太田述正コラム#13116(2022.11.13)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その22)>(2023.2.8公開)
「・・・近衛は手記の中で次のように<海軍を>批判している。
「・・・余は海軍の余りにあっさりした賛成ぶりに不審を抱き、豊田海軍次官を招きて其の事情を訊ねた。次官曰く。『海軍としては実は腹の中では三国条約に反対である。しかしながら海軍がこれ以上反対することはもはや国内の政治事情が許さぬ。故に止むを得ず賛成する。海軍が賛成するのは政治上の理由からであって、軍事上の立場から見れば未だ米国を向こうふに廻して戦ふだけの確信はない』。余曰く。『これは誠に意外の事を承る。国内政治の事は我々政治家の考へるべきことで、海軍が御心配にならんでもよいことである。海軍としては純軍事上の立場からのみ検討せられて、若し確信なしといふならば、飽く迄反対せらるるのが国家に忠なる所以ではないか』。次官曰く。『今日となりては海軍の立場もご了承願いたい。ただこの上は出来るだけ三国条約における軍事上の援助義務が発生せざるよう外交上の手段によりて之を防止する外に道がない』」
⇒私見では、当時の日本は既に現在の日本並みの民主主義国家だったのであり、世論が三国同盟に賛成している以上、議会に海軍予算を認めてもらわなければならない海軍として、「国内の政治事情」を考慮すべきは当然なのであり、近衛のイジリの方が、政治家として失格です。
というか、むしろ、(海軍の陸軍との「対話」不足も咎められなければなりませんが、)海軍が「国内の政治事情」に疎いままで、陸軍とは違って、世論の動向に影響を与える努力を怠ってきたことこそが問題でしょう。(太田)
<1940年>9月15日夕刻、海軍首脳会議が開催された。
参集者は、各軍事参議官(大角峯生、永野修身、百武源吾<(前出)>、加藤隆義<(注35)>、長谷川清<(注36)>)、各艦隊司令長官(山本連合艦隊兼第一艦隊、古賀第二艦隊)、および各鎮守府司令長官だった。・・・
(注35)1883~1955年。(東京府立一中を経て)海兵31期(5番)(及川古志郎、長谷川清は同期)、海大12期。「1923年(大正12年)、病床の加藤友三郎大将は女婿の船越を養子に迎え入れようとしたが、軍縮条約を巡って相容れない両者の養子縁組に難色を示す声も少なからずあった。友三郎大将と同郷という縁があり、名門の出自、そして同期の出世頭という隆義大佐は、義父の威光をもってしても、軍縮拒否はまったく揺らぐことはなく、この海軍の将来を巡る親子の見解は平行線のまま、友三郎大将は12年8月24日に永眠した。船越は同年11月20日加藤家の家督を相続して加藤姓となり、翌12月10日子爵を襲爵した。・・・
1934年(昭和9年)軍令部次長に就任。加藤が待ち望んでいた軍縮条約破棄が通告された翌10年に第2艦隊司令長官へ親補された。翌11年には呉鎮守府司令長官へと移ったが、1938年(昭和13年)11月15日、出世には恵まれず軍事参議官となる。・・・
1939年(昭和14年)4月1日、同期の長谷川清と同時に大将へ昇進した。その半年後には及川古志郎も昇進し、31期の3大将がそろうことになる。ただし、長谷川と及川は現役で要職に留まっているにもかかわらず、加藤だけは軍事参議官に甘んじた。冷徹なまでに理論的な加藤は、度量の広い長谷川や温厚な及川に比べて扱いづらい面が多々あった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%9A%86%E7%BE%A9
(注36)1883~1970年。海兵31期(6番)、海大12期。「大正6年から15年まで途中1年間帰国した以外は、<米国>での出張在勤が続く。この間<米国>の対日感情は漸次悪化しつつあり、黄禍論も高まりを見せた。海軍武官府では盗聴を危惧する声も存在したが、長谷川は海軍駐在武官府庁舎内での日本語使用を一切禁じ、英語のみで会話するよう海軍スタッフに命じ、自ら何ら後ろ暗さが無い事を表明した。ちなみに、長谷川の後任として海軍駐米武官となったのが山本五十六であり、任務引継ぎを機に山本と親交を深める事になり、対米重視の立場を鮮明化させた。・・・
長谷川が戦争回避に徹した訳ではない。盧溝橋事件が勃発すると、即時に支那派遣軍首脳と会談し、勃発から僅か2日間で陸海軍の航空隊運用の役割分担を決定し、実行に移している。第二次上海事変における渡洋爆撃は世界初の試みであるが、長谷川の即断がなければ実施が遅れていたことは必至である。
1940年(昭和15年)に台湾総督に赴任した際、慣例では予備役に編入される予定だったが、南進策に取り組もうとしている海軍としては現役大将が望ましいと考え、長谷川は現役で総督となった。この時に現役総督を主張したのが指導力のなさで知られる及川古志郎海軍大臣だったという。及川が長谷川の現役に固執したのは、南進策の重要性もさることながら、海軍兵学校同期の長谷川を現役に留めたい意向を有していたとの推測がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%B8%85
会議に先立って及川<(海兵31期)>は五十六<(32期)>に対して、「軍事参議官は先任<(海兵28期)>の永野より、間に合えば<軍事参議官最先任(海兵24期)の>大角より、三国同盟の締結に賛成の発言がある筈に付、艦隊としても同意の意味を言って貰いたい」と頼み込んで来た。
会議では豊田次官が司会をして、阿部軍務局長がこれまでの経過を説明した。
その後、伏見宮総長<(海兵18期相当)>が、「ここまで来たら仕方ないね…」と述べた。
これを受けて大角が賛成の旨の発言をした。
こうした会議の空気に抗するかのように五十六が立ち上がって次のように述べた。
「・・・昨年8月まで、私が次官を務めていた当時の企画院の物動計画によれば、その8割までが英米勢力圏の資材で賄われることになっていたが、今回三国同盟を結ぶとすれば必然的にこれを失うはずであるが、その不足を補うためどういう物動計画の切り替えをやられたか? この点を明確にして連合艦隊長官としての私に安心を与えて頂きたい」
ところが、及川<海相>はこの五十六の質問に直接答えず、「いろいろご意見もありましょうが、・・・この際は三国同盟にご賛成願いたい」と逃げた。
会議後、五十六が及川の態度を追及したところ、及川は「事情やむを得ないものがあるので勘弁してくれ…」と懇願した。
五十六は「勘弁で済むか!」と重ねて迫ったが、後の祭りだった。」(190~192)
⇒その後、「参議官としても陸海軍参議官の中で開戦にただ一人反対し、最後まで対米協調に邁進した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%AD%A6%E6%BA%90%E5%90%BE 前出
百武源吾まで黙っていたのに、一人だけ異議を唱えた山本はKYと言われても致し方ないでしょうね。(太田)
(続く)