太田述正コラム#13036(2022.10.4)
<2022.10.1オフ会次第(続x3)>(2022.12.29公開)
E:日本で弥生人を復活させるのは不可能なのだろうか。
O:NHK大河の「鎌倉殿の13人」を見ていたらお分かりのように、武士ってのは、何でもかんでも、ひどい手だてを講じつつ腕っぷしでことの決着を付けようとする。
私は、こういった人々を、天智朝の諸天皇等が上から創り出そうとして、藤原氏出身や平氏、源氏の武家棟梁の潜在候補者達に対し、何でも出来るだけ紛争を引き起そうとした上で、その紛争を阿漕な方法を使いつつ武力で決着をつけるよう、手下達ともども心掛けよ、と命じた、と、想像しているわけだが、そんなことを今更現代においてできるはずがない。
一旦、弥生人が絶えてしまった以上、従って、もはや復活させるのはほぼ不可能だろう。
D:私は、今上天皇は、縄文モード一辺倒だった昭和天皇や上皇とは一味違うのではないか、と、(天皇の学習院時代を知っていることもあり、)思っている。
O:今回、「講演」原稿を書いていておやおやと思ったのは、内調の陣容の国会答弁を伊佐敷眞一君がしていることを見つけたことだ。
というのも、彼は、私が防衛庁の防衛課(どちらも当時)の総括政策班長をしていた時に外務省から出向してきていて私の部下だったからだ。
彼の仲人をしたのが小和田恆氏で、その縁で、伊佐敷君に、当時ボストンのハーヴァード大の客員教授をやっていた小和田氏に手紙を書いてもらい、(国連のカネでニューヨークに出張した折、足を延ばして、ボストンの外交シンクタンクの訪問方々、)同氏に会いに行ったわけだ。
御承知のように、その折、私は彼に塩対応をされたところ、想像を逞しくすると、防衛官僚なんてものは、武装放棄志向の天皇家の「敵」だ、という意識だったのではないか。
C:前回と今回の2つの「講演」原稿を通じての結論の一つは、吉田茂を娘婿に選んだ牧野伸顕の目は確かだった、ということだな。
O:そうだ。
安倍国葬まで、戦後、吉田茂だけが国葬になったということは、当時の人々が、必ずしも吉田の真価が分かっていなかったはずだけれど、直感的に吉田は国葬に相応しいと思ったのだろうが、その直観は正しかったというわけだ。
O:以下、オフ会出席者の一人だったTSYさんから、その後、資料群を引用する形で送られてきたメールの中から、私の今回の「講演」原稿に対する直接的なコメントと受け止めることができた部分を紹介しておきたい。
<TSY>
満州で業者を指揮して、各種産業を勃興させた(これがシードになって戦後の経済成長が始まるのだから、これは日本の、旧来の鉄鋼石炭産業に加えて、石油電気自動車化学産業の事始めでもある)主力は、軍<だったの>か、<それとも、>官僚<だったの>か。
・ 官僚、岸がやったという説
僕の読んだのは『満州裏史』(太田尚樹著 講談社刊 2005年)
「<満州時代の石原<莞爾>は、秩父宮を引っ張り出して、いっしょに中島飛行機製作所を見学したりしているが、岸をよく知る経済界担当の記者は、「天才参謀石原といっても、しょせん産業、経済のことは分からない。たしかにあのころの石原は、岸の作ったシナリオに沿って、行動していましたね」と言っている。
<石原が鮎川義介に持ちかけた>日産の満州<進出>は岸の発案に違いない、と鮎川<は>読んでいた<が、>ほどなくして、岸は新京から建川まで軍用機で来ては、鮎川を口説きはじめた。・・・
昭和12年に入り、やがて支那事変がはじまるころになると、岸が<鮎川邸>の門を潜る回数は頻度を増してくる。・・・
<やっと資本の導入に新たな目処がつき、岸の説得が功を奏したこともあって<、鮎川は、>・・・日産の満州<進出ならぬ>移転を承諾した<。>・・・
だが・・・満州重工業・・・設立に当たって、苦労したのは岸だった。
満州に一台コンヅェルンができると、それまで独占企業だった満鉄との衝突は避けられない。
岸にとって満鉄総裁の松岡洋右は伯父だったし、鮎川も姻戚筋に当たるからである。・・・
<ちなみに、>松岡、鮎川、岸の3人<は>い<ず>れも長州人で、・・・しかも親戚筋だったのは奇縁というほかはない<。>」(324~326)
・岩畔豪雄周辺の軍人が中心だったという説
『昭和陸軍謀略秘史〕(岩畔豪雄著(正しくは語り手)日本経済新聞社版 本野本は1967年刊行)
「–<満州国で>経済計画をお立てになるときには、満州国の日系官吏の特に経済、財政の専門家と話し合って作られたわけですか。
岩畔 そうです。それを呼んで聞いて案を練るとかね。大体彼等でやれるものはどんどんやらすように支援してやる。しかし、どうしても日本との関係で、うまくいかんものがあるわけですよ。そういうものについてはわれわが中に立ってやらなければならない。全部の統制経済なんというものについては彼等だけでは出来ないから、満鉄の経済調査会の連中と一緒になってやるわけです。大体の方針はこうだということで示し、個々の問題については君等でやれ、というような関係でしたね。
–満鉄の調査部などともかなり緊密に連絡しておられたわけですか。
岩畔 しょっ中やっておりました。あすこの宮崎(正義)というのがおりましたね。これが石原さんの家来で、東亜連盟の推進者でしたね。それから奥村真次・・・<や>中西敏憲なんというの<も>・・・おりました。・・・
–経済計画の話なんですけれども、要するに満州国建設当時、いわゆる財閥は入れないというふうなことを盛んに言っていたが、ところが昭和8年ぐらいあからポツポツとそういうことが薄れて来ますね。
岩畔 そうじゃないんですよ。あれは、・・・「利権屋入るべからず」ということなんですよ。それが、「資本家入るべからず」・・・ということに誤伝されているのですね。<昭和>8年<に>、ぼくが行って一年ぐらい経って・・・一応の<経済>計画が出来るまで<は、ということでね。>・・・
<で、どういう経済計画を作っていたかというと、>なにはどうするという部門別のほかに、会社も、大体日系の資本を51%ということで、社長というものは満州人で副社長が日本人と<言った具合にね。>しまいには鮎川・・・とかいろいろ<日本人で社長になる者も>出て変って来ましたがね<。>・・・
–<満州国で、>会社を<岩畔さん自身が定款を一人で書かれる形で>65もお作りになったわけです<よね。>」(63~65)
岸側からは、当時の岸の発言の聞き書きも残ってないので、岸の得意なホラ話な気がします。
満州で企業群を勃興させた、産業政策の専門家という、演技を岸は続けて、企業、経産系の役人、マスコミをダマしていたような気がします。
<太田>
私の指摘を補強していただいたような形であり、ありがとうございました。
いただいた、貴コメント/資料の最初のトピックのところは私の手に負えませんでした。
また、最後の海軍三馬鹿トリオがらみのトピックのところは、現在進行形の海軍シリーズ群の中で活用させていただきます。