太田述正コラム#13082(2022.10.27)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その5)>(2023.1.21公開)

 「・・・財部海相は、・・・加藤軍令部長・・・の上奏文には政府弾劾に類する文言があるとして執奏しなかった。
 ところが6月10日、加藤軍令部長は単独で天皇に拝謁し、右の上奏文を朗読して辞職を願い出た。
 しかし天皇は、加藤の上奏文は筋が違うと述べられ採決されず、その扱いを財部海相に一任された。
 ロンドン海軍軍縮会議の批准をめぐって犬養毅が野党党首として与党を攻撃していた最中の昭和5年5月20日のこと、軍令部参謀草刈英治<(注6)>海軍少佐が東海道線の寝台列車の中で自刃する事件が起こった。

 (注6)1891~1930年。海兵41期(12位)、海大26期。「旧会津藩士<の子。>・・・
 海大選科学生として東京外国語学校で仏語を修める。・・・海大時代は欠席が多く教官・寺本武治の世話で参禅していた。・・・
 [軍令部きってのフランス通とされ<、>フランス班主任在職中の<昭和>5<(1930)>年5月20日東海道線寝台車内で自殺。]
 死の5日前である5月15日には、私淑していた山下源太郎をその邸に訪問したが不在で会うことはできなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E5%88%88%E8%8B%B1%E6%B2%BB
https://kotobank.jp/word/%E8%8D%89%E5%88%88%E8%8B%B1%E6%B2%BB-1071457 ([]内)
 山下源太郎(1863~1931年)は海兵10期(4位)。「米沢藩<士の子。>・・・
 明治29年(1896年)4月より初めて軍令部に関わり、・・・年末から2年間イギリスに渡り、<英>海軍の研究を進めた。
 大正9年(1920年)12月1日、・・・軍令部長に任じられ<、>・・・<自らを含む、ワシントン>条約反対派が結集する軍令部の中で、山下は潜水艦・航空を含む次善策に着目させ、・・・漸減邀撃作戦を立体的に進化させることに成功した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E

 草刈少佐はロンドンから帰国の財部海相が東京駅に着く5月17日、機械を捉えて海相を暗殺しようと企てたが果たせず苦悩していた。
 その3日後の自刃事件であった。

⇒草刈りのウィキペディア(前出)は「財部彪が乗車していた東海道線車中にて自決した」としており、一体、どちらが正しいのやら。(太田)
 
 残された遺書には、「神国日本は、汝の忠死を絶対に必要とす。昔、和気清麻呂、楠木正成ありて、汝草刈英治を第三神とす」と書かれていた。
 この神がかった憤死が、新聞紙上に「ロンドン条約に対する憤死の抗議」と掲載されると、青年士官や右翼の人々の心情を激しく揺さぶることになった。
 反対の火種はますます大きくなり、霞ヶ浦航空隊の飛行科士官たちの条約反対パンフレット配布や水雷学校生徒の建白書提出などが相次いだ。
 そんな中で侍従長の鈴木貫太郎海軍大将は草刈事件に関して、「軍人は勅諭を奉戴し、一旦緩急ある時は戦場に屍をさらすのが本分である。故に帝国軍人たる矜持と名誉のため、ロンドン条約の経緯などで生命を捨てたものとは信じない。確かに神経衰弱のせいだと思う」と述べたことが伝えられると、更なる憤激の嵐を呼ぶことになった。・・・

⇒草刈に、日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者との濃密な接点は伺えず、自身もその気配がない以上、「〈干犯〉の語は北一輝の造語ともいわれるが,4月4日の軍縮国民同志会(代表頭山満)の決議文がもっとも早い使用例とみられる<ところ、>その後,条約に抗議した草刈英治少佐の自殺(5月20日),加藤軍令部長の辞表提出(6月10日)などをへて,10月2日条約は批准されたが,11月14日浜口首相狙撃事件がおこる」
https://kotobank.jp/word/%E8%8D%89%E5%88%88%E8%8B%B1%E6%B2%BB-1071457
という流れからして、私の見るところ、鈴木貫太郎説が基本的に正しいのであって、そんな彼が、軍令部内と世間に吹き荒れる反ロンドン条約ムードによって奮い立たされ、そのムードに藉口して、(それまで、何はなくとも自殺したかったものの躊躇していた)自殺を決行しただけのことではないでしょうか。(太田)

佐藤鉄太郎少将は、海軍軍令部次長の時に軍令部の権限拡大を目論んだが、時の海相の加藤友三郎の怒りに触れ、海軍大学校長に左遷されたといわれている。
 佐藤(鉄)少将は大正4年8月10日、加藤(友)海相と同日に第一班長から次長となったが、同年12月13日に海軍大学校長に転出している。
 わずか4ヶ月という異例の在任期間は、この左遷説を裏付けるものである。
 当時の海軍軍令部長は島村速雄<(注7)>大将であったが、鈴木貫太郎大将はこの時代に軍令部の権限拡大の企図があったことを確認している。」(89~90、108)

 (注7)1858~1923年。海兵7期(首席)。「土佐藩の郷士<の子。>・・・
 <英国>に3年間出張し、<英>海軍のノウハウを学び、自らの戦術立案能力に磨きをかけ<た。>・・・
 大正3年(1914年)に・・・軍令部長・・・となった。当時の海軍大臣は島村の<海兵同期の>親友・加藤友三郎であり、海軍省との連携は非常に円滑であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%9D%91%E9%80%9F%E9%9B%84

⇒島村には日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者的なものは見当たらないので、当時の軍令部権限拡大の目論見は筋金入りの日蓮主義者であった佐藤(コラム#13050)が独断で突っ走ったものでしょう。
 さもなければ、加藤は親友の島村との関係から、佐藤を簡単に馘首になど踏み切れなかったはずです。(太田)

(続く)