太田述正コラム#13100(2022.11.5)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その14)>(2023.1.30公開)

 「・・・天皇は、大島、白鳥<(注21)>両大使の越権行為を深く憂慮していた。・・・

 (注21)白鳥敏夫(1887~1949年)。「東洋史学者の白鳥庫吉は叔父。外務大臣を務めた外交畑の長老石井菊次郎も叔父にあたる。また外務官僚の出淵勝次は義兄(妻の姉の夫)にあたる。・・・
 第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学経済学科卒。1913年(大正2年)10月に高等文官試験・外交官及び領事官試験に合格。翌1914年(大正3年)外務省に入省した。・・・
 白鳥はその後奉天・香港で領事官補として勤務し、1916年(大正5年)から1920年(大正9年)まではワシントンD.C.の駐米大使館において勤務した。1920年(大正9年)に外務省内に情報部が設置されると、白鳥は情報部員となり、松岡洋右・広田弘毅の歴代部長の下で勤務した。またワシントン会議においても随員を務めている。当時外務省で用いられていた「候文」が廃止されたのは、1925年の文書課長時代の白鳥の働きによるものである。1926年からはベルリンで勤務し、1929年には情報部第二課長となった。白鳥は外務省きっての英語使いと評される他、実務能力に長けた官僚であり、幣原喜重郎や吉田茂も賞賛していた。・・・またこの頃までは外務省主流派を形成する幣原外交の寵児であると見られていた。
 1930年(昭和5年)に情報部長となったが、1931年(昭和6年)には満州事変が勃発した。白鳥は・・・[対米英協調路線の幣原外交に造反、]・・・戦前期における外務省革新派のリーダー的存在<となり、>・・・事変擁護の姿勢をいち早く打ち出し、森恪や鈴木貞一陸軍中佐(当時)と提携し、国際連盟の批判に対抗するための外交政策の代表的役割を果たした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E6%95%8F%E5%A4%AB
https://kotobank.jp/word/%E7%99%BD%E9%B3%A5%20%E6%95%8F%E5%A4%AB-1647117 ([]内)

⇒「注21」の最終段落の前までは、非の打ち所のない経歴だというのに、どうして、政策志向を真逆に転換させた挙句規律違反を犯すような人物になってしまったのか、私としては、まだ模索中です。(太田)

 昭和14年4月14日<に>・・・「・・・他の用件で、・・・<板垣征四郎>陸軍大臣<が>・・・参内し<た>・・・際<、>陛下は・・・『元来、出先の両大使が何等自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか。かくの如き場合に、あたかもこれを支援するかの如き態度を<陸軍大臣が>とる事は甚だ面白くない。・・・』といふやうな意味のお言葉があった<。>・・・」(169~170)

⇒これは、原田熊雄『西園寺公と政局』からの引用ですが、戦後の昭和天皇の白鳥らに対する厳しい評価に鑑みれば、事実だったと考えていいでしょう。
 天皇にここまで言わせたことで一番責められるべきは、時の外務大臣の有田八郎<(注22)>です。

 (注22)1884~1965年。「第一高等学校を経て、1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学独法科卒業、外務省入省。
 外務省ではアジア局長、オーストリア公使、外務次官、ベルギー大使、中国大使などをつとめる。1936年(昭和11年)、広田内閣の外務大臣として初入閣。1938年(昭和13年)2月10日に貴族院議員に勅撰。 同年9月10日、日中戦争への対処を行うために新設された外交顧問に佐藤尚武とともに就任するが、対中国機関問題が擱座したため同年9月29日に辞任。 一方、同年9月に宇垣が辞職以降空席となっていた外相ポストに板垣陸相、米内海相の同意を得て有田が就任(第1次近衛改造内閣)。以降、1939年(昭和14年)の平沼内閣、1940年(昭和15年)の米内内閣でそれぞれ外相を務める。・・・
 戦前は「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、1936年(昭和11年)の広田内閣時代に何度も蔣介石の国民政府との防共協定を提案しており、近衛内閣時代に「東亜新秩序建設」を推進した。日独防共協定を締結したが、日独伊同盟の締結には最後まで反対した。
 追放解除後は革新陣営に属し、日本の再軍備に反対した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E7%94%B0%E5%85%AB%E9%83%8E

 有田は、政策志向が白鳥とは真逆のところからスタートし、この頃、一瞬交錯した後、両者は相互に入れ替わったかのような政策志向をそれぞれとるようになるわけですが、有田は、自分の政策志向を見直ししている際中だったため、白鳥(や大島)によるその政策志向の表明についても規律違反についても機敏な対処ができなかったのではないでしょうか。
 次に責められるべきは、時の外務次官の沢田廉三(注23)でしょうが、沢田は政策志向があったのかどうかが疑われる人物であり、当時、何も考えていなかったとしても私は驚きません。(太田)

 (注23)1888~1970年。「第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学仏法科卒業。・・・外務省入省。外務省きってのフランス語・英語の堪能者<。>・・妻の美喜・・・は、三菱合資会社社長・岩崎家当主男爵岩崎久弥の娘で、三菱財閥の創業者岩崎弥太郎の孫娘。・・・
 1938年<、>外務・・・次官に就任。・・・
 趣味はゴルフ。宗教はキリスト教。おしゃれで、ロンドン、セビルローのオーダーメイドの背広からステッキ、パンツに至るまでイニシャル入りの最高級品を愛用していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E7%94%B0%E5%BB%89%E4%B8%89

(続く)