太田述正コラム#13048(2022.10.10)
<渡邊裕鴻ら『山本五十六 戦後70年の真実』を読む(その2)>(2023.1.4公開)
「大正7年(1918)8月末に結婚して所帯を構えた山本五十六。
しかし、新婚生活は半年ほどしか続かなかった。
翌大正8年(1919)4月5日、山本がアメリカ駐在を命じられたためだ。
山本は35歳の働き盛りを迎えていた。
マサチューセッツ州のボストンを拠点に、隣接する都市ケンブリッジにある名門ハーバード大学へ留学し、語学を習得するとともにアメリカ全般について見聞を広める。
それがアメリカ駐在の目的だった。
ハーバードがは、アメリカ最古の高等教育機関であり、幅広い分野で世界をリードする名門私立大学だ。
山本は大正8年の7月から英語の夏期講習を受けているが、山本が残した記録によれば、なんと授業には2回しか出席していない。
明治時代以来、日本のエリート官僚や軍人の留学では、留学先の先進国文明に実地に触れて見聞を広めるため、現地での勉学や行動は本人の自由裁量に任せ、具体的な任務や課題を与えないという傾向があった。
⇒私の人事院制度での留学もそういう趣があった(コラム#省略)。(太田)
エリートならではの特権である。・・・
2回しか授業に出ないのであれば、当然、山本の英語の成績は最低ランクの「C+」であった。
しかし、山本は決して無為な日々を送っていたわけではない。
英語の学習はともかく、山本が好んだのは、アメリカ各地を実地に見てまわることだった。・・・
⇒これは無茶苦茶です。
実りある形で「アメリカ各地を実地に見てまわる」ためには、ア、英語会話が自在にできること、と、イ、何を見て回るべきか、それをどういう問題意識を持って見て回るべきか、等を考えた上、適宜、フィードバックしながらこのサイクルを繰り返す必要があるけれども、アとイをハーバード大が提供してくれるというのに、その機会を自ら弊履の如く捨て去ったというのですからね。
(なお、確認はできませんでしたが、渡邊らの筆致からすると、山本は新妻を米国に同道しなかったようですが、仮にそうだったとすると、これも、「アメリカ各地を実地に見てまわる」にあたって、米国人等との付き合いの範囲を狭めてしまっています。)
ちなみに、松岡洋右はオレゴン州で、仕事でこき使われ、人種差別を受ける生活を送った上で、30歳の時にオレゴン大のロースクールを卒業しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3
一見、山本の米留とは対照的でありつつ、松岡が出たオレゴン大もそのロースクールも、どちらも三流であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%B3%E5%A4%A7%E5%AD%A6
https://law.uoregon.edu/
ことから、二人とも、米国をまともな形で理解できないまま帰国した、と、私は見ています。(太田)
こうした滞米期間中、山本は、アメリカ国内だけでなく、ときにはメキシコやキューバにも自費で足を運び、見聞を広めた。
<米国内では、>テキサスやカリフォルニアの油田<や、>・・・当時アメリカの自動車生産の産業基盤の中心地で<あった>・・・デトロイト・・・<等を>丹念に視察<するとともに、>・・・南北戦争<について>も調査し・・・た。・・・
<また、>防衛大学校名誉教授の田中宏巳<(注1)>氏は、次のように語る。
(注1)1943年~。早大文卒、同大院博士課程満期退学。「明治大学・東海大学講師を経て、1977年防衛大学校専任講師。1993年教授、2008年定年退職、2011年名誉教授。2012年帝京大学文学部教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%AE%8F%E5%B7%B3
「外国に行くと、必ずそこの国に行っている駐在武官の監督下に入る。・・・
当時ワシントンいらっしゃったのは、上田良武<(注2)>さんですね。・・・
(注2)1878~1957年。「薩摩藩士の<子。>・・・海軍兵学校28期<。>・・・、1908年7月 – 1912年1月に<米国>に派遣され、1918年6月 – 1920年12月には<米国>駐在武官を務めている。1923年4月に航空機試験所長に任ぜられて、後に海軍技術硏究所に入り、1924年12月に海軍少将となる。1925年6月に海軍技術硏究所航空硏究部長に任ぜられ、1927年3月には広海軍工廠長、同年12月には海軍航空本部技術部長を務めて、日本の航空戦略に大きな影響を与えた。1928年12月に海軍中将となるが、翌1929年4月には予備役に編入され<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E8%89%AF%E6%AD%A6
<彼は>航空畑の方ではないかと思う。・・・
<山本は、>その上田さんから熱っぽく、これからは飛行機だという話をされ・・・たのではないか。」」(63~65、69)
⇒杉山元は、上田良武より2年弱年下、山本より3年3カ月年上ですが、陸軍航空の黎明期の星であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD
ことが思い起こされます。(太田)
(続く)