太田述正コラム#13088(2022.10.30)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その8)>(2023.1.24公開)

 「高橋<三吉>は、昭和7<(1932)>年から8年11月までの次長時代、(一)大本営関係規定、(二)軍令部編制、(三)軍令部令、(四)省部互渉規定の改定を実現させたが、これに頑強に抵抗したのが軍務局第一課長の井上成美だった。・・・
 ところが7月17日に至って大角海相は、海軍省主務局の不同意のまま基本的同意をあたえてしまった。

⇒1932年2月2日付で(軍令部権限強化含みで(太田))軍令部長に伏見宮博恭王を就けた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E5%8D%9A%E6%81%AD%E7%8E%8B
のは1回目の海相を安保清種から引き継いでいた大角
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3 前掲
であるところ、安保も大角も財部の海相時代にその次官を務めていて、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BF%9D%E6%B8%85%E7%A8%AE
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A7%92%E5%B2%91%E7%94%9F
財部は、加藤友三郎から、軍令部権限強化の課題を与えられており、それを安保に伝え、安保が更にそれを大角に伝えた、という背景があった、と私は見るに至っています。
 こういったことについては、改めて、次回の東京オフ会「講演」原稿で取り上げる予定です。(太田)

 その後、法文化作業が行なわれ、天皇の裁可を経て、昭和8年10月1日、新軍令部条例と新省部互渉規定は制定発布されることになった。・・・
 <少し時計の針を巻き戻すと、>昭和8<(1933)>年1月、岡田啓介に代わって大角岑生が海相に就任した。

⇒2回目の海相を務めていた岡田に代わって、大角が2回目の海相になった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3 前掲
というわけです。(太田)

 すると八方美人的な大角は、「宮様」部長である伏見宮軍令部長や統合元帥に迎合して、加藤友三郎の流れを汲む条約派の将官を次々に予備役に追いやった。
 具体的には谷口尚真<(注13)>、山梨勝之進、左近司政三、寺島健<(注14)>、堀悌吉、坂野常善ら日本海軍の頭脳と言われた将官たちであった。」(109、111~112)

 (注13)なおみ(1870~1941年)。海兵19期、海大3期。「1930年、ロンドン海軍軍縮会議を巡って海軍が二分し始めた同年、海軍軍令部長に就任。無条約派(艦隊派)が大勢を占め、青年将校や予備役将官らの反対を受ける中、条約派の谷口は、海軍部内の調整に努め批准実現に貢献した。・・・
 第二艦隊司令長官時代、・・・参謀長<だった>米内光政・・・は谷口の「米英と戦わず」の考えに共鳴し、谷口が予備役になった後の意志を受け継いだ。・・・
 軍令部長就任後満州事変が勃発したが、海軍は事前に情報を得ており、谷口は満州事変が日米戦争につながることを懸念して満州事変を起こしてはならないと反対した。事変勃発後も大陸出兵を図る陸軍の動きに反対し、海軍艦艇の派遣を拒否している。こうした谷口の態度を加藤から聞かされていた元帥・東郷平八郎は、”谷口はなんでも弱い”と不満を抱き、谷口を面罵した。結局谷口は同様の考えであった次長・百武源吾とともに軍令部を追われることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E5%B0%9A%E7%9C%9F
 (注14)1882~1972年。海兵31期(4番)、海大12期。「寺島は<省部交渉>妥結後に原田熊雄<(=西園寺公望!(太田))>に対し、加藤寛治、金子堅太郎、大角、伏見宮の動きなどの裏面事情を語り、改定を食い止めようとした旨を語っている。しかし寺島は最後まで抵抗を続けた井上の説得を図ってもいる。寺島の言葉は「今度ある事情により、この軍令部最終案により改正を実行しなければならないことになった。こんなバカな軍令部案によって制度改正をやったという非難は局長自ら受けるから、枉げてこの案に同意してくれないか」というものであった。井上は直属上司たる寺島の言葉にも妥協しなかった。・・・
 海軍中将で予備役となったのち、東條内閣で逓信大臣、鉄道大臣を務めた。・・・
 <ちなみに、>寺島自身の言によれば海大時代の成績は優れていたわけではない。寺島の伝記はその理由に教官に迎合しなかったことを挙げている。・・・
 海大で好成績を得るには教官の意に逆らうことは不利であった(吉田俊雄『海軍参謀』)。海大首脳の機嫌を損ねたため席次を引き下げられた者がいたことは、教官経験者の高木惣吉も自身の体験として書き記している(『自伝的日本海軍始末記』)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%B3%B6%E5%81%A5

⇒「1933年<1~7月>・・・当時の省部主要幹部は以下のとおりで、海軍省の寺島、井上は条約派、軍令部の伏見宮、高橋、南雲は艦隊派に分類される。
海軍省              軍令部
大臣 大角岑生 (海兵24期)    軍令部長 伏見宮博恭王(海兵18期相当)
次官 藤田尚徳 (海兵29期)    次長 高橋三吉 (海兵29期)
軍務局長 寺島健(海兵31期)    第一班長 嶋田繁太郎 (海兵32期)
第一課長 井上成美 (海兵37期)  第二課長 南雲忠一(海兵36期)」(上掲)
であったところ、寺島は、大角が軍令部に屈してしまった理由を明かしてくれないのに業を煮やして、最後の重臣である西園寺に訴えたけれど、やはり理由が明かされないまま、訴えが却下され、最終的に諦めたのではないでしょうか。
 なお、海大の成績の付け方は、戦争を悪とした堀悌吉を次席とした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%82%8C%E5%90%89
ことも併せ勘案すると、教官に対する迎合度で左右されたというよりは、かなり恣意的なものだったと見た方が良さそうであり、いずれにせよ、海大の、というか、海軍の教育機関一般の、教育の質の低さが改めて推認できるというものです。(太田)

(続く)