太田述正コラム#13046(2022.10.9)
<渡邊裕鴻ら『山本五十六 戦後70年の真実』を読む(その1)>(2023.1.3公開)

1 始めに

 予定通り、NHK取材班 渡邊裕鴻『山本五十六 戦後70年の真実』のシリーズをお送りします。
 渡邊裕鴻(ゆうこう。1957年~)については、「三重県生まれ。海軍史家、日本海軍戦史戦略研究所(JINHS)副所長。・・・BS1スペシャル 山本五十六の真実・・・<という>番組を企画し、ディレクターとして取材にあたった。本書の主な執筆を担当」(この本のカバーの裏)、くらいしか分かりませんでした。

2 『山本五十六 戦後70年の真実』を読む

 「・・・長岡中学校に入学した頃から、山本は海軍を志願するようになる。
 <生家の>高野家の経済状態に照らし、高等学校進学は無理だという思いがあったのかもしれない。
 また当時、海軍大佐から少将へと進級し、旧長岡藩士として初めて海軍提督となった叔父野村貞の影響があったとも言われている。・・・
 年の離れた<異母>兄譲(ゆずる)の長男力(ちから)の影響も指摘されている。
 若くして病没した力は、山本の甥とはいえ10歳の年長者で、山本とは兄弟同然の関係だった。
 この力も成績優秀で海軍兵学校を志願していたが、病弱のために断念。
 いわばその遺志を継ぐ形で、山本も海軍兵学校を目指したのかもしれない。・・・

⇒山本が、どうして陸軍士官学校を選択せず海軍兵学校を選択したのか、の説明も欲しかったところです。(太田)

 海軍兵学校では、教室の席次から寝室でのハンモック・ナンバーまで、生活と行動のすべてが成績の順となっていた。・・・

⇒教室の席次について、陸軍幼年学校や陸軍士官学校ではどうだったのか、直接調べはつきませんでしたが、「明治十八年(一八八五)までの小学校は「学年制」ではなく、「等級制」を採用していました。毎学期、毎学年末に試験を行って、その成績順に教室での席を決めていたということです。元々は勉強の督励の意味で始まったこの方法ですが、次第にその弊害が指摘され、文部省は明治二十七年(一八九四)、ついに訓令を出して禁止をしました。ところが、<旧制>中学校ではそうはいかなかった」、
https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2019/02/13/085331
というのですから、恐らく同じだったのではないでしょうか。
 旧制高校についても(典拠がすぐ見つかったのは弘前高校のものだけですが、)恐らく同様です。
https://tushima.exblog.jp/25340187/
 ですから、渡邊らは、「海軍兵学校で「は」」という書き方はすべきでありませんでした。(太田)

 しかし、それは競争を煽るためのものではなかった。
 海軍では「軍令承行令」といって、戦闘中艦上で上官が戦死した場合に次の上位者が指揮権を継承することとなっていたため、常に現役士官名簿の順位により、自分は専任か後任かが同階級・同期生の間で分かるようにしていた<からだ>。

⇒ですから、教室の席次の話をこの話に結び付けるのはナンセンスです。
 また、ここでも、「戦死した場合」の指揮権継承方法が、陸軍でも同様であったことに触れていないのは片手落ちもいいところです。(太田)

 卒業生192名中の首席は堀悌吉。・・・山本は・・・11位だった。
 ちなみに、吉田善吾が12位、嶋田繁太郎は27位だったという。・・・
 <なお、この>32期の<入学>者は190名<で>山本はそのなかで2番<、>・・・堀<は>・・・3番<だった。>・・・

⇒この4名中、一番「出世」するのが、阿部内閣から、米内、第2次近衛内閣にかけての海相になった吉田善吾
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%96%84%E5%90%BE
であり、次に「出世」するのが、その次の東條内閣の海相になった嶋田繁太郎だった、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E7%94%B0%E7%B9%81%E5%A4%AA%E9%83%8E
というところが、海軍だって学業成績だけで人事をやっていたわけではない例証です。(太田)

 戦争を悪とするのは、堀自身の強い信念であった。
 日露戦争と日本海海戦で悲惨な大量殺戮の現実に向き合い、さらに第一次世界大戦をフランス駐在の武官として目の当たりにした経験から、堀はこうした戦争観にたどり着いたのだろう。・・・」(26~27、32、61)

⇒そんな堀は利巧バカの典型、的なことを(コラム#12794で)申し上げたことがあります。(太田)

(続く)