太田述正コラム#13098(2022.11.4)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その13)>(2023.1.29公開)

 「・・・二・二六事件後の粛清によって、皇道派は陸軍内から一掃され、実権は梅津次官と石原作戦課長の手に握られることになった。・・・

⇒そんなバカな。
 大臣については微妙だとはいえ、次官はまだしも、参謀本部の方は一課長を登場させるとは、理解不能です。
 当然、既に述べた理由からも、杉山元次長しかありえない上、年次及び名番(コラム#省略)から、陸軍全体では、梅津の出る幕などなく、その実権を掌握していたのは杉山ただ一人だったのであり、彼以外はありえないのです。(太田)

 昭和11年11月、井上成美の海軍省兼軍令部出仕と前後して、12月には米内光政が連合艦隊司令長官に任ぜられた。
 一方、永野修身海相の下で海軍次官を務めることになったのが、航空本部<(注19)>長の山本五十六だった。・・・

 (注19)「海軍艦政本部<は、>・・・1900年に設置<され、>・・・海軍大臣に隷属し、造艦・造兵・造機に係わる事務を司った大日本帝国海軍の官衙(官庁)であり、海軍省の外局の一つ。艦政本部長には、原則として海軍中将が就任した。1923年(大正12年)以降は研究機関として海軍技術研究所を併設。・・・
 1943年に<一つの>部が<、>海軍省直轄の潜水艦部として独立した・・・ほか、・・・1923年に航空本部<として独立し>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%89%A6%E6%94%BF%E6%9C%AC%E9%83%A8
 「海軍航空本部は、日本の海軍省の外局の一つ。通称、航本。航空機や航空兵器の研究・計画・審査を管掌し、航空要員の教育も担当した。長は本部長であり、原則として海軍中将が就任した。1927年(昭和2年)4月に設立」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%9C%AC%E9%83%A8
 (参考)「陸軍航空本部は、・・・陸軍大臣に隷属する・・・陸軍省の<外局の一つ>である。陸軍における航空関係の軍事行政と教育を統御、管理した。1919年(大正8年)4月に陸軍航空部として設立、1925年(大正14年)5月に陸軍航空本部となり段階的に権限が強化され、1936年(昭和11年)8月より陸軍省の外局となった。1938年(昭和13年)12月に陸軍航空総監部が設立されて以後、航空関係教育は陸軍航空本部の担当外となったが、陸軍航空総監部は構成員の大部分が陸軍航空本部との兼務であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%9C%AC%E9%83%A8

 <1938年>8月12日、五相会議が開催され、宇垣外相は7月19日の五相会議の決定の線に沿って作成されたところの、軍事同盟ではなく相互援助を趣旨とする・・・外務省案を提出した。
 これに対して板垣陸相は、ドイツ側は日独伊三国を一つの<軍事同盟>で結びたい意向だとして、これに反対した。・・・
 11月11日、五相会議は、対象国について英仏がソ連に味方した場合においてのみ対象国になるという、<軍事同盟を前提にしたところの、>やや陸軍側の主張に沿った案文を採択した。
 これに対して10月に駐独大使に就任した大島大使は・・・強硬な反対意見を送付して来た。
 この電報に接するや、板垣陸相と他の四相は、完全に対立することになった。
 このため、昭和14年1月4日、近衛内閣は閣内不一致のため総辞職する<(注20)>ことになった。

 (注20)「近衛文麿<は、>・・・11月3日に「東亜新秩序」声明(第二次近衛声明)を発表。12月22日には日本からの和平工作に応じた汪兆銘の重慶脱出を受けて、対<支>和平における3つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した第三次近衛声明(近衛三原則)を発表した<が>、汪に呼応する<支那>の有力政治家はなく、重慶の国民党本部は汪の和平要請を拒否、逆に汪の職務と党籍を剥奪し、近衞の狙った中国和平派による早期停戦は阻まれることにな<り、>・・・1939年(昭和14年)1月5日に内閣総辞職する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
 「近衛文麿<は、>・・・新体制運動を唱え大日本党の結党を試みるものの、この新党問題が拡大し1939年(昭和14年)1月に内閣総辞職した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%86%85%E9%96%A3
 「近衛文麿<は、>・・・日独軍事同盟締結を主張する陸軍と対立し、人心一新を理由に総辞職。」
https://kotobank.jp/word/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF%E5%86%85%E9%96%A3-836020

⇒「注20」から分かるように、近衛が第一次近衛内閣を投げ出した主な理由として3つの説があり、工藤は、三番目の説を採っているところ、私は、このように説が分かれているのは、様々な難題に直面した近衛がやる気がなくなって、まともな理由すら告げないまま逃げだしたからだ、と見ています。(太田) 

 同日、枢密院議長平沼騏一郎に組閣の大命が降り、翌5日、平沼内閣が成立した。
 板垣陸相、米内海相、有田八郎外相らの主要閣僚は留任した。
 また、蔵相石渡荘太郎が就任した。
 外相留任を求められた有田は平沼と会談し、日独伊三国同盟の対象をソ連に限定する線で同意を得た。・・・
 <ところが、>五相会議<で>は、板垣陸相<がそれに反対>したため、完全に行き詰ってしまった。
 そこで<翌1939年>1月19日、五相会議は、「状況により<ソ連以外の>第三国をも対象とすることもある」とした有田外相提案の妥協案を採択した。
 ところが駐独大島大使と駐伊白鳥(敏夫)大使は、東京からの訓令を逸脱して、独伊に対して、「自動参戦義務」の言明をした。・・・
 5月20日、有田外相は大島大使宛に、ソ連以外の場合は自主的に決定するとした訓電を発した。
 ところが現地の大島、白鳥の両大使は、これを独伊側に取り次ぐことを拒否し、本国召還を要求する旨の強硬な反対電報を東京に送付して来た。・・・
 そんな最中の8月23日、突如、独ソ不可侵条約の成立が発表された。
 独ソの関係は不倶戴天の敵同士と固く信じていた日本政府は・・・驚<き、>・・・平沼首相は、「欧州の天地は複雑怪奇なり」との言葉を残して総辞職した。」(146、163~166)

⇒当時は、政府部内で主に陸軍とそれ以外との間で意見の対立があったわけですが、ある意味、より深刻だったのは、外務省内の意見の対立です。
 訓令違反を犯したところの、大島、白鳥両大使、を馘首しなかった、有田外相、そして、平沼首相、は強く非難されてしかるべきでしょう。(太田)

(続く)