太田述正コラム#13076(2022.10.24)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その2)>(2023.1.18公開)
「・・・日本海軍内に・・・薩摩閥が・・・存在していた・・・。
井上によると、こうした悪風は財部彪(15期、海軍大将)の時代(昭和5年)ごろまで続いたという。
その後も多少尾を引いて、本当に一掃されたのは、米内光政海軍大臣(29期、海軍大将・首相)の登場以降であった。<(注2)>・・・
(注2)「軍隊内の藩閥勢力は、要職者に陸軍大学校や海軍兵学校卒業者が就任するようになると学校時代の成績が重要視されるようになったため、徐々に減少していった。・・・
海軍では出身地閥より閨閥が重視される傾向が生まれ、海外留学経験・海軍兵学校での席次とともに、夫人の血縁が出世の要件と言われた。・・・
財部彪大将(海軍大臣、横須賀鎮守府司令長官。山本権兵衛の女婿)・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E9%96%A5
財部彪は広義の薩摩藩である都城藩士の子で、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A1%E9%83%A8%E5%BD%AA
薩摩藩士だった山本権兵衛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%A8%A9%E5%85%B5%E8%A1%9B
の女婿になっている。
⇒この井上の認識は誤りでしょう。
むしろ、陸軍に関しては聞いたことがない「夫人の血縁」などという話が海軍でどうして取り沙汰されたのか、こそ問題ではないでしょうか。
とにかく、帝国海軍は、組織として歪んでいます。(太田)
大正6年1月19日、27歳の井上は、退役陸軍二等主計正(主計中佐)原知信(とものぶ)の三女で当時21歳の原喜久代と結婚した。
喜久代の長姉の光子は、のちの陸軍大将で首相となる阿部信行に嫁いでいた。・・・
⇒原知信は、陸軍監督補として従軍した日清戦争の時に金鵄勲章を受章している人物らしく、
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/479525.html
しかも、石川県出身
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E3%83%9F%E3%83%84
なので、石川県出身で陸軍という共通項を持つ阿部
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A1%8C
との縁があっても不思議ではありませんが、井上の場合は、宮城県出身で海軍であり、実は、「義姉・たま(兄・井上秀二の妻)の妹婿・大平善一の親友・阿部信行の義妹が喜久子という縁であった」(※)というわけです。
阿部には杉山構想は明かされていなかったと私は見ている(コラム#省略)ところ、井上が、阿部を通じて、陸軍動向を探った形跡がないのは、前にも申し上げたことがあったと思うけれど、不思議で仕方ありません。(太田)
井上は、シベリア出兵や第一次世界大戦に日本が参戦したことには非常に不満だった。
後日井上は、「軍隊は国の独立を保持するものであって、政策に使うのは邪道と思う。独立を保てぬという時は戦争をやるが、政策の道具に使ってはならぬ。政策に使われた時、軍人は喜んで死ねるか。第一次大戦に駆逐艦を出したのは不可と思っていた」と語っている。」(25、35、40)
⇒そういう考えならば、井上は海軍に勤務し続けるべきではありませんでしたし、仮に彼が海兵時代からそういう考えだったとすれば、海軍当局はそんな人物に海兵や海大で好成績をつけてはいけませんでした。
というのも、少なくとも、当時は、「概括的にいえば、軍隊の役割は、(1)国防、<だけではなく、>(2)国家の統一保持、国家体制(政治・経済・社会体制)の転覆阻止、(3)国の対外政策(国家利益追求、海外権益保護・拡大)の効果的な達成、にあ<り、>国家は軍隊を保有することにより、また事態に応じて武力の威嚇的使用や武力を行使することによって、前記目的の保持、達成を期している」
https://kotobank.jp/word/%E8%BB%8D%E9%9A%8A-58397
ことは常識だったからです。(太田)
(続く)