同盟の締結に反対した同憂の士の一人、米内内閣時の書記官長であった。
⇒日独伊三国同盟に反対したことを気に入り、米内は、首相になった時に石渡に頼み込んで、閣僚よりも格下の内閣書記官長になってもらったのでしょう。(太田)
前宮相松平恒雄が辞任した表面上の理由は、5月25日の夜、米軍機の空襲によって皇居と大宮御所の一部が炎上した責任を痛感したことによる。・・・
⇒実松が、松平の宮相辞任の真の理由を書いてくれていないのは残念ですが、むしろ、それまで、実に9年3カ月にわたり宮相であり続けてきたことの方が異常であり、その理由の方を知りたいところです。
松平は、貞明皇后の自慢の子である秩父宮の岳父であり、同皇后が手放そうとしなかったのかもしれません。(以上、事実関係は上掲による。)(太田)
米内海相直話 二0・七・二八
一、声明はさきに出したほうに弱味がある。(7月26日、対日ポツダム宣言を発表)
チャーチルは没落するし、米国は孤立におちいりつつある。
〔<実松>注〕7月5日に行なわれた英国の総選挙で労働党が勝ち、チャーチルの保守党内閣は総辞職、7月27日にアトリーの労働党内閣が成立する。・・・」(160、162、167、)
⇒米内の、「声明はさきに出したほうに弱味がある」は意味不明ですし、その余りにもお粗末な英国及び米国についての「分析」にも唖然とせざるをえません。
英国にとっては、ドイツの降伏でもって事実上戦争が終わったと言えるのですから、政権交代があっても不思議ではありませんし、米国に関しては、孤立どころか、ソ連が相変わらずお友達でいるだけでなく、これから対日参戦までしてくれることになっていたのですからね。
もとより、米内は、この期に及んで、アホなことに、まだソ連の仲介に期待していたからこそ、こういう直話をしたのでしょうが、ここから、米内が、藤村義朗中佐電を自分の好みに応じて恣意的につまみ食いしていたことも分かります。
というのも、「藤村は<終戦工作に係る>・・・6月5日付の・・・電報の中で、ソ連がヤルタ会談で対日参戦することを提案し、ルーズヴェルトが協調政策上同意したとし(実際は逆)、その時期は8月下旬であろうと記している。これ以外にもベルンの「海軍武官電報」としてソ連がヤルタ会談で対日参戦を約束したという電報が5月24日に、「フランス共産党にコネを有する情報源」をソースとして「ヤルタ会談で、7月末までに日本の降伏がなければソ連は参戦することに同意した」という電報が6月11日にそれぞれ東京に当てて打たれていたことが、<英国>に保存されていた傍受解読記録(ウルトラ)より判明しているが、藤村自身はこのソ連対日参戦密約情報の入手や東京への打電については明確な証言を残していない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E7%BE%A9%E6%9C%97_(%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA)
ということから、(恐らくは全て藤村からの、)ソ連の対日参戦に係る、かなり正確な情報を記載した電報に米内は目を通していたはずだからです。(太田)
(続く)