太田述正コラム#13096(2022.11.3)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その12)>(2023.1.28公開)
「・・・<1936年の>二・二六<事件の日の>・・・午前9時、兼ねて準備をしていた一個大隊の特別陸戦隊を乗せた「木曾」が横須賀港を出港しようとしていると、軍令部から、「警備派兵は手続きが要るので、横鎮が勝手に軍艦を出すわけにはいかん。手続きが済むまで待て」との命令が入った。・・・
軍令部総長の伏見宮は、少なくとも午前9時半頃までは反乱に同情的に行動した。
伏見宮は反乱に好意的な加藤(寛)と真崎(甚)をともなって午前9時に自邸を出て参内し、両大将を待たせて単独で天皇に会って、速やかな組閣と戒厳下令をしないことを願った。<(注18)>
(注18)「川島義之陸軍大臣に、決起部隊がクーデターの趣旨を訴えたとき・・・「陸相の態度、軟弱を詰問したるに」「陸相は威儀を正し、決起の主旨に賛同し昭和維新の断行を約す」・・・川島は、決起部隊から「軟弱だ」と詰め寄られ、彼らの目的を支持すると、約束していたのだ。・・・
この直後、川島は、決起部隊が軍事政権のトップに担ごうとしていた皇道派の幹部・真崎甚三郎大将に接触。「謀議の結果、決起部隊の要求をいれ、軍政府樹立を決意」・・・
事件発生直後、・・・小笠原長生、元海軍中将・・・は、軍令部総長・伏見宮を訪ね、決起部隊の主張を実現するよう進言していた。・・・
伏見宮に、天皇は次のように問いかけていた。「艦隊の青年士官の合流することなきや」「海軍の青年将校たちは、陸軍の決起部隊に加わることはないのか?」という天皇の問いに、伏見宮は、こう答えたと記されている。「殿下より、無き様 言上」「殿下」こと伏見宮は、「海軍が決起部隊に加わる心配はありません」と語った。・・・<その>海軍に対し、天皇はたたみかけるように注文をつけていく。「陸戦隊につき、指揮官は、部下を十分握り得る人物を選任せよ」・・・<天皇は、>海軍に鎮圧を準備するよう命じる3本の「大海令」を発令。天皇が立て続けに大海令を出すのは極めて異例の事態だった。・・・長門など戦艦4隻をはじめ、巡洋艦や駆逐艦、9隻の潜水艦、戦闘機・爆撃機などの飛行機隊。大分の沖合で演習中だった第一艦隊全体が、東京を直ちにめざした。さらに、全国で決起部隊に続く動きが広がることを警戒した海軍は、鹿児島沖で訓練していた第二艦隊を大阪に急行させた。・・・
2月27日午後2時。軍令部の電話が鳴った。電話の相手は、クーデターを企てた決起部隊だった。・・・<そして、>ものの分かる”海軍将校に決起部隊の拠点に一人で来るよう求めた。派遣されたのは海軍・軍令部の中堅幹部・岡田為次中佐。岡田<は、>・・・そこで・・・「君たちは初志の大部分を貫徹したるをもって、この辺にて打ち切られては如何」・・・<と>語った・・・
午後9時、戒厳司令部に派遣されていた海軍・軍令部員から重要な情報が飛び込んできた。
決起部隊が、クーデター後、トップに担ごうとしていた陸軍・真崎甚三郎大将。真崎<は>、満州事変を首謀した石原莞爾大佐と会い、極秘工作に乗り出した・・・。
2人が話し合ったのは、青年将校らの親友を送り込み、決起部隊を説得させるという計画だった。戒厳司令部は、この説得工作によって事態は収束するという楽観的な見通しをもってい・・・て、万一説得に従わない場合は、容赦なく切り捨てることを内々に決め・・・た。「要求に一致せざる時は、一斉に攻撃を開始す」」
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/blog/bl/pneAjJR3gn/bp/pqdz7OWA6V/
「事件発生から3日目の2月28日午前5時。天皇が出した、ある命令をめぐり、事態が大きく動く。
決起部隊の行動を「天皇の意思に背いている」と断定し、直ちに元の部隊に戻らせるよう命じる奉勅命令が出されたのだ。事件発生当初は不安を抱く言葉を発していた天皇。奉勅命令によって、自らの意思を強く示した。
天皇が奉勅命令を出し、自分たちを反乱軍と位置づけたことを知った決起部隊は、天皇が自分たちの行動を認めていないこと、そして、陸軍上層部はもはや味方ではないことを確信した。
奉勅命令をきっかけに、事態は一気に緊迫していく。同じ頃、決起部隊と面会を続けていた海軍・軍令部の岡田為次中佐は、交渉が決裂したと報告する。・・・
事件発生4日目の2月29日。決起部隊が皇族に接触しようとしているという情報が前夜から飛び交い、鎮圧側は大混乱に陥っていた。鎮圧部隊は、皇族の邸宅周辺に鉄条網を設置。戦車も配備して警備を強化した。
午前6時10分。決起部隊が現れたのは、天皇を直接補佐する陸軍参謀総長、皇族・閑院宮の邸宅前だった。「閑院宮西正門前に決起部隊十七名、軽機関銃二挺を、西方に向けおれり」
氷点下まで冷え込む中、決起部隊は閑院宮を待ち続けていた。閑院宮を通じ、天皇に決起の思いを伝えることにいちるの望みを託していたのだ。しかし、閑院宮は現れなかった。・・・
<実は、>事件発生の7日前。東京憲兵隊長が海軍大臣直属の次官に、機密情報をもたらしていた。
「陸軍・皇道派将校らは、重臣の暗殺を決行 この機に乗じて、国家改造を断行せんと計画」
襲撃される重臣の名前が明記され、続くページには、首謀者の名前が書かれていた。事件の一週間も前に、犯人の実名までも、海軍は把握していたのだ。」(以上、2019年8月15日に放送した「NHKスペシャル 全貌 二・二六事件 ~<軍令部の>最高機密文書で迫る~」をもとに制作し、2020年2月17日に公開したもの)
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/blog/bl/pneAjJR3gn/bp/pnd61wJlr9/
このため伏見宮は天皇の不興を買うことになり、両大将は一言もなく皇居を去った。
伏見軍令部総長による統帥命令の伝達の結果、ようやく27日午後4時、第一艦隊が東京湾に姿を現わした。
旗艦「長門」を先頭に約40隻が芝浦沖に集結し、砲門を市街に向けて示威の態勢をとるとともに、陸戦隊を上陸させた。」(144~145)
⇒工藤のこの本は、「注18」で紹介したNHKの番組が放送される前に上梓されたものですが、「注18」を踏まえると、伏見宮らが押しかけたのではなく、昭和天皇が伏見宮を招致し、伏見宮が加藤(寛)と真崎(甚)に声をかけて同道した、ということだったようですね。
「注18」が興味深いのは、二・二六事件が起きることを陸軍と海軍の上層部はみんな知っていたことであり、その一方で、海軍出身の時の首相の岡田啓介に時の海相の大角岑生はそれを上申していなかったように思われるところ、そんな大角については、更なる追究が必要なようです。
その大角の二・二六事件の時の言動は紹介されていますし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A7%92%E5%B2%91%E7%94%9F
閑院宮への言及も「注18」に出てくるけれど、当時、実質的な参謀総長であったところの、次長の杉山元に関しては、その言動の紹介が、いや言及されることも、殆どないないことに、改めて呆れざるをえません。
私見では、今回登場した人物達を本人に意識させない形で、鵜飼の鵜匠のように操り、翌年に予定していたところの、日支戦争前に、二・二六事件を起こさせ、その後始末を行うことを通じて日本の総力戦体制を概成させたのがこの杉山元だったというのに・・。(太田)
(続く)