太田述正コラム#13094(2022.11.2)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その11)>(2023.1.27公開)

 「・・・大井篤<氏いわく、>・・・「・・・海兵<が>・・・休暇になると大抵の生徒は帰省するものだが、・・・藤井斉<(注17)>(ひとし)・・・は郷里の・・佐賀・・・の方へは足を向けずに東京へ出かけて行った。

 (注17)1904~1932年。「藤井が入校した頃の兵学校はワシントン海軍軍縮条約の影響で、兵学校の採用生徒数が削減された時期であった。52期生は236名であったが、藤井ら53期生は62名である。皇族である伏見宮博信王、戦後に海上自衛隊の海将となる福地誠夫らが藤井の同期生である。
 入校後の藤井は勉学に力を入れることは無かったが、目立つ存在であった。同期生の小手川勝彦と大アジア主義を唱えて問題になり、兵学校側は退校させることを考慮している。退校を免れた藤井であったが、時の軍令部長・鈴木貫太郎が来校した際、軍縮条約を非難し、アジアの解放を訴える演説を行った。こうした中、藤井の母校・佐賀中学出身の生徒を中心に藤井に共鳴するものが集まっていった。兵学校の休暇中は東京に行き、大川周明、安岡正篤らの知遇を得ている。1925年(大正14年)7月海軍兵学校を卒業。席次は27番であった。・・・
 藤井は青年将校の間で高まっていた国家革新運動(昭和維新)の海軍側の指導者であった。兵学校以来の同志と王師会を組織し、発足当時の会員は10名前後でロンドン海軍軍縮会議のころは40数名に増加している。この王帥会は政党政治を非難し、国家の改造を目的としたものである。藤井は西田税が組織した天剣党に加盟し、陸軍青年将校との連携を図っており、十月事件への参加も考えていた。しかし、橋本欣五郎らに不信を抱き途中で離脱している。
 1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約批准には強硬に反対した。海軍大臣・財部彪が軍縮会議から帰国し、東京駅に着いた際に、『売国全権財部を吊迎す』と書かれたノボリを掲げたのは藤井、三上卓らである。
 その後も『憂国慨言』と名づけた冊子を海軍部内に配布し謹慎7日の処分を受けた。しかし、藤井は右翼団体と結び、海軍省や濱口雄幸内閣の揺さぶり工作を行い反対活動を継続している。
 藤井に影響を与えた人物に、大川周明、井上日召、権藤成卿らがいた。北一輝ともつながりはあったが、農本自治社会を唱える権藤に共鳴していたという。また、大洗の護国堂を頻繁に訪れては、所在していた井上と議論を重ね、盟約を結んだ。なお、井上の兄は殉職した井上二三雄海軍中佐である。・・・
 藤井は目的達成には指導者層の変革が必要であるとし、実力行動を考えるようになる。井上から四元義隆を通じて1932年(昭和7年)2月の決起を伝えられ、藤井は同意を与えていたが、1月に発生した第一次上海事変に出征することとなり、実力行動に移ることなく戦死した。
 藤井の戦死は2月5日であったが、井上を中心とした血盟団事件は2月9日の井上準之助暗殺で始まった。
 海軍側の同志であった三上卓、古賀清志らは5月15日、犬養毅首相を総理官邸において射殺した(五・一五事件)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E4%BA%95%E6%96%89

 藤井は、右翼革新的な言葉を使って同級生のみならず下級生にも仲間を集めに行ったのである。・・・
 この中から、三上卓ら11名が五・一五事件に加わっている。
 ・・・その藤井を指導して革命児的成長に最も影響を及ぼした<のが>大川周明・・・だ<。>
 大川の思想と行動には、根本的にはニーチェ哲学の影響があった。
 陸軍の石原莞爾も大川と前後して鶴岡中学で学んでいるが、彼の場合にも同じことが言える。
 ニーチェを謳歌した高山樗牛がやはり鶴岡中学の出身で、あの頃の青少年にとっては、文学作品や評論などを通して樗牛への心酔は大変なものだった。・・・」・・・
 <また、>杉本健<氏いわく、>・・・「藤井にとって五・一五事件への決定的な飛躍台となったのは、霞ケ浦航空隊である。彼がここに転属した昭和4年11月、小林省三郎(少将)が同じく指令として着任し、翌年春、井上日召と、次いで橘孝三郎らと相知ったからである。・・・
 ・・・藤井<は>最も尊敬する海軍の先輩として・・・小林<と>・・・末次(信正)の名を並べてあげていたと言われる<。>・・・この頃、海軍省の教育局長は末次であり、大学校長はやはり右翼的強硬論者中村良三、続いて高橋三吉となったが、大川は兵学校、大学校ばかりでなく、鎮守府、要港部、工廠にも講演を依頼されて出向いた。そしてほとんどの場合、『日本思想及び日本精神』という演題を掲げた。大川は、『自分の講演が、ロンドン会議の結果に憤激している士官に感銘を与えた』と書いている。藤井はやがて九州の大村航空隊に、次いで航空母艦『加賀』に乗り組み、7年の早春2月、上海で空の戦線に散った。大川、井上、橘ら3人は、五・一五事件の思想的背景となったばかりでなく、資金や武器の調達に力を貸し、実行についても指導的役割を演じていた。ただ井上はすでに2月、血盟団事件の背後の人物として逮捕されていたが、大川と橘は、五・一五事件の民間側被告として起訴されて刑に服した」・・・」(135~137)

⇒社会教育研究所/大学寮は、1期 大正11(1922)年から1年間、2期 12(1923)年から1年間、3期 13(1924)年から1年間、陸海軍の若手将校達を教育したところ、「大川は・・・『社会教育研究所』に居を移し、牧野<伸顕>内府・宮内次官関屋貞三郎・荒木貞夫・秦真次・渡辺錠太郎らを講師として、日本主義の鼓吹につとめた。間もなくそれは『大学寮』と改名された。西田税は肺を病んで十四年六月予備役となってこの大学寮に入り、西田を通じて陸士の士官候補生や青年将校が大学寮に出入し、また海軍側も藤井斎(海軍少佐、上海事変で戦死した)をはじめ古賀清志(五・一五関係者)らが出入した・・・大学寮でのセミナーにおいては、一般幕僚や陸海軍大学の各学部の最も優秀な初年生が参加し、・・・授業が終わると、彼らはよく茶屋にでかけて互いに飲み、女と遊んだ。・・・日本の二次大戦中の参謀<総>長、杉山大佐<は、>ナプキン大のタオルの七枚のベールを付けた滑稽な踊りの名人であった・・・。」(以上、コラム#10427)、「「大正10年<(1921年)>3月、丸の内の中央気象台跡に社会教育研究所<が設立され、>」その運営に牧野が深く関与した(コラム#10427)ことからすると、それ以前から、貞明皇后の方から牧野にアプローチがあり、それを受けて密かに同研究所の設立に向けて動き出していた牧野を、同研究所設立の目途が立った時点で、同皇后が、牧野を指名し、彼を表に出して宮内大臣に就任させたのではないでしょうか。
 その社会教育研究所設立の目的は、牧野が公然と陸海軍の若手俊衆達を講師や学生として身近に集めて、彼らに対して日蓮主義を浸透・普及させるのと並行して、陸海軍の軍人で日蓮主義完遂を託せる人物を物色するためだったと思われるのであって、牧野が最終的に白羽の矢を立てたのが、国連連盟空軍代表随員としてのジュネーブ勤務から帰国したばかりの杉山元だった、ということではないでしょうか。」(コラム#12198)、という話を思い出していただきたいのですが、同研究所/寮で「正規」に学んだ可能性があるところの、当時海大入校中の後に著名となる海軍将校達は、次の通りです。
 (★は、艦隊派の雄、ないしは陸軍に協力的であった者。それぞれ検索をかけて過去コラムを参照されたい。井上成美には入校に向けての声がかからなかったのではなかろうか。)
21期(大正10年12月から2年間):伊藤整一、岡敬純★
22期:(大正11年12月~)井上成美、宇垣纏
23期:(大正12年12月~)保科善四郎
24期:(大正13年12月~)山口多門★、福留繁、草鹿龍之介
25期(参考):(大正14年12月~)加来止男★、石川信吾★、高木惣吉
26期(参考):(大正15年12月~)草刈英治★
 ここから、同研究所/寮の閉鎖後、どうやら、岡敬純ないし山口多門を通じて、石川信吾が感化され、更にこれら3人の中の誰かによって草刈英治が感化された可能性が大です。
 となると、「石川信吾は、杉山が海軍内で発掘し確保した海軍向け工作員だった、というのが私の見方です。・・・岡敬純は、石川を通じ、杉山の掌の上で転がされていた、ということでしょう。」(コラム#13008)と前に書いたけれど、岡敬純こそ、杉山が直接確保した最初の海軍向け工作員だった、と言えそうですね。(太田)

(続く)