太田述正コラム#13050(2022.10.11)
<渡邊裕鴻ら『山本五十六 戦後70年の真実』を読む(その3)>(2023.1.5公開)
「・・・最初の渡米から帰国した山本は、大正10年(1921)から1年半ほど海軍大学校の軍政教官を務めた。
講義では、石油の重要性を説くとともに「海軍軍備は航空第一主義でなければならない」と論じた。・・・
大正15年(1926)に山本<は>再び駐在武官として渡米<する。>・・・
<その後、>山本は・・・海軍次官在任中、「デトロイトの自動車工場とテキサスの油田を見ただけでも、日本の国力で、アメリカ相手の戦争も、建艦競争も、やり抜けるものではない」と語っている。
つまり山本は、・・・アメリカとの戦争は「不可能」という・・・結論に至っていたのだ。・・・
⇒そんなことは全て、米国に一度ならず二度も長期滞在することなんてなくても、分かることです。
米国の統計は信用できますからね。
米国に長期滞在でもしなければ、並み秀才には容易に分からないのは、どうして、米国はそんな国力を保有するに至ったか、や、実はそれと裏腹の関係にあるとも言えるところの、そんな米国の弱点はどこにあるか、等、ですが、山本は、そもそも分かろうとした形跡がありませんし、その後も「、(米国に暗殺される最期に至るまで)分からないままで終わったと言っていいでしょう。
これにひきかえ、私見では、杉山らは、米国の弱点に付け込み、その米国の国力を利用して、米国を親ソから反ソへと転換させた上で、冷戦を通じてソ連を解体させ、更には現在、ロシアを解体させるべく、その残された国力を蕩尽させつつある、というわけです。
このような帝国陸軍軍人の上澄みと帝国海軍軍人の上澄みとの間の驚天動地の優劣の差をもたらしたものは一体なんだったのか、が、次回の「講演」原稿のテーマなのです。(太田)
日英同盟がいまだ継続中の日本海軍にとっては、ロシア海軍を駆逐したあとに太平洋で対峙する主要海軍国は、アメリカしかいなかった。
そして日本海軍は、アメリカ海軍に対し7割の海軍力を保有することを原則とするようになる。
この7割という数値は、攻める側の艦隊は、迎え撃つ側の艦隊の5割増し以上の兵力優勢を必要とするという、当時の軍事常識によって導き出されたものだった。・・・
これは、日露戦争前後に海軍大学校教官だった佐藤鉄太郎(注3)(コラム#4759、5730、6404)中佐や秋山真之少佐が、米海軍大学校などで学んだ、のちの「N二乗法則」となる内容を踏まえて案出したと言われている。」(68、70~71)
(注3)1866~1942年。「実父は庄内藩士<。>・・・海軍兵学校第14期入校。入校時成績順位51名中第6位、卒業時成績順位45名中第5位。
日清戦争に砲艦「赤城」航海長として参加。黄海海戦の際、艦長の坂元八郎太が戦死したため代わりに艦の指揮を執る。その後、海軍大学校教官などを経て、日露戦争には上村彦之丞率いる第2艦隊先任参謀として参加。仮装巡洋艦香港丸・日本丸の南洋派遣に同行。 日本海海戦ではロシア艦隊の偽装転進を見破り、的確な意見具申を行ったことで勝利に貢献した。・・・
軍令部次長や海軍大学校校長、舞鶴鎮守府司令長官などを務めたが、加藤友三郎と軍縮を巡る見解の溝が埋まらず大正12年(1923年)に予備役に編入される。その後は学習院教授を経て1934年(昭和9年)、勅選の貴族院議員となる。
東條英教(東條英機の父)と並ぶ戦史研究の大家と称されていた。
山本権兵衛は陸主海従の国防方針を海主陸従に転換すべく画策したが、その一策として明治32年(1899年)に佐藤鉄太郎を一年半<英国>へ派遣し、次いで<米国>へ8ヶ月駐在させた。佐藤は留学前から<米>海軍の戦略家マハンの著作を愛読していたが、これらの留学と戦史調査によりマハンの影響を大きく受け、帰国後に海軍大学の教官となりその講義をまとめた『帝国国防論』は海軍大臣の山本権兵衛より明治天皇へ献上された。さらに『帝国国防史論』などを記して各界および世論を涵養し、海軍予算の獲得や制度的に海軍を陸軍並へ整備することを有利にした。また「日本のマハン」と呼ばれた。・・・
最終階級・・・は海軍中将<。>・・・
宗教は日蓮宗。日蓮主義に共鳴する。晩年は宗教に傾倒し、財産を喜捨したため家族を困惑させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E9%89%84%E5%A4%AA%E9%83%8E
⇒マハン「『海上権力史論』<において、>・・・「<ハワイ等>世界の諸処に植民地を獲得せよ。<米国>の貿易を擁護し、かつ外国に強圧を加えるために諸処に海軍根拠地を獲得し、これを発展させよ」との持論を<展開した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%B3
ところ、’Mahan believed that if the United States were to build an Isthmian canal, it would become a Pacific power, and therefore it should take possession of Hawaii to protect the West Coast. Nevertheless, his support for American imperialism was more ambivalent than is often stated, and he remained lukewarm about American annexation of the Philippines. Mahan was a major influence on the Roosevelt family. In addition to Theodore, he corresponded with Assistant Secretary of the Navy Franklin D. Roosevelt until his death in 1914.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Alfred_Thayer_Mahan
と、フランクリン・ローズベルトに大きな影響を与えたことを帝国陸軍は知っていてそのローズベルトのマハン的な帝国主義的世界観に付け入ったのに対し、帝国海軍は、’It has been argued that the IJN’s pursuit of the “decisive battle” (Kantai Kessen) contributed to Imperial Japan’s defeat in World War II, because the development of the submarine and the aircraft carrier, combined with advances in technology, largely rendered obsolete the doctrine of the decisive battle between fleets.’(上掲)と、マハンの時代遅れの考え方を墨守したために、米海軍との戦いで無様な惨敗を喫した、という次第です。(太田)
(続く)