太田述正コラム#13078(2022.10.25)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その3)>(2023.1.19公開)

 「・・・海軍大学校の選抜試験は厳格かつ難渋だった。
 海大の試験の模様について井上は、「20人の学生を採用する場合、まず『筆答試験』及第として、口答試験に呼ぶのは40人、けれども私は、筆答試験の成績が60番だった。詮衡委員の一人が、「お前は60番だった。けれども外国へ行っていて勉強する暇がなかったろう。口答試験に呼んでみようという会議の結果だったので、お前、呼ばれるよ』と教えてくれた。当局も当てにしなかったのに、口答試験は一番でした」と語っている。・・・

⇒まるっきり「厳格」じゃないじゃん、と言いたくなりますね。
 これでは、井上に限らず、海大の時の成績なるものだって、信用できなくなります。(太田)

 日本が「八八艦隊」関税に向って邁進する中で、海軍予算は、大正5<(1916)>年度を境に陸軍予算を上回るようになり、大正10<(1921)>年には、国家予算に占める海軍予算の割合は、32.5パーセントにも達するようになった。・・・

⇒計数的に検証することができませんでしたが、1916年は第一次世界大戦中でしたし、1920年はシベリア出兵中でした(
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-07-16/2015071606_01_0.html
中の、グラフ「国家予算に占める軍事費の割合」参照。)
から、戦争中であり、大正末から昭和初頭にかけての平時の時代がどうだったか、知りたいところです。(太田)

 昭和7<(1932)>年1月1日付で井上は<大角岑生海相、左近司政三次官、豊田貞次郎軍務局長の下で
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%9C%81
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E8%B2%9E%E6%AC%A1%E9%83%8E >
海軍省軍務局第一課長に就任するが、その後軍令部の権限拡大を目論む艦隊派の人間と激しくやり合うことになった。・・・
 <その前になるが、>昭和4年7月2日、田中義一政友会内閣の跡を受けて、浜口雄幸民政党内閣が成立した。
 外相には幣原喜重郎、海相には財部彪がそれぞれ就任した。・・・
 日本政府はロンドン海軍軍縮会議の受諾を決定して、10月18日、全権に若槻禮次郎元首相、財部彪海相、松平恒雄駐英大使、永井松三駐ベルギー大使、海軍首席随員に左近司政三<(注3)>中将を選任した。・・・

 (注3)さこんじせいぞう(1879~1969年)。海兵28期(8番)、海大(3番)。「第一次世界大戦中はオランダやイギリスに駐在し、<欧州>各国の戦争で疲弊した現状を見聞した。帰国後は軍務局長、海軍次官など軍政部門の要職を歴任する<。>
 ロンドン海軍軍縮会議では首席随員を務め条約締結に貢献したことから条約派と目され、伏見宮博恭王ら艦隊派が主導した大角人事により予備役に編入された。
 その後第3次近衛内閣で商工大臣、鈴木内閣で国務大臣を務めた。東條内閣総辞職後に焦点となっていた米内光政の現役復帰に関し、難色を示した同期生の永野修身を説得している。鈴木内閣における左近司は、対立する陸相・阿南惟幾と米内を仲介するなど中心的存在であった。第二次世界大戦末期、最高戦争指導会議の議論が和平と戦争継続とに割れ、多数決次第では本土決戦による戦争継続があり得る事態となった。左近司は終戦へと導くべく、昭和天皇の聖断を仰ぐよう鈴木首相や米内海相に進言し、二人はこれを受け入れ日本のポツダム宣言受諾が決定した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E8%BF%91%E5%8F%B8%E6%94%BF%E4%B8%89

 <この>会議当時、海軍省軍務局長として部内の取りまとめに当たった<のが>堀悌吉(昭和4年9月~6年11月、軍務局長)<だ。>・・・
 加藤寛治<(注4)>・・・軍令部長・・・は非公式に「兵力量はあれで可なり」という意味のことを漏らしていた。

 (注4)ひろはる(1870~1939年)。海兵18期(首席)、海大非入校。「戦艦「富士」回航委員(英国出張)・分隊長、通報艦「龍田」航海長などの役目を果して、ロシア駐在となった。この時、同地にいた広瀬武夫と親しくしていた。海軍部内切ってのロシア通と呼ばれる存在であった。
 1904年(明治37年)3月、戦艦「三笠」砲術長として日露戦争に参加し、それ迄の各砲塔単独による射撃を、檣楼上の弾着観測員からの報告に基いて砲術長が統制する方式に改め、遠距離砲戦における命中率向上に貢献した。戦争後半の1905年(明治38年)2月に海軍省副官兼海相秘書官として勤務した。
 戦後、1907年(明治40年)1月から8月まで伏見宮貞愛親王に随行しイギリスに出張し、装甲巡洋艦「浅間」「筑波」副長を歴任。1909年(明治42年)、駐英大使館付武官。1911年(明治44年)、海軍兵学校教頭。
 第一次世界大戦中、南遣枝隊の指揮官として<英>海軍と協同してドイツ艦船の警戒に任じた。この時の指揮統率は見事であったという。1920年(大正9年)6月に海軍大学校校長を務めた。
 1919年7月から翌年6月にかけて、加藤は視察団の団長として、ドイツを含む<欧州>諸国に派遣された。・・・
 ワシントン会議には首席随員として赴くが、ワシントン海軍軍縮条約反対派であったため、条約賛成派の主席全権加藤友三郎(海相)と激しく対立する。しかしワシントン軍縮条約後の人員整理(中将は9割)で、“ワンマン大臣”と呼ばれた加藤友三郎が加藤寛治を予備役に入れず、逆に軍令部次長に据えたことなどから、加藤友三郎は加藤寛治を後継者の一人と考えていた可能性さえあり、両加藤の間に決定的な対立は存在しなかったという見方もある。
 1926年(大正15年)12月から1928年(昭和3年)12月まで連合艦隊司令長官兼第1艦隊司令長官、その間、1927年(昭和2年)4月1日に海軍大将に昇進している。東郷平八郎の「訓練に制限なし」という言葉をモットーに猛訓練を行う。しかし、1927年(昭和2年)に美保関事件で殉職119名を出し査問委員会で査問に付されるが責任問題は退けられる。
 1929年(昭和4年)1月、鈴木貫太郎が急遽侍従長に転じた後を襲って、海軍軍令部長に親補された。ロンドン海軍軍縮条約批准時にも巡洋艦対米7割を強硬に主張し反対、首相濱口雄幸、海相財部彪と対立。これが統帥権干犯問題に発展し、1930年(昭和5年)6月の条約批准後、帷幄上奏(昭和天皇に直接辞表を提出)し軍令部長を辞任。岡田啓介ら条約派に対し、伏見宮博恭王・末次信正らとともに艦隊派の中心人物となった。
 晩年、元帥府に列しようとする話が持ち上がったが、条約派の反対で沙汰やみになった、1935年(昭和10年)11月2日、後備役。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%AF%9B%E6%B2%BB

⇒海大卒業者でない加藤寛治を同校校長に就けたり、ワシントン会議の時に反抗的態度を取り、かつ、同会議で決まった兵力量では日本の海上防衛を全うできないと唱えた人物を軍令部次長に起用したり、といったところにも、帝国海軍の(教育を含む)人事の危うさが露呈している、と言いたくなりますが・・。(太田)

 ところが、<昭和5(1930)年>4月23日に開会された第58特別議会において、突如、統帥権干犯問題が新聞紙上を賑やかし始めると、加藤の態度は急に頑ななものになった。
 それと共に先の政府・・・決定に際しては、「いったん決定した以上、それでやるべきだ」と語っていた東郷元帥や伏見宮大将までが、ふたたび態度を硬化させた。」(41、43、66~68、84~85)

⇒武士に二言はない、という最低限の倫理、矜持、すら持ち合わせていない、元帥や大将達がいたことからも、すぐ上で私が指摘したことが裏づけられそうですが・・。(太田)

(続く)