太田述正コラム#13072(2022.10.22)
<渡邊裕鴻ら『山本五十六 戦後70年の真実』を読む(その14)>(2023.1.16公開)

 「・・・工藤美知尋<(注21)>氏・・・<いわく、「・・・>私は、もし堀悌吉や山梨勝之進<(注22)>が海軍大臣になっていたら、避戦はできたのではないかと考えております。

 (注21)みちひろ(1947年~)。日大法卒、同大院修士、ウィーン大留学、東海大院博士課程満期退学、同大博士(文学)。「日本大学法学部助手、同専任講師を経て、1992年に社会人入試・大学院入試のための予備校である青山IGC学院を2020年まで主宰し、特に大学院入試に関する多くの著作を手がけた。2012年から日本ウェルネススポーツ大学教授(政治学講座、文章表現講座担当)を務める。硬式テニス、能楽、書画を趣味とし、観世流能楽師師範の資格を持つ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E8%97%A4%E7%BE%8E%E7%9F%A5%E5%B0%8B
 (注22)1877~1967年。「旧仙台藩士(上士)の長男」。海兵25期(次席)、海大5期。「中将の時に海軍次官を務め(1928年(昭和3年)12月10日- 1930年(昭和5年)12月1日)、1930年1月 – 4月に開催されたロンドン海軍軍縮会議を妥結させるために奔走した。反対勢力から暗殺される危険があったが、軍務局長・堀悌吉、海軍省先任副官・古賀峯一と共に、暗殺される覚悟で所信を貫いた。軍縮会議全権となった海軍大臣の財部彪が不在のため、山梨が海軍省を預かり、岡田啓介(前・海軍大臣、軍事参議官)の助力を得て、艦隊派の軍令部次長・末次信正をして「山梨のごとき知恵ある人物にはかなわず」と言わしめる活躍であった。・・・
 山梨への、伏見宮博恭王や東郷平八郎を頂点とする艦隊派の反発は強く、伏見宮が「山梨はいったい、軍服を着ているのか」と述べたほどであった。艦隊派から忌避された山梨は、同年10月にロンドン海軍軍縮条約が批准された後に次官を更迭され、佐世保鎮守府司令長官、呉鎮守府司令長官を経て1932年(昭和7年)に海軍大将に親任されたものの、翌1933年(昭和8年)3月11日、大角人事により現役を追われた。・・・
 昭和14年(1939年)10月、宮内大臣・松平恒雄(山梨と共に大正10年(1921年)のワシントン海軍軍縮会議で随員を務め、山梨の人柄を良く知っていた)と、海軍大臣・米内光政の両名の推挙により、皇太子・明仁親王の教育を任せられる人材として学習院長に就任した。明仁親王は、翌年の昭和15年(1940年)4月に学習院初等科に入学した。・・・
 昭和天皇は、戦後まだ間もない頃に、雑誌「心」の同人であった文人たちとの座談で、長與善郎から、陛下にお仕えした重臣や軍人の中で、陛下がもっとも篤く信任なさった者は誰でございますか、という趣旨を問われ、「山梨勝之進」と即答した(長與の著書より)・・・
 海軍兵学校に入校する前に宮城英学校でアメリカ人教師の指導を受けていたこと、青年士官時代に戦艦「三笠」回航委員としてイギリスに2年間駐在したことなどにより、高度な英語力を有していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E5%8B%9D%E4%B9%8B%E9%80%B2

⇒山梨勝之進については、ネット上に手掛かりが少なく、「米英・・・の巧妙なる、しかも利害に鋭敏なやり方を見ておると、日本の玄人の女性、エス(芸者)ですが、と同じようなものであって、なかなか一筋縄ではいかんものであると。そういうことを山梨さんは書いている」、
https://books.google.co.jp/books?id=BAjyCgAAQBAJ&pg=PR9&lpg=PR9&dq=%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E5%8B%9D%E4%B9%8B%E9%80%B2&source=bl&ots=0o4rkQ7AbD&sig=ACfU3U2Gx0TXsaNCftUvkhC1EkSKjC0whw&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwj78ZXduvP6AhXmmFYBHZUkD4E4UBDoAXoECAIQAw#v=onepage&q=%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E5%8B%9D%E4%B9%8B%E9%80%B2&f=false
と、「山梨勝之進は「世界史的な観点から海軍の名将を列挙するならば」として、テミストクレス、フランシス・ドレーク、ミヒール・デ・ロイテル、ホレーショ・ネルソン、ヴィルヘルム・フォン・テゲトフ、デヴィッド・ファラガット、東郷平八郎、山本五十六の8名の提督を挙げ・・・た上で、ホレーショ・ネルソン、デヴィッド・ファラガット、東郷平八郎の3名について特記している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%A9%E3%82%AC%E3%83%83%E3%83%88
くらいしか見つけられませんでした。
 後者については、「世界史的な観点から」と謳われていることから、その人選に取り立てて異存はありません。
 (東郷については、晩年の嘆かわしい政治的言動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E
はさておき、日露戦争の時の日本海海戦の際の指揮に(その勇気は讃えられるべきですが)独創性があったわけではなく、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3
しかも、日露の艦隊は、装備も練度も前者が後者を上回っていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6
のですから、大勝利を収めて当然でした。)
 しかし、前者については、「米英」と一括りしていることだけでアウトです(コラム#省略)。

 300万人の日本国民を死に追いやることはなかっただろうとも思います。
 そういった人たちを主流に残さなかった海軍は、やっぱり体質的に誤っていたんでしょうね」」(220)

⇒杉山構想完遂戦争全体での日本人の死者数を改めて集計するまでもなく、その戦争のお陰で戦後の日本本土人口は激増したのですし、人は必ず死ぬのですから、いかなる人生を歩んだのかが重要であって、全人類の解放のための犠牲となった人生を歩んだ彼らは決して「死に追いや」られたわけではありません。
 とまれ、これまでのところ、及川古志郎、と、及川が海相だった時の軍務局第一課長だった高田利種、の2名くらいしか、杉山構想完遂着手後の時期において評価できる帝国海軍軍人を私は見出し得ていません。
 しかも、この2名とも、私が評価できる言動を行ったのは、恐らくは他律的理由によるものである、と、私は見ている次第であり、帝国海軍の人材の払底ぶりは犯罪的とすら言えるのではないでしょうか。
 (詳しくは、次回東京オフ会「講演」原稿に譲ります。)(太田)

(完)