太田述正コラム#13126(2022.11.18)
<工藤美知尋『海軍大将 井上成美』を読む(その27)>(2023.2.13公開)

 「・・・その中核部分を抜粋して紹介したい・・・。・・・
 <「>・・・帝国が米国と交戦する場合、其の戦争の形態を考察するに、帝国は米国に敗れざることは軍備の形態次第により可能にして、又是非とも然るべきも、又一方日本が米国を破り、彼を屈服することは不可能なり。・・・」

⇒井上がこの意見書を海軍に対米英戦を断念させるという政治的目的で提出したとすれば、その目的を達成できなかったどころか、「完全に黙殺」されたのですから、出来が悪かったことになります。
 他方、彼が海軍戦略家として人々の記憶に留めたいと考えてこの意見書を提出したとすれば、米国を破り、屈服させることは不可能だが、そんな米国と戦って日本が破れない方法がある、などと書いたのでは、戦略家失格ということになってしまいます。(太田)

 井上によれば、対米作戦上空母はきわめて有用であるが、反面非常にもろい面も持っているため、優秀な航空基地兵力による制海権の確保や、潜水艦や、船団護衛用の艦艇、さらには有力な機動水上兵力を整備する必要があるとした。
 井上の「新軍備計画論」は、主力艦の対米パリティ主義を覆して、航空機、潜水艦による立体的戦略を提示したもので、実際太平洋戦争の推移は、井上の推論の正しさを証明することになった。・・・ 
 妹尾作太男<(注44)>(せのおさだお)・・・氏は<戦後、>米国海軍に留学している時、井上の「新軍備計画案」を米国海軍誌に発表したが、以下はそれに対する米海軍側の反応である。

 (注44)1925~2008年。海兵74期。「海上自衛隊幹部学校研究部 戦史研究者」
https://mairi.me/-/1147952

⇒工藤が、ここで時期を書いてくれていないのは困ったものです。(太田)

 当時米海軍学校長だったスタンフィールド・ターナー<(注45)>海軍中将(のち大将、NATO軍南部方面司令官、CIA長官)は、妹尾宛に次のような手紙を寄せている。

 (注45)1923~2018年。米海兵卒、ローズ奨学生としてオックスフォード大修士(哲学・政治・経済)。カーター政権下でCIA長官。
https://en.wikipedia.org/wiki/Stansfield_Turner

 「井上提督は(あの建白書の中で)戦艦はもはや主戦兵器ではないと指摘されましたが、航空母艦が現在でもやはり主戦兵器たりうるかについて、真剣に検討しているでしょうか。現在われわれの考えている海軍戦略構想は、果して将来の事態に対処するのに適したものだろうか。特に小官は、井上提督の『潜水艦の存在する今日における制海権の意義は、旧時の如く絶対的ならず』という部分が気に入りました。この考え方は、当時において一歩先んじていたばかりでなく、現在においてさえも、われわれはその事を十分深く認識していないように思います」
 1955年から6年間にわたって米海軍作戦部長を務めたアーレイ・バーク<(注46)>大将からも、「彼(井上)はきわめて思慮に富む実際家で、彼の考えが採用されたのなら、太平洋戦争はよもや生起する事はなかった」との読後感の書簡を受け取った。

 (注46)1901~1996年。米海兵卒、ミシガン大修士(工学)。「バークは当初日本人に強い敵愾心を抱き、太平洋戦争終戦後も、暫くはかつての敵であった日本人に対し否定的な感情を持っていた。
 公の場で日本人を「ジャップ」「黄色い猿ども」と侮蔑的に呼び、露骨に日本人を蔑み嫌う等、反日的・嫌日的な態度を取っていたが、ふとしたきっかけで元海軍中将草鹿任一と知り合い親交を持つようになると、以前とはうって変わって親日家となり、日本が早く占領状態から解放されるように軍人の立場から尽力、海上自衛隊の創設に協力した。この功により1961年に勲一等旭日大綬章を授与された。他にも生前の様々な功績により、<米国>はもちろん各国から数多の勲章を授与されていたが、バークの遺志により、葬儀で遺体の胸につけられていたのは日本の旭日大綬章ただ一つだけであった。そのため、ワシントンにある海軍博物館のバークに関する展示には、各国から授与された勲章は展示されているが、日本から受勲された旭日大綬章の実物だけ抜けている。
 部下からかつての敵、ラバウル方面海軍最高司令官の草鹿中将が公職追放により、鉄道工事現場でツルハシを持って糊口を凌いでいるという話を耳にする。バークはこの時は「飢えさせておけ」と部下に答えてみたものの、同じ立場にあった軍人として居ても立ってもいられなくなり、匿名で食料を送る事にした。すると数日後、草鹿本人が怒鳴り込んで来た。「侮辱するな!アメリカ人の世話にはならない!」それだけ言って怒りながら出て行った草鹿にバークは好感を持った。自分が草鹿の立場だったら、同じ事をしたに違いないからである。
 バークが後日改めて草鹿を他の海軍提督達と共に帝国ホテルの食事に招待した時、草鹿が一番英語が達者なのに驚いた。和んだ食事会の最後で草鹿が「親切なバーク氏と自分が任務を全うしなかった事に乾杯しよう。任務を全うしていたらバーク氏は死に、今日の美味しいステーキは食べられなかった」と言うと、バークも負けじと「私も任務を全うしなかった事に乾杯しよう。任務を全うしていたら草鹿氏は死に、今日の美味しいステーキは誰も食べられなかった」と答えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AF

 リントン・ウェルス米海軍大佐は知日派の高級将校だが、「新軍備計画論」を次のように評価した。
 「井上提督の『新軍備計画論』の大きな貢献は–太平洋の両岸で多くの人が主張していた–航空兵力の主張だけにとどまらない。航空兵力の主張よりむしろ彼の貢献は、航空兵力、潜水艦、海上通路、および後方補給の相互依存性が、いかに決戦思想ばかりでなく、地勢の重要性をも変化させたか<、>従って海戦の性格をも変化させるに至ったかについて、総合的な考察をしている点にある。より根本的な点について述べると、日米両国の利点及び欠点についての、彼の比較分析が責任ある当局者により真剣に検討されていたら、一大悲劇は避けられたかも知れない。軍人には、その内容の如何にかかわらず、その軍の予算の大幅増額を歓迎すべき事として、支援するという傾向があまりにもしばしば見受けられる。井上提督が『<マル5>軍備補充計画』要求を進んで批判したことは、明晰な考えばかりでなく、大きな勇気を持っていたことを示している。彼の分析は完全ではなかった。彼は航母の影響力を低く評価し、陸上基地航空兵力を強調しすぎている。とはいえ、彼の考え方は、戦前の重要戦略家の一人としての地位を確立させた。彼の著作を研究する事により、今日の軍事情勢について多くの教訓を学ぶことが出来る」(217~219)

⇒ターナーもバークも、ウェルスも、井上の意見書が対米英戦を断念させる目的で書かれたという認識で一致しているのは、この意見書を米国で紹介した妹尾がそのように読者を誘導する解説を載せたからでしょうね。
 なお、ウェルスによる井上の海軍戦略論の批判は的外れです。
 空軍の独立や、その空軍と海軍(含む海兵隊)の海外前方展開、といった米国の戦後軍事戦略は、井上の展開した海軍戦略そのものなのですからね。(太田)

(続く)