太田述正コラム#13086(2022.10.29)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その7)>(2023.1.23公開)

 「・・・高橋(三吉)第二課長の案に対して、加藤(友)首相兼海相の叱責を恐れた末次第一班長は難色を示し、加藤(寛)次長も腰が引けた。

⇒加藤(寛)も末次も、加藤(友)から、任命時に全て言い含められていたのでしょう。(太田)

 ところが大正12<(1923)>年6月、次長が堀内三郎<(注10)>中将となるに及んで、大正13<(1924)>年2月、軍令部から海軍省に商議が行なわれた。

 (注10)1870~1933年。海兵17期、海大2期、英海大。「篠山藩家老・・・の三男<。>・・・弟 堀内謙介(外交官)<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%86%85%E4%B8%89%E9%83%8E

⇒1923年の6月に首相在任のまま死去した加藤友三郎は、5月15日に兼務していた海相ポストを財部彪に譲った際に、財部の海相在任中の時機を見ての軍令部権限強化に向けての布石を命じ、それが結果として遺言になった、と私は見ています。(太田)

 海相は村上格一<(注11)>大将であった。

 (注11)1862~1927年。海兵11期(次席)、仏留(1897~1900年)。「教育本部長となった。在任中に村上は、海軍の教育本部を陸軍の教育総監部のように海軍の教育機関すべてを管掌する組織に改編しようと画策した。その一部が実現したのは村上が本部長を退任してから半年後のことで、海軍経理学校と海軍軍医学校の直轄化が達成された。
 この間、大正7年(1918年)7月2日に村上は海軍大将に進級した。かつて新政府海軍が発足した頃、海軍では佐賀藩出身者が薩摩藩出身者を凌駕するほどの存在だったが、その後海軍が薩摩閥の牙城となるにつれ肥前派の士官はことごとく大将昇進を目前に海軍を去ることとなった。そうした中で村上は佐賀県人待望の海軍大将第一号であり、その後百武三郎・安保清種・百武源吾・吉田善吾・古賀峯一と続く海軍大将の嚆矢となった。
 こののち呉鎮守府指令長官を経て軍事参議官となり、待命間近と思われた矢先の大正13年(1924年)1月、財部彪前海軍大臣から後任に指名されて村上は清浦内閣の海軍大臣として入閣する。しかし陸海軍大臣を除くすべての閣僚を有爵者と貴族院議員で充てた清浦内閣は「特権内閣」だとして批判され、護憲三派による非難轟々の嵐にうたれて5か月で瓦解。村上は大臣としての手腕を発揮する機会もなく、海軍省を再び財部に託して表舞台から去っていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%A0%BC%E4%B8%80

⇒その財部は、村上の海相任期が短期間になるであろうことを見越しつつ、更に、村上に同じことを命じた、とも。(太田)

 昭和7<(1932)>年2月、伏見宮が海軍軍令部長に就任した。
 この時、在任わずか4カ月の百武源吾<(注12)>に代わって次長に就任した加藤寛治直系の高橋三吉は、軍令部第二課長時代に果たせなかった軍令部の権限拡大をふたたび目論むことにした。」(109)

 (注12)1882~1976年。海兵30期(首席)、海大11期。「佐賀県出身。兄・三郎と源吾は海軍兵学校を首席卒業し、ともに海軍大将となった日本海軍史上唯一の兄弟である。・・・
 大正4年(1915年)から2年間、<米国」>に駐在する。ここで<米国>の国情を詳細にわたって研究し、日露戦争後に<米国>を仮想敵と定めた海軍の方針が無謀なものであることを悟り、対米協調路線を推進する決意を固めた。・・・
 大正14年(1925年)に国連軍縮会議海軍代表に任じられ、交渉を通じてさらに対外協調路線の重要性を認識し、海軍大学校教頭に就任後は以前の教官時代以上に協調路線を熱く学生に説くようになった。・・・
 昭和2年(1927年)に軍令部第1班長に就任し<たが、>・・・<昔、>加藤寛治の技量に感服したものの、再会した時には・・・自分のことを忘れていたことに失望し、幕僚が同席した酒の席で加藤の薄情さを面罵したことがあった。このために軍令部第1班長(作戦部長)を2年務めながら軍令部次長の座を在任4ヶ月で追われ、軍令部総長就任の芽も奪われたとする見方がある。また陸軍に対しても、済南出兵に際して徹底介入を目指す荒木貞夫参謀本部第1部長に対して即時撤退を進言し、煙たがられている。満州事変の際に関東軍を視察訪問した百武に対し、本庄繁司令官が会見を拒否した原因と言われる。
 昭和4年(1929年)に第5戦隊司令官として一時軍令部を離れるが、昭和6年(1931年)10月に統帥権干犯問題処理のために末次信正・軍令部次長が更迭され、さらに後任の永野修身が軍縮会議全権となったため、百武が次長に就任した。既に軍令部長は因縁深い加藤寛治から谷口尚真大将に交代していたが、谷口自身も百武に劣らず偏屈で知られており、軍令部内では不評であった。この間は満州事変に対応すべく、大陸の駐留部隊の増強と関東軍の動向を把握する必要性があったが、軍縮条約遵守を最大の懸案事項とする谷口・百武の下では事態が解決しないと軍令部員は考え、また加藤が海相・大角岑生に圧力をかけ両名とも翌年2月に更迭された。 以後の百武は、・・・できるだけ海軍省・軍令部と関わらない職を転々とした。・・・
 昭和11年(1936年)12月より翌年4月まで横須賀鎮守府司令長官を務め、この間に大将に昇進して百武の現場生活は終わった。以後は昭和17年(1942年)7月まで軍事参議官として現役に留まった。参議官としても陸海軍参議官の中で開戦にただ一人反対し、最後まで対米協調に邁進した。永野修身・軍令部総長が体調を崩し、引退をほのめかした際に、百武が序列から見て総長に任じられる可能性が高いことが問題となった。後年百武自身が「軍令部総長や海軍大臣に就任することがあれば、開戦に反対であり思いきったことをやるつもりであった」と述べているように明白な避戦派である百武が総長となることを阻止する水面下の工作の結果、永野続投が強行され、さらには戦時下にも関わらず百武を予備役に編入し、海軍から追放することになった。・・・
 海軍を追われた百武は、九州帝国大学から総長候補に指名される。これは工学部が新総長を学外の第一人者から招聘する意向を固め、海軍経験者の中から百武を選んだものであった。学習院長経験者である野村吉三郎大将から説得され、百武は総長選挙に立候補し、昭和20年(1945年)3月から11月まで総長を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%AD%A6%E6%BA%90%E5%90%BE

⇒百武が、米国の国力(潜在軍事力)を正しく理解していたことはさして称賛には値しないのであって、そんなことは、帝国陸軍の陸大卒クラスにとっては常識だったと私は考えており、百武のような理解をした者が海軍には少なかったこと自体が、海軍の人事教育の歪みを示すものであると思うのですが、百武もそこまでの人間であって、海軍内外の日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者達が当時何を目論んでいたかについては、彼は全く分からなかったし、分かろうとする努力も死ぬまで全くしなかった、と断罪してよいでしょう。(太田)

(続く)