太田述正コラム#1586(2006.12.24)
<産業革命をめぐって(その5)>(2006.12.24→2007.5.16公開)
(本扁は、コラム#1570の続きです。)
ウ イギリス中世史全般と産業「革命」期の比較
11世紀以降のイギリス中世史全般と産業「革命」期を比べてみましょう。
イギリスの1086年から1688年までの600年余の一人当たり実質GDPの伸び率は年0.29%でした。しかも、1086年から1170年にかけての84年間の伸び率は、産業「革命」後半期の1801年から1831年にかけての30年間の伸び率に匹敵していますし、16世紀前半の伸び率は実にその2倍もありました(注3)。
(注3)ただし、伸び率がマイナスになった時期もあった。1302年から1371年にかけての黒死病(Black Death)猖獗時だ。それに引き続いての1372年から1491年にかけても伸び率は非常に低かった。黒死病猖獗のショックが尾を引いたのと、戦争が続いたせいだ。16世紀前半の高い伸び率は、部分的にはその反動だ。
他方、1688年から、産業「革命」初期の1760年までは0.31%の伸び率にとどまっており、1760年から1780年は0.01%と伸びが止まり、1780年から1801年にかけては0.35%で、ようやく産業「革命」後半期(1801年~1831年)に0.52%に加速した程度です(
Graeme Donald Snooks(Editor), Was the Industrial Revolution Necessary?, Routledge 1994 PP16、PP54、PP60)。
そこで、イギリスの産業「革命」期には成長率の加速こそなかったけれど、構造変化、技術革新、持続的成長、という、他国の産業革命で起こったことが起きている、という主張がなされることがあります。
しかし、産業革命以前の600年間における経済発展も少なからず構造変化を伴うものでした。
1086年には都市人口は全人口の約8%でしたが、18世紀初頭には15%に増えていることがその証拠です。産業「革命」時には、構造変化が短時間で起こったという点が違いますが・・。
技術革新だって大いにありました。
農業(水車(注4)・風車・灌漑・三圃制・馬による牛の代替、等々)、鉱業、交通、通信において様々な技術革新がなされています。
(注4)日本でも、江戸時代に水車が高度な形で使われていた。「18世紀末になると江戸への下り酒は灘の酒が圧倒的に多くなっていた。寛政元年(1789)には、一年間に江戸に入った下り酒のうち、灘の酒が70パーセントに達し<た。>量が多いからといって高級だとは限らないが、灘五郷は、六甲山から流れる川を利用した水車精米によって伊丹の足踏み精米の生産力を圧倒した。背後にある急峻な六甲山の地形を利用して、天明8年(1788)には73両の水車を設けていた。人間は24時間働き続けられないが、水車は疲れることなく動き続ける。しかも、足踏み精米では8分搗きが限度なのに、水車搗きではその3倍以上の2割5分から3割5分まで搗くことができた。米の表面にあるタンパク質の多い部分を削り落として良質の酒を醸造できるようになったのだ。灘の酒は、いわば技術革新によって勝ったの<だ。>」(石川英輔「大江戸番付事情」講談社文庫2004年10月 63~63頁)
また、中世においても、3世紀くらい持続的成長が続いたことがあり、持続的成長は産業「革命」期の専売特許では全くありません。
(以上、特に断っていない限りibid PP57~58 による。)
(4)結論
いかがでしょうか。
イギリスでは産業革命はなかった、という私の指摘にご納得いただけたでしょうか。
(完)
産業革命をめぐって(その5)
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