太田述正コラム#13084(2022.10.28)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その6)>(2023.1.22公開)

 「また、大正11年末から同12年にかけて、海軍軍令部の陣容が部長山下源太郎大将、次長加藤寛治中将、第一班長末次信正<(注8)>少将、第二班長高橋三吉<(注9)>大佐が主唱者となって軍令部の権限拡大が図られた。

 (注8)1880~1944年。海兵27期、海大7期(首席)。「1910年(明治43年)、海軍砲術学校教官となった末次は、艦の中心線上一列に主砲を装備し、一斉射撃の効率を高める独創案を無断で学生に伝授した。上官は黙殺したが、当時世界最高の海軍国であった<英国>が同様の思考で超弩級戦艦「オライオン」を建造したことで、末次の見識が認められた。
 1914年(大正3年)に渡英。従軍武官として戦艦「アガメムノン」や巡洋戦艦「クイーン・メリー」に乗艦して第一次世界大戦の現場に臨み、ユトランド沖海戦についての報告書を作成している。

 特に戦艦の変容と潜水艦の活用に関心を持ち、在英中に作成した「対米戦略論」では、潜水艇によるパナマ運河及びハワイの閉塞作戦に始まり、西太平洋での迎撃を想定した五段階の漸減戦略を構想している。
 1919年(大正8年)の軍令部第一課長(作戦課長)となる。
 1922年(大正11年)のワシントン軍縮会議では次席随員を務める。条約案に反対し、首席随員である加藤寛治と共に全権・加藤友三郎に抵抗したが、条約は締結された。
 12月1日、慣例では少将が補職される軍令部第一班長(作戦部長)に大佐で就任した。 日本海軍の作戦指導書海戦要務令の作成に携わって対米作戦の改善を進め、対米作戦の完成者との評価もある<が、> 後に、軍縮条約の影響による索敵・漸減・決戦構想について根本的な疑問を示し・・・ている。また海軍艦艇は重武装のため友鶴事件を引き起こしているが、末次は事前にこの重武装を戒める警告を発していた。
 日本の潜水艦は佐久間勉の殉職などを生みながら、未だ草創期にあったが、末次は漸減戦略の要となる潜水艦の強化を図り、1923年(大正12年)には自ら第一潜水戦隊司令官となり輪型陣突破の猛訓練を実施した。
 同時に潜水艦の性能向上に努め、艦隊運動に策応できる長距離航海可能かつ高速性を備えた艦隊用潜水艦が開発された。演習で末次指揮下の潜水艦3隻が戦艦2隻を撃沈するなどの実績もあがり、六割海軍である日本海軍は米国艦隊との対決に成算を得ることができ、末次の声価は高まった。
 1929年(昭和4年)、軍令部次長に進んでいた末次はロンドン海軍軍縮会議を迎えることとなる。なお当時の対米作戦計画の概要は次のようになっていた。
 当時わが海軍の対米作戦の要領は、開戦后速やかにガム島と比島を占領し、続いて石油その他の資源地域を確保し、一方米艦隊に対して、その渡洋来攻の途次を捕へ、主として潜水艦を使用してこれが漸減をはかり、わが近海にこれを邀へ、わが海軍力を結集して一挙に決戦を敢行してこれを撃滅するといふ方針であった。而して先ずこれが前提として、太平洋上広範囲に亘り、潜水艦及び小艦艇による索敵網を展開し、敵発見後は追尾触接を続ける必要があった。潜水艦に対する自主的要望量十万屯(ママ)としたのは、この計算から割り出したのであった。— 草鹿龍之介著『一海軍士官の半生記』より引用
 末次らが「対英米7割論」を唱え、軍縮条約に三大原則を主張した点については理論的根拠があった。海上での戦闘行動が行われた場合、彼我の勢力比は静止状態の勢力の自乗に正比例するというものである。
 つまり、米国10対日本7の勢力比は、戦闘行動中は100対49(ほぼ2対1)となる。この比率であれば、戦術的工夫で艦隊決戦の勝利を望み得るというものである。これには7割未満の艦隊は敗北するという戦史上の裏づけもあった。
 なお7割論を戦史研究から導き出したのは、秋山真之である。・・・
 同じ理由により、もし同一条件で10隻対7隻が戦闘した場合の残存艦は7隻対0隻である。 こうした数字の現実が、末次を対米戦術に腐心させ、月月火水木金金と謳われた猛訓練を生んでいるのである。一方海軍部内には同じ理由で対米戦、まして対英米戦は不可能と考える将官たちも少なからずいた。
 なお日露戦争以降、米国側でも日本を仮想敵国とした戦争計画が策定されており、同様に「日本側にとって70%の優位性は攻撃の成功にあたり必須であるだろう」と考えている。・・・
 3月17日、海軍は軍縮条約に不満があるという海軍当局の声明が夕刊に掲載されたが、海軍省が関知しないものであり、加藤寛治も知らないものであった。この声明により海軍部内に対立があることが表面化したが、声明をもらしたのは末次であった。政府は海軍側の意向を受けて軽巡洋艦及び駆逐艦を減らし、大型巡洋艦及び潜水艦の増加を求めるよう回訓した。
 3月22日、全権団から会議決裂の覚悟がなければ、新提案は無益との回答が来る。
 4月1日、首相・濱口雄幸は海軍首脳の岡田啓介、加藤寛治、山梨勝之進に了解を求める。海軍首脳は海軍の要望を受け入れることを条件に賛成し、同日午後の閣議で今後は航空兵力の増強に努める等の要望事項が了解され回訓発信となった。なお末次は海軍側の協議でこの回訓の発信に賛成している。末次はこの数日後、航空兵力増強策で海軍の意向を取りまとめた山梨に対し、「良いものを出してくれてよかった。そのへんで納まるよ」と語っている。
 4月2日、末次は黒潮会(海軍省記者クラブ)に不穏文書を発表しようとして海軍省に抑えられる。このことは表面化しなかったが、末次は海軍省事務取扱でもあった濱口総理に呼ばれ回訓に沿って努力するよう求められる。末次は了承し、3月17日の声明につき直立不動で次のように謝罪した。
 先に不謹慎なる意見を発表したるは全く自分一己の所為にして、甚だ悪かりし、自分は謹慎すべきなれども目下事務多端なれば毎日出勤しおれり、なにとぞしかるべき御処分を乞う— 『岡田啓介回顧録』より引用
 4月5日、貴族院議員との会合に出席した末次は秘密事項に触れ、それは文書となって一部に流出した。一連の行為は濱口の怒りを買い、政府内部で問題化した。海軍側では末次が公開の場で政治を語ったとして海軍省法務局で末次の処分が検討された。末次の行動は加藤寛治さえ持て余すものであった。
 4月17日、末次は加藤寛治から戒告を受ける。なお4月から5月にかけて末次宛に機密費が集中して支出されており、政治家や右翼団体への工作費ではなかったかとの推測がある。
 6月7日、昭和天皇に軍事の進講をした際、軍縮条約に強硬に反対する旨を述べた。これは既に軍縮条約締結に賛成した海軍省及び軍令部の方針に反するもので、天皇の不興を買った。
 6月10日、末次、山梨勝之進はそれぞれ軍令部次長、海軍次官から更迭された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%AC%A1%E4%BF%A1%E6%AD%A3
 (注9)1882~1966年。海兵29期(5位)、海大10期。「高橋が海軍の歴史に顔を出すのは、2年間務めた大学校教官を退いて大正11年(1922年)11月に着任した軍令部第2課長の時代である。前年にワシントン軍縮条約が調印され、高橋が課長に着任する直前の8月に発効となっていた。砲術専攻の高橋としては、幻に終わった八八艦隊があまりにも惜しく、条約に反対することを決意した。政府を牽引して条約を成立させた加藤友三郎大臣以下の海軍省が強力な権限を発揮したことを読み取った高橋は、海軍省から軍令部に権限を譲渡させ、軍令部の発言力を強化すべきと考えた。さっそく加藤寛治軍令部次長や末次信正第一班長に進言したが、実際にワシントン会議で主張を一蹴された加藤と末次は「時期尚早」として高橋の進言を却下した。さかのぼって大正4年、軍令部の権限拡大運動を画策した佐藤鉄太郎中将は、軍令部次長に着任して僅か4ヶ月で更迭された。加藤や末次が佐藤の二の舞を避けたいと思うのも無理はない。しかし、高橋案が却下されてから実現まで、僅か10年の歳月しか経たなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E4%B8%89%E5%90%89

⇒末次は、時代が総力戦の時代になったことが全く分かっていなかったと言わざるを得ません。
 また、高橋は、そのウィキペディアの叙述とは逆に、加藤や末次から艦隊派的な考え方を吹き込まれ、彼らの走狗として使われただけでしょう。(太田)

 これはワシントン海軍軍縮会議から帰国した加藤海相が、軍部大臣は武官でなければならないとは考えておらず、文官大臣の可能性を示唆したことと関係している。
 軍令部側は文官大臣が出現する事を心配して、軍令部条例の改定を急いだ。
 大正11<(1922)>年6月、加藤(友)大将は内閣総理大臣兼海相であったが、「自分の目の黒いうちには、そうしたこと(軍令部の権限拡大)はさせぬ」と言明していた。」(108)

⇒海軍軍令部の陣容を、どちらも、ワシントン条約に反対した、山下源太郎大将、加藤寛治中将、を、それぞれ、部長、次長、とし、かつ末次信正を抜擢して送り込んだ・・加藤寛治に関しては次期部長含みで・・のは加藤友三郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
であり、加藤(友)が、「文官大臣の可能性を示唆した」のは、加藤自身が、この3人に軍令部の権限拡大をさせるためだ、と、私は見ています。
 とすれば、加藤(友)は、隠れ島津斉彬コンセンサス信奉者で、同コンセンサス完遂のための構想策定も近いという意識があった、ということになりそうなのですが、加藤のそれまでの事績に彼がそうであったことを推認させる明確なものがない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%8F%8B%E4%B8%89%E9%83%8E
https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%8F%8B%E4%B8%89%E9%83%8E-45573
こともあり、私は、原敬が1921年11月4日に暗殺され、山縣有朋は「西園寺に首相就任を打診したが断られ、西園寺と松方の談合により高橋是清による政友会内閣が成立することとなった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
ところ、その折、この山縣が、(まだ松方正義(~1924年)が存命であったものの、)
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E6%AD%A3%E7%BE%A9-16548#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2
自分が亡くなれば「事実上最後の元老として後継首相の選任にあた<ることとなる>・・・西園寺<公望>」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E8%80%81-61178
に対し、高橋の次の首相は、必ず海相の加藤友三郎にすること、その旨を加藤に伝達する際、彼に対して、島津斉彬コンセンサスの概要と同コンセンサス完遂のための構想策定が近づいていること、を伝え、この構想の完遂に当たって議会の関与を許してはならないことから、海軍省と軍令部の関係を陸軍省と参謀本部の関係と概ね同じものにするよう取り計らうこと、を命じることを遺言して、翌1922年2月に死去し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
西園寺は、言われた通り措置した、と、私は想像するに至っている。(太田)

(続く)