太田述正コラム#13120(2022.11.15)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その24)>(2023.2.10公開)
「・・・ところが、当時の海軍中央は、井上の見解とは全く違う判断をしていた。・・・
大本営海軍部は、<1940年>8月18日付で「北部仏印作戦のため、第一連合航空隊を9月5日に内地に引き上げさせることに手続き中」との電報を送付して来た。
漢口へ進出中の主力航空部隊の引き上げは、兵力増強どころか全作戦の中止を命じられたようなものである。
しかも北部仏印作戦の準備のための引き上げであった。・・・
9月25日、井上は海軍中央に対して・・・抗議電報を送り、大義名分のない戦争の挑発を止めることを強く訴えた。・・・
9月26日、陸軍護衛のためハイホン沖にいた麾下の第三水雷戦隊司令官藤田類太郎<(注39)>(・・・のち中将)少将・・・は、西村兵団が説得に応ぜず武力行動を開始したことに憤慨して、敵地に友軍の陸軍部隊を置き去りにしたまま引き上げた。
(注39)「海兵38期 <対英米戦>開戦時の第十一航空戦隊司令官。その後第七根拠地隊司令官となったのち青島特別根拠地隊司令官となる。終戦時には第二遣支艦隊司令長官。」
http://www.jyai.net/military/human_data/navy.htm
この報告を受けた井上は、「そうか。それでよし!」と言い放った。・・・
かくして「百一号作戦<(注40)>」は中途で終結となり、重慶の蒋介石政権を崩壊に導くという戦略目的は達成されなかった。
(注40)「一〇一号作戦(ひゃくいちごうさくせん)とは、1940年(昭和15年)5月17日から 9月5日ごろまでの間に実施された作戦である。百一号作戦ともあらわされる。・・・
井上成美支那方面艦隊参謀長らが主導して、陸海航空隊を共同運用しての大規模作戦となった。
また、この際陸軍と海軍の間で5月13日に一〇一号作戦ニ関スル陸海軍協定が結ばれた。・・・
陸軍航空隊の発進基地は運城に、海軍航空隊の発進基地は漢口(一部は考感飛行場)とし・・・た。
また、各国大使館や報道機関への着弾も精密性に欠けることから起きてしまい、最終的に退避地域を指定して退避するように要請することで解決した。
しかし当時の日本軍戦闘機では航続距離が足りず、特に中攻の損害がとりわけ目立っていた。このままでは練度の高い搭乗員がかなりの数削がれ、航空兵力の弱体化が目に見えていたため、大本営は新型戦闘機の開発に躍起になっていた。
1941年、<支那>戦線における零式艦上戦闘機一一型 (A6M2a)<投入。>
1940年(昭和15年)7月15日、第二連合航空隊から横山保大尉と進藤三郎大尉率いる零戦13機が進出した。九六式陸上攻撃機の護衛を主任務として活動したものの、会敵することはほとんどなかった。9月半ばに、ようやく<支那>軍機と戦闘し、ほとんどを撃墜した。またその際、戦闘による零戦の損害はほとんどなかった。
この日を境に中国軍は航空機を温存するようにし、空襲警報と共に奥地へと航空機を退避させるようにした。
その他、精密爆撃の非効率性が露呈してきたため、重慶市内を各区画に分けて順番に絨毯爆撃する方法を編み出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E3%80%87%E4%B8%80%E5%8F%B7%E4%BD%9C%E6%88%A6
「当初は、飛行場、軍事施設等を目標としていたが、重慶の気候は霧がちで曇天の日が多いため目視での精密爆撃は難しく、目標施設以外に被害が発生することも多かった。そのため、実質上無差別爆撃ではないかとの批判を諸外国から受けることとなった。さらに、目標施設破壊の効果が挙がらないことから、目標周辺の住民や住居の焼払うことによって、首都機能の破壊と市民から反戦の声が挙がることを狙って、主に焼夷弾を使用して無差別爆撃が行われるようになっていったとされる[5]。とくに一日の犠牲が大きかったのが1939年の5月3日(被害674人死亡、350人負傷、焼失家屋1,068部屋といわれる)と5月4日(被害3,318人死亡、1,973人負傷といわれる)で、<支那>では「五三・五四大空襲」として知られる。
さらに、後期になると、市街地の徹底破壊を目的として、市街地を幾つかの区域に区分し、各区域をすきまなく爆撃する形となった。海軍航空隊はこれを絨毯爆撃作戦と称した。・・・
<また、>1941年5月から8月までの<間、>百二号作戦<が行われた。>・・・
陸軍ではこの百一号作戦と百二号作戦に対して飛行部隊を一時協同させたものの、効果が薄く無意味かつ来るべき対ソ戦(北進論)・対米戦(南進論)に備えるべき中で燃料の消耗が激しいこと、非人道的・国際法に反する行為であるとして絨毯爆撃に強く反対する声があり、第3飛行団長として重慶爆撃を実施していた遠藤三郎陸軍少将が中止を主張、上級部隊である第3飛行集団長木下敏陸軍中将に「重慶爆撃無用論」を1941年9月3日に提出している。(遠藤は実際に重慶を爆撃する九七式重爆に搭乗し、絨毯爆撃を行った旧市街はたしかに民家も何もかも灰燼に帰しているが其の周辺には新市街が出来て広がっているのを確認、それを理由に、重慶爆撃の無意味さを主張している)。この「重慶爆撃無用論」は参謀本部作戦課にまで届き採用され、陸軍のその後の重慶爆撃中止に影響を与えたという。しかし、海軍航空隊の重慶爆撃が1941年9月1日の百二号作戦の打切りにより完全に終了したのちも、陸軍航空兵団による重慶爆撃自体は1943年8月23日まで続けられたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E6%85%B6%E7%88%86%E6%92%83
支那事変は依然として続くことになった。
しかも日本は対米戦争への危険をはらむ北部仏印進駐と日独伊三国同盟を決断した。
こうして井上が最も懸念した方向へ日本が踏み出した直後、井上の転任が発令された。」(206)
⇒工藤がいくら井上ファンであろうと、重慶空襲作戦の効果について疑問視する意見もある(上掲)こと、効果があったとしても、米英ソ・・途中まではドイツも・・が中国国民党政権を軍事支援していた以上は「蒋介石政権を崩壊に導くという戦略目的は達成され」るはずがなかったこと、空襲方法に(陸軍が指摘したように)国際法違反の疑いがあったこと、に言及していないのは問題です。(太田)