太田述正コラム#13066(2022.10.19)
<渡邊裕鴻ら『山本五十六 戦後70年の真実』を読む(その11)>(2023.1.13公開)

「・・・日本では、「ハル・ノート」を手交された後、昭和16年(1941)12月1日の御前会議にて対米開戦を正式決定し、予定時刻にしたがって14部に分けた最後通牒が在米日本大使館宛てに打電されたはずだった。
 しかし山本の願いに反し、この文書の最終部は陸軍参謀本部員の指示で予定時刻より15時間遅れて発信され、大使館の暗号解読・翻訳・清書が遅れて、ハル国務長の手に渡ったのは、真珠湾攻撃開始からおよそ1時間後のことだった。・・・

⇒「1~13部は同6日午前8時~11時25分に発信されており、内容はこれまでの日米交渉を確認するにとどまる。交渉を打ち切るという「結論」は14部で初めて分かるが、ぎりぎりまで機密を保持するため、13部から約15時間後の7日午前2時38分に発信された。
 現在の通説はこうだ。大使館は6日中に13部までをタイプライターで清書し、7日朝に14部を追加すれば開戦前に通告できたはず。しかし、大使館は7日朝から1~14部の清書を始めたため、間に合わなかった。6日夜に大使館内で送別会があっていたことなどから、大使館の「怠慢」が通告遅れを招いた-。
 だが、・・・九州大学記録資料館の三輪宗弘教授・・・は、元外務省ニュージーランド大使の井口武夫氏が2008年の著書で触れた訂正電報の存在に注目した。当時、大使館の1等書記官だった奥村勝蔵氏が、1945年に「夜半までに13通が出そろったが、後の訂正電信を待ちあぐんでいた」と陳述していた。
 三輪教授は、大使館が1~13部の「訂正電報」を待っていたため、清書ができなかったとする仮説を立てた。訂正が175字に上っていたことも外交資料で分かった。当時のタイプライターは途中で挿入や訂正ができない。大使館は「訂正電報」が届くまで清書ができなかったのではないか。
 発見した二つの電報は、他の電報の詳細と突き合わせた結果、「訂正電報の可能性が極めて高く、奥村証言を裏付ける証拠」と三輪教授は読む。13部が発信された6日午前11時半から、二つの訂正電報が出されるまで13~14時間の「空白」がある。」
https://www.nishinippon.co.jp/item/o/304274/
という(2016年当時の)最新説に踏まえれば、「陸軍参謀本部員の指示」であったかどうかは置いておいて、第14部が別途遅れて発信されていたとしても、それが、手交の遅れの直接的な原因ではなかったことになります。
 また、いずれにせよ、「暗号解読・翻訳・清書」中の、翻訳は、日本語→英語、の翻訳が行われたとは考えにくいことから、渡邊裕鴻らの誤記でしょう。(太田)

 アメリカで山本憎悪の動きが過熱したのには、思わぬ理由がった。・・・
 山本が笹川良一<(注16)>に宛てた手紙<で>ある(昭和16年1月24日付)。

 (注16)「笹川は山本と非常に親しかった。知り合ったのは昭和7年頃だそうだ。飛行機に異常な関心をもつ2人は意気投合し、急接近していった。
 この時山本48歳、笹川33歳、年齢差15歳。・・・
 将来は必ず航空機の時代になる、との見通しや、日米戦えば苦境に立つのは日本である、という見解で<2人は>一致していた。」
https://blog.goo.ne.jp/sasakawaryouichi/e/03b4acc2a425d23bd0fed588664f2df0
 「1935年(昭和10年)に大阪鉄道の買占めの際に、国粋大衆党の他の幹部とともに恐喝容疑で逮捕された。大阪刑務所に約4年間収監されたが最終的には無罪となり、釈放されている。その後、1939年(昭和14年)には飛行機で単身イタリアに渡って・・・崇拝<していた>・・・ムッソリーニと会見した。この訪欧飛行の実現については、・・・山本五十六の後援があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%B9%E5%B7%9D%E8%89%AF%E4%B8%80
 「山本は開戦の3ヵ月前に笹川良一に、こう吐露していました。「(筆者注・シンガポール陥落後に)しっかりした手を打ってくれる政治家が果たしているかね」(阿川弘之『山本五十六』文庫版、下巻)」
https://gendai.media/articles/-/86423?page=5

⇒山本が、日本による一撃後に終戦(米国との和平)が可能である、との途方もなく馬鹿げた考えを抱いていたことは、すぐ上の挿話から、もはや明らかでしょう。(太田)

 <(引用始め)>・・・日米開戦に至らば、我が目ざすところ素よりガム、ヒリピンにあらず。将又(はたまた)、布哇、桑港にあらず、実に華府街頭、白亜館上の盟ならざるべからず。當路の為政家、果して此の本腰の覚悟と自信ありや。<(引用終り)>
 山本は最後の一文で、本当に首都ワシントンまで占領できると思っているのか、そこまでの「覚悟と自信」があってアメリカと戦争を始めるつもりなのかと、日本の為政者に問うている。
 しかしこの手紙は、開戦後、肝心の末尾の一文がカットされて、日本国内の士気振興のためとして公表された。
 それが同盟通信で配信されると、翻訳されてアメリカに伝わった。
 そして山本は、ホワイトハウスまで攻め上ると広言している人物として、反日プロパガンダに利用された。
 こうして山本は、「日本の侵略者」「卑怯なだまし討ちの首謀者」として、アメリカ国民の憎悪と非難の対象となっていった。」(156、158)

⇒もちろん、山本の戦死(1943年4月18日)より前のことでしょうから、山本は、自分の私信の笹川からの政府への提供に同意し、かつまた、(末尾を削除した)政府公表文にも了解を与えたはずであり、全ては、米国のことが実は皆目分かっていなかったところの、山本の身から出た錆です。(太田)
 
(続く)