太田述正コラム#13108(2022.11.9)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その18)>(2023.2.4公開)
「<1940年>1月14日、侍従職から畑俊六<(注28)>陸相に、参内するようにとの連絡があった。
(注28)「南京事件に対して、中支那派遣軍司令官松井石根大将らの交代を陸軍大臣に進言した。翌1938年(昭和13年)には松井の代わりに中支那派遣軍司令官となり、徐州戦、武漢作戦を指揮した。
1939年(昭和14年)に侍従武官長に就任時も昭和天皇の信任が厚く、「陸相は畑か梅津を選ぶべし」との言葉から侍従武官長をわずか3ヶ月で辞め、同年8月に成立した阿部内閣の陸軍大臣に就任した。天皇は温厚で誠実な俊六を陸相に据えることで、阿部との一中コンビで日独伊三国同盟や支那事変での陸軍の暴走に歯止めを掛けると期待されていたが、膠着状態を脱することはできなかった。なお、陸相在任中に戦陣訓も考案した。
阿部内閣が倒れると、畑は後継の本命の一人であったが実現せず、続く米内内閣でも留任した。しかし、天皇から内閣への協力を厳命されていたにもかかわらず、日独伊三国同盟締結に絡んだ陸軍の命により単独辞職、後任陸相も出せず米内内閣瓦解の原因となった。畑は当時の参謀総長閑院宮載仁親王から陸相を辞任するように迫られ、皇族への忠誠心が厚かった畑はその命令を断ることができなかった。しかし、閑院宮の顔を立てたいと考えていた一方で、どうしても内閣総辞職を回避したかった畑は、米内に対して辞表を提出しても受理しないよう内密に話をつけていた。しかし、米内にも圧力がかけられたらしく、最終的には辞表を受理したという経緯があった。
[米内は畑の疲労し切った表情をみて「畑が自殺でもするのではないか。」と心配したという]
このことを畑は生涯弁解せず、陸軍の横暴の片棒を担いだという汚名を引き受け続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF 前掲([]内)
⇒「1945年(昭和20年)4月、小磯内閣総辞職後の後継を決める重臣会議で東條英機から総理に推されたが、他の重臣達が鈴木貫太郎を推したため、就任は実現しなかった。同月、本土決戦に備えて第2総軍(西日本防衛担当、司令部広島市)が設立されると、その司令官となる。」(上掲)ということだけからでも、畑が、杉山構想を明かされていたことは明白であり、杉山はもちろんですが、東條もそうしたように、昭和天皇に対して、自分が杉山構想的なものを抱懐していないように欺き続ける必要があったことから、畑も自分がハムレット的な立場にあると見せかけるべく見事な演技を米内に対して行ったということでしょう。
なお、「米内にも圧力」については、恐らく間違いなく、参謀総長の閑院宮が海軍軍令部総長の伏見宮に「指示」して米内に圧力をかけさせたのでしょうね。
畑の凄いところは、「極東国際軍事裁判(東京裁判)では畑は米内内閣倒閣などの罪状を問われてA級戦犯として起訴された。占領軍の見解では、米内内閣は戦前で最後の親英米派内閣であり、前述のように、この米内内閣を倒閣したという理由で畑が起訴されたのである。しかし、この絶体絶命の危機に米内が弁護側証人として東京裁判に出廷して証言すると、米内は畑のことを徹底的にかばった。新聞記事その他の証拠を提示する検察側の質問に対し「知りません」「わかりません」「思い出せません」「(証拠書類が)よく見えません」「そんなことはありませんでした」などとぼけた証言を繰り返し、ウェッブ裁判長から「こんな愚鈍な首相は私は見たことがない」と面前で侮辱されるほどだったが、米内本人は証言後友人に「裁判長に、大バカ提督と罵られちゃったよ」とニコニコしていたという。米内には、陸相単独辞任・内閣倒閣は畑本人の意思ではなく、陸軍という組織の歯車の一つとして動かざるを得なかったことがよくわかっていたのである。このおかげで畑は死刑を免れるも、終身禁錮の判決を受けた。6年間の服役後、1954年(昭和29年)に仮釈放を受けて出所した。畑はのちに「当時、後難をおそれ、弁護側の証人に立つことを回避するのが一般の雰囲気であったのに、米内大将は敢然(かんぜん)として私の弁護のために法廷に立たれ、裁判長の追及と非難を物ともせず、徹頭徹尾(てっとうてつび)、私が米内内閣の倒閣の張本人でなかったことを弁護されたことは、私の感銘措く能わざるところであって、その高邁(こうまい)にして同僚を擁護する武将の襟度(きんど)は、真に軍人の鑑とすべくこの一事は米内大将の高潔な人格を表象して余りあると信じる」と語り、東京裁判でのこの米内の言動に終生深く感謝感動を忘れなかった。東京裁判で畑をかばった米内はまもなく死去したが、彼の死後12年を経た1960年(昭和35年)、米内の郷里盛岡の盛岡八幡宮境内に彼の銅像が立てられ、故人ゆかりの人々が集まって除幕式が行われた。その式の直前に、巣鴨プリズンから仮釈放された81歳の畑が人目を避けるようにして黙々とあたりの草むしりをしていたのを目撃されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD
という挿話から窺えるように、米内はついに、畑に騙されっぱなしのままその生涯を終え、他方、畑は、最期まで、心にもない演技を続けることになります。
杉山構想を明かされた人々は、かくのごとく、全員、その秘匿に徹したわけです。(太田)
陸軍側ではてっきり大命降下があると思っていたが、畑が参内してみるとすでに米内に組閣の大命が下っていた。
畑陸相に対して天皇より、「陸軍は米内内閣にはどんな様子か?」とお尋ねになられた。
このためさすがの畑も、「新内閣について参ります」と奉答せざるを得なかった。
⇒内大臣の湯浅から畑に事前に情報が入れられていて、畑は最初からそう答えるつもりだったはずです。(太田)
天皇は一言、「それは結構だ」と述べられた。
このような経緯からして、陸軍側としては、米内内閣発足当時から含むものがあったのである。」(181)
(続く)