太田述正コラム#1610(2007.1.9)
<日本の民主主義の源も江戸時代(その3)>(2007.7.5公開)
(2)自由民権運動
ついでに、明治初期の自由民権運動をどう見るべきか、私見を申し上げましょう。
先の大戦後、マルクス主義的歴史観が日本の人文・社会学界を席巻したため、自由民権運動についても、長い間、下掲のような荒唐無稽な見方がなされていました。
「自由民権論の根底には、基本的人権を超歴史的な人民固有の神聖不可侵の権利とみなす天賦人権論と、ブルジョア民主主義革命を志向する革命的民主主義思想がその核心にあり、次世代の無産階級解放思想へとつながる礎石になった。」(家永三郎編著『近代日本思想史講座』第1巻『歴史的概観』筑摩書房1959年。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/27/20061127000000.html
(1月9日アクセス(以下同じ)による紹介)
最近はどうなのでしょうか。
2004年と2006年に上梓された本は、それぞれ以下のように自由民権運動を見ています。
「民権と国権を対立構図として描き、民権派=民権論、政府=国権論として捉え、自由民権運動が「民権から国権へ」と転換したと捉える見方が一般的だったが、植木枝盛・中江兆民などこれまで高く評価されてきた理論家においても、国権は前提となっており、皇国思想や天皇親政を公的に批判したことは一度もない。これは、自由民権運動が国学以来の系譜の延長線上にあるからだ。そうである以上、自由民権運動は民主主義的な運動であるというよりも、近代日本にナショナリズムを定着させる下からの愛国主義運動だったととらえるべきだ。そもそも愛国公党という命名にそのことが現れていた。そして対外的には「民権派がよりタカ派的であって、彼らこそが急進的ナショナリズムの担い手」であることは、征韓論争から壬午・甲申事変にいたる具体的政治問題に即すれば明らかだ。」(田村安興『ナショナリズムと自由民権』清文堂出版2004年。
http://seibundo-pb.co.jp/mybooks/ISBN4-7924-0549-1.html
による紹介を更に要約した)
「身分制や領主的割拠体制の解体、私的所有権や経済的自由の確立といった近代国家の基本的枠組は、明治政府によってすでに実現されていた。とりわけ、ほぼすべての耕作地を農民の私有地と認めた地租改正は、広大な直営地をもつ封建領主がそのまま大地主に転化できた西欧の市民革命よりもはるかに徹底した土地改革だった。民権運動はそうした基盤のうえで、政治制度・政治参加をめぐって政府と争っていたのである。しかも、人民に『天下と優楽を共にするの気象』をおこさせるには『天下の事に与らしむる』ほかない、と民撰議院設立建白書が強調したように、民権運動は政府に議会開設を要求するとともに、国家の運命に自分の運命をかさねる『わが国』意識、『国民』意識(ナショナル・アイデンティティ)を民衆にもたせようとする運動だった。・・・ラディカルな民権思想家の植木枝盛も、自国の出来事を『恰も他国異域の事柄』のように傍観している人は政府にも外国人にも『従い易きもの』で、『ほんに国家の死民でござる』と断じている(『民権自由論』79年)。徴兵逃れに懸命な民衆も、『自由新聞』などから『護国の義務』をわきまえない『惰弱』な者と罵倒された。民権派はまた、インフレや買い占めで値上りした米価の引き下げを要求する行動や、デフレ期に借金の返済猶予・棒引きを求めた民衆の運動(借金党・困民党)を、営業の自由や財産権を侵害する『社会党』類似の行為と非難した。租税協議権や思想・身体の自由などの近代的権利論の基礎に私的所有権がある以上、自由な経済活動への政府の介入を民権派が認めないのは当然だった。・・・したがって、民権派と民衆が一体になって明治政府に対抗したという、かつての民権運動史研究が描き出したような二極対立の構図はリアリティに乏しい。近代国家建設という目的を共有したがゆえに、鋭く対立せざるを得なかった明治政府と自由民権運動のほかに、政府に強く反発しながら民権派とも異なる願望をもった民衆という独自の存在を加えた、三局の対抗としてとらえた方がよいのではないか」(牧原憲夫『民権と憲法』岩波新書、2006年。
http://blog.drecom.jp/ryoga/archive/273)
この二人の学者は、さすがにマルクス主義的歴史観からは解放されており、その結論もたまたま似通っていますが、私からすれば、まだまだ物足らないものがあります。
というのは、この二人の結論程度であれば、田村氏が言及するところの征韓論から自由民権運動への流れに関するこれまでの通説(注6)や、牧原氏が言及するところの民権思想家の植木枝盛(1857~92年)らの主張を踏まえれば、すぐ到達できるはずだからです。
(注6)征韓論<とは、>日本の幕末から明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛(西郷自身の主張は・・・遣韓論)、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力で朝鮮を開国しようとする主張<であるところ、>1873年8月に明治政府は西郷隆盛を<韓国に>使節として派遣することを決定するが、同年9月に帰国した岩倉使節団の大久保利通、岩倉具視・木戸孝允らは時期尚早としてこれに反対、同年10月に遣韓中止が決定された。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野(征韓論政変または明治六年政変)し、1874年の佐賀の乱から1877年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となった。(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93%E8%AB%96)
私自身は、「ラディカルな」植木枝盛ならぬ、本流の民権思想家、中江兆民(1847~1901年)の以下のような言に注目しています。(石田雄「明治政治思想史研究」未来社1954年 より。)
「暴政府の下に居り暴官吏の制を受け束縛の苦到らざる所無<き西欧の民に比べ、1881年の>吾邦の如きは即ち然らず。<何となれば、>国会未だ設けず憲法未だ立たずと雖も然れども天子の聖明なると宰相の賢智なるとを以て・・・・詔を下して将さに立憲の制に楯(ただし、木篇ではなく行人篇)はんと欲せんとする意を宣し<たり>」
→まだ憲法も国会もない明治初期の日本の方が西欧諸国に比べて人民が自由を享受している。
→日本は江戸時代においてすら、自由の面で西欧諸国に比べてさほど遜色はなかった。
(太田の理解)
「嗚呼人民たる者能く政権を民有すること一に英国の如くなることを得ば此れも亦恨無きに非ずや」(301頁)
→この上、日本が英国のような民主主義国家になることができれば言うことはない。
→西欧はいかなる意味でも日本の参考にはならない。
(太田の理解)
「我日本国民自由の権を亢張し延ゐて東方諸国に及ばんと欲す」(305頁)
→日本は立憲主義を確立することで、人民が実質的に享受している自由を更に進展させるとともに形式的にも担保した上で、東アジア諸国への立憲主義の普及を図るべきだ。
(太田の理解)
「我土に非ざる国土にしても苟も他国の攻略する所と為るときは、直に我国土を割取られたると一般の患害を生ずること有り。・・・・朝鮮と満州の問題は慎重中幾分の果断を加味するを要す」(308頁)
→ロシアが朝鮮や満州を獲得するようなことがあれば、日本の安全保障にとってゆゆしい問題であり、何としてもこれを回避すべきだ。
(太田の理解)
何と言うことはない。これは、直前のコラム(#1609)でご紹介した横井小楠の主張をオウム返しに述べているだけではありませんか。
(続く)
日本の民主主義の源も江戸時代(その3)
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